第5話 偽りの楽園(中)
「かんぱーい」
私はグラスをカチンと傾けた。今日は私の家でマナと女子会だ。今日は思う存分語りつくしてやるぞ!
「シュウってけっこう独占欲強いよねー。今日の女子会も渋々だったじゃん。私は女だっての」
「うーん、でも2人のときはすっごく優しいよ?」
上目づかいでこちらをうかがうマナは、小動物のようで、たしかにアヤマチを起こしてしまいそうな可愛さだった。私の中で、シュウとマナは、シュウの言うことに静々と従っているイメージを持っていた。絶対亭主関白だろうな、と漠然と思っていた。まだ結婚していないけど。
「リオくんはどうなの?」
「リオ?普通だよ。こういうことに口出ししてこないし、すごく自由。……てかマナのところが束縛強すぎるだけだし」
「そうかな?まぁ、吸血鬼だし」
「それを言ったらリオもじゃん。嫌だったらちゃんと言うんだよ?マナは優しすぎ」
「あははは……」
曖昧に笑うマナが心配だ。このままじゃシュウに監禁とかされちゃうのではないか?吸血鬼の愛が強すぎて、誰からも目のつかないところにひっそりと囲われてしまった……という話をどこかで聞いたことがある。非常に笑えない話だ。まぁ、リオに関してはないだろうけど。
リオは私に何も干渉してこなかった。非常にサバサバした関係だと思う。私も彼のやることに口出したことないし、メールや電話も本当に必要最低限。誰かに縛られることが大嫌いな私はこの関係が心地よかった。
シュウはマナに対し色々言っているようだった。飲み会は9時までだとか、バイトは禁止だとか。あとはどこかに行くときは必ずシュウに伝えるだとか。……私には無理だな。そんなことリオに口出しされたら、逃げ出す自信ある。
マナとひとしきり恋バナに花を咲かせたあと、将来の話になった。
「もうそろそろちゃんと考えなきゃいけないよねー。どうするか」
「そうだね」
「マナは決まっているの?」
「シュウとずっと一緒にいるだろうなっていうのはあるけど、後は何も」
「まぁ、それはそうでしょうけど」
あの溺愛っぷりだ。シュウがマナを離すはずがない。
「マナは、何かしたいこととかないの?」
「え?」
「仕事とか、夢とか」
「そんな、私は何も……」
おや、何かあるんだな。私は彼女の瞳が揺れたのを見逃さなかった。
「シュウに遠慮することはないよ。やりたいことがあるのなら、やるべきだと思う。マナの人生はマナのものなんだから。絶対後悔するよ」
「私の人生は私のもの……」
マナは私の言った言葉を繰り返し、俯いていたのだが意を決したように前を向いた。
「ユイちゃん、あのね」
「うん」
「私、私…………小説家になりたいの」
マナは物心ついたときから物語を書くのが好きだったこと、勇気を出して度々賞に応募していたこと、作品の一つが最終選考に入ったことを話した。
「すごいじゃん、マナ!」
「でも、きっとシュウくんは許してくれない……」
「シュウが何言ったって諦めちゃだめだよ!私も応援するからさ。力になれることがあったら言ってよ、ね?」
「ユイちゃん……」
「小説家かぁ。いいね!発売されたら私、真っ先に買うよ。マナセンセイ?」
「もうっユイちゃんたら」
マナは固かった表情をゆるませた。その後、ユイの書いている作品についてあれこれ聞いていたら、時間は瞬く間に過ぎてしまった。
そして事件は起きる。
雨音をBGMに、家で本を読んでいた。降りやまない雨に、外出するのが億劫になったのだ。しばらくゆっくりするヒマもなかったし、たまにはいいだろう。雨の音はどんどん強っており、気になってふと窓の外を見たら見覚えのあるワンピースを着た少女がいた。まさか。
私はあわてて傘をひっつかみ家を出る。
そこには傘をささずに呆然と立っていたマナがいた。昨日まで笑っていた彼女が、泣きはらした目で私のことを見つめた。
