8 今頃、今更なこと

 翌週の土曜日の夜、筑前煮をメインにした夕食が終わり、薄く割ったエドラダワー十年モノを舐めている夫に、わたしは思い切って訊いてみる。

「わたしの母のことなんだけど、靖樹さんにはどう見えるかな」

「どうしたの。喧嘩でもしたのかい」

「いえ、そういうんじゃなくて……」

 それから夫はわたしの顔をじっと覗き込み、

「話が長くなりそうなら梓さんも一杯飲んだら」

 と口にする。それでわたしが、

「うん、そうしようかな」

 と応えると、素早くグラスを取りに台所に立つ。ついでにチーズとサラミのつまみも切って持ってくる。

「なんて良く出来た旦那さんだこと」

「いろいろと忙しいのはお互い様だからね。で、きみのお母さんのことだけど、真面目な人だと思うよ」

「それだけ……」

「芯が強いかな」

「あとは……」

「家族を愛している」

「うん、そうなのよね。でも、それもわたし、母の芯の強さから来ているかもしれないと思えて」

「よくわからないな」

「今ではもう関係ないかもしれないのだけど、義務、みたいなものを遂行していただけ、とでも言うか」

「権利があれば義務があるのは当然じゃないかな。もっとも最近ではそれが真逆になっている人たちもいるみたいだけど」

「わたしは母に怒られたことはあるけど、でも、『アンタなんか嫌いだ』っていわれたことが一度もないの。だけど改めてそのことに気づいたのはつい最近で……」

「先週だね」

「わかるの」

「きみの夫だから」

「あのとき母が台所で言っていた意味が、わたし、どうやらわかりかけてきたようだわ」

「話が見えないな」

「ああ、でもそれはどちらでもいいの。ねえ、靖樹さんは、どうしてわたしにプロポーズしたの」

「今更、訊くわけ」

「だって何だかわたし、わからなくなってきて……」

「それは梓さんの真っ直ぐなところが気に入ったからですよ」

「他には……」

「実はぼくの母が梓さんのことを気に入っていたんだ」

「……ということは、それ以前のあなたの妻候補は、お母さまのお眼鏡に適わなかったわけね」

「もちろんは母一言もそんなことは言わなかったけれども、たとえ一緒に暮らさなくても年月が経てば齟齬が生じることはお見通しだったな」

「わたしのことを買い被ってない」

「ぼくの母の目が確かなのは父もぼくも保障しますよ」

「とても良いご家族ね」

「うん、確かにそうかもしれない。だけどぼくの母よりは梓さんのお母さんの方が幸せそうだ」

「そう見える」

「ぼくの父があんな人だから……」

「わたしから見れば愉快で愉しいお父さまなんだけどね」

「悪い人ではないが、面倒な人ではある。でも母は自分が父を愛した時点ですべてを受け入れる決心をして状況的にキツイときでも父を突き放さなかった」

「偉いわね。でも……」

「そういうのは行動している本人にとって、義務、ではないんだよ。だから梓さんのお母さんの場合もやはり、義務、ではないと思うな」

「母は、わたしが子供の頃から母のことを嫌っていたのを知っていたわ」

「それは親ならば当然でしょう」

「でもわたしが母を嫌いだったのは、母がわたしに優しくしてくれなかったからなのよ。だから原因は母の方にあるの」

「さて、それはどうだろうな。つまりね、優しくしなかったんじゃなくて、梓さんの強い個性を伸ばそうとした、と考え直してみては……」

「それならそう言えばいいのに……」

「梓さん、折れてもいいんだよ」

「えっ」

「これまでずっと振り返らずに前だけ見て生きてきたでしょ。ぼくは梓さんのそういった真っ直ぐで勝気なところが好きなんだけど、今では夫なんだから梓さんの弱音を聞く権利もあると思えるんだけどなあ……」

「それこそ靖樹さんの買い被りだと思いますよ。だってわたしは常に負けて生きてきたんだもの。母に負けて、妹に負けて、大学だって志望校には入れなかったし、会社もそう」

「だけど梓さんは自分で掴んだものを憎んではいない。世の中には自分が成れなかったモノへの恨みや憎しみだけで生きている人も大勢いるというのに……。そんな人がぼくの職場にもいるし、また役所にもやって来る無数の人たちの中にもまた大勢いる」

「だって、それだけじゃ息が詰まってしまうから。客観的に見れば自分がとてもちっぽけな存在なのは事実だとしても、自分の中では一番大きくて素敵なのが自分じゃないと嫌だから」

「それがね、たぶん梓さんのお母さんが梓さんにくれた一番の贈り物なのだと思うよ。梓さんにはそれがお母さんの自分に対する義務のように感じられたかもしれないけれど、でも梓さんのお母さんは梓さんのその部分を強く伸ばそうと考えたんじゃないかな。まあ、いったいどういう経験を通じて梓さんのお母さんがそういった考えに至ったのか、ぼくには見当も付かないけどね」

「本当にそうだったなら、わたし、母に謝らないと……。三十を過ぎてから、悪い子供だったと気づくなんて……」

「いずれ機会はあると思うよ」

「でもそうすると、わたしも母のようにした方がいいのかしら」

「梓さんのその言葉がもしもぼくたち二人の子供のことを指すのなら、梓さん自身の負担がどうしても大きくなるだろうから、じっくり考えてからの判断の方が良いと思いますよ」

「そうね。だって、わたしが子供嫌いなのはまったく本当のことなのだし……」

 けれどもわたしの母が本当にわたしのことを自分の浮気相手よりも愛していたとするならば、わたし自身の経験から培われた長年のわたしの子供嫌いの根底がすべて覆ってしまうこともまた事実なのだ。(了)

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母の浮気 り(PN) @ritsune_hayasuki

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