インターミッション:ディフラワー
吉原の朝は早い。
菊園は眠れないまま、朝を迎えようとしていた。この美しい娘は吉原の女郎屋、松葉屋の新造である。昨日が水揚げの日取りであったので、本当であればこの時点で菊園は
このまま日が昇り、女将が上がってくると、水揚げの儀はおしまい、晴れて散茶女郎として客を取る身となる。はずだった。昨夜は、少し早めの時間であったとはいえ、覚悟を決め初体験の相手の御大尽様もいよいよだと目配せをくれ、さあ床入りというところで、その後のことは本当にもう思い出すのも苦痛である。ただ、それでも菊園は、この男を憎むことはできなかった。
なにしろ長年恋いこがれた男である。最初に出会ったのはまだ
「およしなさい」
と御曹司が不寝番を制止し、菊園はひっぱたかれずに済んだのである。
「こっちへおいで」
と、小声で近くへ呼び寄せられ、花魁が起きないかとおそるおそる近寄っていったところで、
「本が好きなのかい?」
とやさしく聞かれた。菊園は別段本が気になって見ていたわけではなかったのだが、御曹司はこの禿が本好きで、いつもこっちを見ているのだろうと勘違いしていた。菊園は本ではなくこの男が好きだったのだが、思わず首を縦にふってしまった。
「これをあげよう。私はもう読んでしまったから」
そっと渡されて、本を手に取るとぎゅっと抱きしめて、菊園は恥ずかしくなってその場を去ってしまった。背後で御曹司が小さくはははと笑うのが聞こえた。耳まで真っ赤になって恥ずかしかったのを今でも覚えている。
菊園は字が読めなかったが、その御曹司の本を読めるようになるために、花魁や先輩女郎に教えを乞い、今ではたいていの書物であればすらすらと読めるまでになった。御曹司に授かった本が『花月草紙』と題されていたのも、あとで知ったのであった。
花魁が身請けされ松葉屋を去ってからは、御曹司も足が遠のき、菊園は寂しさを抱えて暮らしていた。ある日女将に呼ばれていくと、
「菊、あんたもそろそろ新造だ。となると水揚げを考えねばならぬのだけどね」
と切り出された。廓に生きるものの
「あるお方からね、前からあんたが水揚げのときはぜひにとお声をいただいていてね。今夜久しぶりにおいでになるので、面通しをするからきっちり仕上げときな」
菊園は短く返事をして下がったが、あまりに急な話で気分はすっかり沈み込んでしまった。
しかしその夜、愛しの御曹司と再会してからは、菊園はずっと有頂天になったままだった。それは昨夜のこの別館での水揚げの晩まで続いたのだったが、今となってはすべて過去の話である。
恋いこがれ夢にまで見たその相手が、今、自分と床を共にしている。しかし、ついに菊園の乙女をこの男が奪うことはなかった。捧げられなかった貞操は、きっと次の誰かに持ち去られるのだろう。菊園は悔しかった。御曹司のひいきになれば、末は花魁も夢じゃないと女将は言っていた。いまさら御曹司と何もなかったなどと、女将に言えようはずもない。御曹司に恥をかかせるわけにはいかないのだ。しかし、きっと御曹司はもう松葉屋には来ない。菊園にはわかる。吉原にも、もう来ることはないだろう。菊園の身体は彼には捧げられなかった。しかし、心は捧げよう。菊園はそう決めた。
外で烏が下品な叫び声を上げだした。昨夜のあいつらのようにだ。死ねばいいのに。御曹司との最後の静寂を奪われて、菊園は呪いを込めて無情にも光を増していく朝日を睨め付けた。愛する男の頭蓋をやさしく抱きしめながら。
憎い。烏が憎い。隣客が憎い。何もかもが憎かった。そして、この男だけが愛おしかった。
菊園がいくら祈っても、朝寝はそう長くは続かなかった。いつしか、むくりと目を覚ました男は、もう菊園を見ることもなく、ただ黙ったまま松葉屋を後にした。そして、二度と吉原大門をくぐることはなかったのだった。
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