コンスピラシー

インターミッション:コンスピラシー

 遠くで芝居小屋の客引きの声がする。すでに日は沈み、そろそろ提灯なしでは歩けない時間であるが、勇助は夜目が利くのでほいほいと夜道を歩いていた。芝居も最近では下火になりつつあってどうにも景気が悪い。お上のご指導が怖くてなんだか萎縮してしまっているからだろう、と蔦重が言っていたが、勇助はそんなことで芸事ができるかいと思っていた。ようやく腕が認められてきたところで足踏みなどしてはいられない。

 角を曲がると指定された茶屋が見えた。だいだら屋と戸口に書かれた居酒屋だ。「だいだら」とはおそらく「でいだらぼっち」のことだろう。店の親父がやたらと大柄だってことで常連客が付けたあだ名を、そのうち店名に変えてしまったのだ。元々は小雀屋こがらやという屋号だった。

 のれんをくぐると店の親父がくいっと指を上に指した。勇助はあいよと目で答えて、そのまま奥の階段をひょいひょいと上がっていった。その先の廊下をギシギシ着音を立てながら曲がり奥の間まで行き障子戸をすっと開いた。

 すでに多くの顔は揃っていた。名前まで知っているのは多くなかったが、だいたいはどこかで見知った顔だ。いずれも戯作者か絵師の類である。もうそろ戌の刻であり、勇助は少々の遅刻となった。蔦重は入ってきた勇助を見ると、ちょいちょいと呼び寄せた。

「遅いではないか、丸。刻限は伝えたろう?」

「へえ。ちょうど柳橋からこっちへへえってきたら森田座が休むって通りすがりにききましてね。本当かどうか聞いて回ってたらちぃっと遅くなっちまいまして」

「森田座が? また?」

「へえ。一大事でしょう?」

「わかった。とりあえずその辺に座りな。あとで紹介する」

 勇助は悪びれるでもなくへこへこと頭を下げながら開いている座布団に座り込んだ。ぐるっと見回すと、なんだかみんな深刻なつらをしている。単なる飲み会ってわけじゃなさそうだ。

 隣に鉄蔵がいたので様子を聞いてみた。

「鉄よ、今日はなんの集まりなんだい?」

「勇さん、あたしもわからんのよ。とりあえず来いって言うから来てみたらずいぶん大勢来てたんで驚いてるとこだよ」

「蔦重は何考えているかわからんな」

「そりゃ毎度のことでさぁね」

 ひそひと話してたら、蔦重が咳払いをひとつ。いよいよはじまるかということで一同は静まり返った。

 正面の床の間を背に二人が並び、他の連中はなんとなくその二人に向き合う形でずらりと座っていた。遅れてきて最前列に座らされた勇助には、参加者全員の顔まではわからなかった。しかし、ざっと数えて四十人はいるはずだ。こんなにいたんじゃ床が抜けてしまうんではないかと心配になった。勇助がこそこそと後ろを見ながらちゅうちゅうたこかいなと数えていたら、鉄蔵が、

「四十四人です。勇さん入れて四十五人」

「どうもこりゃ察しがいいね。ありがとう」

「そっちの二人とで、全部で四十七人でさ」

「なんだいそりゃ。討ち入りでもしよってのかい?」

「さてねえ」

 蔦重がじろりと見たのに気づいて、勇助と鉄蔵は口をつぐんだ。場に緊張が走る。


「あー。そんなに固くなられても話しづらいもんだな。ちょっと楽にしてくんな」

 軽くざわついて、空気が少し緩んだ。

「さきに遅れてきたのを紹介しとくか。おい勇助」

「へえ」

「みなさんはお初にお目にかかる人も多かろうと思いますが、この男が昨年より耕書堂でイチオシにしております、北川歌丸でございます。どうぞみなさんお見知りおきを」

 パチパチと拍手が飛ぶ。勇助は半立ちで振り返り、照れくさそうに笑った。

「それと、そっちの端にいるのが滝沢興邦様。お武家様ですが、戯作者修行をされたいということで手前のところでおいでくださったところ、意気投合いたしまして、ここにも参列していただいた次第でございます」

 滝沢は軽く手を上げて紹介に応じた。

「上座にお座り戴くようお願いしたのですが、ご本人の希望で聴衆側にお座りになられておりますことお伝えしておきます」

 蔦重こと蔦屋重三郎は、ここ十年でめきめきと頭角を現し、今や江戸一の本屋として認められるに至った。山東京伝ら人気戯作師を次々に送り出し、数々の黄表紙でヒットを飛ばし、喜多川歌麿をはじめ多くの人気絵師を擁する蔦重帝国は、江戸出版界の絶対的王者として確固たる地位を築いていた。しかしそれも田沼意次が失脚してから状況は大きく変わってきた。次代老中松平定信による寛政の改革である。