「マナ!?どうしたの!!」
「……ユイちゃん、あのね、」
「とりあえず入りな。話は部屋の中で聞くよ」
何があったのだろう?どんなことがあっても困った顔で笑っていた彼女がこんなになるなんて。手を掴むと、ぞっとするほど冷たかった。とりあえず、シャワーでも浴びてもらって温かいものでも出そう。落ち着いた後にゆっくり話を聞こう。ココア、どこにあっただろうか──。
「マナ」
ここにいるはずのない声が聞こえた。マナの肩が震えるのを見逃さなかった。私はとっさに彼女を背中に隠した。
「どうしたの、シュウ?こんなところで出会うなんて奇遇だね。傘もささずにどこへお出かけだい?」
「ユイ……」
私は作った笑みを浮かべた。シュウも傘を持っておらず、全身ずぶ濡れだった。濡れて張り付いた髪をかき上げ、冷え冷えとした青の瞳で私を一瞥した。……なるほど、想像はついてたけどマナを泣かせたのは、シュウか。
「マナを渡してくれ」
「残念だけど、マナと私は今から女子会するんだ。だからそれは聞けない」
「また今度にしろ」
「…………」
私は息を吐いた。
「マナをこんな風にしたのはシュウでしょ?この状態のマナを渡せないよ。一体何があったの?」
「……お前には関係ない」
「関係ないだって?それ本気で言ってんの?」
「これは俺とマナの問題だ」
傲慢にそう言い放つシュウに苛立ちを感じる。思えばいつもそうだった。マナの意見も聞かずにあれこれと決めて、諦めたように笑うマナをいつも見ていられないと思っていた。いい機会だ、思っていたことを言ってやる。
「関係あるよ。マナは私の親友だ。マナが泣いているのであれば、黙ってはいられない。……シュウは何なの。恋人だからって何でも許されるって思ってるの?いい加減にしなよ」
「いい加減にするのはお前の方だろ」
「は?」
シュウが私を鋭い目で睨んだ。
「お前こそ何も分かっていないだろ。俺とマナはずっと一緒にいたんだ。最近知り合ったお前に口を出されるいわれはない。それに……俺は吸血鬼だ。人間の恋人関係とは違う」
「だから何?有能な吸血鬼サマに愚かな人間は従えっていうの?バカバカしい」
「…………」
「ユイちゃん、シュウくんもうやめて」
マナは段々ケンカ腰になってきた私とシュウに、か細い声で制止の声をかけた。震える指で私の服を掴む。早くマナを温めてあげなければいけない。しかし、完全に血が上った頭に彼女の声は届かなかった。
「お前は吸血鬼を軽んじすぎている。俺たちは人間じゃないんだぞ?……血を吸っている相手が危険にさらされる前に手を打つのは当然の行為だ」
「何が危険だと?マナの意思はどうなるの。関係ないって言うつもり?」
「すでにマナは俺を選んだんだ。これから何があってもマナは俺を選ぶ。……あいつの意思でな。お前だろ?マナに変な入り知恵をしたのは。そんなにマナの意思が見たいっていうなら見せてやるよ、──マナ」
彼はマナの名前を呼んだ。それは私が聞いたこともないようなどこまでも甘い────猛毒をはらんだような声だった。
「俺と一緒に帰るか、小説家になって一人で帰るか──選べ」
「────っ」
さっきの甘さとは一変して、底冷えするような声に思わず身がすくんだ。シュウは無表情にマナを見続けた。
「選べよ、マナ」
「ちょっと、シュウ!!」
「──っ私、」
マナが泣きそうな声で叫んだ。
「帰るっ。帰るから──っ」
彼女がシュウの元へと駆けてゆき、彼の胸元に飛び込んだ。私はそれを、呆然と見ていた。
「お願いっ私を、すてないで」
「…………」
シュウは抱き付いて離さないマナにそっと腕を回し、彼女を見下ろした。その目には小さな安堵と執着、そして狂気が含まれていた。
「俺は、マナがいないと生きていけない。だがマナも──俺がいないと生きていけない。これが答えだ」
