3 元彼と夫のこと

 そのまま道なりに南下して調布駅に至ってから、わたしはせっかくこの辺りに来たのに神代公園に寄らなかったことを後悔する。

 ……といっても特に何があるわけでもない。緑と水があるだけだ。

 ついで妙な感傷に引き摺られて高校生の頃に短期間付き合った元彼の家を見学する気になる。元彼本人がまだあの家に住んでいたなら昨今流行のストーキング行為だろうが、就職してから帰省以外に東京に帰ってきたという話をわたしが聞いていないから良いだろう。

 わたしもそうだが、元彼も結構不器用なヒトだ。女性と付き合うのもわたしが初めてだったらしく、勝手がわからなかったに違いない。同じ地学部に所属していて、彼が一年先輩。何を血迷ったのか三年生の五月になって、わたしに愛を告白する。わたしは元彼のことを好きでも嫌いでもなかったが、好かれることに悪い気はしなかったのでオーケーだ。それで無銭に近いデートを数度して映画も一度だけ一緒に行く。

 今にして思えばわたしの妙な潔癖症が元彼を振ってしまった原因になるのだろうが、当時の想いは複雑だ。

 普段は温厚だった父がわたしと元彼が付き合っていたのを知り、激怒したことが思いの他懐かしい。

 それで完全に終わりとなる。

 優柔武断の元彼も悪いが、わたしの気持ちが彼に向かわなかったのだから仕方がない。が、結果的に何も起こらなかった清い付き合いだっただけに時折懐かしく振り返ることができる思い出に化ける。

 調布駅から駅前公園を抜けてスーパーマーケット等を遣り過ごして多摩川に向かう道を下り、都立調布南高校敷地内に聳え立つ、そこで終わっている送電鉄塔|(稲田線十五番、以降は地下送電)に連なる低い鉄塔列が連なる住宅街に元彼の家がある。家に上がったことは一度しかないが、大事に育てられた息子だろうとすぐに気付く。あのときはわたしの方も緊張していて、何をどう喋ったのかまるで記憶がないが、どうせ大した内容ではなかっただろう。

 あれから十五年近い歳月が過ぎ去っているから、彼の母親か父親に見咎められることもないはずだ。実際、わたしの顔さえ憶えているかどうか。

 まあそれは、わたしの方でも同様だったが……。

 が、頭ではそうはわかっていても元彼の家に近づくと気が焦る。

 同時に比内くんのことが頭に浮かぶ。

 比内くんと元彼は似ていない。容姿は似ていないが、どちらも手が大きいとそのとき気づく。性格も似ていないが、おそらくどちらもシャイだろうとこれまた気付く。だからわたしよりも茜のような賑やかな性格の女が似合うと感じてしまう。

 わたしのような中途半端な自信家ではなく……。

 奥まった細い路地に建つ元彼の家の前にしばらく佇み、わたしは心に言葉を捜す。その場に適した言葉は遂に発見できなかったが、せっかくなので思い浮かんだフレーズを口にする。

「あのときは良い彼女じゃなくて悪かったわ。ごめんね」

 もちろん心の中で呟いただけだ。

 それから同じ経路ではつまらないので少しだけ道を変えて調布駅に戻る。

 さすがに脚が疲れている。

 それで特急でも準特級でも急行でもなくて各駅停車に乗って座って帰る。いつも持ち歩いている文庫のページをゆっくりと捲りながら……。

 家に帰っても夫はいない。

 正月にいつも集まる高校時代の同級生数名と何処かに出かけると前日に聞く。出かける先は忘れている。が、いずれ誰かの家だろう。午前十時前には出かけたはずだ。

 だから家に帰っても誰もいない。

 わたしたち夫婦には子供がいない。

 それは偶然ではなくて条件だ。

 母と同じでわたしも夫に見初められて結婚したが、わたしは夫に幾つか条件を出している。母が父に何がしかの条件を出したかどうかは知らないが……。

 理系なのに文学が好きなところが最初に見つけた夫との共通点だ。身体つきは部分的に好みで、アンバランスに張った肩と細くてひょろりと長い首がお気に入り。顔は所謂十人並みだが、わたしもそうなので気にしない。基本的には真面目人間だが、面白みのない人ではなくて、また過去に数回ちゃんと恋愛している。すなわち単なる堅物ではないということだ。大学では物理を専攻していたのに役所に受かるとそのまま決める。夫が安定志向になったのは彼の父が、どちらかというと遊び人だったことの反動らしい。もっとも生まれたときからの家族でなければ賑やかで楽しい人と感じられるだけだ。