「白河の」

 蔦重が柄にもなく詩を詠みだした。白河のとは、もちろん白河藩主でもある定信公のことであろう。自明である。

「清きに魚も住みかねて」

 こたびの御改革は、なにかと倹約・質素を尊ぶ、というよりは押し付ける制作が多く、とくに出版への規制がやたらと多い。毎月のように新たな規制が加わり、ここ一年で禁書に指定されたものは異常な数に上りつつあった。出すもの出すもの片っ端から禁書にされて取り上げられたのではたまったものではない。とくに蔦重の取扱い本の禁書指定は飛び抜けて多かった。まさしくおまんま食い上げ、魚も住みかねてという気分にもなるだろう。

「もとの濁りの田沼恋ひしき」

 一同から賛嘆の声と拍手が沸き上がった。

 蔦重は贔屓にしてくれた田沼意次への敬意と哀悼をこめて、懐古した。元はと言えば子息田沼意知の暗殺で気落ちしたところへ、長引く飢饉や度重なる一揆の対応に追われ、後ろ盾であった将軍家治の死も相まって、ついには失脚。失意のうちに江戸を追われたということである。しかし、その失脚劇の黒幕に松平定信がいることは、蔦重が見抜いていた。筆は刀より強し、と思って伝蔵とともに寛政の圧政を断罪する記事を出さんとするも、ことごとく禁書に指定され、一向に目的が果たされずにいた。


「定信公はどうも儂を目の敵にしておる」

 蔦重は明らかに他の本屋よりも禁書指定が多いことを訝しんでいた。何ゆえか。施政批判は他の本屋でもやっている。しかし、同じ内容でも最初に取締を受けるのは耕書堂のものであり、その後他の本屋にも規制が及ぶというケースが圧倒的に多いのだ。

「理由はわからんが、このままではとてもではないが立ち行かんところまで来ておる」

 蔦重は、ここ一年での売上を比較する絵図を広げてみせた。一枚めには、実際の売上の推移を示す図版を。二枚めには規制が緩かった場合に想定される推移を示した図版である。なるほど絵図は分かりやすい。集まった戯作者、絵師はぐっと身を乗り出して前へ寄った。

「定信公が何を考えているはわからんが、このまま取り潰されたのでは江戸一の地本問屋の名が廃る。手をこまねいて指を咥えて見ているなどというのは、蔦重の理ではない」

 脇に控える山東京伝(伝蔵)が大きく頷く。釣られるように同士たる四十五人も頷く。すわ、定信邸へ討ち入りか、禁書奉行所を打ち壊しか。それとも江戸八百八町で圧政を訴えながら練り歩くか。大凧で空からビラでも撒くか。各々がさまざな妄想をした。そこは蔦重が集めた精鋭たる戯作者たちである。目をギラつかせながら、頭領の発言を待っていた。

「その前に、これを見てくれ」

 蔦重はさらに新たな絵図を見せた。現在の出版の流れを指し示すものであるが、禁書にされる場合のものである。描いて、彫って、摺って、製本し、売りさばく。その後、禁書の吟味がされて、禁書となれば差し押さえ例が出される。そうなると、摺本はもちろん版木も取り上げとなる。その後どうなるかは聴衆は知らなかった。

「よいか皆の衆。見るべき点はこことここだ」

 蔦重は図版のうち、二箇所に朱墨で印を打った。一つめは禁書奉行所、二つめは版木の取り上げである。

「まずは禁書奉行だ。滝沢殿、禁書奉行は何人おられるのかな?」

「うむ。今は御二方でござる。交代で奉行所に詰めておられますな」

「ありがとうございます。そう。たった二人だ」

 蔦重は指を二本突き立てた。

「二人誰かに斬らせるんですかい?」

 誰かが言った。端々からそれは物騒だな、などと声が上がる。

「違う」

 蔦重は否定した。

「斬ったところで後任が充てられるだけだし、警備が厳しくなるだけのことだ。意味がない」

「じゃあ?」

「この二人の仕事量を調べてもらったが、最大で一日二、三冊を吟味するのが精一杯であることがわかった。厚みにもよるが、せいぜいその程度だ。今はそれでも目一杯稼働していることはめったにない。禁書の公告の間隔を見てもだいたいその感じであることは皆もわかるだろう」

 確かに、などと声が上がる。

「次に、取り上げられた版木であるが、奉行所の周辺を徹底的に調べ上げたところ、どうも神保様の屋敷に運び込まれているようで、そのあと江戸から出た形跡がないのだ」

 あそこで燃やしているのか? などと声があがるが、蔦重は首を振った。

「燃やしている形跡もない。二年ほど見張りを立ているが、それだけの煙が上がったことはない。炊事用に使っているのではとも思ったが、運び込まれる薪で賄いには足りておるし、風呂用にもそれで足りる」