「──っ」
「お前もそうだろう?」
彼は静かな声でそう続けた。
「吸血鬼に魅入られたんだ。お前も離れられないだろうよ──リオから、な。諦めろ、お前が今更何をやったって結果は変わらない。駄々こねたって一緒だ、受け入れろ」
「なっ」
「リオはお前が思っているほど甘くないぞ」
じゃあな、と手を振る後ろ姿に、私は何も言えなかった。それは、──心あたりがあったから。
雨はやまない。
傘を差していても、傘先から零れ落ちた雫が足元を濡らしてゆき徐々に体温を奪っていった。それは体温だけではなく、私の心も冷やしていったのだった。
時間が経った後心配になってかけた電話に、マナは出なかった。何度もかけてやっとつながったけれど「ごめんね、ユイちゃん」を繰り返すだけで彼女は何も語らなかった。それが一度だけ。その後かけた電話では、「おかけになった電話番号は現在使われていません」と、無機質なアナウンスが流れるようになってしまった。
マナたちを見かけたのはそれから2週間後。
マナは私に気づいたが、気まずそうに目を逸らし、シュウと一緒にどこかへ行ってしまった。シュウから私は危険だと、認識されてしまったのだろうか。そうこうしているうちに、時は過ぎてしまった。
「──どうした?」
後ろから心配そうにたずねる声に、私ははっとした。
「ううん、何でもないよ。リオ」
彼の家に遊びに来ていた。必要最低限の家具しか置かれていないリオの家の中は、いつ来ても生活感がなかった。リオは私の後ろから手を回し、抱きかかえるような形で一緒にソファーに座っていた。
考え事をしていた。ずっと夢だと言っていた小説家になることを諦めたマナ。そしてそれを当然のように考えていたシュウ。彼らはどうして……。
「ユイ」
リオが私の名前を呼び、首筋にそっと顔をうずめた。──それが、『合図』だった。
「……っ」
彼が私の首に歯を立てる。ぷつり、と肌が小さく破かれる感覚を感じた後、頭が真っ白になった。
「……、はぁ……」
リオの息遣いが聞こえる。体から力が抜けてゆき、リオに体を預けると、彼の鼓動を感じた。その音が私の頭を甘くしびれさせてゆく。私も息がしづらくなり、呼吸が上がる。
「ゃ、……あ、…………っリオ……っ」
それはどこまでも甘く、底がない。どんどん私は深みへとはまってゆく。リオが傍にいる、それ以外何も考えることができなくなった。
霞みかかった視界の中で、リオがいつの間にか私の目の前にいた。気づかないくらいに私は、先ほどの感覚に浸っていた。私は彼の首に腕を巻きつけ、頬をすりよせながらその温もりに目を閉じた。
唐突に目が覚めた。
隣ではリオが眠っていた。彼は眠ると少し幼くなる。私だけが見られる、無防備な姿。首にひきつったような痛みを感じて、そっと撫でる。触ると、彼に噛まれた跡があった。
『お前もそうだろう?』
冷静になった頭の中に、シュウの言葉が響く。私もマナのようにリオに縋っているではないか。いつかは何もかも捨てて、彼だけしかいらないという日がやってくるのだろうか。やりたいことも、夢も──自分も、みんな捨てて……。
ぞっとした。
私ではない『誰か』に私を明け渡すということに。それほど浸食している彼の存在に。もしリオがいなくなってしまったら、どうなるのだろう。私はそのとき自分の足で、立っていられるだろうか。
これから先、さらに一緒にいてしまったら、私から彼の手を離せなくなってしまう。リオのことは好きだったけど、誰かに縛られるのはごめんだった。
いまならまだ、間に合う。
張り裂けそうな胸の痛みをこらえて、私はある決心をした。
──私が私であるために。
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