4-9 喫茶ラバウル

 神田神保町は本の街であるが、神保町が本の街になったのは大正初期の大火事の後のことである。岩波書店の創始者・岩波茂雄が古書店を開いてから、徐々に書店が増え、今のような世界的にも珍しい書店街が形成された、んだそうだ。ほとんどの書店が靖国通りを挟んで南側にばかりあるのは、日射を避けるためであることは、実際に行ってみればすぐにわかる。

 ここには、江戸幕府の旗本・神保長治とその子々孫々の屋敷があり、その名の由来ともなっている。神保長治が所属した「書院番」とは将軍直属の親衛隊の名称であるが、とくに文書管理などを任されていたわけではない。当初、江戸城の広間の一つ「白書院」の警備を担当していたことでそう呼ばれるようになった。その後、虎の間に配置換えになったが、書院番の名は残された。とされている。表向きは。

 配置換えになったのに、なぜその名前が変更されなかったのか。それはもちろん、白書院が由来などというのは後付けの情報に過ぎず、書院番は本当の意味で書院番だったからである。書院番の番頭は歴代、いろいろな人物が就いているが、神保一族だけは常に書院番を任されてきた。ここまでは寛政重修諸家譜などの公式記録ではっきりとわかる事実である。しかし、その書院番の真の業務がなんであったかまでは、知られていない。のだそうだ。

 喫茶ラバウルのマスター・ミズノのウンチクをまとめると以上の通りだ。いつも断片的な情報しか話さないので、どうも要領を得ない。十五時には少し早かったが、着いてしまったので店に入る。

「いらっしゃいませ。……おや?」

「あ、ども。ちょっと待ち合わせで」

「だよね。まだ返す日じゃないよね」

「そうです。すいません」

「いやいや。何にします?」

「ブレンドをお願いします」

 いつもはカウンターに座るが(荷物が大きいので)、今日は手ぶらなのでシート席に座る。安っぽいシアトル系カフェとは違って、ラバウルは高級珈琲店だ。ブレンドコーヒーでも七百円は取るので、あまり気軽には来られない。今日はカンダさんが払うと思うので安心だ。昨夜のアルコールのせいか、のどが渇いて仕方がないのでマスターが入れてくれたお冷を一気に飲み干した。身体が水分を欲している。奥の方ではスーツ姿のビジネスマン風がなにか商談をしている。あとはカウンターに黒スーツがいるだけだ。


 コーヒーが運ばれてきたが、とりあえず軽く口をつけただけで、本格的に飲むのはカンダさんを待つことにした。十五時はすでに過ぎていたが、まだ連絡はなかった。

 通話の呼び出しが鳴った。慌ててスマホを取り出す。ソウザさんからだ。

「はい、ミエダです」

『あ、タツヤくん?』

「はい、どうしたんです?」

『あのね、ちょっとおもしろいものが届いたんで試してもらおうと思ったんだけど』

「え、なんですかね」

『今日はお仕事?』

「いえ、今日は休みです」

『あ、そっかぁ。どうしようかな』

「明日でもいいんでしょうか」

 今からカンダさんと待ち合わせだし、夜までには恋川さんと連絡をつけたい。

『んー。できれば今日がいいのだけど。ちょっと寄るだけでいいんだ』

「わかりました。夕方時間あると思うので、伺いますね」

『ありがとう。じゃ待ってます』

 そこまで話して、戸口からカンダさんが入ってくるのが見えた。わかりましたと言って電話を切った。カンダさんはマスターにブレンドを注文して、自分で水を受け取って席まで来た。上座を譲ろうと腰を上げたらそのまま座れとジェスチャーされたので、すぐに腰を落とした。カンダさんは座るなり水をぐいと飲み干した。そこで一息ついて、何かを飲み込んでから言った。

