第12話

 創一と繭羽の姿は、水奈わかば商店街の中にあった。


 この商店街は過去に水奈中央大通り商店街という名前だったが、郊外に大型ショッピングモールが次々と建てられることによって客足が遠のき、商店街の活気が失われつつあった。そこで、商会の者たちが互いに協力することで商店街の新たな魅力を作り出し、若葉のような活力を取り戻そうという志のもと、現在の名前に変えられたらしい。


 その復興の心意気は商店街の至るところで見受けられる。たとえば、商店街のブランド商品の開発、マスコットキャラの作成、店舗協力による新商品の積極的な試作、学校帰りの学生向けの食べ歩き商品数の増加、独身向けの惣菜セットの販売など様々だ。こうした努力により、最盛期に比べれば劣るけれど、商店街は少しずつ活力を取り戻し始めている。特に夕方になると、家に帰る前に空いた小腹を満たそうと、多くの学生が商店街の通りを往来するようになる。


「わあ……学生がたくさんいるのね」


 繭羽は通りを歩く学生の多さに感嘆の声を漏らした。


「そうだね。ここの商店街はいくつかの学校の中心にあるから、帰りがけに色んな学生が寄っていくんだ。僕も心陽や賢治なんかと学校帰りによく寄るんだ。……ちなみに、繭羽は甘いものだと、餡子(あんこ)とカスタード、どちらが好き?」


「甘いもの? そうね……どちらかと言えば、餡子かしら」


「餡子ね。分かった」


 創一は目に留まったタイヤキ屋に向かった。中年男性の店員に、少し離れた所にいる繭羽が自分の連れであること伝えて、餡子入りのタイ焼きを二人分注文した。創一が代金を払うと、店員は既に焼き上がっているものを二枚の小さな紙袋にそれぞれ入れて、手渡してくる。


「……おまたせ。ここのタイヤキ、学生の間では、餡がたくさん入っていることで有名なんだ。おじさんが気前のいい人らしくてね」


 創一は繭羽にタイヤキを一つ差し出した。繭羽が面を食らった顔で受け取る。


「あ、ありがとう……。えっと、これ、一つおいくらなの?」


「一個八十円。安さもここのタイヤキの売りなんだよ。ちなみに、それは僕の奢りだから、別にお金を払おうなんて思わなくていいよ」


「え、でも、そんなの……」


「繭羽は知っているかな? 今朝調べてみたんだけどさ、ボディーガードを雇うと、危険性の高さにもよるけれど、命を狙われるような場合は、時給一万弱も払うそうだよ。それを思えば、タイヤキ一個を奢るなんて凄く安いものだと思わない?」


「で、でも、それは私が勝手に行っていることで、気にしないで欲しいわ。私は金銭の請求なんて厚かましいことをするつもりは……」


「繭羽の意思がどうこう……というよりは、これは単に僕の納得の問題なんだ。繭羽がそう言うなら、こう言い返すよ。これは僕の勝手な好意だから、気にしないで欲しい……てね。僕は繭羽の好意を受け取っているのだから、繭羽も僕の好意を受け取ってくれると嬉しいんだけどな」


 食べてみなよ、美味しいから。


 そう言って、創一は自分のタイ焼きを食べて見せた。


 繭羽は自分が持っているタイヤキに目を落とすと、一口だけ齧った。


「……甘い。それに生地がもちもちしていて凄く美味しい」


 創一は繭羽の感想に笑みを返すと、再び通りを歩き始めた。


「ここの商店街はさ、学生を呼び込むことも狙いにしているんだ。だから、学校帰りの学生が喜んで立ち寄るような、食べ歩き出来るものが豊富に売っている。タイヤキに限らず、コロッケとか唐揚げ串も売ってくれるし、おにぎりも店頭販売している。女の子が好きそうな一口大の和菓子や洋菓子も売っているし、部活帰りの運動部を狙った丼ものまで持ち帰りで売っているくらいだ。勿論、食べ物屋だけじゃなくて、スポーツ用品店や服飾関係の小物を売っているお店もある。ここの商店街を一往復するだけで、充分に楽しめると思うよ」


「でも、創一。別に私たちは商店街を楽しむ為にここに来た訳では……」


「じゃあ、予定変更。僕は少し商店街を楽しみたいから、繭羽も付き合ってよ」


 繭羽は眉を顰(しか)めて難しい顔をしている。やはり、遊びよりも幻魔に関する手掛かりを掴むことの方が重要に感じているらしい。


 その様子を見て、創一は小さな溜息をつく。


「……あのさ、繭羽。僕がこの商店街に君を連れて来たいと思った理由は、繭羽が……気を張り詰め過ぎていると感じたからなんだ。僕を狙っている幻魔から守ることに、という意味ではなくて、繭羽の生き方の態度……かな」


