5 夫と初めてのときのこと
わたしの夫こと魚住靖樹を初めて自宅に連れて行ったとき、渋い表情を見せながらも、一番喜んでくれたのは父だったと思う。
事前……というか一週間以上前に、
「連れて来るから家にいてよ」
と頼んでおいたので律儀に父は家に居てくれたが、日頃とは違って常にソワソワしたような落ち着きのない父の姿が滑稽だったと、わたしはつい昨日のことのように思い出す。魚住にしてもわたしの家族の様子見なので父の方だっていきなり、
「娘さんをください」
と切り出されるとは思っていなかったろうが、内心はビクビクしていたか、それとも期待でワクワクしていたか。
魚住は下っ端とはいえ、わたしのような補助金申請の素人や、その他種々の目的で関東経済産業局を訪れる素人さんたちの扱いに慣れていたので、当然のようにわたしの父の前でも焦る様子を見せはしない。それでも少しは彼のことを知っているわたしから見れば、ふうん、珍しく緊張しているな、と感じられて、わたしの家族が眼鏡に適わなかった場合に別れ話をどう切り出すのか悩んでいる……とでも邪推できそうな困惑した表情を時折浮かべては修正する。
幸か不幸か、わたしの家族は魚住の眼鏡に適ったようで、やがて卒なく父や妹から問われるままに自身のプロフィールやわたしとの出会いを魚住が語り始める。わたしは適当なところで席を立って、次に振舞う水菓子の用意をしている母を手伝うために台所へ向かう。わたしの姿に気づいた母が、皮を剥いて一口サイズに切った柿を厚手の中皿に移しながら、
「いい人そうじゃないの。良かったわね」
とわたしの方を見ずに言い、
「そうね、いい人なのは確かだと思うわ」
とわたしが答える。
「結婚する気なの」
「まだ、わからないわ」
「そう。でもお母さんには梓と合いそうな気がするけど……」
「お母さんとお父さんくらいに」
「さあてねえ。だけど家族になれば、そんなものなんじゃないかしら」
「初めて聞くけど、お母さんはお父さんとの結婚をどの時点で決めたの」
「どの時点って……。だって断る理由がなかったから」
「他に好きな人がいなかったってことよ」
「まあ、それもあるかな」
「他には……」
「だから断る理由がなかったのよ」
「それじゃあ、お母さんは同じ条件ならば、お父さん以外でも良かったわけだ」
「今更そんなこと訊かれたって、お母さん、わからないわよ。だったら逆に聞くけど、梓は他のお父さんの子供の方が良かったわけ」
「ああ、なるほど。確かに今更わからないわね」
それからわずかして茶の間の障子が開いて妹がこちらに向かってくる。ついでわたしの背中に張り付きながら、わたしの耳許に小声で言う。
「お姉ちゃんにはもったいないくらいイイ男」
と妹らしい感想を述べる。
「いったいどうやって騙したのさ」
と悪びれずに続ける
「騙した……ってヒドイわね、アンタ。人聞きが悪い。でもまあ本人がいるんだから直に聞いてみれば」
「さっき聞いてみたら理系なところだってさ。どういう意味かしら」
「アンタの好きに解釈すれば良いんじゃないの」
「ねえ、おねえちゃん。あたしも魚住さんみたいな人とお付き合いしてみたいな」
「比内くんはどうすんのよ」
「それはそれ、これはこれよ」
「いい気なものね」
「茜、アンタ、魚住さんに可笑しなことを聞いたんじゃないでしょうね」
とそこで母が参戦。
「お姉ちゃんの邪魔をしちゃダメよ」
「もちろん邪魔なんかしないわよ。ただ、ちょっとクラクラっとしただけ……」
「茜!」
「それなら口説いてみればいいじゃない。わたしはアンタのお手並みをじっくりと拝見するから」
「ちょっと梓までなんですか。はしたない」
「すっごい、お姉ちゃん、自信あるんだ。じゃ、本当に口説いちゃおうかな」
「茜!」
「嘘よ、冗談だったら……」
後に、そのときの話を夫にすると、
「残念だけど、茜さんには口説かれなかったな」
としれっとしたいつもの夫口調で滑らかに応じる。だから直後、わたしは却って夫と妹の仲を勘ぐってしまったのだが、すぐに邪推だと思い直す。
もしかしたら夫はわたしのまったく知らないところで誰かと浮気をしているのかもしれないが、それならばそれで構わないと思えたのだ。まったくわたしにバレなければ構わない、と。もちろんわたしにまったくバレないということは、わたしに注進……というか告げ口してくる誰かにも、またわたしの家族や夫の家族や同僚/先輩/後輩にもバレてはいけないということだ。
自分の浮気に関してそこまで完璧に隠蔽ができるのならば夫に騙されても構わないかな、と心の外でわたしは思う。いや、それ以上に浮気をしてくれれば気持ちが楽だな、とまで考えてしまう。そうすれば未だに消えない、あるいは消えそうにない比内くんに対するわたしの気持ちが少しでも許されるような気がするからだ。あるいはもっと進んで二夜目以降の展開だって期待できるではないか。
