彼がロボットになろうとした理由(わけ)
左京潤(かざみまか)
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『兄さん、僕は、今日から、電子レンジになるよ』
さあて。ある日、とつぜん、なんの前触れもなく。この世で唯一血を分けた兄弟からそんなことを言われたら、あんたは一体どうする?
もちろん、冗談を言うような口調でじゃあない。
さんざん殴られて倍にも膨れ上がった顔の中、ピンポン球みたいに腫れた瞼に半分ほど塞がれちゃあいるが、その瞳はまさに真剣そのもの。 思い詰めたようなまなざしがまっすぐこちらを見据えてくる。
……まあ、『電子レンジ』って部分は実際の発言と異なっちゃあいるが、「馬鹿馬鹿しい」という基準で考えればニアイコール、ほとんど同じ様なもんだ。そこが冷蔵庫でも洗濯機でも留守番機能付き全自動掃除雑用機でも大した違いは無い。
要は、そいつの突拍子もない決意表明が、こと意表をつくという点に関してそれだけのインパクトを持つものだったってことさ。
呆れたことに、その言葉の主ときたら、いたいけな幼稚園児や小学生なんかじゃあない。当年とって16才。青春まっただ中の男子高校生ときたもんだ。いくら過保護に育てられたとはいえ、16年もの人生経験を考慮すりゃ、いくらなんでも可能なことと無理なことの判断くらいは付いていないと困る年頃。
まあ、夢を見るのに年齢制限なんてないが、それにしたって、限度ってもんがある。
「イツキ……」
そんな突拍子もない弟の言葉に対して、兄の反応はいたって常識的なものだった。
つまりは思い切り眉をひそめ、その言葉を自分の中で反芻するようにたっぷりと間をおいて。
しばしの沈黙の後、兄は弟の真意を問いただすかのように尋ね返した。
「……お前、正気か?」
「うん」
だが、イツキと呼ばれたこの少年は、そんな兄の葛藤になんかまるきり気づいちゃいない。
えらく素直に頷いてみせると、強い意志を込めて先の言葉を繰り返した。
「兄さん、僕は、今日から、ロボットになるよ──」
* * *
──まあ、確かにイツキは頭が良い方じゃない。ついでに言えば運動も出来ないし、芸術的発想やら個性的発想なんてものさえカケラも持ち合わせちゃあいない。ほとんど全ての分野において水準よりやや下の位置を手堅くキープしてる、ひどく冴えなくて、気が弱い、おどおどした、つまらない少年だ。
……だが、弁護する訳じゃあないが、こいつだって別に並はずれた常識知らずってわけでもない。少なくとも自分の妄想に他人を巻き込んだりして周囲に迷惑を掛けるようなタイプじゃないことだけは確実。なんせこいつと来たら筋金入りの小心者。自己主張だなんてとんでもない。そもそも、これだけはっきりと自分の意思を口にしたことすら、いまだかつて無かったんだから。
まあ、その一発目がよりにもよってこれじゃ、兄の心痛察してあまりあるけれど。
──ロボットになりたい。
『家電製品になりたい』とほぼ同義な呆れるほど間抜けな台詞を、イツキ少年が呆れるほど真面目に宣言したその理由。
それを説明しようとするなら、二つの出来事に触れればいい。すなわち、間接的なきっかけと、直接的なきっかけだ。
前者を一言で説明するならば、彼の高校において日常的に行われていたとあるゲームだと言って間違いない。
ただし、残念ながらイツキはこのゲームのプレイヤーじゃない。イツキの役まわりはスコアを稼ぐためにいわれもなく殴られる雑魚キャラクターだ。
毎日のように繰り返される暴力と、それに準ずる行為のオンパレード。もちろん、気弱なイツキには彼らに立ち向かうなんて選択肢は無かった。
ただ耐えて、耐えて。耐えきれなくなって。ついに、イツキは学校から逃げ出したんだ。(まあ、妥当な判断だろうな!)
