4-8 リビングデッド

 目覚めたらもう朝ではなかった。ヤバい! 遅刻! と思ったが今日は貸本屋は休みだし、ここはぼくの自宅ではないし、この肉体の脱力感に反比例して、メンタルは極めて充実していた。本気の松葉しずく(恋川さんの本名)が、どれだけすごいのかぼくは深夜から明け方にかけて身をもって知ったわけだが、とりあえず、数値的にはひる過ぎまでまったく目が覚めないぐらいスゴいということである。そして、ものすごくのどが渇いている。ぼくから水分を奪ったのはアルコールばかりではない。全身くまなく根こそぎ持って行かれた感じがする。

 このソファベッドにはもう恋川さんのカラダも姿もなかった。かけられていたタオルケットを除けると、ぼくはTシャツとトランクス姿になっていた。着た覚えはないから、彼女が着せてくれたのかもしれない。どうにか起き上がり、ふわふわした足取りで鉛のように重い上半身を運ぶ。

 トイレに行きたくなり、廊下へ出る。用を済ませて、洗面所で顔を洗う。鏡を見るとくちびるが赤く腫れぼったい。明日までに引くかな、と思うが、まあどうということもないか。タオルは、と思ったらすぐ脇にフェイスタオルが用意してあった。何も書いていないが、ぼくにはわかる。使えという意図が伝わってくる。遠慮なく使わせてもらう。

 さっぱりして少し覚醒したところで、リビングに戻る。

 リビング奥の部屋をのぞいてみたが、部屋にもベッドにも恋川さんはいなかった。昨日着ていたジャージがきれいに畳まれて椅子の上に置かれている。

 リビングと繋がっているダイニングの方も見るが、テーブルにメモはない。あると思ったんだけど。

 あ、っと思ってジーパンのポケットからスマホを取り出す。

 着信はないが、LINEに二件。


 一件は恋川さんから。

『起きたかな 帰るなら鍵は ドアポスト』

 俳句かいっ。いや川柳か。季語がない。

 シンプルな伝達。ドライというかクールというか、恋川さんらしいというか。これで、すでに彼女が出かけたことと、どこかに鍵が用意されていることと、ぼくが勝手に帰っても構わないことがわかった。余計なことを言わずとも、これでぼくがそこまで理解できるということが、恋川さんにわかってもらえているということだ。信用されるということは喜ばしいことだ。

 なんとなく、ぼくはわかってきた。

 彼女をぼくの手元だけに置いておくなんてことは不可能だし、独占なんておこがましいことだ。ぼくの器量でそんなことができるわけがない。ぼくにできるのは、彼女自身も持て余してこぼれ落ちてしまうなにかを受け止めて、あるいは受け流してあげるぐらいのことである。パートナーというのとも違う。恋川こと松葉しずくという姫に仕える騎士のような、そういう立ち位置がしっくりくるのではないか。ふりまわされてもなにしても、最後まで傍らに立ち続ける、そういう覚悟というか。忠誠心というか。そういうメンタリティ。三回もしといてどの口で言ってんだとも思うが、全然セックスなんてしなくてもたぶんぼくは恋川さんを愛し続けられると思う。たぶん。そういう気分だ。少なくとも今は。


 二件目のメッセージはカンダさんだった。

『休みのところすまないが、三時にラバウルに来れるか?』

 ラバウルは神保町の喫茶ラバウルのことで間違いない。マスターの水野さんのお店だ。貸本がなくて大丈夫かなと思ったが、『行きます』と返事をした。

 神保町は遠くない。一度家に帰るか、このままで行くか少し悩む。

 少し悩んで、やっぱりダルいのでこのまま行くことにした。

 それならしばらくまだここにいられる。


 恋川さんの部屋は、ミステリアスだ。

 少なくともヴィジュアル的には若い女子の部屋なんかではない。ダル系というのかなんなのか、ダークウッド系の調度品が多く、ところどころに和のテイストが散りばめられている。リビングの一角は作業場になっていた。きちんと片付けられているが、摺り師の作業場であることは今のぼくにならわかる。絵の具に詳しいことも理解できた。自分で摺っていれば、そりゃ詳しくなるというものだ。絵師がソークン先生で、どこかに彫り師がいて、恋川さんが摺り師をやっているということだろうか。

