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それは、イツキにとってまさに夢みたいな日々だった。
身体を清め、髪を梳かし付けた少女は驚くほどの変貌を遂げた。
やや小さな目に、少し低めの鼻は地味で、相変わらずとうてい美人とは言い難い顔立ちだが、それでもなかなかどうして、全体的なバランスはさほど悪くない。藁みたいだった黒髪も、くしけずるうちにどうにか艶としなやかさを取り戻した。まだイツキたちの両親が共に健在で、もっと裕福だった頃に屋敷に置いていた家政婦ロボットの服は、多少丈は余るものの、少女の華奢な身体によく似合ってる。
だが、顔立ちより何より、その雰囲気――そして、くるくる変わる、素直で豊かな表情は、なにより少女を魅力的に見せた。(もしかしたらイツキには、案外女の子を見る目があるのかも知れないな!)
イツキは少女に名前を付けてやった。イツキが出した候補はいくつもあったが、最後には少女自身が一番気に入った「ミズキ」に落ち着いた。響きが何となく「イツキ」に似ているからだと言って、ミズキははにかむ様に笑った。「イツキとお揃いだね」と。
まったく、ミズキときたら、いつだって微笑みを絶やさなかった。好奇心旺盛で、いままで見たことがないものに出会うたび、黒い瞳をきらきらと輝かせる。
二人でたっぷり一週間もの時間を掛けて、家中の片付けをした時もそうだった。硬貨の束や、切れた鎖、時計の歯車、色とりどりのガラス瓶に、錆びついた古い拳銃。古い倉庫の屋根裏から変わった物が発見されるたび、ミズキは目を丸くして、感嘆の声を上げたもんだ。
イツキとミズキは、いつだって一緒だった。
だが、そこに恋人同士といった雰囲気はない。確かにイツキは高校生だし、ミズキだって同じくらいの年格好をしてる。だが、二人は同じくらい無邪気で、同じくらいの純粋さを持ってた。
まるで幼い子どもみたいに、同じようにはしゃぎ、同じように笑い合う、そんな二人。
まったく、二人ときたら、まるであつらえたかのようにお似合い。これ以上気が合う相手なんて、たとえ人間同士だってそうは見つけられやしないだろうさ。
イツキにとって、本当に、夢みたいな日々が続いた。
それはおそらく、それはミズキにとっても同じだったに違いない。主人を失い、宛てもなく街を彷徨ったことなど、既に遠い幻のように感じられるくらいに。だが。
──残念ながら、全てが全て上手く行ったわけじゃない。(世の中ってのは、えてしてそういうもんだろ?)
そうさ。面白くないのは、イツキの兄、コウヤだ。
多少、偏屈だが、イツキと違って頭脳にも容姿にも恵まれたコウヤ。大学を優秀な成績で卒業し、今は翻訳の仕事をしながら二人分の生計を立ててるこの兄は、ながいことイツキの憧れだった。ただでさえ、血を分けた唯一の家族。イツキはそりゃあもう、この兄に懐いてたものさ。まるで、自分の自信の無さを埋め合わせるかのようにな。
けれども、ミズキが来てからというものの、イツキはコウヤと話さなくなった。それどころか、顔すらあわせなくなった。
まあ、当然と言えば当然。ロボットを演じるイツキにとって、コウヤは兄ではなく、敬愛すべき主人。ロボットにとっての主人といえば、そりゃもう、まるで神のように尊い、崇拝すべき対象なんだ。そんな主人に気易く話しかけるロボットなんて、この世にいやしない。
そして、この点に関して、イツキはまったくよく、ロボットを演じてみせた。
そんなコウヤとは対照的に、ミズキはイツキと、どんどん深い親好を交わすようになってく。
ミズキの前で、イツキは、兄である自分だって見たことのない様な、楽しげな表情を見せるんだ。
コウヤにしてみれば、たった一人しかいない肉親を奪われた様なもの。それも、たかがロボット風情に。当然、愉快だろう筈がない!