それが、ついほんの一週間前。
イツキにとって不運なことに、主犯格の少年の父親は表社会にも裏社会にもコネと権力を持つ肩書きの持ち主だった。まあ、つまりは完全にお手上げ状態。兄だってそれくらいは知っていたから、退学こそは許さなかったものの、イツキを無理に学校へと連れ出そうとはしなかったんだ。
ようやく、イツキに平穏な日々が訪れた。
身体中の腫れは引き、いたるところに浮き上がってた痣もだいぶ薄れて、長いことふさがらないままだった傷口にもようやく薄いかさぶたが張り始める。その頃には、ふさぎ込みがちだったイツキの顔にも、ようやく安堵の色が浮かび初めて。
そんな矢先の出来事だったんだ。
いわゆる直接的なきっかけ。それはとびきり不幸な事故だった。
確かに、イツキにも多少の気の弛みはあっただろうが、たとえ最大限の警戒心を抱いてたって、結果はそう劇的には変わらなかっただろうさ。
つい先ほど。今日の午後のまだ早い時間だ。
軽い対人恐怖症に陥ってたイツキは、それでも、治り始めた傷に気をよくしてか、久しぶりに外出したんだ。
とは言っても、別にそう遠出をしたわけじゃあない。ごく近所の小さな雑貨店に出向いてパンを一切れ。あとはあたたかい缶コーヒーを購入し、釣りを受け取って、その帰り道。
偶然、イツキはあいつらに出会っちまったんだ。
それはまさに一生の不覚。まったく、呆れるほど絶望的なタイミングだったぜ。
久方振りに雑魚キャラを発見したメインプレイヤーたちは、そりゃあもう楽しげにイツキに話しかけてきたさ。
本当に、不幸な事故だった。本当に、ご愁傷様とでもいうより他は無いね。
路地に連れ込まれたイツキがどんな目に遭ったかは、今さら説明する必要もないだろう?
意外なことなんざなんにもない。そこでは当然、起こるべくして起こることが起こった。
そう、いつものことが、いつものように。ただ、それだけのこと。
──……いや。まあ、そうでもないか。
そこは路地と言ったって、それなりに人通りの多い大通りに面してる。いつもゲームが行われてる人気のない放課後の教室とは、そもそも条件からしてまるきり違うってわけ。
誠に遺憾ながら、人間の薄情さってやつも、未来になったってそう変わりゃあしない。けれども、それにしたって白昼堂々、数人の高校生がたったひとりの少年を可愛がってる(!?)場面を見りゃあ、通りかかった目撃者のうち一人くらいは、警察に通報するやつがいたっておかしくない。そう思うだろ?
だが、実際には、彼らの行為を止めようとするものは誰もいなかった。それどころか、足を止めるものすら、ただのひとりだっていやしない。
とは言っても、通りを行き交う通行人たちだって、決して彼らの乱行に気付いてないわけじゃないんだ。その証拠に、ほうら。みな、一度はイツキたちにちらりと視線をくれていく。中には大げさに眉をしかめるものもいたが、その眼差しが意味するところは、決してイツキに対する同情じゃない。
そうだな。それはせいぜい、遊び半分でガードレールを蹴り飛ばす不良を目にしたときの、良識ある大人のそれ。
「……な、俺の言ったとおりだろ」
このゲームのメインプレイヤーこと、彼らのリーダー格。イツキの同級生、マサトが両手を腰に当てて得意げな顔をする。
「ホント、こいつはなかなかの掘り出し物だったぜ。まさか、こんなに早く使う機会が来るとは思ってなかったけどな」
「ははは、人間未満のこいつには、これがピッタリだもんな」
「おい、イツキ、その『首輪』、良く似合ってんぜ」
笑いながら、マサトは靴先でイツキの顔を上向かせた。
その頃にはもうイツキの意識は朦朧としてて、痛みなんて感覚すらすっかり遠のいてそうな状態。(グロッキー!)そんなんでも日の光が目に刺さって眩しかったものか、彼は緩慢に視線を逸らした。
そんなイツキの仕草を、イツキなりの抵抗だとでも受け取ったのかね。マサトは不快げに舌を打つと、イツキの髪の毛を思い切り踏みつけた。
これにはさすがに、イツキも顔を歪めて呻いたよ。
そんなイツキの首に鈍く光る銀の輪っか。
マサトたちによって無理矢理嵌められた、鈍色のくすんだ金属でできた冷たく硬い『首輪』。これこそが、通りを行く人々の無関心の元凶だ。
