4-4 山谷堀公園
居酒屋鉄蔵が閉店だというので、その場はお開きになった。トモエさんはもういい感じに眠そうに仕上がっていたのでタクシーに押し込んで先に返した。恋川さんのためにもう一台タクシーを拾おうと思ったが、三台連続で賃走が来て、次に来たのは回送だった。
「あ、くそ」
手を挙げかけてそのやり場にこまったぼくが頭を掻いていると、恋川さんがぼくのシャツのすそをちょんとひっぱった。
「ちょっと歩かない?」
確かにこの界隈よりどっちかの大通りまで出たほうがクルマは拾いやすいかもしれない。
「そうですね。気候もいいし」
恋川さんはうなづくと、すっと歩き出した。ぼくの思っていた方角とは違ったので、あれっと思ったが、ここいらのことは彼女のほうが圧倒的に詳しいはずだ。黙って付いていくことにした。
大通りを渡り、ファミレスの脇を抜けると裏手に公園があった。細長い公園で、街灯も少なくて薄暗いが、吹き抜ける夜風が酒で火照った身体に心地よかった。前を歩く恋川さんから、ふわっといい香りがした。久しぶりに香る恋川さんの体臭だった。いや、体臭じゃなくて何かの香料か香水かもしれないけど、とにかくこれは恋川さんの香りだ。ぼくの嗅覚神経はそのように認識していた。
恋川さんはマイペースでどんどん歩いていくので、ぼくはなんとなく後ろから付いていくような感じになっていた。公園に入っていくのでベンチで休むのかなと思ったが、そのまま公園を突っ切るように進んでいく。進んでいくが、ちっとも向こう側にたどり着かない。幅が短いので、小さな公園だと思っていたが、これはそういうものではなさそうだ。なんだたやたらと禁止事項の多い注意書きの看板の下側に「山谷堀公園」と書かれていた。
「山谷堀って言うんですね」この公園、と聞いたつもりだったが、少し違う返事が戻ってきた。
「ここは昔は、大川から吉原に向かう水路があったんだよ」
「水路?」
「そうそう」
なるほど水路みたいなものを埋めて作った公園なのか。だから長細いというか、いつまでも終わらないわけだ。散歩道としてはとてもいいのではないか。少し虫が多いけど。
「使う?」
恋川さんが虫除けスプレーを差し出してくれた。
「なんでこんなの持ってるの?」ひょっとしてバッグに常備しているんですか。
「この道好きだからいつも歩くのよ。夜は怖いからダメだけど」
確かに全然人気がないので、女性の独り歩きは危険極まりない。
「前から、夜も歩いてみたかったんだよね」
「どこまでつながってるんです?」
「大川、じゃなくて隅田川まで続いてるよ」
それは面白い。夜の散歩としてはなかなか楽しいじゃないか。
少し饒舌になった恋川さんは、歩きながらこの山谷堀のウンチクを披露してくれた。吉原遊郭へは、庶民は陸路をてくてくと歩くのだが、お金持ちは船頭を雇って小舟で向かう。そのとき、隅田川(大川)で浅草の上流へ遡上し、この山谷堀を通って吉原大門あたりまで来ていたそうだ。当然、さまざまな物資もこの運河を通っただろうし、主たる商品である遊女本人も、ここを通って入郭しただろうと思われる。
「あたしもここ通ってお店に行ってたんだよね」
そうですか、としか返事ができなかった。なんでですか、と聞きたかったが、なんとなくわかったからだ。当たってるかどうかはわからないが、恋川さんはたぶん江戸時代のような花魁になりたいんだと思う。今は失われた職業。武士になりたいって少年とはまた違うメンタリティかもしれないけれど、ノスタルジーと呼ぶべきなのか、今のぼくには表現できないけれど、なにかそういう消えていく文化、失われた存在に対しての憐憫なのか、シンパシーなのか。それとも残さなければならないという使命感なのか。恋川さんがなぜ恋川さんなのか、その理由も事情も知らないぼくに、彼女について語る資格はない。勝手な想像はむしろ失礼だろうと思う。でも、やはりそれをぼくから聞くことはできない。いつか彼女が話すか、そのまま墓場まで持ち込むかはわからないが、それはぼくがあるがままを受け止めるということしかできないことははっきりとわかっていた。
