第2話 電波の届く先は


 約束の時間まで、あと二十分ほどだった。

 期待すべきなのか、そもそも不安がるほどのことなのか。考えることも億劫に感じられた。少し考えては心の奥が息苦しくなって、ぼんやりとベッドの上に座っていたらもう、こんな時間になっていた。

 予定が決まってから今日までの一週間ほどは、今日のために過ごしていたようなものだった。それはとても幸せな時間だった。今はただ、その時が来るまで、どろりとした時間の流れの中に閉じ込められた気分だった。

 昨日のうちから着ようと思って準備していた、お気に入りのワンピースも、椅子の背にかけられたまま萎れている。花瓶を置いたり、可愛らしいランチョンマットを敷いたり、どちらかというと華やかであるように苦心してきた部屋が、どこか疲れ切ったような空気を浮かべている。

 あんなことを言うべきじゃなかったのよ、と彼女は思った。彼のことを責めるだとかそんなつもりはなかったにしても。何の気は無く、かつての過ちについて触れただけだったけれど、小さな火種は一晩で確かに爛れた火傷をもたらしてしまった。彼女にとっては終わったことだったし、些細なことだと思っていた。それでも、彼にとっては触れられたくないことだったし、特に今、彼女に、指摘されることは耐えられなかったのかもしれない。そう考えると、彼女のほうに非があったのだろう、と思う。お互いに頭に血が上ってしまい、鋭く浴びせかけた言葉は一晩経って彼女自身に突き刺さっている。過去のことをどう弁解したって、なかったことにはできないのだ。

 大きな石を飲み込んでしまったような息苦しさを覚えながら、時計が約束の時間の五分前を示していることに気付いた。

 せめて着替えよう、と彼女は思った。彼はきっと約束通り、彼女のうちへ迎えに来るだろう。たとえ少しくらい遅れるにしても。その時のために、いつでも出かけられるように準備しておくべきだ。時計が同意するようにチクタク鳴りながらせわしなく時間を進めていた。のそのそと、パジャマ代わりのジャージをお腹からめくり、着替えようとしたその時だった。

 携帯電話から、聞きなれたサビのフレーズが流れた。上だけ脱いだ状態のまま、慌てて電話をとる。起きてからずっとぼうっとしていたせいか、はたまた喉が乾燥していたせいか、なかなか声が出なかった。最初に聞こえたのは、鼻をすするような音だった。

「……もしもし?」

『……ッ、ねえ、あたし、なの』

 よく聞いているその声を聞くのは、久しぶりのような気がした。

 自分で話しているのを聞く声と、耳でのみ聞く声は違うというし、震えていて情けないくらいだけれど、携帯から聞こえるその声は確かに彼女自身のものだ。

『ねえ、あのひと、帰ってきた? 連絡取れたの、ねえ』

「ちょっと待って、あなたは『いつ』の私なのよ」

『どうしよう、このまま電話もメールもつながらなくて、なにもなくなって、ずっとさよならになってしまったら』

「知らないわよ、どういうこと、拒否されてるの? ねえ!」

 涙声で、しゃくり上げながら話す相手の言葉は、よく聞き取ることができない。彼女は混乱を覚えながら、少し声を荒げた。

 電話の向こうからは要領を得ない啜り泣きばかりで、ちっとも埒が明かない。それに、彼女は彼女自身でもあるのだ。私はこんな風にわけもわからず泣き叫ぶばっかりで相手を困らせるような情けない真似はしない、という自負が、余計に神経を逆撫でした。

『ねえッあんたのせいよ……早く彼を、見つけてよ』

「ちょっとどういうこと、説明しなさいよ」

『だって、』

 耳に届く声を掴もうとしていた、彼女のことを拒絶するかのようにブツッという音を最後に電話は切れた。

 朝の静けさが、ずいぶんと冷たく感じられた。さっきまでは車の音や、遠く小学校からの声が聞こえていたはずなのに、嫌にしんとしている。起き抜けにコップに水を汲んだまま、飲んでいなかったことに気付く。

 結局さっきの『彼女』がいつごろの『彼女』なのかわからないままだった。

水を一息に飲み干した。ワンピースにはアイロンをかけ直してから着た。誕生日に彼からもらったネックレスを着けた。カーテンを開けて、朝食の皿洗いを済ませた。落ち着いた音楽をかけて、無理にでも口ずさみながら、彼を待った。

アルバムが一つ終わるころ、口笛が途絶えたところに、電話の向こうが言っていたことがふと思い出された。何も考えないようにして、携帯を操作する。

『――お掛けになった番号は――』

返ってきた答えを最後まで聞きもせずに、彼女は電話を切った。

「そんなはずはないわ」と彼女は呟いた。事実、それだけの亀裂が生じたとは考えていなかった。考えたくもなかった。

 どうして――?