 わたしは中小の医療機器メーカー勤務でセンサ開発の仕事をしている。加えて関連する試薬の開発もしているが、それなりに遣り甲斐のある職場なのは事実だろう。が、意外と雑事が多くて辟易する。実務そのものに関係するので雑事と言っては語弊があるが、法的書類整備の仕事はわたしにはつまらないし、また得意でも好きでもない。購入伝票を切るのも苦手な作業だ。もっとも今ではそれもある程度、後輩任せにできる嬉しい身分。

 夫とは補助金申請の際に知り合っている。

 当時のそれは経済産業省主体の研究開発型助成金で開発費用半額負担|(成功した場合は後に全額返還)の補助金だったが、わたしの申請したテーマは酵素膜だ。取り合えず書類選考は通ったようで担当者から連絡が来て、経理部の若い男と一緒に埼玉アリーナ前に聳え建つ経済産業省関東経済産業局の所定の部署に説明に行く。

 主体は違うがそれ以前にもわたしは先輩社員の助手――というより若手にいろいろ経験させましょうのキャンペーンの一環――として同様の説明業務に赴いた経験があるが、その場で感じたのは担当役人の科学に対する興味の低さと理解不足だ。

 もちろん一般教養としては十分知っているのだろうが、基本的に分野違いの人間なので、こちらとしては常識と思われる部分まで質問されるので吃驚する。

 愛想は良かったし、申請書に記入した金銭に関わる数値以外は大して気にかける様子もなく、だから当然のようにこちらの弱点を突くような鋭い質問も皆無で、その意味では拍子抜けしたというか、安全パイだったというか。そんな先入観があったので、分野違いとはいえ、やがて自分の夫となる一人の役人との会話が思ったよりもスリリングに弾み、わたしにはとても楽しかった記憶がある。その場に同席したもう一人の、おそらく年上の役人の印象が、わたしの記憶にまったく残っていないのだから夫のことばかり見つめていたに違いない。そんなわたしと同じ印象は夫の方も持ったようで、後の健全なデートの際に訊いてみると、

「ええ、ぼくの方も楽しかったですよ」

 と言って、わたしに微笑む。

「あのときの宮野さんのご説明が、いかにもこれはすごいアイデアなんですよ、とても大変なことなんですよ、っていう感じでしたから、ほおっ、そんなふうに入れ込めるものなのか、と思いまして」

「偉そうでしたか」

「自信に充ち溢れていましたね」

「予備実験で感触を掴んでいたので、まったく上手く行かないとは思っていませんでした。ですが、あの年は予算の成立が遅れましたから。だから実質の研究時間が短く削られてしまって……」

 前年度の終わりに今年度の予算が決まろうと、今年度に入るまで予算成立が遅れようと|(一年間の助成金ならば)今年度末が期限となる。

「しかし成果が出たのに惜しかったですね」

「結局関連して二本の特許を書いて、一本はまずダメだろうということで、残り一本の方の査定には漕ぎ着けましたが、会社の方針で機器の商品化を止めるというのですから仕方がありません」

 わたしがあのとき補助金を貰って開発したのは臨床検査用のグルコースセンサ用応答膜だったが、当然のようにその膜だけでは商品にならない|(応答膜の権利自体を売るまたはライセンス化する場合は別)。測定を自動化するためにはその膜を組み込んだ測定機器が必要で、機械設計はわたしの担当ではなかったが、機器の開発自体はとりあえず期限内に終了する。が、完成した機器が先行他社の同様製品に比べて大きく差別化されていないと上層部に判断され、商品自体がお蔵入りとなる。

「悔しかったですか」

「さて、どうなんでしょう。でも結果的に市場に数台しか出まわらなかった機器の不具合に時間を取られるよりはマシだったかもしれません」

「そんなものですかね。ぼくたちは商売も研究もしないのでわかりませんが、それでも自分たちが手にかけた機械が世の中に出て役に立てば嬉しいですよ」

「その点では、お役に立てなくて申し訳ございません」

「いえ、やはり残念なのは宮野さんの方でしょう。助成金の方はいずれまたチャレンジしていただくとして、今度は上手く商品化に漕ぎ着けられると良いですね。もっともそのときには、ぼくは担当を外れているかもしれませんが……」

 互いに相手を探り合ったわけではないが、二人の間に関連性がないので仕事の話をするしかない。

 それでも初回の様子見デートにおけるわたしの夫に対する印象は悪いものではなく、このまま付き合い続けても良いかな、と思えるほどの結果となる。デートに誘われた当初、まるで相手の心が読めなかったときの自分の感情と比べれば雲泥の差だ。

 が、深みに嵌って良いものか。

 わたしの脳裡を一抹の不安が過ぎって行く。

 わたしの側からの一方的な印象だが、おそらく彼はわたしのことを好いているという感覚がわたしにはある。それはそれで素敵なことだが、あのときのわたしはすでに比内くんに一目惚れ状態にあったのだ。

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