3-7 残り香

 ソークン先生の屋敷に来るのは何度めだろうか。毎週は来ていないし、週に二度来ることもなかったから、おそらく七、八度めといったところか。その間、ソークン先生と会うことはなかった。いつも使用人の人に本を渡して、代わりに読み終えたものを受け取るだけだ。カンダさん曰く、本来は新作も買ってくれるような上客だということだが、今は展覧会の準備で忙しいのだろうのことだ。そうは言ってくれたが、実のところはぼくのようなお使いの若造には用はないということだろう。

 しかし、それは仕方がない。ぼくは黄表紙への造詣も浅いし、まだまともにくずし字も読めない。この三ヶ月でわりと読めるようになってきてはいたが、すらすら読めるというような次元ではない。じっと表紙を見て、しばらくしてからようやくタイトルがなんとなくわかる、という程度だ。とてもではないが日本画の頂点に君臨するような大画家と対等に話ができる身分ではない。それはわかっていた。


 この大きな門をみると、またあの日の気分が蘇る。視界の中で恋川さんが縮んで消えてしまったあの日のことだ。ぼくにとって彼女はあまりにも遠い存在だった。そしてその感覚はぼくを萎縮させ、彼女に会いに行こうという気を萎えさせた。どこにいるかはわかっているのだから、行こうと思えばいつでも行けたはずなのだ。そのぐらいの金だってあった。

 ある日、彼女のお店のウェブサイトを覗いてみたら、欠勤になっていた。もしその日出勤していたら、ぼくはお店に出向いてしまったかもしれない。欠勤でよかった。もし会いに行っていたら、なんと声をかければいいのかわからないからだ。久しぶり? とか、最近どうですか? 嫌なお客さんはいませんでしたか? 今日は何人目ですか? 自分が嫌になる。欠勤でよかったのだ。ぼくはきっと運がよかったのだ。今はまだ、恋川さんに会う資格を保っているから。二度と会えなくなるぐらいなら、会える可能性を持ち続けたほうがいいに決まっている。

 そう考えて、いつの間にか三ヶ月が経った。三ヶ月経ってしまったのだなと自覚した。ソークン先生の屋敷の門が大きすぎるからだ。


 呼び鈴を押すと、いつもメイドさんの声がした。メイドさんというか、お手伝いさんだ。

「こんにちは。貸本シロクです」

『あら、少々お待ち下さいましね』

 プツンとインターホンが切れて、少しの間を置いて通用口のロックが外れた。その小さな音が、ぼくにこの屋敷への入場許可が下りた合図だ。何度も来ていれば流石に慣れる。その先の玄関へ行き、本を受取、本を渡せば、ここから脱出できる。おそらく来週はもう来ないから、これが最後だ。ちっぽけな自分はもうここに置いて帰ろう。そう心に決めた。


 玄関の大きな引き戸を開けると、見覚えのある老人がいた。

「ん? 君は確か前に来たな」

 背丈より何倍も大きく見える、白髪の老人は半笑いでぼくをマジマジと見た。

「あ、はい。以前お目にかかりました」

「そうだな。カンダくんところの若いのだったな」

 あ、はい。と内容のない返事を返すのが精一杯だった。奥の方からお手伝いさんがパタパタと音を立ててやってきた。

「旦那様、探しておりましたのよ」

「ああ、すまんな。要件はこの坊主か?」

「左様でございます」

「じゃあもういい、わしが聞く。応接でな」

 お手伝いさんは、かしこまりましたとお辞儀をして去っていった。広い広い玄関にはぼくと、ぼくの苦手な老人が取り残された。ソークン先生はそんなぼくの緊張を見抜いたのか、ひとまず上がるようにと促した。ぼくは慌てて靴を脱ぎ、一段上がってから出船に揃えた。いや、出船に揃えるのはやらなくていいのだっただろうか。足は臭くないだろうか。スリッパは履いていいのだろうか。荷物はどこに下ろせばいいのか。上着は脱ぐんだったか。いや、そもそも玄関に入る前に脱ぐのか。門を入る前に何かし忘れたことはないか。そもそもこの先生にアポは取ってあっただろうか。


