4-5 隅田川テラス

 返事ができないまま、道路を渡り広場を突っ切り、川の畔まで歩いてしまった。恋川さんは黙ったまま、ぼくのあとをついてきた。上流にはエックス型の橋が見える。ここから見てもエックス型ではないが、ぼくはそれがエックス型の歩行者橋だと知っている。その上流には白鬚橋がある。リベットがたくさん打たれている白くてレトロな美しい橋だ。でもここからは見えない。手すりにもたれて川面を眺める。小波が岸壁に当たる音だけが聞こえる。それがかえって静寂を感じさせた。対岸の高速道路をときおり大型車両が通り過ぎるが、騒音というよりは夜更けのアクセントのような心地よい音にすら聞こえた。

「んー」

 ぼくは返答に困った挙句、唸り声を挙げた。どうして、と言われて、はっきりと答える回答を用意できなかったのだ。パーティの会場で、身分の違い、立場の違い、格の違いを見せつけられて、怖気づいたのかもしれないし、彼女の特殊な職業に二の足を踏んだのかもしれない。いや、そんなことではない。彼女の眩しさに、自分の何者でもない姿が、たいへんにみすぼらしく感じたんだ。釣り合いの取れない男であることを、自覚するのが怖くて逃げたんだ。逃げたまま、戻れなくなったんだ。

「自分でわからないの?」

「たぶん、そう」

「そっか」

 彼女は、見抜いている。そう感じた。恋川さんの千里眼ならば、ぼくの浅ましい考えなど手に取るようにわかるはずだ。そうだ。ぼくはあなたにふわさしくない。ふさわしくないことを認めたくなくて、逃げていたんだ。なんと惨めな男だろう。


 恋川さんが下流へ向かって、ゆっくりと歩き出した。歩きながら、こちらへくるりと振り返る。そのまままた向こうへくるりと回って、また下流へと足を進めた。彼女が足を止めず、そのまま歩いていきそうだったので、ぼくも手すりから離れて、そろそろと歩きだした。恋川さんがゆっくり歩いているので、すぐに追いついてしまった。そのまま横に並んだ。

 しばらく歩くと言問橋が見えてきた。その下流には鉄道橋があり、さらに下流には吾妻橋があるだろう。吾妻橋が見えればそこが浅草だ。浅草まで行けば簡単にタクシーが拾える。それに恋川さんを乗せれば、ぼくの役目は終わる。ぼくは歩いて帰ろう。一時間も歩けば家まで着けるだろう。どうせ明日は休みだ。とくにすることもない。朝まで歩いて、夕方まで寝ていよう。それがいい。


 恋川さんはぼくのほうを見ない。避けているのか、何を考えているのか。さっきいい出した「どうして連絡しないのか」とはどういうことだろう。あれから三ヶ月ずっと何か彼女と会うための合理的な理由はないか、ずっと考えていた。仕事の相談をしようかとも思った。でも、彼女は貸本屋ではない。聞いたところで明確な返答があるとも思えないし、かえって迷惑である。貸本屋のことはカンダさんか本屋仲間に聞けばいい。春画のことを聞こうかとも思った。しかし、恋川さんがどのぐらい知ってるのかよくわからないし、詳しいことは貸本客のミウラさんか、それこそ師匠たるトモエさんに聞けばいいことだ。恋川さんに聞く理由が思いつかない。映画に誘おうとも思った。キャサリン・ゴウエの『北斎と応為』が映画化されたのだ。絶対見たいはずだと思った。前売り券は買ってあった。しかし、誘えないまま上映期限が迫ってしまったので、同居人たちに譲ってしまった。永青文庫の春画展に誘おうかとも思った。数年ごと定期的に英国・米国の春画・艶本コレクションが運び込まれる、貴重な展覧会である。海外のコレクションは国内残留品とは状態のレベルが違う。明治に、現存品でもとくに状態の良いものが海外へ持ち出されたので、そもそも日本に残ったものは出来栄えの悪いものばかりである。やはり海外のコレクションは素晴らしい。結局一人で言ってしまったが、恋川さんと二人なら、さぞ楽しかったことだろうと思う。

