4-6 吾妻橋駒形橋厩橋

 江戸時代、隅田川は「大川」と呼ばれていた。恋川さんがたまに大川と言っているいるのは、古典籍の読み過ぎのせいだろう。吾妻橋は、十八世紀後半の架橋当時、大川橋と呼ばれていた。その後東の方にあるということで「東橋」と呼ばれ、幕末の頃に「吾妻橋」となった。少し前まではビール会社の金のうんこがそびえ立っていたが、今はもうない。新しいビルが立つまではスカイツリーが丸見えだ。

 浅草までは来ると街自体はだいぶ明るいが、営業中の店は少ない。人通りもほとんどない。終電を逃して彷徨うサラリーマン風の中年(酔っぱらい)や、ミニスカートで妙にデカいトートバッグを持ったわけあり風のお姉さんなどがうろついている程度だ。吾妻橋から下流の隅田川テラスには、船着き場などもある。ぼくらはいつのまにかそのまま川に沿って歩いていた。どちらかが何か言ったわけではなく、ただ、もう少し一緒にいたかっただけだ。


「その春信、どう思う?」

 ぼくの背中のバッグには、恋川さんがトモエさんから預かった春信の謎の版画が入っている。これを運びつつ、恋川さんを無事に家まで送り届けるのが、今のぼくのミッションだ。

「ぼくにわかると思います?」

「思わない」

「えー」

 ぼくの棒読みの抗議を、恋川さんは小悪魔なスマイルでごまかした。いいなあその顔。そのくちびる。抱きしめたくなる。

「わかんなくてもいいから、なんか思うこと言ってくれたら、あたしが閃くかもよ」

「なるほど」

 それは一理ある。素人なりに素朴な疑問をぶつければ、玄人の方でいい塩梅に処理してくれるかもしれない。そうだ、セックスのときもそうじゃないか。何をいまさら取り繕おうとしていたんだ。多少のハッタリなんかが通用するような相手じゃない。恋川さんはやると決めたらとことん極める、求道者タイプではないか。そしてぼくは従者タイプだ。主君を決めたら命がけでお仕えする。彼女が突き進む道を、ぼくがサポートする。それがぼくらの正しい関係性だ。腑に落ちた。

「摺られたのが最近ということは、版木が見つかったということですかね」

「資料館はそういう見立てよね」

「贋作ではない?」

「浮世絵の場合、何をもって贋作というかが難しいけれど」

 確かに、浮世絵自体は印刷物だ(肉筆画でない限り)。それに当時は徒弟制で、師匠や先達の作品を模倣して、自作としてリリースすることは普通だったし、元絵や版木をそのまま組み込んで新作とするようなものも横行していた。著作権などという概念自体が存在しないのだから、盗作も贋作もへったくれもない時代だ。

 印刷物である以上、一点ものではない。同じ版木から摺られれば、それは本物であるということになる。だから、この春信についても、いつ摺られたかは大きな問題ではない。版木さえ本物なら、それは真作の春信なのである。

「版木がどこかから見つかったってことですかねえ」

「版木が」

「ええ、版木」

「どこでよ」

「そんなのわかりませんよ」

 わかってれば苦労はしない。恋川さんもぼくが知っている前提では聞いていないので、ぼくが答えるべきはわからないことではなく、可能性がありそうな場所だ。

「二五〇年以上も見つからなかったのに、急に出てくるなんてことあるんですかね」

「急に?」

「だって当時のものと最近摺られたものしかないってことは、その間は誰の目にも触れてなかったってことですよね」

「その間はどこかに隠されていた?」

「まあこのあといろんな年代のものがどんどん出てくるかもしれないですけど、新摺りが長いこと出てこなかったんだからそういうことかなと」

「どこかってどこかな」

「んー。蔵とか?」

「蔵」

「田舎の方とかまだ残ってるじゃないですか。蔵」

「なるほど」

 どこかの蔵で版木が見つかる。たまたま見つけた摺師が試しに摺ってみる。摺り上がりがどんなものか試してみたくて、市場に流す。流れ流れて骨董ジャンボリーに出てきた。それがトモエさんの目に止まった。そういうことだろうか。ただ、骨董ジャンボリーでは二束三文だったそうだから、本物としての価値を認められることはなかったということだ。本物だったら数百万。いや、人気作の『風流艶色真似ゑもん』がこの状態の良さなら一千万円はくだらない。一冊分揃ったものなら、億超えだ。よく考えたらとんでもない話じゃないか。