──でも、その一方で。
コウヤが腹立たしく思っていたのは、どうもそれだけじゃない節があった。
たとえば、コウヤが廊下を歩いていると、どこからともなく、楽しげな声が聞こえてくる。
明るい声音と、弾むような会話。鈴を鳴らすような少女の笑い声。
思わず、コウヤは二人が居る部屋をそっと覗き込んでみる。
二人は最初、コウヤに気付かない。気付かないまま気易く語り合い、笑い合う。だが。
やがてミズキがコウヤに気付いた、その途端。
ミズキの面からは、その天使のような笑みは拭ったように消えてしまう。
代わりに少女の顔に浮かぶのは、果てしない敬意と畏怖の影。
神妙な面持ちで、少女はコウヤに向かって頭を下げ、平坦な声音で問いかけるんだ。
「──なにか御用でしょうか、ご主人様」
どうしてそれを苦々しく感じるのか、コウヤは多分、自分でも分かっちゃいない。
ただ確実なのは、楽しげな二人を見るたび、どこか自分が覚える疎外感だけだった。
それは、ある日の朝だった。
コウヤが書斎の机に向かっていると、どこからともなく歌声が聞こえて来る。
それは、ひどく懐かしい歌だった。昔、まだ幼かったイツキとコウヤを残して亡くなったやさしい母親が、よく口ずさんでいた歌。
思わずコウヤは腰を上げ、窓際へと向かった。
声の出所はすぐに分かった。書斎の窓から中庭を見渡すと、ミズキが箒を手に落ち葉を集めている。珍しく、傍らにイツキの姿は見えない。どうせ、いつものように寝坊でもしているんだろう。
庭を掃除しながら、少女は歌っていた。
本当に、幸せそうに。楽しくてたまらないといった風に、その面をほころばせ。かいがいしく箒を動かしながら、少女はその唇から流れるように歌を紡いでいく。
喜びに満ちあふれた少女の声と姿は、コウヤの心を和ませた。
まるで魅了でもされちまったかのように、コウヤは少女から目を離す事が出来なくなる。
だが、やがてミズキは顔を上げ、自分を眺めるコウヤの存在に気付いて。
その途端、まるでスイッチでも切り替えたように。
ミズキはいつものように微笑みの消えた面を伏せると、コウヤに向けて深く頭を下げた。
「見苦しい物をお見せしてしまって、誠に申し訳御座いません。ご主人様」
そんなミズキの言動に、コウヤは知らず知らず、眉をしかめていた。
胸に浮かび上がるいがいがとした不快感。まったく、不可解な感情。
「その歌、イツキに教えて貰ったのか?」
「そうです、ご主人様」
淡々とした声音で応えるミズキ。
しばしの沈黙ののち、ややあって、コウヤはミズキに命じた。
「もう一度、歌ってみせろ。さっきと同じように、だ」
「はい、ご主人様」
深々と頭を下げると、面にぎこちない微笑みを浮かべ、ミズキはその薄い唇を開く。
だが、今度のそれは、先だってとはまるきり違っていた。急に正確さを増した音程もさることながら、作り物めいた不自然な微笑みには、先のような魅力は微塵もない。
数小節も聞かず「もういい」とだけ口にすると、コウヤは硬い表情のままできびすを返した。
――やれやれ。どうやら、コウヤもついに気付いちまったらしい。
ミズキを見かけるたびに感じる、良く分からない苛立ちの原因。その理由に、な。
「──何の御用でしょうか、ご主人様」
音も立てないほどにゆっくりと、丁寧に扉を閉めて。突然部屋に呼びつけられたミズキは、いつものように慇懃に頭を垂れる。
「ああ」
コウヤは鷹揚に頷くと、つとめて冷静な口調でミズキを招いた。
「来い」
言われたとおり、ミズキはコウヤの側へと歩み寄る。
唐突に、コウヤの腕が、少女の肩へと伸びた。
次の瞬間には、ミズキの華奢な身体は乱暴に、寝台の上へと押し倒されてる。
だが。
コウヤに身体を押さえつけられても、ミズキは、顔色一つ変えやしなかった。
「……抵抗、しないのか?」
コウヤの問いに、ミズキは小さく首を振った。
「わたしたちは、そういう風に作られていません、ご主人様」
「命令しても、か?」