「すまんすまん。ちょっと騒ぎがあってな」

「電車ですか?」

「いやそうじゃない」

「何か事故でも?」

「まあ追って話す」

 要領を得ない。そもそもぼくはなんで呼び出されたのか。

「トモエさんが倒れた」

「え!」

「昨日会ってたんだろ?」

「ええ、まあ。恋川さんと三人で」

「しずくと? なんだ隅におけんな、お前さんも」

「いやいや全然久しぶりでしたので。というかトモエさん大丈夫なんですか?」

「とりあえず意識はあるらしい」

「よかった。飲み過ぎですか?」

「俺もそうかと思ったが、そういうんじゃないようだ。二、三日したら見舞いにでも行ってくれ。お前さんに会いたがってるそうだ」

 だったらケータイに連絡くれればいいのにとも思ったが、事情がわからない。電話できない状態かもしれない。そうだ。恋川さんも連れて行こう。

「わかりました。で、その話のために?」それなら電話で済むはずだ。

「あ、いや、違う。本題は別だ」

「ヤバい話ですか?」

「ああ、まあヤバいな」

 カンダさんがヤバいっていうんだから、相当ヤバいのだろうけれど、ぼくにも関係あるヤバい話ってなんだろう。

「禁書狩りがある」

「キンショガリ? ってなんですか」

「声がデカい。禁書を狩るんだよ」

「誰がですか」

「書院番だ」

 は? と声を上げそうになって辛うじて飲み込んだ。なんですかそれ。

「禁書を管理している組織らしいが詳しいことは俺にもわからん」

「法的にどうなんですかそんなの」

「表向きは内閣府のホワイトボックス法の諮問機関だとかなんとか言ってるらしいが、その前は青少年健全育成条例の諮問機関だったし、顔は時代ごとに変えてるだろうよ」

「それで禁書狩りって、具体的には何があるってんです?」

「禁書目録に載っている本が押収される」

「禁書目録? ってあの?」

「そう。それだ」

「あれって内容がマチマチですよね。何を基準にするんですかね」

「それについては、ついに決定的なのが出てきたということだ」

「でも古い本を集めたって別に社会に影響ないですよね。今どきはネットの方がスゴいんだし」

 ホワイトボックス法の施行からこっち、街角にはもうエロはない。ほとんど、ネットの中でゾーニングされて存在しているだけだ。貸本屋みたいなショッパイ(失礼)商売をいまさら取り締まってどうしようというのか。役人の考えることはよくわからない。

「とにかく、禁書目録にある本をどうにか隠さないといかん」

「いつまでに?」

「情報では、早ければ来週の月曜にもガサ入れだそうだ」

「え、じゃあ土日に運ぶ感じで?」

「そうだなあ。また腰やっちまうかもしれないが、指くわえて見てるわけにもいかんからな」

「それで、今から仕分けですか?」

「いいや、禁書のリストがまだ手に入らない。今夜には届くはずだから、明日朝イチから突貫で頼む。客回りもしばらく中断だ。連絡は俺の方でしておく」

「わかりました。じゃあ一度帰ります」

「ああ」

 ぼくは少し冷めたコーヒーを飲み干した。席を立とうとすると、カンダさんに制止された。

「待て待て。まだ話は終わっとらん」

「あ、はい。すいません」

 カンダさんがカバンからシワシワの紙袋を取り出した。ガサガサをまさぐって、中の物を取り出す。寄木細工の小箱が出てきた。それと豆本。

「これが開かん。こっちの本にヒントが書いてあるらしいが、解読できん」

「それは、ぼくにもムリかと」

「いや、しずくに渡してくれ」

「恋川さんに?」

「あいつ判じ絵が得意なんだよ。こっちの本にたくさん描かれている。俺はどうも苦手でなあ」

「判じ絵?」

 ぼくはカンダさんの出した豆本を手にして、その中を見た。なにやら絵文字がずらずらと描かれている。確かにヒントがないとまったく意味がわからない。答えを知っていればどうにか、そうかなと思えるかもしれないが、ノーヒントでは少し手こずりそうだ。

「そういう絵文字だ。読めるか?」

「読めません」

「餅は餅屋に任せろ」

「わかりました。渡しておきます」

 会う口実ができた。願ったり叶ったりだ。カンダさんは

 じゃあ、これで、とぼくは席を立ち、喫茶ラバウルを出た。

 恋川さんにメッセージをと思ってLINEを開いたが、昼過ぎ、恋川さんの部屋を出るときに送ったものがまだ既読になっていなかった。忙しいらしい。ひょっとしたら出勤しているのかもしれない。あとでまたメッセージを送ろう。


〈続く〉

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