第4話 透明なひと
三丁目の交差点には、透明なひとが現れる。
少年が初めてそのひとに出会ったのは三年の春だった。練習着にジャージ、ラケットやその他部活道具でぱんぱんに膨らんだぼろぼろのエナメルバッグを肩からかけて、練習試合から一人、自転車で帰る帰り道。
春休みは強い北風と春一番をローテーションで回しながら過ぎ去ろうとしていた。数日前は真冬みたいな一日だったのに、その日は地面が薫り立つような暖かな日だった。緩やかな坂道を立ち漕ぎでとばしていた。夕暮れの西日が目に沁みた。
広い国道沿いは車も多く、犬の散歩を楽しむおばあさんなんかもいたはずだ。桜か梅かわからないけれど、毎年見かける薄桃色の花もきっと咲いていただろう。
練習試合の、可もなく不可もない結果に何を思っていたかまでは覚えていないけれど、汗をうっすらにじませながら見たもの――正確にはその印象については、今でも強く脳裏に刻まれている。
坂を登り切って、ぬるい風を浴びながら一気に下り降りる。微かに熱を帯びた一瞬に、視界の端で捉えた。広い国道を横切る長い横断歩道の真ん中に、そのひとはいたのだ。
すらりと長いシルエット、そよぐ髪はストレート。つばの大きい帽子に隠れた顔が、微笑の形に移り変わるその一瞬。
高速道路の陰、陽炎みたいなその姿は、さびた自転車の急ブレーキの音に簡単にかき消えた。振り返っても、そこには何もいなかった。
ドラマチックな見間違いだと思っていた。そのときはそれで終わりだった。
✝
新学期が始まって一ヶ月。新しいクラスに、新入生。少年は三年生としてなかなかに忙しく過ごしていた。睡眠時間を兼ねた授業を終え、部活で汗を流す。薄暗くなったら三学年揃って、バカみたいな話をしながら帰る。そんな毎日を一日一日、青春へと昇華していた。
春は基礎練の時期だ。校門を出て広い道路を通り、学校の裏から帰ってくる外周コースを毎日のように走る。
スタートは軽口なんか叩きながら軽快に走り出すけれど、三週目くらいでばて始めるのが少年の常だった。走っていると喉の奥がずるずるしてきて呼吸がきつくなってくるのだ。傾斜のある道というのも苦手だった。レギュラーメンバーたちに少しずつ置いて行かれながら、心はがむしゃらでも、体はへろへろしながら走っていた。
三丁目のコンビニ近く、下を向いて咳き込んでいたとき、大きな背中にぶつかってしまった。大きすぎて、ぶつかった少年の方が尻餅をついてしまったくらいだ。
「おやおや、大丈夫かい 」
すいません、と顔を上げる。灰色の顔にちょこんと置かれた小さな瞳と目があった。
「部活動か何かかな。精が出るねえ」
立派なオーダーメイドスーツに身を包んだかばの紳士は、分厚い手(前足?)を差し出してくれた。その手首にはキラキラした時計がはめられている。
口をぽかんと開けたままの少年には構わず、紳士は優し気に目を細めた。
「私も若い頃は水泳部のエースだったものだよ……今じゃあすっかりメタボなんだがね。ははは」
「そ、そうなんですか」
「君みたいに毎日ランニングしていたよ。走るときはもっと呼吸を上手くしなくちゃ、息が保たないだろう。気をつけてごらん」
かばの紳士は、愉快愉快と笑いながら少年の肩をばすばすと叩いた。
「そうだ、君、とおるさんを見なかったかね? 仕事の話をしなくちゃならないんだ。ほら、手土産にひよこも買ってきたんだよ。春限定だ。おいしそうだろう」かばの紳士は、大きな革の鞄から可愛らしい紙袋をちらつかせて見せた。
「とおるさん、ってどんな人ですか」
「この街の人はみんな出会っているはずだよ。だけど気づいていない。あの人は透明なんだ。――むむ」
