4-7 ジャガービル
「あ、ここ上がんないと」
恋川さんが厩橋の親柱を指して言った。隅田川テラスともしばしのお別れだ。
階段を上がると春日通りに出る。深夜だがタクシーはまだ走っていた。
「クルマ拾う?」
「ううん、もうすぐそこだから」
「あ、そうなんだ」
恋川さんの自宅まで送れるのだろうか。なんとなく、それは知ってはいけないような気がした。知ってしまったら、いつでも会いに行ってしまうかもしれない。毎日部屋まで行ってしまうかもしれない。そうならない自信はなかった。そうなると、いずれストーカーとして拒絶されるかもしれない。それは嫌だ。だから、恋川さんの部屋は知らないほうがいい。知りたくない。知るのが怖い。
恋川さんは、太夫とは女郎さんの最高位の呼称だと言った。それは花魁かと聞いたら、花魁とは違うそうだ。花魁より上の位だったのだが、江戸中期になくなってしまって、それからは花魁が最高位となり、今や花魁に相当する地位の女郎というか風俗嬢は存在しないと言う。今だとよくて新造。たいていは岡場所の遊女レベルの扱いしかされないのだ、だから、もっと上位の存在にならないとならないのだ、というようなことを言った。そういえば落語に高尾太夫という名前が出ていたな。なるほど、太夫ってのはとびきり地位が高いということか。地獄太夫ってのはなんだったっけ。絵だっけ。とにかく、太夫ってのはすごい女郎さんってことだ。恋川さんならなれそうな気がする。何太夫って名乗るんだろう。それで、めっちゃ着飾って、しゃなりしゃなりと大通りを歩くってことだろう。ちょっと楽しみじゃないか。俺でも役に立てるだろうか。提灯持ったり、門番したりかな。もっと側近ぽい方がいいな。「姐さん」なんて呼んだりして。ふふ。
「それで、太閤埋蔵金は見つかりそうなんですか?」
「それがわかれば苦労はないわ」
「まあそうですよね」
「禁書目録が手がかりなのは間違いないんだけど」
「禁書目録?」
「あんたと会った頃にカンダさんから預かったやつ」
「ああ、あれですか」
あの日トリイ氏から買い取ったアレだ。やはり禁書目録が太閤埋蔵金のキーアイテムだったのだ。しかし、その謎はどう解けばいいのか。目録に何が隠されているというのか。暗号か、合言葉か、隠し場所の地図か。
「まだ、全然わかんないんだよね」
「何が書いてあるんですか?」
「何って」
我ながら愚問である。情けない。禁書の目録なんだから、禁書のリストに決まっている。書名と作者名、版元名なんかが並んでいるに違いない。それ以外になにがあるというのだ。バカかぼくは。ほかはせいぜい日付ぐらいのものだろう。出回っているリストもそんな感じの情報しか載っていない。
恋川さんは律儀に思い出して、列挙してくれた。なんかごめんなさい。
「んーと、年号と年月、あと書名でしょ、絵師か戯作者の名前でしょ、版元の屋号でしょ、それとなんかの謎の記号」
「謎の記号?」
「えっとね。確か、辰巳・松・へ・四段・七番みたいなの」
「だいぶややこしい?」
「ややこしいかな」
「なんですかね。分類記号?」
「わかんない」
意外にヒントになるかもしれないな。今での禁書目録にはなかった要素だ。恋川さんの禁書目録だけそんな情報が載っているのだろうか。現物を見てみたいなあ。
「それって、ぼくも見せてもらっていいものですかね」
「え、見たことないの?」
「ないですよ」
「持ってきたのに?」
「は?」
彼女がすうっと勝手にビルに入っていく。急に何をしだすんだ、と思ったらそのまま階段をカツカツと上がってしまった。ここは見覚えがある。というより、昨日の昼間に来たビルだ。ジャガービルだ。ぼくも慌てて二階へ上がった。まさかと思ったが、恋川さんは二〇一のドアの鍵を開けた。昼間開かなかったドアが、今はすんなりと開いた。あっけに取られて廊下で固まっているぼくに、恋川さんが手招きした。ぼくも中に入っていいらしい。あまり響かないようにそろそろと歩いて、半開きの鉄扉から、中をのぞき込んだ。
玄関はきちんと整理されている。片側の壁には女性ものの靴がたくさん置いてあった。だいたいは未使用な感じである。廊下の両側にはドアがあるが、おそらくトイレと洗面所と風呂といったあたりだろう。逆側の壁にあるのは部屋の扉かもしれない。
