4-3 居酒屋鉄蔵

 トモエさんに指示されるままに、ぼくは恋川さんの隣に座った。

 注文は何か聞かれたのだが、なんと答えたか覚えていない。

 左に恋川さんがいるのだが、どうしてもそちらを向くことができない。

 ちょうど視界のギリギリ外側に恋川さんがいた。気配は感じるが、その姿を見ることができないのだ。

「あんちゃん、今日はもう仕事は上がったんかね」

「あ、はい。荷物も横丁に置いてきました。明日休みなんで」

「ほうかね」

 トモエさんは歯があるんだかないんだかよくわからない口で枝豆をぽりぽり食べていた。ぽりぽりするからには歯があるのだろうが、あまり外からは見えない。

「あ、お前たちは初対面じゃったか?」

「いえ、前にお会いしています」

「そうけ。どっちもカンダの弟子じゃから、そらそうじゃろう」

 恋川さんがカンダさんの弟子ってのは初耳だし、ぼくも弟子だったのか。知らなかった。恋川さんはときおりビールを傾けるが、なにもしゃべらなかった。ぼくからは見えないが、トモエさんの言葉には反応しているらしい。動きがあって少しだけ見える。集中すると左側に彼女の体温があるのがわかる。


 ぼくのハイボールが運ばれてきた。恋川さんのジョッキを見るともう空になっていた。トモエさんのジョッキはまだ半分残っている。トモエさんが、はいお疲れさまと言って、ぼくのジョッキと合わせてくれた。そのとき恋川さんがジョッキを寄せてこなかったのは、ジョッキが空だったからなのか、それとも他の理由があるのか、ぼくにはわからない。


「さて本題だがな」

 突然トモエさんが切り出した。

「本題?」

「お前さんはここまで酒を飲みに来たのか?」

 いや、なにか用事があるとあんたが言ったからだが……。なんだろう?

「まあこれを見やれ」

 トモエさんは横の椅子から大きな封筒を取り上げ、中から一枚の浮世絵を出した。

 浮世絵、というより艶本の一葉だ。

 この絵師は知っている。鈴木春信だ。ぼくの好きな絵師だ。

 遊郭らしき建物の縁側に男女が三人。中央の頭巾の男が客で両側の女はここの女郎たちだろう。向かって左にいるのがこの客付きの花魁で、右側で客にちょっかい出されている小柄な方はおそらく新造だ。そして、左端の木の葉陰から覗いているのはこの物語の主人公、真似ゑもんだ。真似ゑもんは小人になる妙薬を飲み、各地の男女の営みを観察して回るという荒唐無稽な物語だ。西川祐信の流れを組む、江戸中期風のコミカルな画風ながら、細部は極めて緻密に描かれている。そしてこの色彩。現代のカラー印刷に相当する「錦絵」だ。それまでモノクロに手で彩色するのが精一杯だった浮世絵界において、鈴木春信と平賀源内らが開発した「錦絵」の手法は、まさしくイノベーションだった。木版多色摺りという新機軸がもたらした、出版大革命。「見当」と呼ばれる印を合わせて、色によって彫り分けた版を何度も刷り込んでいく。色彩豊かな出版物を大量に送り出すことができる。人類の歴史において、それは二つの手法しか発明されていない。それは、十八世紀中頃に発明されたこの錦絵と、二十世紀のCMYK四色印刷だけだ。鈴木春信はその世界に二つしかない究極テクニックの片方を作り出した男なのだ。発明家平賀源内のバックアップがあってのこととは思うが、鈴木春信本人の情熱なくして、モノクロの世界がカラーに彩られることがあるはずがない。ぼくはそう思っている。


「真似ゑもんですよね。風流艶色真似ゑもん。確かこの絵は十二番かな」

「ほほう? やるようになったな」

「春信だけです」他はまだまだ。

 しかし、なんだかきれい過ぎる。カラーコピーか? いや、これはトナーではない。紙は確かに和紙だが、和紙だとここまでトナーがきれいにのることはないだろう。シルクスクリーンのレプリカだろうか? シルクスクリーンは色版ごとに専用の絵の具を摺っていくもので、ざっくり言うと錦絵の手法に少し似ている。しかし、あの絵の具がこんな色彩になるだろうか。

「これ、なんですか? 掘り出し物ってわけじゃないですよね」

 まず紙が古くない。経年劣化がない。どんなに完璧な状態で保管したとしても、紙はかならず酸化するし、風化もする。摺って乾いた直後にラミネート加工でもして真空状態にすれば、あるいは、とは思うが二五〇年前にそんな技術があるわけがない。平賀源内がいくら天才でもそれはムリだ。つまりこれは、鈴木春信の時代に摺られたものではないということだ。じゃあなんだ。なんなんだこれは。