かばの紳士は懐かしそうに笑顔を浮かべ、車の行き交う交差点に視線を向けた。つられて少年もそちらを見遣ったけれど、いつもの交差点だった。何もいない。
「おやおや、引き留めてしまって悪かったね。部活中なんだろう?」
かばの紳士は、少年に右手を差し出した。彼は少年が今までに見た誰よりも大人の表情を浮かべていた。
「何事もリラックスして取りかかることが大事だよ、水の中と同じだ」
小さな耳をぱたりと揺らし、ウインクを一つとばして、かばの紳士は立ち去っていった。
自分の汗のにおいに混じって、微かに雨と土の香りがした。
✝
少年の嫌いな梅雨が、気づけば背後から忍び寄ってきていた。
ひんやりじめじめした体育館は、三十分もすれば部員たちの熱でぬるくべたついてくる。床が滑りやすくなるのも困りものだった。さらには、部内の空気まで不快指数が上がってくる。大会が近づいてくるにつれ、誰もがレギュラーだとか自分の成績だとかを無意識に意識してしまうせいだ。苛立ちや妬みのぶつけ合い。憂鬱になる。
部内戦で苛々して態度が悪くなることだって、いつもだったら引っかかるようなこともないのに、なぜかぷちんとキレてしまった。少年自身もきりきりしていたのかもしれない。最後の大会、最後の一年という「最後」が、重りみたいにみんなの心をしめつけていた。
帰り道、ざあざあ降りの中、紺色の地味な傘が一つ。はしゃぎながら帰る気分じゃなくて、独りぼっちの帰り道。灰色の空は隠せたけれど、結局傘の中は暗いばかりだ。アスファルトを流れる濁流が靴の中までじっとりとしみこんでくる。「弱いくせに文句つけてくんじゃねーよ」って、ぼそっと呟かれた言葉みたいに。
濡れた心は重くて、冷たい。
交差点で信号待ちをしながら、小さく溜息をつく。
「全く嫌な天気ねえ。だけど若い子が溜息なんてつくんじゃないわよ。ツキが逃げるわよ」
声をかけられて、傘を少しばかり傾けてみる。小花柄の傘を差した、フラミンゴのおばさんが、エプロン姿にエコバッグを持って立っていた。
「傘差してたってカバンまでびちゃびちゃじゃないの。傘から全部カバンにかかっちゃって。きちんと考えて傘持たなくちゃダメでしょう、全く」
フラミンゴのおばさんは、タオル地のハンカチを取り出し、少年の斜めがけカバンをごしごしと拭いた。不思議な相手に話しかけられるのは二度めだったけれど、突然見知らぬ相手にカバンを拭かれる経験は初めてで、どちらにせよ少年はとっさに対応することができなかった。
「ほら、元気出しなさい!」
肩を翼でばし、と叩かれると、顔に風圧を感じた。思わずむっとしたら、雨の音に紛れてくすりと笑いの漏れる声が聞こえた。
「あら? ……そうね、そういうときもあるのかしら。タイミングってものも大事だったわね。ごめんなさい、私も悪気があったわけじゃないのよ。よくお節介だとかそそっかしいとか言われちゃうの」
「い、いえ、ありがとうございます……」丁寧にされると、それはそれで返す言葉がない。
おばさん、ほら、また。風が囁いた
「あらあら。全く……。おばさんはもう行きましょうね。とおるさんに怒られちゃうわ。ま、若いんだから元気出しなさいな。こんなときこそ楽しくやらなくちゃ」
からからと笑って、フラミンゴのおばさんはピンク色の翼でもう一度、少年の肩をばし、と叩いた。
とおるさん。その名前を聞いたのは二回目だった。ふと笑顔の気配を感じた。見えないけれど、空気が緩むような雰囲気。
信号が変わって、ピンクと花柄の影は雨の中に消えていく。ちょっとだけ色彩を取り戻した帰り道を一人で歩いた。
✝
雨は上がり、湿気を含んだ熱気を伴って、肌をじりじりと灼く夏がやってきた。
あの日のことは一番覚えている。朝早くから目覚ましで飛び起きて、母親の作ってくれたお弁当を持って、心の奥底をひりつかせながら朝練へ、そしてジャージの隊列を組んで体育館まで自転車で向かったあの日。