「それがお望みでしたら」
その声音に浮かぶ色は、ミズキがいつもコウヤに向ける、あの瞳に浮かぶものとまったく同じで。
コウヤは苦々しげに舌打ちした。だが、今さら遅い。
コウヤの苛立ちの原因は、気づいちまえばひどく単純なものだった。
平たくいえば、それは嫉妬心。ただしその相手は、コウヤ自身が思っていたものとは違ってた。
そうとも。コウヤが嫉妬してたのはミズキじゃない、イツキの方だったんだ。
同じ兄弟なのに、ミズキが心を開いてるのはイツキの方だけだった。ミズキはイツキの前でだけ本当に笑い、本当の心を口にする。
自分が決して手に入れる事が出来ないものを、弟は持ってた。この少女ロボットの、素直な笑顔を。豊かな愛情を。
それがひどく羨ましいってことに、コウヤは気付いちまったんだ。
出来の悪い弟をどこか見下していた兄としての自尊心。その暴走。
だから、彼はイツキから、それを奪おうとした。
薄明かりの元に、少女の肌が露わになる。本当に、哀れみを覚えるくらいに華奢な身体。そして。
その瞬間、コウヤははっと息を呑んだ。
数多の傷跡と、大小様々のアザ。だが、それだけじゃない。
はだけた服の、その、さらに下。
少女の腹のあたりに、コウヤは、ある徴候を認めちまったんだ。
「……ロボットの子か」
すっかり血の気の引いた顔で訊ねると、ミズキはあっさり首を振った。
「いいえ」
「だが、ロボットは、人間の子は孕めないと……」
「わたしはロボットの腹から生まれたジャンク品ですから」ミズキは淡々と応える。
「おそらくは不具合のひとつでしょう。可能性としては、事故から半年以上、彷徨っていた間に――」
「……イツキは知っているのか?」
「傷については知っています、ご主人様」相変わらず畏まった表情のまま、まるで他人事みたいな口ぶりで。「ですが、妊娠のことは――」
「……もういい」
コウヤは腹立たしげに吐き捨てた。
身体を起こし、いたたまれないようにミズキから目を逸らす。
「部屋へ戻れ」
「分かりました」
ミズキは素直に頷くと、はだけた服の前を合わせながら起きあがった。そのまま、コウヤに向かって恭しく頭を下げる。
「お休みなさいませ、ご主人様」
だが、コウヤは応えない。
やがてミズキが部屋から出て行ったあと、彼は大きな手のひらを額に押し当てて苦々しげに毒づいた。
「くそっ……」
……なんとまあ、ご愁傷様。
世間知らずのイツキとは違って、コウヤは知っちまったんだ。それを見た瞬間に。この屋敷に来るまでのミズキが、いったいどんな目に遭ってきたのかってことを。それも、おそらくは一度や二度じゃない。
ロボットにだって痛覚はあるし、感情があるんだから当然、恐怖心だってあるだろう。
だが、どんなクズ人間に、どんな惨い仕打ちをされたって、その相手が人間である限り、彼女はそいつを、尊敬の眼差しで見やったはずだ。
そうとも。ちょうど、いつもミズキがコウヤを見やるような、あの表情で。
コウヤはもう一度「くそっ」と悪態をついた。
やり場のない怒りを込めて毒づき、静かに肩を落とす。
まったく、どこの誰かは知らないが、悪趣味にも程がある。ああ、そうとも。
――まったく、ロボットの一生なんて、ろくなモンじゃあない。
そんな事があってから、コウヤはもう、二人に必要以上に関わろうとはしなくなった。
イツキとミズキは、相変わらず幸せそうな日々を送ってる。屋敷にいる時、コウヤがふっと耳を澄ませば、どこにいたって必ず、二人の楽しげな笑い声が聞こえてきた。
そんな時、コウヤは黙って席を立つと、書斎へと閉じこもるんだ。
だが、まあ、結構じゃないか。
イツキもミズキも、いろいろあったが、今は本当に幸せなんだ。
それを壊す権利なんて、誰にもない。そうだろ?
それでも。
──終わりは、唐突にやってきたんだ。
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