「私の……生き方?」


「そう、生き方の態度。生き様だ。……まあ、繭羽と出逢って本当に日が浅くてさ、君がどんな想いを胸に抱いて幻魔を追い続ける放浪の旅をしているかなんて、僕は全く知らない。勿論、こんな僕に自分のことを利いた風に言われることは癪に障るかもしれないことは承知している。……でも、言っておいた方が良いと感じたんだ」


 創一は自分の過去の経験を交えて語る。


「今みたいな……孤独に旅をして、自分の安心出来る居場所も持たず、ひたすら激情のままに幻魔を倒すことを続けていたら……きっとさ、繭羽の心は、どこかで疲れ果ててしまうんじゃないかって。しかも、その時に君のことを支えてくれるような、心を許せる友人は……いないんじゃないかって」


 繭羽は驚きに少し目を瞠ると、顔を伏せて、意気消沈したように黙り込んだ。恐らく、繭羽の心の中に、そう言った経験の心当たりがあるのかもしれない。


「だから、さ」


 創一はこちらに意識を向けさせる為に、繭羽の肩を軽く叩く。


「今、この商店街を巡る時間だけは……幻魔のことや何かのしがらみは全部忘れて、純粋に学生としての一時を楽しもうって言いたいんだ。学生らしく遊んで、はしゃいで、笑おうってね。タイヤキの買い食いは、まあ、なんと言うか……その一環って訳である!」


 創一は今までの真剣な話から切り替える意味と照れ隠しで、最後の言葉だけは、おどけた口調で言った。


 繭羽は少し呆けたような表情を浮かべると、逡巡するように双眸を閉じる。そして、くすくすと笑い出した。


「そうね。創一の言う通りかもしれないわ。たまには……うん、そういうのも悪くない。仮初めとはいえ、せっかくの学生の身分なんだもの。学生は学生らしく、笑って騒いで、誰かと共に過ごす一時を楽しんだって……罰は当たらないわよね」


 繭羽は手を組んだ両腕を思いっきり上に伸ばすと、暗い気持ちを吐き出すように大息をついた。


「……ありがとう、創一。なんだか、私……少し肩の荷が下りたような気がする」


「そっか。じゃあ、次は心陽お気に入りのお店に行ってみようか。クレープ屋なんだけどさ、心陽のやつ、ここに来るといつも――」


 創一がクレープ屋に足を向けようとした直後――何かがずれるような奇妙な感覚が全身を襲った。


 それは、あるべき物が消えてしまったような、強烈な違和感の塊だ。違和の圧力を感じる方向までは定かではないけれど、この商店街の近くで、何かの存在が大きく欠落してしまったような、気味の悪い喪失感を覚える。


「……まさか! 繭羽!」


 創一が自身の感じた強烈な違和を伝えようと振り返ると、眼前に繭羽の姿は既に無く、商店街の出入り口に向かって疾走する彼女の姿があった。どうやら、繭羽も何かの存在が欠落する奇妙な違和に気付いたらしい。


 創一は繭羽を追って通りを駆け抜けた。周囲では、変わらず学生たちが思い思いの時間を過ごしている。どうやら、彼らは違和の圧力を感じていないらしい。


 創一は繭羽の背を追いながら、彼女が向かう商店街の門の景色がセピア色に染まっていることに気付いた。その光景は、ベルに誘拐されそうになった時に見た、セーヌ結界内の景色と酷似している。


 繭羽はセーヌ結界の手前で足を止めた。数秒して、創一が追いつく。


「繭羽、もしかして、これ……セーヌ結界ってやつか?」


「ええ、その通りよ。……創一、結界を視認出来るの?」


「この褐色っぽい壁みたいな奴だろう? 向こう側の景色は、ぼんやりとしていて良く見えないな」


「そう言えば、創一はセーヌ結界の中でも動くことが出来ていたわね。……恐らく、魔術に慣れた者のように、認識の除外効果が鈍くなっているのでしょうね」


「なんだかよく分からないけど、この結界が張られたってことは……中に幻魔がいるってことだろう? リリア……いや、ベルか?」


「それは有り得るわ。でも、もしかしたら、あいつらとは関係ない幻魔が人を襲っている可能性だって無い訳ではない。とにかく、私は結界内に突入するわ」


「分かった。僕も行く」


「いえ、危険だから、創一はここに残った方がいいわ。戦闘に巻き込まれる」


「いや、一緒に行った方がいい。もし、このセーヌ結界が、僕と繭羽を分断する為の策略なのだとしたら、リリアの思う壺だ。それなら、危険でも繭羽と行動を共にした方がいいと思う」