天井がびりびりするまで叫んだ記憶とか、仲間とか信頼とかきれいな言葉の本当の意味とか。……あと数点の後悔とか、そんな。
次の大会へ進んだエースへの祝福と、羨望なのか嫉妬なのか決めきれないごちゃ混ぜの気持ち。
一人、熱を帯びたエナメルバッグと一緒に、自転車を押して帰る。
帰り道の日差しは、まだまだ今日は続いてるぜと照りつけていた。少年の夏は終わったのに。
ゆらゆら揺らめくアスファルトの上に、ぽたりと雫が垂れた。
「――ひゃっ!!」
高い悲鳴に足下を見遣ると、練習着姿のハリネズミの男の子が、きょとんとした顔でこちらを見上げていた。
「び、びっくりしました……。え、もしかして泣いてるんですか」
「ち、違う! 暑いから、汗が……」
「そうですか。確かに、今日は暑いですね。頭がくらくらしてきます」
少年と同じように小さなバッグを肩から斜めにかけたハリネズミの男の子は、そういいながらちゃっかりと少年の陰で涼んでいた。
「お兄さんも部活帰りですか? そろそろ大会も始まってますよね」
「おれは、」
声が上手く出なかった。暑さとは違う熱が、頭に上ってくるのがわかった。喉に引っかかる、という感覚を初めて知った。
ふわりと、頭に何かが触れる感覚。例えば、大きなつばひろの帽子を優しく載せられたような。
「あ……し、信号変わりますね!」
ハリネズミの男の子は黒ゴマみたいな鼻先をひくつかせながら言って、てちてちとアスファルトの上を歩き出した。
少年はハリが刺さらないように小さなバッグをつまみ上げ、手の中にハリネズミの男の子を掬い上げた。車の排気ガスとエンジン音の中を大股に、唇をかみしめるようにして歩く。
「――あの、ありがとうございました。お兄さん、とおるさんの知り合いだったんですね」
植え込みの縁石に降ろすと、ハリネズミの男の子はちょこんと一礼して言った。不思議そうな顔の少年に、照れたように一言「がんばってください」と言って、植え込みの緑に消えていった。
何をがんばれっていうんだろう。何をがんばってきたんだろう。素直な言葉を素直に受け取れない自分がいる。
頭に手を伸ばしたけれどそこには何もなくて、自分の短い髪に触れるばかりだった。また悔しくて、また一滴、雫がアスファルトを黒く染めた。
排気ガスと倦んだ熱気を吹き飛ばすように、一陣の風が吹いた。
✝
部活も引退して、仲良く話す相手は部活仲間ではなく塾の友達になって、秋が来て、冬が来て、また春になった。
今となっては、味わった嬉しさも悔しさも全部、素敵な思い出として昇華できた、のだと思う。遠い記憶として、心の奥で輝いている、のだと思う。きっとこの思い出を糧にして、新しい春を越えていくのだ。自信はないけれど、きっとそういうものなんだろう。
透明なひとに出会ったのは、練習着でも制服でもなく、ジーパンにパーカー姿の夕暮れだった。
車が近づいて遠のいていくその音の、幾重にも重なったBGMにかき消されそうな一瞬のシルエット。高架下、支柱の傍らに佇むその姿は、断絶された世界のもののように感じられる。
車のライトが、歩く人の影のように映り、揺らいでいる。
一年前からずっと、この道を通るたびにあのひとのことを思い出していた。不思議な動物たちと、とおるさんという名前。幼稚園時代に一年だけお世話になった先生のことを思い出すみたいに、心のどこかに、透明でも存在していた。
気づいてないだけ。
今、あなたに、そのやさしさに気づいた。
信号が変わって、少年は一歩を踏み出した。
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