3-9 腐敗と欺瞞と予想外の告白

 辛い辛い辛い坂を登りきって、またゆるやかに下りてくるともう駅だ。

 ソークン先生のところで恋川さんのことを思い出してから、もう全然頭から離れなくなってしまった。三ヶ月前、この駅前でカンダさんから恋川さんのカードをもらって、それでぼくたちは出会ったのだ。この駅からタクシーでお店に行く。黒服さんに案内されて待合室に座る。お茶を飲む。雑誌を読む。集中できないのですぐ閉じる。財布の残額を思い浮かべる。仕事を失ったことを思い出す。明日からどうしようかと思ったところに、恋川さんが現れた。


 そして今ぼくはまた同じスタート地点に立っている。話は簡単だ。財布にずっと忍ばせてある恋川さんのお店の電話番号をスマホに打ち込む。発信する。店員さんが出る。指名を伝える。予約の時間を聞く。タクシーに乗る。行きたい街と店の名前を告げる。運転手さんは無表情だが内心はニヤリとしている。しばらくそわそわしながらクルマが走る。信号以外で止まったら、そこが店だ。料金を支払ってクルマから降りる。黒服が寄ってくる。店の名前を告げると彼らは去っていく。店の前に向かうと、その店の黒服が寄ってくる。予約している旨を伝える。


 簡単なことだ。これまで何度シミュレーションしただろうか。ぼくの計画は完璧だ。絶対に会える。会えるが、どんな顔をしたらいいのかわからない。何を話せばいいのかわからない。わからないまま三ヶ月が経った。気がついたら経っていた。恋川さんに会いたい気持ちでいっぱいになっているが、それでもまだ、決断をできなかった。残りの仕事は一件。しかし、約束の時間まで四時間もある。四時間。ちょうどいいスキマじゃないか。これは運命だ。


 ぼくは財布から恋川さんのカードを取り出して、電話をかけた。店の番号はぼくのスマホに登録してあった。いつやったか覚えていないが、きっと三ヶ月前にぼく自身がやっていたのだろう。発信のマークをタップすれば、電話はかかる。荷物はどうするか。それはあとで考えよう。ぼくはお店に電話をかけた。すぐに店員が出て店名を述べた。

「あの、このあと大丈夫か聞きたいんですが」

『ありがとうございます。ご指名はございますか』

「あ、えと、恋川さんで……」

『はい、ええと……、恋川は本日お休みをいただいておりますね』

「あ、え? マジですか」

『誠に申し訳ございません。他の子でしたらすぐにご案内できますが、いかがしましょう』

「あ、いえ。またにします。すみません」

『わかりました。出勤情報はホームページにもありますので、ぜひ御覧くださいませ』

「どうもすみません!」

 ぼくは電話を切った。そうだウェブサイトを見てなかった。なんという失態だ。

 あわててスマホでサイトをチェックする。いつも見ているのですぐに開いた。なぜ先に見なかったのか。恋川さんは、今日からカレンダーの端っこまでずっと休みになっていた。これでは会えない。


 背中の荷物が急に重くなった。一度下ろすともう上げられないかもしれない。

 とりあえず今日最後の客先へ向かおう。他に何もすることがない。

 恋川さんに会えないのだという事実がぼくを押しつぶそうとしていた。

 電話さえすればいつでも会えると思っていた。バカだった。愚かだった。

 ぼくは彼女のなんだと言うんだ。

 断られるのが怖くてLINEで話かけられなかったのは誰だ。

 ずっとLINEで何か話しかけられるのを待っていたのは誰だ。


 ぼくだ。


 ぼくは何だ。

 なんでもない。ただの客だ。

 彼女はなんだ。

 なんでもない。ただの客だ。カンダさんの客だ。

 ぼくは彼女にとって、何者でもないではないか。

 LINEなら会うのを断られるかもしれないが、客で行けば断れないと考えてはいなかったか。

 会う口実が見つからないから、客で行こうと思っていなかったか。

 ぼくは卑怯だ。

 恋川さんに会う資格などない。

 金さえあれば会えるだと?