 作業場の周囲には大量の文献を抱えた書架が立ち並んでいた。

 美術書の類が多い。浮世絵や春画の解説書はもちろん、出版史などもある。遊郭の歴史書なんかも書架のひと段を埋めていた。と見ていくと下の方にAIだのプログラミングだのという技術書も並んでいた。なんだこれ? 元カレとかの本だろうか。それともやっぱり彼氏はいて、ここに来ているのだろうか。浮かれていた気分に少し陰がさした。ダメだなぼくは。

 その脇に木の棒がクロスしたような枠のようなものがあった。たぶん和服をかけておくような、そういうヤツだ。衣装をかけておく井桁みたいなもの。なんか名前はあるのだろうけど絶対知らない。超大型和服用ハンガーとでも言えばいいのか。普段はここに何かかけてあるのかな。

 ロボットのフィギュアがかなり違和感のある存在だが、酔いが醒めてよく見てみると、これはただのフィギュアではなかった。テレビで見たモーショントレーサーというやつだ。人間の動きをカメラアイで録画して、その動きを真似るというロボットだっったはずだ。一連の動作を繰り返すだけではなく、AIが分析して動作を小分けにして必要に応じて順序や位置関係などを微調整できるとかなんとか。介護関係では研究が進んでいて、ソウザさんの家にも同じようなものがあった気がする。ただ、こんな愛嬌のある顔は付いてなかったはずだ。持ち主の趣味か。


 壁にはソークン先生のところにあったのと同じ版画がフレームに入れて飾られていた。やはりこれはなんど見ても美しい。似てるんじゃなくて、恋川さん本人だったのだと、今ならわかる。細く繊細な現代日本画のような筆致でありながら、どこか浮世絵の雰囲気も醸し出している。一部は写真のようにも見えるほど、多色刷りが極められている。四十八色だったか四十九色だったか覚えていないけれど、ぼかし摺りや綺羅摺りの技法も使っていてそれ以上の色彩を内包しているようにも見えた。ソークン先生のところでは照明光だったが、こうして自然光で見るとまた違った味わいがある。ぼくは絵画を鑑賞するような趣味はないけれど、この絵は欲しいと思う。ソークン先生の生絵じゃとても買えないが、版画ならどうにか手が届くかもしれない。今はムリだけど。あるいは太閤埋蔵金なら買えるだろうか。


 そういえば、と思って禁書目録を探してみた。本棚と作業机のあたりをざっと見回したけど見当たらなかった。和本は背に何も書いていないので、棚差しのものは内容がわからない。全部引っ張り出すわけにはいかないし、きっとどこか安全なところに仕舞ってあるのだろう。

 昨夜聞いた「謎の記号」というものが気になるが、暗号か何かになっていて、解読すると財宝のありかがわかったりするのだろうか。暗号解読ならスパコンを使えるイグサを巻き込んだほうがよさそうだ。あいつならあんまり分け前がどうのとうるさいことを言わない気がするし、面白がって手伝ってくれるという確信があった。太閤埋蔵金が実際に存在してもしなくてもね。


 ソファベッドをベッドモードからソファモードに戻して、部屋の隅にあったコロコロで軽く掃除をする。いろいろなゴミが絡みついて、どっちのものかわからなかったが、思い出して赤面してしまった。

 冷蔵庫にオレンジジュースがあった。一杯だけもらった。

 鍵は、玄関まで行くとシューズボックスにちゃんと置いてあった。あると信じて正解だった。

 靴をはき、立ち上がり、ドアを開けた。

 外に出て、ドアを閉じ、鍵をかける。

 これをポストに入れてしまうと、もう入れなくなる。少し躊躇した。

 また、会えなくなるのではないか。


 いや、もう彼女とぼくは知り合いレベルの他人ではない。

 肉体関係をもったから、他人じゃないというのとも違う。そんなの他にいくらでもいる。

 埋蔵金を追うハンター仲間という感じの方が近いか。

 アニメでよく見たアネゴと手下という感じならどうか。少ししっくりきた。

 また、会える。いや、呼ばれる。必ず、ぼくは必要とされる。

 シリンダーから鍵を引き抜き、ポストに入れた。

 カチャリと音がして、ぼくは自力でこのドアを開くことができなくなった。


〈続く〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る