これをしているから、誰もイツキを助けない。
そういうルールなんだ。この社会ではね。
おや、そろそろ飽きが来たらしい。最後に一発、これまでで一番キツいやつをイツキの腹にくれてやって、げらげら笑いながら立ち去っていった。
路地に残されたのは薄いビニール袋から飛び出した潰れたパンと、ひしゃげた空き缶。あとは、動く気力も体力もすっかり失った、ゴミクズみたいな少年の身体だけ。
マサトたちがいなくなっても、相変わらず、誰もイツキを助けない。誰もイツキを気に留めない。
仕方ないさ、そういうルールなんだから。
イツキは本当にゴミクズにでもなった様に、空っぽな状態で、ただそのままその場に横たわってた。
そのうち、なにに焦点を合わせるでもなく、ただ開いているだけだったイツキの瞳から涙がこぼれはじめる。
でも、残念。
流れた涙がこめかみを伝って、やがてイツキの耳元に温い水たまりを作っても、それでもやっぱり誰ひとり、イツキに気を止めはしなかった。
──だから、それを見たとき、イツキはそれがなんだか分からなかったんじゃあないかと思うね。
まず一度。次にもう一度、ゆっくりと瞬きをして。
目の前に差し出されたそれを、イツキはしばらく、ぼんやりと見てた。
「……大丈夫?」
真っ黒に汚れた手のひら。
痛む身体に優しく降り注ぐ、染み入るように暖かな声。
ようやく、それに気づいて。
驚いたイツキが顔を動かすと、こりゃ、いったいどうしたことだろう。
そこには、ひとりの少女がいたんだ。
華奢な身体をかがめ、肉刺だらけの手を差し延べながら、彼女は心配そうにイツキの顔を覗き込んでた。
泥まみれの、けれども温かい指先が音もなく伸びて、イツキの腫れた目元をそうっと拭う。
「ずっと見てたの。痛かったよね……大丈夫?」
おそらくはイツキとそう変わらない年齢。くたびれた格好をしたその少女はひどく痩せていて、ごわごわした黒髪に縁取られた顔立ちはお世辞にも美しいと言える類のものじゃない。(絶世の美少女の登場じゃなくて残念! まあ、見られた顔じゃないのはお互い様だろう?)
突然の出来事にすっかり言葉を失って、イツキはただ呆然と少女を見やった。
イツキが途惑うのも無理は無かったんだ。だって、『首輪』をしてる奴を助ける人間なんて、いったいどこに居るってんだ? 現にイツキはいまのいままで、現在進行形で厭というほどその事実を突きつけられてたっていうんだから。
けれど、眼前の少女の存在は紛れもない現実だった。(いったいどこの幻が、手を差し出して、涙を拭ってくれるっていうんだ?)
「あっ」
イツキの戸惑いを、どう受け取ったものだろうか。少女はなにかに思い至ったみたいに声をあげると、イツキを安心させる様にやさしく微笑んだ。
そっとイツキの耳元に唇を寄せ、少女はそのまま、小声で囁いてくる。
「安心して……あのね、わたしも、ロボットだから」
イツキは思わず、腫れた瞼をこじ開ける様に押し上げて、まじまじと少女を見やった。
──ロボット。それくらい、あんただって知ってるよな?
そう、奴らのことだ。人間に奉仕するためだけに生み出された、例の存在。
ただし、現代のそれは、何世紀も昔に夢想されていたものより遙かに精巧精緻。発達した科学技術が生み出したロボットにとって、会話や歩行なんてものはもはや常識以前の当たり前。五感があるのはもちろんのこと、食事も摂れば眠りもする。時には複雑な内部機構のバランスを崩して病気になることだってあるくらいだ。なんせこの世には子を産むロボットさえ存在するってんだからぞっとする時代だぜ。
おまけに言うなら、この世界ではロボット自体が珍しいものじゃない。工場に、店の窓口に、街の中に、工場で大量生産されたロボットたちはいたるところに存在してる。いままで一度もロボットと接したことがないなんて人間、少なくともこの国にはひとりだっていやしないだろうさ。今日生まれたての赤ん坊だってロボットを目にしてるはずだ。なんせ、赤子に産湯を使わせるのもロボットの仕事だからな。
だから、痛みすら忘れたように、ただぽかんと少女を見てるイツキの驚きの理由は、少なくとも物珍しさじゃあなかった。
──……じゃあ、いったい、なんだって?