「冷やかす、って言葉知ってるよね」
「え?」
「冷やかし、とか」
「買わないで帰っちゃうお客さんのこと?」
「そうそう」
「まあ元は書店員ですから普通に知ってますけど」
もちろん客に言ったりはしないが、内心ではみんな思っている。
「あれってここが語源なんだよ」
「ここ?」
公園のことではないな。もっと古い言葉だろう。堀のことか。なんだろう。面白いな。
「吉原ってさ、めっちゃ紙使うんだって」
「そうなんですか? 出版物とか一杯あった?」
「そうじゃなくて、セックスのあと拭くじゃん」
「あ」
「むかしは紙は贅沢品なんだけど、あのへんは贅沢する場所でしょ。もう惜しみなく使いまくってたんだって」
恋川さんが楽しそうだ。いつの間にかぼくの横にきて話している。
「そんでね、その使用済みのクズ紙を集める業者がいるわけよ」
「あ、そういや江戸時代ってリサイクルとかすごかったって本がありましたよ」
読んだことはないけど、長いことイズミヤの棚に刺さっていたのを思い出した。
「そうそう! それ!」
楽しそうな恋川さんは、本当に可愛いと思う。抱きしめたいと思うけれど、まだぼくらの間には二十センチメートルほどの物理的な距離と、もっと大きな精神的な距離があった。
「でね、この辺にはクズ紙を再生する業者がいっぱいあったんだって」
「吉原からいっぱい出るから?」
「そういうこと。賢いっていうか、まあ効率考えたらそうなるよね」
江戸時代は原始時代と変わらないような認識しかもっていなかったけど、貸本屋はじめてからはだいぶ認識が変わってきた。木と紙でできた街だけど、世界最大級の大都会であったし、電気はないけど活気に満ちていた。自動車はないのに道路は広かったし、なんと上下水道も充実していたというのだから。恋川さんはもっといろいろ知ってそうだ。教えてもらいたい。
「それで、紙を再生するまえに、二時間ほど川の水に浸しとくらしいんだよ」
「冷やすわけですね」
「そう。で、職人がその間ヒマなんで、吉原に遊びに行くんだって」
「二時間で?」
「二時間じゃ遊べないよね吉原」
「ちょっとムリかな」
「だから張見世とかのぞいて回って、ちょっかい出すだけで帰っちゃう」
「まさに冷やかし!」
「そっから来てるんだって!」
マジか。いま普通の日本語で広く使わている言葉の語源が、そんな下世話な話だなんて愉快だ。気難しい顔で聖人でございなんて気取ってるホワイトボックス派の連中に教えてやりたい。人間からエロと下世話を切り捨てることなんてできやしないんだってことを。
愉快だった。何百年も前の人たちの考えた言葉が、二十一世紀にも残っていて、普通に使われている。言葉って面白い。貸本に出てくる言葉にも、そういうものがたくさんあるかもしれない。くずし字もちゃんと覚えようかなという気になった。何気なく振った手に、恋川さんの指が触れた。二度触れた。思い切って掴んでみた。握り返してくれた。
しばらく無言で歩いた。ずっと細かった公園は少し太くなり、広場のようになった。犬の散歩をしている人が遠くに見える。その他に人影はなかった。街灯の割にずいぶん明るいなと思ったら、頭上に満月があった。いや、満月には少し足りないかもしれない。雲の隙間から月光が降り注ぐ。光につられて目線を恋川さんの顔へ落とした。じっとぼくを見ている。その瞳には、少し足りない月か、街灯か、その両方が光っていた。瞳の奥には何がある?
「なんで連絡くれないの?」
恋川さんが聞いてきた。さて、なんと答えるのが正解だろうか。
〈続く〉
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