 きっとぼくらは、二人なら楽しくなる。その確信はあった。

 そう思うのはぼくだけだろうか。


 ぼくの返事を待っていたのか、それとももう返事が出てこないとあきらめたのか、恋川さんが振り返ってぼくを見ながら聞いた。

「タツヤは鈴木春信が好きなの?」

「え、あ、はい。だいぶ好きです」

「どの辺が?」

「なんですかね、錦絵を発明したからとかかな」

「やだ、絵柄が好きとかじゃないの?」恋川さんがコロコロと笑った。

「あ、もちろん絵柄も好きですよ。なんかキュッと凝縮された感じとか、コミカルな感じとか」

「あー、ちょっとわかる。あの感じね」

「だからどっちかっていうと、浮世絵は江戸中期系が好きです」

「そうなんだ」

 恋川さんは、少し眠そうに言った。もう結構な時間のはずだ。どこまで歩く気なのだろう。さっきの通りでタクシーを拾ってしまえばよかった。この感じだと、浅草界隈まで歩かないとならないと思う。

「恋川さんは、誰が好き?」

「え?」

「絵師で」

「ああ、絵師ね。あたしはやっぱ国芳かな」

 歌川国芳。江戸のポップアーチストと称される、江戸後期を代表する浮世絵師。自由奔放とされる作風で、猫づくしなど現代で見ても楽しめる、大胆で明るい作風が特徴だ。当時も今もとくに女性に人気があるらしい。

「国芳ですか」

「相馬の古内裏ね」

 がしゃどくろとも呼ばれる巨大な骸骨が襲ってくる有名な絵だ。確かにポップである。


「鰐鮫はどうですか?」

 正しくは「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」である。源平合戦をモチーフに、巨大なワニザメが襲ってくる絵で、うねる波がド迫力である。歌川国芳の本領発揮といった人気作だ。

「ああ、いいね。好きよ」

「ぼくも好きです」

 好きって言葉が簡単に口からでる。出せる。今なら言えるかもしれない。

「わたしは?」

「好きですよ」

「なんだ」

 なんだとはなんだ。と反射的に言いかけて飲み込んだ。なんだでいいんだ。

「言ってくんなきゃわかんないよ」

「とっくにバレていると思ってましたけれど」

「なんとなくそうかなーと思ってもさ、そうとは限らないじゃん」

 そんなものだろうか。

 ちらりと周囲を見渡したが、人影はなかった。

 手を伸ばして、恋川さんの指を掴まえた。絡み合うように五本の指が引き寄せあって、彼女が握り返してぼくらはきゅっと結ばれた。そのまま腕を引いて抱き寄せた。彼女が身体をぼくに預けた。指をほどいて、抱きしめる。呼吸を合わせて、キスをした。


 腕を組んだまま、再び歩き出す。

 少し夜風が寒さを感じさせる。恋川さんが腕を絡めるようにして身体を寄せてきた。やわらかいものに肘が食い込む。ぼくの全神経がその一点に集まり、血液は別の一点にうっかり集中し始めた。気づかれないように位置を直す。

 また抱きしめたくなるが、それではいつまで経っても浅草にたどり着けないので必死でこらえた。

「それで、ボディガードってなにするの?」

「ぼくが聞きたいですよ」

「そうよね。オババはどういうつもりなんだろ」

「オババ?」

「トモエさん」

「え? あの人お婆さんなの? お爺さんだと思ってました」

「あ、え? いや、知らないよ、あたしはお婆さんだと思い込んでいたけど」

「えー、てっきりお爺さんだとばかり」

 そういえばなんとなく女性っぽいところもあった。ある程度を超えると、どっちでもよくなるのだろうか。

「うそー。言われてみればお爺さんぽいとこあるよねー。ビビる」

「え、いやいや、ぼくは勝手にそう思ってただけで」

「あたしだって勝手に思ってただけで」

 ぼくらは勝手な不在裁判で、性別不明の愛すべき老人を想って笑った。そうだ、トモエさんが男か女かなんてどうでもいいじゃないか。思えば、彼(彼女)はぼくらにとってかけがえのないキューピッドなのだ。次に会ったら思わず抱きしめてしまうかもしれない。バキボキ折れないようにそっと抱きしめないとならないな。


 コンビニまで走って缶チューハイとカラアゲを買って、浅草の船着き場あたりに戻り、真っ赤な吾妻橋を眺めた。もう深夜もだいぶ更けた頃なのに、ここまで来ると街がまだ起きていることがわかる。対岸にある公園の階段に、カップルらしき人影が見える。ときおり手元がチラチラと光っている。スマホでもいじっているのだろうか。

「そっち何味?」

「ぼくのはシークワーサー」

「え、いいな。ちょっとちょうだい」

「どぞ」

 ぼくの飲みかけの缶に、恋川さんはかわいいくちびるを寄せて、きゅっと飲んだ。缶になりたい。

「おいしー。そっち全部あげるから、こっちちょうだい」

 恋川さんが飲みかけのスウィーティー味を差し出した。ドキドキしながら缶に口をつけた。さっきまでキスしていた相手に、どうにもまだぼくは純情だった。


〈続く〉

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