そんなもん決まってんだろ。表情だよ。表情。
こんなにも明るく、いきいきと、自然に。そして――まったく、なんてことだろう。
いたずらっぽく笑うロボットなんて、イツキは今まで知らなかった!
イツキが知るロボットは、いや、人間が知るロボットたちは、どれもこれも人間に対する敬意と畏怖に満ちあふれていて、よくいえば人間に盲目的なほどに忠実。悪くいえばひどく他人行儀。彼らがその面に浮かべるのはどこか硬い、作り物めいた笑顔。彼らが口にするのは畏まった言葉のみ。
当然だ。要らぬトラブルやごたごたを避けるため、ロボットは人前じゃ感情を出さないように作られてるんだから。
……はあ? ロボットに感情があるのかって? なに言ってんだよ、当然だろ。
確かにそんなものロボットには不要だが、こればっかりはどうにも仕方ない。人間の命令に対して自分で考えて行動するだけの知能を持たせりゃ、感情や自我が勝手について来ちまうんだから。
もちろん、様々な手段でもって最低限に抑えられてはいるものの、それにしたって限界がある。感情や自我を全て奪っちまえば、せっかくのロボットは自律性を失って使い物にならなくなっちまう。そんな不便なロボットなんざ、いったいどこに需要があるんだよ。それじゃあ本末転倒も良いとこだろ?
だからこその苦肉の策。
ロボットには感情があるが、少なくとも、人間の前じゃ、それを出さないように作られてる。
だから、まるで人間みたいに気易いこの少女がロボットだなんて、イツキにはにわかに信じられなかった。
これはきっとなにかの冗談だ。彼女はきっと、こんな惨めな自分をからかって、面白がっているんだ。
イツキはそんな顔をして、落胆したように腫れた目をすがめた。
……まあ、イツキがそう思うのも不思議じゃない。なぜなら、自らをロボットだと名乗ったその少女は、肝心なものを付けていなかったからさ。
──そう。お察しの通り、それは『首輪』だ。
マサトが古物商から入手してイツキの首に嵌めたのと同じ、鈍色をした無愛想な輪っか。
人間とロボットには外見上の差はほとんどない。臀部や足裏なんかに彫られた型番は明確な相違点だが、誠に残念なことに、そんな部分を堂々と露出して歩いてるロボットなんてもんは皆無に等しい。こうなると、人間とロボットを一目で見分ける手段ってのが必要になってくる。
それがこの『首輪』って訳だ。
さあ、これで、誰もイツキを助けなかった理由が分かったろ?
そう、街中で自分のロボットを殴ったところで、誰が気になど留めるもんか。だいいち、そんな行為、珍しくも何ともない。
全てのロボットは、一度嵌めたら容易には外すことができないこの、特殊な『首輪』を付けることが義務づけられてる。だから、『首輪』を持たない彼女がロボットであることなどあり得ない。
イツキはそう結論づけようとしたが、しかし残念。そうはいかない。
疑うように少女を見やったイツキはその瞬間、少女の細い首筋を覆うように取り巻いてる、よく見なけりゃあ分からないほど薄い、なにかの影を認めちまった。
「……内緒、だからね」
イツキの視線に気付いた少女は、照れたように口元を緩めてほんの少し襟元をくつろげた。
色気なんてカケラもない骨張った肌に浮かぶ痛々しい痣が露わになって、イツキは再び大きく瞳を見開いた。
「ついこの間、外れちゃったの。たぶん、前に事故に遭った時に壊れてたんだと思う。外れた首輪はどこかにいっちゃった」
──……だから、安心してね。わたし、本当に人間じゃないの。
そう言って微笑むと、少女はイツキの前にすとんと膝を落とした。
いったい何が起こってるのか、イツキはまだいまいち飲み込めていない様子。ただ細い目を精一杯に丸くして、馬鹿みたいにぽかんと口を開けてる。まあ、許してやってくれ。こいつ、もともと頭の回転は早い方じゃない。その上、マサトたちのキツい洗礼の直後と来れば、さらなる思考能力の低下もやむを得ないさ。(階段から転げ落ちてしたたか頭を打った後に三桁を超えるような暗算を強要されたら、あんただって困るだろ?)