「君、名前は?」

「あ、え、はい、あ、はい。ええと、タツヤです。ミエダタツヤです」

「ミエダくんか。……スリッパを履くといいぞ」

「あ、すみませんすみません」

 ぼくは慌てて玄関に並べてあったスリッパを履いた。それを見てソークン先生はすたすたと奥へ歩き出した。ぼくもコソコソと後についていった。応接間に通されると、ソファーに座るように言われた。荷物を背負ったまま座ろうとしたところ、ついに先生が吹き出した。

「緊張しすぎじゃろう。楽にしたまえ」クククとまだ笑っている。

 ぼくは慌てて荷物をソファの脇に降ろして、それを片手で支えて座った。先生は少し待つように言うと応接室から去っていった。ぼくはようやく息を吐き、体の力を抜いた。周囲の様子も見えてきた。だだっ広い部屋の真ん中にソファーとテーブルがワンセットぽつんと置かれている。天板がガラスになったローテーブルの上には、何人でも連続で殺せそうなゴツい灰皿(何製かぜんぜんわからない)がレースの小さなテーブルクロスの上に置かれていた。タバコは持っているが、さすがにいまここで吸う気にはならない。窓からはあの芝生が見えた。今日は誰もいなかった。三ヶ月前は恋川さんがいたが、今はいなかった。


 壁をぐるっと見回すといくつかの額が飾られていた。少し遠いが浮世絵のように見える。ぼくにはどうも見覚えのあるもののように見えた。荷物をソファーに寄りかからせると、そろそろと額へ近寄った。間違いない。最初にカンダさんと客先を回ったときに見た、「新作」の艶本に描かれていたあの絵だ。そして、改めて見るとやはり恋川さんに似ていた。

 艶めかしい表情、しなやかな肢体。髑髏をあしらった黒い着物。少し胸元がはだけているのがなんともセクシーである。目線はカメラを向いていない。誰を見ているのか。描かれている部屋は、窓枠や梁が朱に塗られていて、まるで遊郭のようだ。手には煙管が描かれている。そして、かすかに煙が上がっているように見える。これは摺物のはずなのに、ここまで繊細に摺り上げられるなんてとてつもない技術だった。

「いい絵だろう? わしの最高傑作じゃよ」

「先生がお描きに?」

 そうだとも、とソークン先生が言った。つまりこの先生がこの作品の絵師だということだ。そしてこれが浮世絵である以上、彫師と摺師がいて、この状態に仕上がる。ぼくは屋敷の主が戻ったことも忘れて、絵の虜になっていた。

「欲しいかね?」

「欲しいです」

 ぼくは即答した。先生は笑いだした。

「売らんよ、これは。二百兆円でもな」

 二百兆円。禁書目録を手に入れて、太閤埋蔵金を見つけ出しても買えないのか。

「ここまでの摺り上がりは奇跡的じゃからな。何色摺りかわかるかね?」

「四十九色ですか?」

「あ? 知っとるのか。つまらんのう。しずくに聞いたか?」

 しずく。松葉しずく。恋川さんの本名だ。

「いえ、あれから会っていませんので」

「なんじゃ? 会いに行かんのか? カンダくんのところはそんなに安いか」

「いえ、そういう訳では……」

 怖気づいて会えないなんて口が裂けても言えない。金はある。たぶん丸一日貸し切りにできる程度にはある。彼女が出勤していれば。

 会いたい。そうだぼくは恋川さんに会いたいのだ。この絵にそっくりな恋川さんに今すぐ会いたいんだ。

「浮かばれんのう」

 まあいい、とソークン先生は貸してある本をぼくに差し出した。ぼくはそれを受取り、貸出予定の本を手渡した。

「カンダくんはいつ戻る?」

「あ、ぼくが来週までなので、その後はまたカンダさんが来ます」

「そうか。ご苦労だったな」

 先生はぼくにねぎらいの言葉をかけ、玄関まで送ってくれた。案外、いい先生なのかもしれない。屋敷はなにかのいい香りがした。ぼくは息を大きく吸い込んだ。それは恋川さんの香りだったかもしれない。

 ぼくは荷物が崩れない程度に深々と頭を下げ、ソークン先生の屋敷を後にした。


〈続く〉

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