初めは小さな不安にすぎなかったものが、気づけばおなかの中で大きく膨らんでいたことを思い知らされた。

 

 一日中、家を出ることができなかった。時折、理由もなく何かが胸の奥からせりあがってくるようで苦しくなって、彼女は何度か鼻をかんだ。何度かお化粧を直した。それでも、どこか目の腫れぼったさは隠せなかった。

 お昼を過ぎてもおなかはすかなかったし、冷蔵庫からアイスを出して食べたけれど、その甘さは瞬間的なものに過ぎなかった。彼女は重い気持ちのまま、太陽が西のほうへ向かっていくのを薄暗い部屋の中で感じていた。無音の中で、針の音がおなかの奥に響いた。それは確かな悲しみではないのだ。悲しみではないのだ。悲しむことは許されていない。

 大事な日になるはずだったのだ、いや、大事な日なのだ。まだ、可能性は失われていない。

 電話はつながらなかったし、メッセージには返信なし。それでも、諦めるに足る理由はなかった。

 もっと明るい音楽をかけた。こないだ買った、新商品のお菓子を開けた。それからやっぱり、溜め息と涙が少しだけこぼれた。

 テーブルクロスの下に隠していた携帯を取り出した。ロック解除になんどか失敗しながら、着信履歴を確認する。

 その番号には、今までこちらからかけたこともつながったこともなかった。履歴は残っているけれど、アドレス帳に登録さえしなかった。電話番号だけが表示されている画面、それをしばらくじっと見つめる。しかし、彼と彼女の関係性の中には、ヒントを得られる先はそこくらいしかなかった。指先が、ためらいがちに伸ばされ、また止まる。

 唇をきゅっと引き結び、今度こそ液晶に触れようとしたその時、ふっと画面が暗転した。伸ばされた指先は一瞬びくりと身を震わせたけれど、そのまま通話のボタンを押した。


「もしもし」声が震えないように、低く押し殺した。

「ねえ、どういうことなのか説明してよ。あなたは何か知ってるんでしょ、少なくともあなたがどういう状況なのか教えなさいよ」

『あなたが何をどこまで知っているのかわからないし、私の知らないところまで知っているのかもしれないけれど、詳しいことは言えないわ』今度の声は、かすれてはいても落ち着いていた。『言いたくない』

「私はなにも知らないわ」

『じゃあそのままでいいわ、もう忘れてほしいの』

「どういう意味でそんなこと言えるわけ」たったこれだけの会話で、堤防は決壊しそうだった。

『少なくとも私からしたら、それがあなたのためであり私のためであるの』

 いたわるような言葉のせいだろうか。別種の感情が、心の奥から大きな泡のように浮かび、はじけた。耐え難く、情けなく感じられた。

「うっさいわね! 私は待ってるって決めたの! あんたみたいな、よくわかんない相手に口出しされる筋合いはない!」

『うすうす感じてるんじゃない? このままずっと答えはないし、私は確かに間違いじゃないってこと』

「それでも」目の前に相手がいるかのように、彼女は強い口調で言った。「来るってわかっていれば、いつまでだって待っていられる。信じていればなにも問題ないわ」

『いつか、来ないとわかっている自分に気付くわよ』相手は疲れたように言った。『果たしてどちらが悲しいのかしら』それは笑っているようであり、独り言のようであった。

 彼女は電話回線の向こうで、荒々しく通信が切断されたことを感じた。切れる間際の、罵るような泣きわめくような声も捉えていた。小さく溜め息を吐いて、引き出しの中から一枚の紙を取り出す。一度はぐちゃぐちゃにしてしまったそれを少しだけ眺めて、元通りにしまった。

 いつまでも幸福を信じられていたら、それが一番だったのだろうけれど。信じたいのは彼女だって同じだけれど、そうするにはもう疲れすぎていた。

 すっかりぬるくなったコップの水を少しだけ飲んだ。喉の奥が潤ったら、もう一度だけ電話をかけてみよう。もう一度だけ。

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