 何を思い上がっていたのだ。

 ぼくは客になる資格さえなかったのだ。

 あの美しい瞳の前で、なにができると思っていたのか。

 何を話せばいいか思いつかない、だなんて、当たり前じゃないか。

 資格がないものに、そんなものあるわけがない。

 ぼくは彼女の前に現れるべきではない。

 現れるべきではない人間の前に、彼女が現れるはずもなかったのだ。


 カンダさんのオーダーを見るたびに、恋川さんの名前がないか探した。

 あの日何かを売買していたのだから、そのうち会うこともあると思っていた。

 シロクのスタッフとしてなら、会えると思っていた。

 ああ、思っていたさ!

 ぼくは最低だ。


 こんなぼくを見たら、恋川さんはなんと言うだろう。

 何も言葉をかけずに、蛇蝎を見るが如き顔で忌避するだろうか。

 こんなぼくが現れたら、恋川さんは触れてくれるだろうか。

 バイキンでも触るように逃げていくだろうか。

 もうムリだ。


 ぼくは亡霊のような顔で、ずるずると移動し、五件目の客先までたっぷり四時間かけて移動した。到着するころにはすっかりぼくの魂は腐敗して謎の粘着生物に成り果てていた。ぬるぬるした黒っぽい何かが、人間の皮をかぶり、服を来て、貸本を担いでいた。靴の裏には後悔がべっとりとまとわりつき、アスファルトに粘着していた。歩くたびに口からは瘴気が漏れ、大気を汚していた。流れ落ちる汗は酸化して腐敗して悪臭を放っている。ぼくは正真正銘の下衆に成り下がっていた。

 そうだ。恋川さんに会えないのは運命なのだ。

 

 今日最後の訪問先は、前にも来たところだ。埋蔵金ハンターではないと思われる顧客。純然たる黄表紙マニアにして、貸本が大好きな人物だ。最後がこのお客さんで、ぼくは少しだけ救われた。マンションにはエレベーターもある。部屋はいつもエアコンが最適化されていて、実に快適に仕事ができる。そういうお客様だ。


 普段なら。


 今日に限ってノマド・ボウト氏は機嫌がよくなかった。ぼくに対してではない。おそらくは出版社の人物と思われる先客に対してである。玄関に聞こえる声を漏れ聞く限りでは、なにやら印税か何かの金額で揉めているらしい。ノマド・ボウト氏の父上は数年前に亡くなった作家『野窓衛兵』だ。ぼくらの大好きな小説『地球戦記』の執筆者である。今は遺族のボウト氏が版権を持っていると思うが、ぼくは部外者なので細かいことはわからない。

 実はぼくがここに出入りしているのは単なる偶然ではない。カンダさんに、ぼくが『野窓衛兵』の大ファンだと話したら、横町のどこかの店の客にいたはずだと営業をしてくれて、結果としてボウト氏がぼくの担当先に加わったわけである。何ごとも言ってみるものである。ボウト氏は父上先生の後を継いで作家業に就きたいと考えていて、そのネタとして里見八犬伝を調べているということだった。それが書き上がるのをぼくは楽しみにしていたが、今もめているのはお父上の遺作の印税に関する問題らしかった。そういえば追悼全集がそろそろ出るんだったなと、イズミヤ書店でバイトしている頃に見かけたチラシを思い出していた。あれで事前に注文を取って、刷り部数を決めたのだろうか。その部数で折り合いがつかないということかもしれない。


 しばらくして、とりあえず持ち帰ると宣言して、担当者が逃げるように退散していった。そしてぼくが呼ばれた。

「ああ、お待たせしてすいません」

「いえ、全然。お気にならさらずに」

「聞こえてましたか?」

「あ、いえ、声ぐらいで内容は全然」

「そうですか」

 ボウト氏はキッチンの奥様を呼んで、ぼくにお茶を出すように言った。おかまいなくと言ったが、ボウト氏はいやいやと聞き流した。

「タツヤくんだから言っちゃうけどさ」

 ボウト氏は、打ち合わせテーブルの上で指を組んでぼくに言った。

「『地球戦記』の後半ってボク書いてるんだよね」

「は?」

 急に何をぶっちゃけましたか?


〈続く〉

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