あの日、わたしの実家に遊びに来ていた大学最後の年の比内くんと就職三年目ですでにアパートを借りて住んでいたわたしは夜の道を歩いている。駅までは妹も一緒で賑やかだったが、改札口で手を振って別れてからは静かなものだ。そこからの展開は、まるで事前に二人して申し合わせたかように進んだのだから、わたしが比内くんに想いを寄せていることを比内くんは気が付いていたに違いない。当然わたしの方も比内くんがわたしに興味を抱いているということに――勘違いという可能性を含めて――気づいていたが、それが恋というものだろう。
愛ならば力ずくで奪うことも、況や勘違いで結ばれることだってあるだろうが、恋の場合にそれはない、とわたしは思うし、信じている。
もちろん自然法則のように条件次第で必ず近似で成り立つような法則性は、残念ながら人間心理にはないようなので、そんな恋の定義はわたしに限ってのことだが、それでもわたしは自分の『恋』の定義を信じていたし、またあのときほどその確実性を実感したことはない。
わたしは男性経験が豊富な方ではない。
それでも両手の指の数より多く知っているのは、わたしに毀れていた時期があるからだ。
最初の体験は大学二年生の夏のことで、どちらも大して好みではない相手と義務をこなすように一つになる。野外ではなく布団の上での行為だったが、相手も初めてかそれに近かったようで勝手が悪く、かなり痛い思いをして挿入されてからが、またずいぶんと痛くて長い。加えて相手が腰を振るたびに、
「痛くないか、痛くないか」
と訊いてくるのが煩わしくて、もっと痛くしてもいいから早く果ててくれないものか、と行為の間中願ってしまう。そんな按配だったからやっと相手がコンドーム越しとはいえわたしの中に放出したとき、わたしは達成感よりも妙な疲労と局部全体から背中や脚にまで及んだ苦痛で泣いてしまい、それで当然のように二回戦は不可能となる。相手はわたしの涙を誤解して心から申し訳なさそうに、
「ごめんね、ごねんね」
を繰り返すと、いつまでも泣き止まないわたしを残して、すごすごと自分の部屋に引き上げる。三対三の大学の違うグループ旅行のときのことで、その中の一組はすでに恋人同士だから、残りのわたしたち四人は正直言って数合わせだ。それでもここで捨てておかないと、もしかしたら一生経験できないかもしれないという妙な焦りがわたしにはあり、それで、親切そうだし、まあいいか、と相手を値踏みしてその夜を迎える。三泊滞在の二泊目の夜のことで、その日はまだ良かったが、翌日わたしは決まりが悪いやら、申し訳がないやらで、相手と他の滞在者にどんな顔を見せれば良いのかまるで見当がつかない。わたしと相手が昨夜結ばれたことは当然他の宿泊仲間たちも知っているわけで、相手が余りにヘタでそれでわたしが泣いてしまったと勘違いされたままの相手の友人から、
「宮野さん、ムリに旅行に誘ってごめんね」
と健気に謝られては、わたしは再度泣くしかない。
それから旅行仲間全員にまるで腫れ物に触るように扱われる。
その日も、翌日の帰りの船の中でもわたしに対するその扱いは続いていて、実は前日の昼過ぎには精神を立ち直らせていたわたしは傷心者の演技を続けることに苦痛を覚えていたのだが、切り替えの機会も訪れぬまま、あの悲惨な夏の新島旅行が終わったのだ。
あのとき仲の良かったカップルは結局別れ、その後それぞれ別の相手と結婚している。わたしと相手以外のもう一組のカップルは紆余曲折あったようだが、同じ年齢だったことも後押しして、就職後一年経ってから結婚する。その結婚式にはわたしも出席して、当然のように自分の初体験の相手にも再開したのだが、不思議とわたしは落ち着いていて、もちろん気恥ずかしさはあったのだが、
「いつぞやは子供で済みませんでした」
と自分の方から切り出し、心の恥部をようやく思い出に変えることができたようだ。
あのとき改めて見直したわたしの初体験の相手は、社会人になったからだろうが、ずいぶんと大人に成長していて、わたしの方からは、この人との二回戦はアリだな、と思わせたが、残念ながら誘われはしない。後で友人から聞いたところによると、当時彼には付き合っている女性がいて、どうやらそれで恥ずかしくも因縁のあるわたしに手を出さなかったようだ。感心な判断だろうが、それでもわたしの方から一歩を踏み出せばおそらく手を出したのでないか、とわたしは今でも勘ぐっている。もちろんわたしの思い上がりかもしれないが、それがわたしの知るところの『恋』なのだから仕方がない。
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