第6話 偽りの楽園(下)
「ユイ、この資料に目を通しておけ。次の会議に使う」
「はいっ」
私は上司から資料を受け取った。黙々と読んでいき、頭に叩きこむ。
「おっユイちゃん頑張ってるねー」
「ありがとうございます」
「いじめられてない?大丈夫」
「あははは」
「……おい、聞こえているぞ。その手に持っているものを早く持ってこい。お前の部署に文句言いに行くぞ」
「それは勘弁してくださいよー」
周りから笑い声が上がる。私もつられて笑っていた。今私は──社会人となっていた。
卒業論文が終了した直後に引っ越したから、卒業式にも出なかった。行き先は誰にも告げていない。親にさえも。携帯も変えた。彼らに連絡を取る手段を絶った。
今勤めているのは、出版会社だ。小さな会社だったけれど、みんな気が良く和気藹々としており、アットホームな会社でとても勤めやすかった。
新人の私は新しいことを覚えることが多く、慌ただしい日々を過ごしていた。自分からも活発に動き、心の中にぽっかり空いた穴を見ないことにした。きっとこれでよかったんだ。自分の足で立っていることの安息感を得る。充実している毎日を理由に、満たされていると思いこんだ。
2度目の、一人だけの春を迎えた。
まだまだ新人の域を出ないが、仕事にやりがいを感じ、段々慣れてきたころだった。新しい環境で新しい人間関係ができた私は、大学時代にあったことにそっと蓋を閉じかけていた。
「この作家を担当してくれ」
上司から新しい担当作家の話が出た。最近賞を取った期待の新人で、うちの会社で本を出版したいと言ってきたそうだ。
「以前出版した本のファンだそうで、持ち込みがあった。お前もだいだい仕事に慣れてきたし、担当作家を増やしても大丈夫だろ」
「はぁ……」
新人同士で大丈夫だろうか。少しの不安が残った。
「お名前はなんですか?」
「あぁ、確かアヤメ先生だったな」
ドクン────。
私の胸が大きくなった。その名前は、かつてマナが言っていたペンネームだった。「誕生花なんだ。色も好きだし」と。
(アヤメの花言葉は『よい便り』だったな)
アヤメ先生がマナだとは決まっていないが、もし彼女だとしたら、シュウを説得して小説家になったのか。頑ななシュウを説得するのはかなり苦労しただろう。マナが夢だった小説家になったことは、確かによい便りといえばよい便りだが……。
私が担当になったということは、打ち合わせなどがあるということで。私がここで働いていることがばれてしまう。
(何も言わずに出てきたこと、怒っているかな?リオにも伝わってしまうかもしれない……)
だが、連絡を取らなくなって、もう1年経つのだ。リオにももしかしたら新しい恋人ができているかもしれない。私と同じように、彼だって新しい環境に身を置いているのだ。リオの両親は会社を経営しており彼もまた、跡を継ぐためにそこで働くと言っていた。引く手あまただろう。それに、マナに頼み込めば私がここで働いていることを黙ってくれるかもしれない。
(これは仕事だ。公私混同しちゃだめだろ)
私は意を決して、アヤメ先生へ電話をかけた──。
電話で指定された喫茶店へと向かう。まだ5月だというのに、もう蒸し暑かった。日差しは春から夏に変わりかけていた。スマホとにらめっこしながらたどり着いた喫茶店の前は人通りが少なく、ひっそりとした場所にあった。
ドアを開けるとチリリン、と涼しげな音を立てた。中へ入るとひんやりしており、席に着くと今日話す内容を頭の中で整理しながら、スケジュール帳を見直す。何かを考えていないと緊張でおかしくなりそうだった。
電話で聞こえた声は、やはりマナだった。
お互いに正体を明かすことはせず、あたりさわりのない挨拶と会話で今日の予定をとりつけた。しかし今日はそうはいかない。どうやって話せばいいのだろう。
そうこうしているうちに、徐々に時間が迫ってきた。入ってきたときと同じ音がしたので、きっとマナだろうと思い、席を立った。だが、それは彼女ではなかった。
ドアのほうで店員と話している人物を見て、衝撃が走った。
(どうして…………!)
なぜ、どうして──それだけが頭の中を埋め尽くす。ここにいてはまずい、早く立ち去らなければ、と頭ではそう思うのに体は動かなかった。どうしよう、なんで彼が。
かちり、
彼の黒い瞳と目が合う。底のない、どこまでも真っ黒な目。吸い込まれてしまいそうなその目だけを一点に見つめていくうちに、私の意識は遠のいていった──。
「ユイ」
静かに呼ばれる声に私はそっと瞳を開いた。なつかしい、愛しいあの声だ。そこから見えるのは天井と私を覗き込むリオの顔だった。
「リオ?」
「あぁ」
「ここは……」
「俺の家だ」
彼が私の頬をやさしくなでる。その心地よさに思わず目を細めた。どうしてここにいるのだろう、私。そういえば……。
「会社が……」
「何を言っているんだ?」
彼が穏やかな口調で言った。
「ユイはずっとここにいただろう?」
「…………」
そうだったっけ?記憶をたどるがうまく思い出せない。……そうなのかな。リオがそういうならそんな気がしてきた。
「なんか、すごく眠い……」
「そうか」
リオの顔が近づいてきて、彼の唇が私の首筋をなぞる。いつもの──『合図』だ。
私は反射的に目を閉じたが、いつもの感覚はやってこなかった。リオはそのままそこへ口づけを落とすと、手のひらを私の目の上にのせた。
「おやすみ、ユイ」
どこまでもやさしいその声に、いつしかまどろんでゆき、私はまたゆっくり目を閉じた──。
「リオは、ユイに血を与えたのだろうな」
俺はマナの頭を撫でながらそういった。
俺たち吸血鬼の血は、人間にとって麻薬のようなものだ。中毒性を増してゆき、血を与えた吸血鬼なしでは生きていけなくなる。吸血鬼は血を与えた人間を意のままにあやつることができたが、それは同時にその人間の崩壊を意味していた。だんだん自我がなくなってゆくのだ。
「残念だけど、ユイには二度と会えないだろう」
「…………」
リオが閉じ込めてしまった。もう誰の目にも触れないように、もう二度と──逃げることのないように。
「俺はマナを壊したくない。だから頼む──俺から逃げないでくれ」
「…………逃げないよ」
マナは目を伏せながら言った。
「私もシュウがいなくなったら、生きていけないもん」
「……俺もだ」
マナが俺にぎゅっと抱き付いてくる。俺はその温もりを感じながら、彼女の細い首にそっと牙を立てた。
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