「どしたの?」

「いや、版木が見つかるって、すごいことなのかもって思って。今更だけど」

「まあ、摺りすぎると相場は下がるし、新摺りに当時摺られたものと同等の価値が認められるかはわからないけれどね」

「あー」

 ぼくが考えるよりはるか先まで、とっくに考えていたようだ。その形のいいおでこの下には、どんな灰色の脳細胞が隠れているのですかね。おでこにキスをしたくなったけど、我慢した。歩きながらだとキスしにくいからだ。

「版画を元に版木を逆算して再現するとかは?」

「版木を捏造ということ?」

「なんかスキャンとかして、3Dプリンター的なもので作ったり」

「墨だけの一色摺りならともかく、錦絵は気が遠くなる」

「春信はまだぼかし摺りとかあまり使われてないですからやりようがあるんじゃないですかね」

 浮世絵は江戸後期になればなるほど、さまざまなテクニックが開発されて高度になっていく。春信の時代はまだ錦絵ができたばかりで、カラー印刷なだけでもウハウハウだったはず。そんなに凝ったことはまだ求められていなかっただろう。基本的にベタ刷りで、見当を合わせてひたすら重ね摺りすれば完成だ。結果の版画から、AIとかスパコンなんかを使って元の版木を逆算して作り出すことができたら、浮世絵が摺り放題ではないか。海外にしかない出来栄えのいいものから版木をコピーして、新摺りとして作りまくればいい。

「もしそんなものが本当にあったら」

「ヤバいですね」

「ヤバいっていうかスゴい」

「実際できるんですかね」

「お金はかかりそうだなあ」

 恋川さんが口を尖らせた。どうしてあなたはすべての表情が可愛いんですか。抱きしめてそのまま二人で隅田川にダイブしたくなるじゃないですか。駒形橋が邪魔だけど。下をくぐってさらに下流へと歩く。恋川さんの家ってどの辺なんだろう。できるだけ遠いほうがいいなと思った。このままいつまでも話していたい。

「太閤埋蔵金でもあれば開発できますかね」

「そのお金があれば、世界中の春信を買い戻せるよ」

 恋川さんが声を出して笑った。

「ああ、そうか」

 ぼくも笑った。明治時代の馬鹿者たちがずるずると切り売りして垂れ流してしまった国宝を取り戻す、これは浮世絵に関わる者の悲願ではある。といろんな人が言っている。ぼくはそこまでは思わないけど、春画展の美しい艶本が、海外の所有だというのは残念だったし、自国のものを借りないと見られないのは単純に悔しい。大英博物館にわざわざ出向いて世界遺産を見るエジプト人も同じ心境だろうか。

「とりあえず春信の謎は棚上げかなー」

「上げちゃいますか」

「上げとこう」

 恋川さんが腕をからめてきた。うれしい。

「太閤埋蔵金、どう思う?」

「どうって?」

「というかどこまで知ってる?」

「いや、まだ全然です」

「いくらぐらいだとかは?」

「四億五千万両。二百兆円」

「そこは知ってるんだ」

「まあ、ハンターさんが客に多いんで、少しは調べています」

「そのお金、何に使う?」

 二百兆円の使い途。さてどうしたものか。

「うーん。部屋を出たいかな」

「引っ越し?」恋川さんが笑った。二百兆円の使い途で引っ越しかよ。我ながら馬鹿馬鹿しい。

「シェアハウスなんですけど、同居人がちょっとラブラブ過ぎて居づらいんですよ」

 三ヶ月前はまだぼくに隠すつもりもあった同居人たちだが、このところ開き直ったのかあまり包み隠さず、眼前で平気でキスしたり、ぼくの留守以外でもセックスをするようになっていた。それなりに音を立てないように気遣っている節はあったが、それはそれで申し訳ない気分で一杯である。次の仕事が見つかったら部屋を出ようと思っていた。だから、太閤埋蔵金が見つかるとぼくとしても都合がいいのだ。

「恋川さんは?」

「あたしはさ」

 恋川さんも太閤埋蔵金を狙っているのは間違いない。何に使うっていうんだ。

「太夫になりたいの」

 ちょっと待って。厩橋が見えてきた。


〈続く〉

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