奥の方の電灯が点いたので、ぼくもそろそろと中へと進んだ。恋川さん以外には誰もいないようだ。家主は留守ということだろうか。
「その辺座って」
「あ、はい」広いリビングの奥にデスクがある。その対面奥にはキッチンがあるようだ。デスクの脇に開きっぱなしの扉があって、そこからさらに奥の部屋に行けるようだ。恋川さんはそっちで何かをしているようだ。何か探しものだろうか。
全体に物が多い部屋だが、妙に片付いている。片付いているというより、機能的にすべてが臨戦態勢という風情だ。職人の作業場といえば、イメージが伝わるだろうか。デスクのある作業場コーナーとキッチン真逆サイドには、巨大なロボのフィギュアと、何か木の枠が置いてあった。なんだか趣味がよくわからない。デスクの上側には本棚が設えられており、天井近くまでびっしりと文献が収められていた。洋本と和本と半々というところか。浮世絵の本が多い。和本は黄表紙だろうか。デスクに寄ってみると、例の絵があった。あのソークン先生が描いたという浮世絵だ。恋川さんによく似た花魁の絵だ。ああそうか。あれは(これは)太夫の絵なのか。恋川太夫(仮称)の想像図なのか。なるほどそういうことだったか。
デスクにはバレンなども置いてある。奥へ傾いた木の台は、摺り師の使う台だ。引き出しがたくさんあるが、おそらく顔料や絵の具が入っているのだろう。ここの家主はきっと恋川さん風の現代浮世絵を摺りだした摺り師さんだ。
奥の部屋から恋川さんが出てきた。いつの間にかジャージ姿に化けている。
なんてことだ。この部屋の主は、恋川さんが勝手に部屋着を着ても許される関係だとうことだ。最も恐れていたことがわかってしまった。やはり恋川さんにはすでに恋人がいるのだ。しかも摺り師みたいな特殊な人間だ。貸本屋の代打風情では、そもそも格が合わないのだ。とたんに居心地が悪くなってしまった。ほどほどで帰ろう。ここからなら朝までには歩いて家まで帰れる。
「ビールしかないんだけど、ビールでいい?」
「あ、いいえお構いなく」他人の冷蔵庫のものを勝手に飲んでいいわけがない。それが許されるのは恋人までだ。
「いいじゃん、つきあってよ」
恋川さんがキンキンに冷えたビールを持ってきた。その命令と誘惑に勝てるほどぼくはストイックじゃない。受け取って、プルトップを開けた。静かなビルに開栓音が響き渡る。
「おつかれぇ」
恋川さんが缶を寄せてくる。ゴフンと音をさせて乾杯した。少し歩いて疲れた身体に、冷えたビールは心地よい。至福だ。
「かはー。うんまい」
ぼくがちょこんと座るソファに、恋川さんが我が物顔でもたれかかる。相当にリラックスしているようだ。部屋着に着替えて、すでに完全なオフモードだ。恋川さんは缶ビールの半分ぐらいをゴキュゴキュさせて飲み下した。ぼくは、遠慮がちにチビチビグビリと飲んだ。
「なになに、もっと楽にしてよ」
「そういうわけには」
「緊張してんの?」
「いや、まあ」
恋川さんはぼくの返事を待たずにキッチンを物色して、ツマミになりそうなものを見繕ってきた、勝手知ったる他人の我が家とはこのことだ。絶対この部屋彼氏の部屋じゃん。嫌だもう帰りたい。
「シャワー浴びてからの方がよかったかな……」
すでに一本飲み干した恋川さんが、二本めを手にして悩んでいた。シャワーも浴びちゃうような仲なんですね。なんか横恋慕みたいな真似してすみませんでした。間男が勝手に上がり込んで本当に申し訳ない。というかいつ帰ってくるか、気が気じゃない。
「まいっか」
恋川さんが二本目の缶ビールをプシュッとした。
「恋川さんはここに泊まるんですか?」
「え?」
「ぼくそろそろ帰ろうかと」
「はぁ?」
ちょっと怒っている。なぜだ。
「なんで」
「いや、ここの人に悪いし」
「あたしンち」
「は?」
「ここ、あたしンちだってば。昼間は来てくれたのに出れなくてごめんね。あんとき電話してたんだよ」
なんだかイマイチよくわからないが、とりあえずこのビールは飲んでもいいようだ。ぼくは、缶の残りを一気に飲み干した。そうか。そういうことか。
「もう一本もらっていいですか?」
「お、やっとエンジンかかったか?」
「飲みたいんです」
恋川さんのビールを口移しで飲まされた。美味かったが、酔いが回った。
〈続く〉
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