7 母の恋人のこと

 母の姿を深大寺の蕎麦屋で見かけた日から三月ほど経った土曜日、父が偶には顔を見せろと電話をしてきたので実家に赴くことにする。

 試しに母がいるのか訊いてみると、朝早くに出かけてまだ帰って来ていない、という。

 それでわたしはあの冬の日の深大寺を目の裏に浮かべたが、いくら何でも夕方には帰ってくるだろうと思いつつ実家の玄関を開けると母がいる。

「靖樹さんは一緒じゃないのね」

「今日は仕事の都合で出社してるわ。明日はボランティアで福島よ」

 夫がその日と次の日留守なことも深大寺の記憶と繋がったようだ。

「アンタたち仲が良いのか、そうじゃないのか、良くわからないわね」

「べったりし過ぎて飽きるよりもいいんじゃないの。……茜は?」

「アッチはべったりの最中ね。式場探しよ」

「お熱いことで……」

 その辺りで奥の父から、

「おい早く顔を見せろ」

 と声がかかる。

「お父さんは本当に梓のことが好きなのね」

「単に茜が比内くんとイチャイチャしているのが面白くないんじゃないの」

「だからって比内くんのことはお気に入りなんだからヘンなのよね」

 それからもう一度催促される前に母と二人して茶の間に向かう。丸炬燵に入って頂き物のマーコットを食しながら問われるままに近況を語るが、会社が潰れでもしない限り激変があろうはずもなく、正月には年始に来ているので殆どが無駄話……というか四方山話に化けている。

 わたしの実家は経堂だから世田谷区で、夫の実家は荻窪なので杉並区だから、正月の年始まわりは非常に楽だ。道も空いているのでタクシーで二十分も走れば着いてしまう。それで午前から午後にかけてと、午後から夜にかけて両家を回る慣わしとなる。夫の両親の方が高齢なので、疲れさせてはマズイこともあり先にそちらを回るのだが、我が家とはまた別の意味で両親とも性格がさっぱりしていて過ごし易い。

 夫は魚住家の遅い一人息子で、だから他に兄弟姉妹はいない。けれどもお母さんの方は女の子も欲しかったようで、それで理系とはいえ女の子の端くれのこのわたしをとても可愛がってくれるのがこそばゆい。

 それなのに、わたしの心中ときたら……。

 母が湯を沸かしに台所に立ったので、後に続いて台所に向かう。気になったことがはっきりしないと気持ちが悪い性格なのは両親どちらに似たのか知らないが、たぶん母は怒らないだろうと直感したので聞いてみる。

「お母さん、前に深大寺のお蕎麦屋さんにいたでしょう。ちょっとカッコいい男の人と一緒に……」

「梓、見てたの」

「偶々ね。ウォーキングのついでに」

「悪いことはできないわね」

「お母さん、悪いことをしてたわけ」

「元気そうに見えたかもしれないけど、あの人、余命が半年ないんですって」

「お母さんの昔の恋人」

「そんなに簡単な話じゃないけど、全部を省略するとそうなるのかな」

「当然、お父さんは知らないわよね」

「たぶんね。でも知らない振りをしているだけだと思えるときもあるわよ」

「だけど怒ってない」

「ああ見えて、お父さんってそういう器なのよ。だからわたしたち別れたんだもの。偶然はともかく、もう二度と会わない約束をして……」

「じゃ、お父さんと結婚した後のことだったのね」

「出会う時期を失敗したのよ、わたしたち。だからもう、どうにもならない」

「じゃあ、あの日は偶然」

「ううん、電話がかかってきたわ」

「お母さんが出たの」

「だって平日だったから」

「それで何て」

「最後に顔だけ拝ませてくれって」

「何よ、それ。まるでヤクザみたい」

「うん、本当にヤクザだったのよ。わたしと別れてからは足を洗ったようだけど。詳しいことは聞かなかったわ」

「そうなんだ」

「でね、あの人に出会って、わたし自分でも吃驚するくらい心がかあっと熱くなったとき、梓を授かったのよ。それも別れるきっかけの一つ」

「じゃ、わたしは……」

「梓は間違いなくお父さんの子よ。だってお母さんはあの人に抱かれていないもの。いえ、そう言ったら嘘になるかな。だけど赤ちゃんを作るような行為はしなかったわ。それ以上は言えない」

「作り話よね」

「えっ……」

「それ、お母さんの作り話よね。わたしを驚かすためだけの」

「梓がそう思いたいのなら、それでもいいわ。どの道、お母さんにはもう関係のないことですから」

 そこでケトルがピーッと鳴る。それで会話が打ち切られる。……と思ったら母の方から、

「梓はわたしに似ているから心配だわ。あなたには、そういうことはないんでしょうね」

「お母さん、実は気づいていたりするの」

「何も気づいていないわよ」

「それもお母さんの作り話ね」

「お母さんはもちろん後悔はしていないけど、もしもあのとき梓がお腹の中にいたままあの人の許に走ったとしても、やっぱり後悔はしなかったんじゃないかな」

「何、それ、謎掛け。それともお母さんのアドバイス」

「おい、お前たち、いったいそこで何をこそこそ話しているんだ」

 と茶の間の障子越しに父の声が聞こえ、

「はいはい、今行きますから、少し待っていてくださいよ。本当にもう落ち着きがないんですから」

 と母が応える。

「でも梓はお母さんよりも心が優しい子だから、それで却って心配かな」

「じゃあ、お母さんは優しくないわけ」

「だって梓はお母さんのことずっと嫌いだったじゃないの」

 そう言ってわたしに向けた母の顔には笑顔があって、わたしは急に自分の母の心がわからなくなる。

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