「男子三日会わざれば刮目して見よ、とは言うけれど」

 恋川さんの声がした。真横にいるから当然か。

「いつまで経っても会いにこないなと思ってたら、ずいぶん仕事熱心だったみたいね」

 恋川さんは、少し冷たい感じで淡々と言った。どんな表情で言っているのか、どうしても見ることができなかった。

「あ、いや、別に仕事熱心ってわけでは……」

 恋川さんと話を合わせたくて、カンダさんや本屋仲間や、貸本の客にちょこちょこ話を聞きまくっていただけだ。

「しずくはもう見抜いておるようじゃな」

「そうね。まさかとは思ったけど」

「どういうことですか?」

 残念ながらぼくには見抜けなかった。なんか違うとは思ったが、それが何かまではわからない。

「新摺りでしょう?」

「あらずり?」

「そう。新たに摺られたもの。紙が最近の紙よね。あと顔料が現代のものも使われているね。辰砂の真朱じゃなくて人工の銀朱を使ってる。たぶん真朱でうまく刷り上がらなかったので、試しにバーミリオンを使ってみたってところでしょうね」

「どうしてわかるんですか?」

「自分で試したから」

 何を言ってるかわからなかった。ぼくは混乱していた。


「紙も摺りも、とりあえずはいいけど、この版木はどういうことなの?」

「それはわしにもわからん。資料館で鑑定してもらったが、版木は本物か、あるいは緻密に複製されたコピーだということじゃ」

「コピーって言ったってさ……」

「そうじゃ、刷り上がりからじゃ元のコピーはできん。版木自体が存在せんことにはな」

 版木。錦絵、浮世絵だけじゃない。木版出版物はすべて、手掘りの板木で摺られる。しかし、その版木の多くはすでに失われて、現代にはほとんど残っていない。摺り上がりの紙の方は運良く生き延びても、版木はそうはいかない。版木は桜の木か、朴の木の板が使用される。当時、これらは高価だったから、刷り終わるとカンナで削って再利用されることが多かった。また、燃料事情の苦しかった江戸の都市部であれば、使い古された版木が最終的に焚きつけになるということもあっただろう。だから版木は基本的に残っていない。皆無ではないが、運のいいものがたまたま稀に残っているだけである。

「これ、どこで手に入れたの?」

「骨董ジャンボリーじゃよ。昼間行ってきたんじゃが、全然浮世絵に関係ない業者が売っとった」

「一枚だけだったの?」

「そうじゃな。わしも最初は印刷物かと思ったんじゃが、現存する春信のどの摺り上がりとも摺り味が違うんでな。写真なら必ずどれかの摺り出しと同じはずじゃろ?」

 まるで全部の現存摺り出しを見知っているかのような言い草だが、トモエさんならあり得る。おそろしい。

「ともかく確保して、資料館で見てもらったんじゃが、結局わかったのは版木が本物ってことだけでな。明日にでも転売した業者に話を聞いてくることにしたよ。それはしずくに預けておくから、なんか気づいたことがあれば、あたしかカンダに伝えとくれ」

「カンダさんはこれ見たの?」

「ああ、さっき一緒に資料館でな。あやつは紙の方から当たってみると言っておったよ」

 なんだかぼくの知らないうちに話が動いていたようだ。カンダさんはだいたい事務所で待っているのだが、夕方に先に帰るとメールで連絡があった。このことだったのか。ぼくは恋川さんのことで凹んでいたから、わかりましたとだけ返したんだった。

「もしも、春信の版木があるなんてことになったら、大騒ぎじゃからな」

「早く裏を取って、他の版木もないか確かめるってことね」

「楽しくなってきたのう、長生きはするものじゃ」

 トモエさんはいつの間にか空になったジョッキを掲げて、店員におかわりを頼んだ。いや、待て。いろいろすごいことはあったが、結局ぼくが呼ばれた理由にはなってないぞ。

「待ってくださいよ。それでなんでぼくは呼ばれたんですか?」

「春信好きじゃったろ?」

「そりゃまあそうですが、それは明日でもよかったんじゃ」

「明日でもいいぐらいの好きさ加減じゃったかな?」

「あ、いや、たしかに今日見たいですけど」

「ならば文句はあるまい」

 文句はない。仕方ない。老人の気まぐれに巻き込まれたってことにしておくか。ぼくはハイボールをぐびりと飲んだ。

「あとは、まあ」

「他になんかあるんですか?」

「カンダと話して、しばらくお前にしずくのボディガードをやらせることにした」

「は?」は?」

 ぼくと恋川さんは同時に聞き返した。


〈続く〉

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