「ということは?」

「神保様の屋敷に積み上がっておるということだよ。我らの版木が山ほどな」

「取り戻すのか?」

「馬鹿を云うな。武家屋敷に丸腰で押し入ってタダで済むわけがあるか」

 じゃあ、どうするんだ。と声が上がるが、それを制して蔦重は続けた。

「話は最後まで聞け。儂はこの図を見て、ある事に気づいた。皆は気づかんか?」

 うーん? と唸る声がする。気づかんか、と言われていろいろ思うことはあるが、それが蔦重の考えかどうかまではわからない。発言のしようはないのだった。


「よいか。ここを見ろ」

 蔦重は発刊と禁書指定のところを朱く囲んだ。

「発刊になってから、禁書になるのだ」

 当たり前の話である。一同は首をかしげた。だからなんだというのか。

「禁書にするかどうかは禁書奉行が決める」

 それも当然だ。本屋なら誰でも知っている。だからなんだというのかと。

「そして禁書になると、神保屋敷に持ち込む」

 それは初耳であったが、だからなんだとしか思えなかった。

 蔦重は、そこまで話して、間を置いた。このまま続けても、賛同は得られにくいだろう。というより、理解されにくいだろう。少し話のアプローチを切り替える必要性を感じていた。

「伝蔵。お前、一冊書くのにどのぐらいかかる?」

「ああ、俺なら二日で書ける」

 一同がざわつく。それは速すぎる。常軌を逸している。

「絵も込みなら?」

「あ? 絵も込みで二日だろう。俺を誰だと思ってんだ」

 場がざわつく。そうだ山東京伝は北尾政演でもあるのだ。一人二役。書いて描く。打ち合わせも、すり合わせも、差し戻しもない。着想から書き上がりまでがワンストップなのだ。この圧倒的個体性能が、当代江戸ナンバーワン戯作者の真の力だった。

「さて皆の衆。ここからが本題だ」

 蔦重が絵図をたたみ、聴衆に向き直った。

 懐から紙風船を出し、息を吹き込み始めた。吹き込み続けて、パンパンに張ったところでビリリと引き裂いた。一同はその奇行に目を奪われて、意識を蔦重の口に集中した。

「我々は禁書奉行所を破裂させる」

 ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。

「大量の禁書候補を送り出し、奉行所の機能を麻痺させるのだ。麻痺させることで、発刊から禁書までの時間を長くして、その間に世間に本を広める。そしてさらに禁書手続きも大量に発生させることで、処分を遅延させ、ひいては神保屋敷を版木で埋め尽くしてしまうのだ」

「おおお!」

 今までは、いかに禁書にならないようにするか、新たな規制が増えないようにするかに苦心していた。禁書指定を回避しようとすれば、さらなる規制が増えていくといういたちごっこだったのだ。そこを逆回転させるのが今回の作戦である。禁書をわざと大量に作る。そこで新しい規制は作られない。ただただ禁書に引っかかりそうなものを次々に送り込めばいい。奉行所が機能不全を起こせば、江戸の出版界の勝利である。

「しかし、そんな財力あるんかい? 人も金も紙も足りんのではないか」

「そこはすでに手を打ってある。金子は上方に人を送って話をつけてある。紙も蝦夷地で格安の楮を大量に買い付けた。紙漉きは秩父に工場を増やしたからこれまでの十倍の生産力が見込める」

「しかし、彫り師も摺り師も足りないぞ」

「すでに大量の人員を確保した。問題ない」

「じゃああとは?」

 蔦重は、うむと頷いて応えた。

「諸君らが、儂の絵図に賛同して、書いて書いて描きまくるだけじゃ!」

 おおお、と広間に声が上がった。興奮が一気に高まる。

「儂はこの作戦を、だいだらす当功D−Dosアタックと名付けた。だいだら屋で考えた作戦じゃからのう。どうじゃ皆の衆、やってくれるか?」

「やるぞ!」

「そうだ! 奉行所を押し潰せ!」

「やっちまえ!」

「江戸を版木で埋めてやる!」

 勇助や鉄蔵まで威勢のいい声を上げて拳を突き上げている。どうやら満場一致のようなので、蔦重は伝蔵に合図をした。

 伝蔵は廊下に出ると、階下へ向かって「よし、親父、酒を持ってこい。全部残らずだ」と声をかけた。だいだら屋の親父は「へい」と返事をし、お燗した徳利を盆へ並べた。


 以上が「だいだら屋事件」の発端となる会合の様子であるが、この議事録は幕府の手で抹消され、後世には伝わっていない。寛政の大量禁書発生事件は、禁書奉行の大量増員、奉行所の大幅拡張、神保屋敷の収容力増強などの施策であっさり潰され、翌年には上方からの資金提供が絶たれ(定信による圧力があったと思われる)、海上封鎖により楮の供給が滞り、江戸近隣の製紙所には幕府から大量発注が出されたことで、でいだらす当功計画は完全に頓挫したのだった。

 そして翌年、いつくかの禁書を出した罪で、蔦屋重三郎は財産の半分を没収。片棒を担いだ伝蔵は、手鎖五十日という処罰を受けるに至ったのである。


〈第四章へ続く〉

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