第▲一章 階段の途中
貸本屋の朝は早い。
荷物があるので、通勤ラッシュの前に現地まで行きたいからだ。両国となると相当混むので七時までには移動を終えておきたいと思う。なので、俺はいつも朝が早いのだ。因果な商売だ。
今朝も仏壇を拝む。早朝なので
俺は今日の予定を手帳で確認し、配本を確かめた。客先は七件ほどあるが、まあ問題なかろう。時間が決まっているのは朝と夕の予定だけだ。あとは流れで回るだけだからな。
駅に着き、ホームまで上がったが客はまだまばらだ。ほんの一時間違うだけでずいぶんと変わるものだ。何せ俺はこの荷物を背負っているのだから、ラッシュは本当にまずい。普段なら十時に動き出せばいいのだが、あの店主がいつも八時半に指定するもんだから、まったく面倒だ。開店前に取引を済ませようってことなんだろうが、こっちはいい迷惑だ。ま、これが客商売の辛いとこだな。タクシーが使えれば楽なんだが、このままではタクシーに荷物が入らないのが問題なのだ。後部座席は当然ながら、トランクにも入らないし、助手席も無理だった。カバーを外してケースをバラせばどうにか収まるとは思うが、毎度それでは仕事にならん。やはり伝統のスタイル通り、足で稼がねばならんのだろう。このところピリピリと感じるので、腰痛がちょっと気になるが、無理をしなけりゃ大丈夫だろう。
目的地に着き車両を下りたが、やはり早く着きすぎてしまっていた。どんなに早くても8時より前には、相手は来ていない。ファーストフード系のカフェでコーヒーのセットを頼んで朝食にした。なんともヒマだ。
俺が昨夜確認の電話をしたとき、店主が出なかったのが気になっていた。今まではなかったことだ。でもまあ変更があるときに連絡がなかったことはないのだから、問題はないだろう。周囲の客が増えて来た。最近のスマートフォンはずいぶんと大きいものが増えた。鷲掴みでスマホを眼前に構えてなにやらチマチマと操作しているのは、なんだか俳句の会を見ているようで
カフェが混んで来たし、ヒマを持て余すのも限界なので、そろそろ待ち合わせ場所に向かうことにした。少々早いが、早い分には構うまい。路地を曲がってすぐ、俺は異変に気づいた。二階角の事務所に灯りが点いていなかったからだ。いつもなら店主はすでに来ている時間だ。嫌な予感はしたが、予感が的中したことはすぐにわかった。
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一身上の都合により、
イズミヤ書店は閉店いたします。
長年のご愛顧に感謝申し上げると
ともに、
以降の詮索は無用に願います。
店主敬白
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読んですぐにイラっとした。なんだこの不真面目な張り紙は。詮索するなとは何事だ。
すぐに社長に電話をしたが、出なかった。事務所にもかけてみたが、遠くで呼び出し音が聞こえるだけで、誰も出なかった。ずっと上の事務所窓を睨んでみたが、まったく人影はなかった。本当にここには誰もいないようだ。九時になればここの店員もやってくるだろうが、どうしたものか。本人がいないのであれば、まったく用は成さない。俺の取引相手は店主個人であるからだ。とりあえずさっさと次の客先まで行くことにしようと思ったが、このタイミングは重度のラッシュのまっただ中である。しばらく張り紙を睨んだまま考えていたが、どうも考えがまとまらない。ひとまず駅まで戻ることにしよう。話はそれからだ。
駅に戻ったが、コンコースが通勤客で少々ごったがえし始めていたので、なるべく人目につかないよう端っこに寄って、荷物を降ろした。この重力からの開放感がたまらない。貸本屋の醍醐味であるが、これについては仲間はちっとも共感してくれない。誰かわかってくれないもんだろうか。
まずは、再び店主のケータイにかけてみた。今度は電源が切られているか、圏外であるメッセージが流れた。居留守をやめて電源を落としたか。姑息なヤツだ。いずれにしてもあいつに貸している艶本は少々値が張るのだ。そう簡単に見逃すわけにはいかん。貸本屋をナメると大ヤケドするということは、骨の髄まで思い知ってもらう必要がある。
次は組合長に連絡だ。横の情報網で消息を探ってみることにした。今のところ店主に関する情報は上がっていないようだ。結局俺のこの連絡が第一報になった。スエヒロも確か店主と取引があったので、連絡をしてみた。聞けば昨日は取引ができたらしい。スエヒロも高い艶本を出しているそうなので、驚いていた。今日は仕事が少ないので、少し動いてくれるようだ。持つべきものは仲間である。他に店主に本を貸している仲間がいないか聞いてみたが、スエヒロは知らないと言った。
店主に出している本は、次の予約も入っている。貸本屋の威信にかけても決して見逃すわけにはいかない。荷物を片掛けにして、ちょっと移動した。本屋の店先が見えるところまでいってのぞき込んでみると、若いのが二人ほどボーッと突っ立っていた。店員はネクタイ着用のはずだから、おそらく奴らはアルバイトだろう。ケータイだかスマホだかを激しくいじってるから社員か誰かに相談しているのだろう。一人先に帰りはじめた。なにやらニヤニヤしながらメールを打ってこちらに向かってくる。急に休みになったのでデートの約束でもとりつけているといった感じだ。若いってのはうらやましいねえ。
さて、俺もいつまでもこうしてはいられない。電車もそろそろ空いてくるころだから、市ヶ谷に向かうことにしよう。片掛けにしていた荷物をぐっと両肩に背負い上げた。店主が失踪してイライラしていたのが災いしたのか、勢いをつけすぎて少々腰をひねってしまった。うーむ。これは少々どころではないかもしれないが、まずはホームまで上がってしまおう。ひと休みしたら痛みも収まるだろう。なるべく腰に負担をかけないように改札をそおっと通り抜け、階段を何段か上りはじめて、ようやく俺は自分の置かれている状況を自覚した。
「まずいなこれは」
つぶやいて、数段上がったところでついに腰の状況は一線を越えてしまった。俺の骨格の中枢部を襲った激痛に太ももと膝と足首の力が完全に抜け、階段のコンクリートに両手をついてしまった。かろうじて後ろに倒れることはなかったが、貸本の全重量がのしかかり、もう微動だにできなくなってしまった。背中の緑の塊が、完全に俺の動きを封印してしまったのだ。体勢が悪く、息がほとんどできないのもまずい。叫び声を上げて駅員を呼ぶこともできない。誰かが気づいてくれるのを待つしかなかった。それまで無事に生きていられればの話だが。
どれほどの時間が経っただろうか。永遠だったかもしれないし、ほんの数秒だったかもしれない。背後から階段を駆け上がる靴音がして、真横で止まった。俺は反射的にそちらを向いた。知ってる顔だ。というより、さっき見た顔だ。こいつはイズミヤの前にいたヤツだ。俺はすがるような気持ちでこの若者に向けて声を絞り出した。肺に残った最後の空気だった。
「すまないが、ちょっと手を貸してくれないか」
※巻ノ壱 キルアクロウ へ続く
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