第6話 異装(穿/ぶかぶかの袖)

   穿



 足を通す。

 この行動は俺にとって、例えば炎に触れれば熱いのと同じくらい当然で、そうすれば火傷を負ってしまうように、好んで触れられたくはないものだった。

「生活の一部です」などという、それこそ異常を取り込んだかのような言い方を俺は好まない。かつては疑問を覚えたことこそあれど、今になって振り返ってみると、それも周りから押し付けられ、馴らされた「世間」の「一般常識」に支配され騙されていた俺の迷いにすぎず、少し時間こそかかったがそれを打破し、俺が俺としてあるべき姿――いわば俺という自我を取り戻すことができたのは、ちょっとした奇跡のようであるとも取り立てて驚くべきでもない当然のこととも言えるだろう。

 俺と似た行動をとる人間が時たま言い訳代わりにするような醜い御託をこねる気は無い。あるいは開き直って、自由だの権利だのを持ちだす気もない。そもそもそれは、己の行動を恥ずべき事か何かと思っているがゆえにとる逃げの一手に過ぎない。前提として、彼らが求めているものと俺が受け入れているものは異なっている。それでも、俺の家族や友人、知り合いや周囲の人間がこのことについて知れば、まるで何か祭りでも始まったみたいに寄って集って俺を気持ち悪いと罵り、精神状態や趣味嗜好が異常だと騒ぎ立て、いつか犯罪でも起こすのではないかと白い眼を向ける、というよりもあたかもこれが犯罪行為であるかのように見做すだろうことは既に十分承知している。そんな面倒な事態に発展するのは真っ平だし、そうやって周囲に嫌悪の情を抱かせる気など毛頭ない。このこととは無関係に、俺自身の性格がすこしひねくれていることは重々理解しているが、わざわざ人を不快にさせようなどという生産性のない行為に及ぶほど俺は馬鹿じゃない。知らなければいい。知らなければ、誰にとってもそれは真実となりえない。誰も知らない限り、その事実はどこからも抹消される。俺に主義主張はないし、ひけらかすような趣味もない。すべては平和のうちに、俺の日常は日常として続行される。

 学生服の下、今日もへそのあたりで、フリルのリボンがひっそりと揺れる。





ぶかぶかの袖



 いやっあのっ別にそういうわけじゃなかったんです、ちょっとぼーっとしてただけなんです、まさか教室から出てきたところで村上くんとぶつかるなんて、しかもまさかバケツの水掛かっちゃうなんてそんなこと、当たり前だけど全然予想もしてなかったし、あたしのピンクジャージと中に着ていた体操服まで、ちょっとどうなのってくらいまで濡れるなんて思ってもみなかったし。

 そのあとの村上くんの対応は思った通りだったっていうか、やっぱり村上くんだったっていうか、慌ててたけど丁寧に誤ってくれて、それからタオルを貸してくれて、もしかしてあれは今日の部活で使うはずだったんじゃないのかな、ブルーのスポーツタオルで。で、一番びっくりしたのが、彼が自分の青ジャージを脱いで、あたしに貸してくれたこと。

 いい匂いがした……かはさすがにわかんなかったというか、そこまでの度胸はなかったっていうか、たぶん林さんとか斎藤さんにちょっとからかわれただけであたしは真っ赤になってたんじゃないだろうか。顔面の毛細血管の中を、ありとあらゆる血液が駆け巡ってる熱が自分でわかってうわあ~ってなった。もうそんな声が出そうだった。出たかもしれない。覚えてない。村上くんはそのあと、さっさと掃除に戻っていっちゃったから何も話せなかったけど、そのほうがよかったって心の底から思えるくらいだった。村上くんのジャージ。男女で青とピンクに色分けされているから、あたしの青ジャージ姿はとっても目立つ。周りから好奇の目で見られた。でも、あたしは彼のジャージを身にまとってる。少し大きいそれを着ていると、まるで彼に守られてるみたい……なんて考えるとさすがに、ちょっと、妄想かなって、おもわなくもないけど……!! とにかくそれだけであたしは、包まれてるというか一体感というか、こんなこと言うといやっなんかもうごめんなさいって気分になっちゃいそうだけど、もう無敵になっちゃった気分でした。クラスメートたちに騒がれたところで、村上くんがあたしにジャージを貸してくれた事実はあたしの今後一生の宝物になるし、一生大事に憶えてるし、どれだけ恥ずかしくたって今のあたしは。絶対最強。

 力強く水道のほうへ向かう弾んだ足取りが濡れた床を滑って、あたしは盛大にしりもちをついた。

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