担任の先生、李塔護の場合。

 「卯城!」

 「あれ? 先生、どうしたんですか」


 廊下を歩いていると、不意に後ろから声をかけられた。

 青いジャージに、短く切り揃えられた髪、ガタイが良い体付き。見るからに『熱血教師』といった風貌の彼は、うちのクラスの担任をしている李塔護りとうゆづる先生だ。これでも、担当科目は化学である。

 極端すぎるほどの豪快さと朗らかさで生徒に大人気の先生が、今日は珍しく慌てた様子だった。

 「卯城、お前は――いや……卯城に限って、それはないか……」

 「はい? あの……先生?」

 「いや、いやいや! なんでもない! それより、卯城は楯加部を見ていないか?」

 ……? 普段は見ることのない、ビックリするほどわかりやすい狼狽っぷりだ。一体どうしたものか、てんで見当がつかないが……とりあえず、訊かれたことには答えておくべきか。

 「それなら、さっきまで一緒にいましたけど……。一応言っておきますと、楯加部は『やってない』って言ってましたよ」

 ここで楯加部の名前が出るということは、おそらくは彼女のことについてだろう。

 このまま場所を教えてしまえば、先生はまた同じ質問を楯加部にすることになる。さすがに楯加部が可哀想に思えてきたので、僕が代わりに答えておくことにした。

 「そ、そうか。いやな、一応クラスの皆には話を聞いておこうと思っていたんだが……それならいいんだ。うん、問題ない」

 「はぁ……」

 やっぱり、どこか様子がおかしい。いつもの覇気がない上に、話し方もたどたどしい。

 風邪を引いても授業をしに来るような先生だ。ここまで元気がないのは初めてのことだった。

 「……もしかして先生、今回のことについての責任とかなんとか、色々と上から言われてたりするんですか?」

 「えっ? やー、そんなことはないよ。今回の件について学校側は、『那奈代一深に対するいじめはなかった』って主張を押し通すらしい。遺書が見つからなかったのをいいことにな。学校側に問題はなかった……ってことにするんなら、担任の責任問題を追及するなんて矛盾した行動をするわけにはいかないだろ?」

 「あー……なるほど」

 那奈代一深に対する……ね。

 一瞬、楯加部の顔がチラッと浮かんだが、忘れることにした。

 「だから、何も心配ないぞー! 俺はこれからも、お前たちの担任だ!」

 ガハガハと、口を大きく開けて笑う先生――と、その表情が一瞬のうちに陰りを帯びる。

 「……でもな。俺は那奈代が、こうなることを理解した上で、遺書を残さなかったように思えるよ」

 ――自然と漏れ出たような、そんな呟きが。

 きっとこれこそが、先生の元気がない理由なのだと、そう直感した。

 「先生を巻き込まないために、あえて遺書を書かなかったってことですか? さすがにそれは考えすぎじゃあ……」

 「かもな。でも、那奈代なら……って、そう思っちまうんだよなぁ」

 彼女なら――そう言われると、「確かに」と納得してしまう自分がいた。

 「俺さ。結構まじめに、那奈代のことエスパーだと思ってた」

 「エスパーって……化学の先生の言うことじゃないですよ」

 「だってさ、あいつは俺が困ってる時には決まって現れて、『お手伝いしましょうか?』とか言ってきたんだぜ? 那奈代が優等生なのは知ってたけど、さすがに毎度のこととなると、ちょいと怖かった」

 「それは、那奈代さんがいつも周りの人のことを、よく見ていたからだと思います。先生が急いでたり忙しそうだったりしてる様子に、気づいてたんじゃないですかね」

 気配り上手な人というのは、同時に観察上手な人だ。

 人の表情や動きから、その心情を汲み取り、かけるべき言葉を選択する。

 彼女は人付き合いがうまかった。それはきっと、彼女と一緒にいると、なんとなく心地良い気分になれるからだと思う。

 その人の性格・様子に合わせた最適な言葉を与える――まるでカウンセラーのように、彼女は皆を癒していた。

 「先生はホラ、特にわかりやすい性格してますから。那奈代さんも、放っておけなかったんだと思いますよ」

 「……それはそれで、なんだか情けなくなってくるな」

 ガックシと、大げさに項垂れる先生……うん、実にわかりやすい。

 「はぁぁぁ……那奈代が生きてたら、それはもう立派な教師になってたんだろうなぁ」

 「えっ?」

 「なんだ、知らなかったのか? あいつ、小学校の先生になるのが夢だったらしいぞ」

 「……いえ、初耳です」

 彼女が……小学校の先生……。

 それはもう、容易く想像できてしまった。

 「それなのに……なんで、自殺なんて……」

 先生の言葉には、重い悔恨が込められていた。

 気遣いの良い、成績優秀な優等生。彼女に約束されていたであろう明るい未来は、しかし瞬く間に消え失せてしまった。

 自分の責任ではないのかもしれない――それでも、責任を感じずにはいられない。

 「……………………」

 僕には、何も言えなかった。

 先生が彼女の将来に、その才能にどれだけの期待を寄せていたのか。

 理解することは絶対にできないし、わかった風に言葉を発するなんてもってのほかだった。

 だから今は、ただ黙って、彼女の死を懸命に悼む先生の姿を、この目にしっかりと焼き付けておこうと、そう思った。

 彼女のことを想ってくれていた人が、いつか本当の元気を取り戻すことを願って――。

 「……いや、すまない。生徒にグチるなんて、教師失格だな」

 ふと我に返ったように、先生はこちらに向き直った。

 「気にしないでください」

 「俺が言えることでもないが、卯城もあんまり抱え込まないようにな」

 「……? はい、わかってます」

  僕がそう答えると、先生は無理に作ったであろう微笑みを浮かべ、「そうか」と小さく呟いた。


 「まあ、アレだ……まだ若いんだからさ。いつまでも一つの想いに引きずられてないで、新しい恋を見つけるのも、悪いことじゃないぞ」

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