第5話 (思い出)を、飲み込んで


知らないアドレスからメールが届いた。件名は「SOS」の三文字。

「はいはい、お仕事どうもっと」

 人気のない公園で、おしるこ缶を片手にブランコを揺らしていた青年はそう一人呟いて、缶の残りを一気に飲み干した。

「あ、ちくしょ、小豆取れねえ。まあいっか」



 指定されたのは、小さなアパートの一室だった。長い脚でひょこひょこと階段を上る。鉄の音を響かせながら、青年は届いたメールの内容を再確認する。


「――お願いします、助けてください。」


 見知らぬアドレスから送られてくれば、眉を顰めてなかったことにするか、しかるべきところに連絡するべき内容だ。しかし、青年は呑気な様子で、携帯電話についたストラップをひゅんひゅん回しながら、目的のドアをノックした。

「どうもー、ご利用ありがとうございます」

 恐々、といった様子で顔を覗かせた女性に、軽く手を挙げて挨拶する。二十代後半くらいだろうか、顔色は悪い。シンプルな部屋に通され、品のいいソファに腰をうずめる。コーヒーの湯気越しに、女性は小さな声で尋ねた。

「あなたが、その……彼女が言ってた」

「そです。事情はあの人から聞いてます。なんだか酷い、ちじょうのもつれ、ってやつ?」

 マスクの下の顔がさっと赤くなった。次の瞬間、青年の顔はさっきまでと九十度違う方向を向いていた。

「そんな言い方しないで……!」

「あ、すみません、俺なんか、そういう思いやり、みたいなの忘れちゃってて」

 うっすら瞳を潤ませた女性の表情に、怪訝なものが混じる。彼女の目に映る青年には、警戒心を抱かせるようなものは何もなくて、それゆえにひどく不思議な、あるいは恐ろしいものに見えた。

 無邪気な顔で、青年は訊く。

「んで、あんたは結局どうしたいんですか、SOSのメールを送ったからにはどうにかしてほしいんだろ?」

 答えはメールに書いていた。それでも、女性は自分の口で答えることができなかった。

 ――死にたいです、なんて。

 うつむいた彼女の目からぽたりと涙が落ちる様子を、青年はただただ沈黙して見ていた。それから思い出したかのように携帯電話を取り出して、一番上のメールを開く。

「あ、そうか、死にたいのか。申し訳ない、ちょっと忘れてた、でもさ、」

 木製のテーブルを越えて、青年の手が伸びる。


「いらないとこだけ削れば、まだ使える人生じゃねえの?」


 はっと顔を上げた女性の涙が一粒散って、青年の指先に触れた。その雫は何かにはじかれたように広がって、部屋中を、女性を別のものに染め上げる。それは一瞬の出来事で、永遠の出来事だった。

 青年はゆっくりと立ち上がって、女性の後ろに回り込んだ。ふう、と息をついて、それから少しずつ、薄い胸をふくらませるように吸い込んでいく。驚きの表情のまま停止した女性のうなじから、くすんだ赤の、煙のようなふわふわしたものが立ち上る。幸福と悲痛と、名づけることのできないいろいろが混じった、美しいようでいて穢れたものにも思える、彼女の記憶。かすかにあけた唇からそれをすべて吸い込んで、飲み込んで、青年はそっと笑みを浮かべた。

「あっいや、甘いけど苦いっ、苦い記憶も美味いけど、苦いっ」

「それが大人の恋愛ってものよ」

 部屋の奥からするりと現れた、見知った姿。時間の停止した女性をそっとソファに寝かせながら、からかうように言う。世界は元の色を取り戻していた。

「そんなこと言われたって、自分の記憶だって食べちゃってわかんねえよ」

「知識や記憶が蓄積されなくたって、理解はできるはずでしょう? まだまだ子供ね」

「そりゃ、ねーちゃんに比べればな」

 唯一記憶できる親愛なる他人に、青年は拗ねて見せた。眠っている女性は、涙の跡が一筋残っているだけの安らかな表情をしていた。

「それはさておき、あなたのおかげでなんとかなったわ。ありがとう」

「ま、お仕事だしな、もちつもたれつ、だっけ」

 青年は笑顔を浮かべた。ひゅんひゅん回す携帯からまた、ぴろりんと陽気なメロディが流れた。

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