「……確かに、創一の言う通りだわ。分かった、一緒に行きましょう。可能な限り身の安全は守るけれど……創一も十分に周りを警戒していて頂戴」


 創一が頷くと、繭羽は掌中から大太刀を抜刀した。それと同時に、黒髪が華麗な絹髪へと様変わりする。


 繭羽の姿がセーヌ結界の中へ消え、それに続いて創一も結界を通過した。


 セピア色に染まった大通りの景色の中、歩道の辺りに、膨れ上がる獣じみた生物がいた。


 その生物は見る見るうちに運送トラック程の大きさに膨れ上がり、体の膨張を阻害する街路樹やガードレールを圧し折り、ビルの壁面の一部を砕き散らす。

 

 雄々しい鬣(たてがみ)を生やした頭部と屈強な前足は獅子、背の半ばから生えた頭部と翼、そして後ろ足は龍、尾は紫煙を吐き出す蛇。


 その獣の姿は、細部は違うけれど、ギリシア神話に登場するキマイラを思わせるものである。こちらの存在にまだ気付いていないのか、キマイラの獅子の頭部が大口を開き、前方にいる数人ばかりの人を食らおうとする。


 創一はキマイラが今まさに食おうとしている人たちの姿を見て驚愕した。心陽と賢治、そして何故か二人を庇うように立ち塞がる格好で昴と陽太がいたからだ。四人とも、セーヌ結界の影響で停止してしまっている。


 不意にキマイラの動きが止まり、その場から上方へ跳び上がった。直後、キマイラの体があった空間に、繭羽が放った黒炎の斬撃が翔け抜ける。キマイラはビルの壁面に四肢の爪を突き立てると、屋上へ向かって更に跳躍を果たす

「ま、繭羽! あそこに心陽たちがいる!」


 創一は心陽たちの方へ駆け出した。どうにかして、ここから避難させなくてはならない。


「創一、危ない!」


 繭羽が駆ける創一の上着を掴み取り、その場から跳びすさった。急激な方向転換に創一の視界が大きくぶれる。その直後、創一が通過する筈の場所に、キマイラの尾蛇が吐き出した奇怪な色の毒液がぶちまけられた。


「創一、気持ちは分かるけど、まずは落ち着きなさい」


「お、落ち着けって言われたって……!」


 創一の胸に焦燥が募る。一刻も早く心陽たちを避難させなければ、いつキマイラの餌食になるか分かったものではない。


「私が奴を引きつける。だから、その間に彼らを安全な場所に運びなさい」


 繭羽はそう言い残すと、手近な街灯の上に跳び乗り、そこから更に跳躍する。ビル壁面にある出っ張りを足掛かりにして、キマイラのいるビルの屋上に躍り出た。


 創一は繭羽の姿が屋上へ消えたことを見届けると、すぐさま心陽達のもとへ駆けつけた。改めて近くで見ると、何かに怯える心陽を三人が庇っているように見える。


(そう言えば、停止したものって動かせるのか……?)


 創一は試しに一番近くにいた昴の体を引いてみた。すると、昴が現在の体勢を維持したまま、マネキン人形のように前に傾く。どうやら、空間の座標は固定されていないようだ。


 まずは昴から避難させようと思い、背中から羽交い絞めにして引きずって行こうとした。しかし、予想以上の昴の重さに戸惑った。別に昴の体重が特段重いという訳ではない。全く動かない人間を運ぶには、予想以上の力を必要としたからだ。


 創一は難儀しながら昴を近くの路地まで引きずって行く。セーヌ結界の外まで運び出せれば最良なのだけれど、いつキマイラがここに戻ってくるか分からない以上、ひとまず通りから見えない位置に隠そうと考えたからだ。


 昴を路地の半ばに置くと、続けて心陽、賢治という順番で路地まで引きずって行き、最後に大柄の陽太を引きずろうとする。一人でも早く路地に隠す為、体重の軽そうな人から運び出そうとした結果な訳だけれど、陽太を後回しにしたことに、何やら罪悪感めいたものを覚えた。


「陽太のやつ、重すぎるだろう……! 筋肉付け過ぎだ……!」


 体格がよく、柔道部に所属していて筋肉の付いている陽太は、段違いに重かった。冗談でもなく、台車に乗せて運びたいと考えてしまう。


(それにしても、あのキマイラみたいなやつも幻魔なのか? 確かに、セーヌ結界は、あいつが展開したようだけれど、リリアみたいな完全な人の姿をしていなかった。見た目からして、リリアよりも遥かに強そうだったけれど……繭羽は大丈夫なのか?)


 創一は陽太の体を引きずりつつ、屋上に消えた繭羽の安否を心配した。

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