「そうなんだ……」
ややあって、イツキはぽつりと漏らした。たっぷり数十秒の時間を要したものの、ようやく彼はすべてのつじつまを合わせることに成功したらしい。
ひとつ。自分に手を差し延べてくれたこの少女は、『首輪』をしていないが、ロボットであるということ。
ひとつ。ロボットである少女は、『首輪』をしていたイツキのことを、どうやら自分と同じロボットであると認識しているということ。
まあ、確かに。傷ついたロボットに手を差し延べてくるなんてのはよっぽどの変人か、気の触れた奴か、さもなくば同じロボットしかあり得ない。考えてみりゃあ当然のことだ。
改めて、イツキは少女を見やった。
少女は慈しみを込めたまなざしで、気遣うようにイツキの顔を覗き込んでる。
イツキだってロボットに感情があることくらいは知ってたが、他の大半の人間同様にそれを失念してた。無理もないさ。何度も言うが、本当に、ロボットときたら人間様にはけっして本性を見せたりしないんだから。
まあ、だが、この件に関してロボットを責めるのは筋違いってもんだ。なんせ、ロボットをそういう風に作り上げたのは他ならぬ人間なんだからな。
イツキは今の今まで、ロボットがこんなに優しく笑うだなんて知らなかった。
親しみのこもった少女の表情を見やるイツキの頬が、にわかに赤味を帯びていく。(おいおい、正気か?)
でも、まあ、仕方がない。イツキと来たら、今までロクに女の子と話したこともなかったんだから。もちろん、女の子に笑顔を向けられた経験なんて皆無。そんなこいつが、心身共に傷ついた状態でこんなやさしく微笑みかけられたら、そりゃあ、心を動かされない筈がないだろ?
たとえ、相手がひどく薄汚れてて、やせっぽちで、美人でもなくて。
さらにおまけに、人間ですらなくても、だ。
「立てる?」
慈愛に満ちた少女の表情に誘われるように、イツキはふらふらと身体を起こした。
途端に、遠のいていた激痛が再び、予想外の鮮烈さでもってイツキの身体を襲う。
「っ!!!!」
思わず息を詰まらせたイツキの肩を、少女は慌てて支えた。
「ごめん……無理はしなくて良いからね」
辛かったね、頑張ったね。気遣うような表情で少女はイツキに労いの言葉を掛ける。
やっぱり、本当の本当に、彼女はロボットだ。なんせこの少女と来たら、イツキの怪我を気遣いつつも、さっきからただの一言だってイツキに暴行を加えた人間たちを責めないんだから。
「慌てなくても良いよ。ね? 痛みが落ち着いたら、あなたのご主人様のところまで、わたしが送っていってあげるから」
「あのっ……」すっかり困り果てたような顔でイツキは口を開いた。ごめんね、君は勘違いしているようだけれど、実は僕はロボットじゃあないんだ。大方、そんなような事でも言おうとしたんだろう。
けれども、イツキはそのまま言葉を呑んだ。その表情がみるみる硬くなる。
イツキが一体なにを考えてるのか。まあ、だいたい想像がつくさ。きっと、自分が知ってる数々のロボットたちのことだ。
家政婦ロボット、秘書ロボット、学校の事務員ロボットに、売店の売り子ロボット、エトセトラ、エトセトラ。いつもにこにことして、人間の言うことなら何でも聞くくせに、どこか不自然さと冷たさを拭いきれないロボットたち。
もしもイツキが本当は人間なのだと知ったら、イツキの目の前で微笑むこの少女はいったいどうするだろうね?
おそらく、その豊かで魅力的な表情を瞬時に凍り付かせ、イツキの知る他のロボットたちと同じ様に感情を隠す筈だ。
それまでイツキに向けていた親しさなんざ、手のひらを返したようにあっさりと消え失せて、少女は他のロボットたちと同じように畏まるだろう。そして、地に擦り付けるようにしてイツキに頭を下げ、感情のない声で謝るんだ。
「お見苦しいところをお見せしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」とね。
まったく、笑えない展開だ。
イツキはぶるりと身を震わせると、小さく頭を振った。
「……ごめん。ありがとう」
呟きながら、イツキは痛みをこらえつつ、初めて少女に向かって、はにかむような微笑みを返す。
「ええと、その……」照れたように視線を彷徨わせて、イツキは精一杯の勇気を振り絞ったように少女に尋ねた。
「……君の、名前は?」
結局、イツキは少女に、本当のことを打ち明けなかった。
そりゃあそうさ。イツキは既に、この少女に単なる好意以上の感情を抱いてる。ほぼ確実に少女の態度が豹変するだろうことを考えりゃ、「本当は人間だ」なんて今さら言える筈もない。(ただでさえイツキはひどく臆病なやつなんだ)
名前を訊ねたイツキに、少女は、工業用ロボットだった自分には名前なんてないし、そもそもジャンクだから型番すらないと答えた。さらに、どこかへ運ばれていく途中で事故に遭って迷子になったため、いま現在は主人を持たないいわゆる野良ロボットとして彷徨っているということも教えてくれた。
どうだい? 話がようやく、繋がりかけて来ただろ。ああ、そうとも。
イツキは、行く宛のないロボットの少女に提案したんだ。
「良かったら家に来て、僕のご主人様に一緒に仕えないか?」ってね。
この頃にはもう、イツキの中で、決心は固まってたんだろうな。そう、あの突拍子もない決心の、さ。
なんせ、ロボットは絶対に人間に心を開いたりはしないんだから。彼女とこのまま気易く言葉を交わすための手段と来たら、ただひとつしかないだろ?
丸い瞳をきらきらさせながら、少女は嬉しそうに頷いた。
こうしてイツキは、少女に支えられながら、半日ぶりの我が家のドアを叩いたんだ。
さあ、お待ち遠さま! 随分と掛かったが、話はようやく冒頭まで戻ってきたぜ?
長い廊下の片隅に佇むのは、イツキと、彼の保護者である兄、コウヤの二人。
「僕は、ロボットになりたい」
名前すら持たないロボットの少女を外へ待たせたまま、熱に浮かされたような口調で、イツキは飽きずに同じ言葉を繰り返す。
「ねえ、兄さん。お願いだ。彼女をうちに置いてやって欲しいんだ。そして、僕は――」
「馬鹿なことを言うんじゃない!」
激しい声音で怒鳴りつけられ、イツキもさすがに身を言葉を呑んだ。
「くだらないことをいうのも大概にしろ。ロボットになりたい? どうやって? そんなことをしていったい何になる。本当に、大した笑いものだよ、お前は」
いやはや、ごもっとも。
兄、コウヤの言い分は至極まっとうだ。イツキの望みはあまりにも馬鹿馬鹿しくて、そもそもお話になりゃしない。ヒーローに憧れる子どもの方がまだ遙かに現実ってものを分かってる。
だが。
「――くだらなくなんて、ない」
いったいどうしたことだろう。あの気弱なイツキが、今日は何故か引き下がらない。
兄の怒声に怯みはしたものの、すぐに奥歯を噛み締めると、彼はむしろより強固な決意を込めた眼差しを兄へと向けてくる。
「僕はロボットになる。ロボットになりきってみせる。だから、僕をロボットとして扱って欲しいんだ」
まるで、何かに憑かれたかのような表情で、イツキはさらに言い募った。
「お願いだ。僕は――僕は、彼女と対等の存在になりたいんだ」
……まったく。思春期の男子高校生ってやつは、手に負えない。
ましてや、恋にすっかり心を奪われてれば、完全なる無敵状態。怖いものなんてなにもないし、どんな馬鹿なことだって出来る。
本当に、まったく、手に負えやしない。
やがて、兄は小さくため息をついた。
諦めたように静かに頭を振ると、彼は鋭い眼差しでイツキを睨み付ける。
「――後悔は、しないな?」
「もちろん」、と、頷くイツキ。
兄はすっと目をすがめ、そのままくるりと踵を返した。
「――なら、勝手にすればいい。俺は知らん。お前なんざ、もう俺の弟じゃない」
「兄さん……」
「ご主人様、だろ?」
「……!!」
ほうら、見ろよ。不安げだったイツキの顔が、見る間に笑みで埋め尽くされてくところを!
まったく、満身創痍だってのに、本当にお目出たい奴だ。
文字通り飛び上がりそうな勢いで、イツキは玄関へ向かって駆けていった。
もちろん、あのロボットの少女を出迎えるために、だ。
──さあ、今ここに、晴れて、イツキの新しい生活が始まった!
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