第10話

「ちょっと、なんでいきなり逃げ出したりするのよ!」


 創一が校門を出て少し歩いたところで、後ろの方から繭羽が追いついて来た。


「なんでって……。そりゃあ、色々と問題だろうさ」


「……よく分からないわ。用があるから一緒に帰るなんて、別に不思議なことでも何でもないじゃない」


「まあ、それはそうなんだけどさ……」


 創一は繭羽の要点ずれした答えに呆れた。学校で男女が一緒に帰るというのは、取りも直さず男女交際していると決めつけられるものだ。どうやら、繭羽はそのことが分かっていないらしい。


「まあ、いいや。それより、街のどこから見て回る? 怪しい場所を探すなら、裏路地辺りが良いと思うけど」


「そうね、そちらも気になるけれど、まずは大通りを少し見て回りましょう。幻魔やそれに類する者がいないかどうか、蛇眼で確認するわ」


「……邪眼?」


 邪眼というと、ギリシア神話に登場するメドゥーサの石化の視線のことだろうか。


「幻魔を石化させられるのか?」


「え……? ああ、違うわ。石化の魔眼ではなくて、蛇の眼と書いて蛇眼よ。私が扱える魔術の1つよ。その者の正体を映し出す真実の鏡の力を秘めているの。蛇の眼と鏡の霊験から術式を編んだものよ。蛇眼なら、幻魔が人の姿を取っていても、体の内奥にある歪な魂の姿を見て取ることが出来るわ」


 創一には蛇眼と呼ばれる魔術に心当たりがあった。繭羽がリリアに斬り掛かろうとした際、彼女の双眸の虹彩は鮮紅色に染まり、瞳孔は爬虫類のように縦に割れていた。恐らく、あれが蛇眼なのだろう。


 そう言えば、納刀術式といい蛇眼といい、繭羽の扱う魔術には蛇に関するものが多い気がする。


「分かった。じゃあ、まずは大通りから見て歩こうか。あとは……商店街も人通りが多いから、そちらにも寄ってみよう」


「お願いするわ」


 創一は繭羽を引き連れ、人通りが多いであろう商社ビルが立ち並ぶ大通りへ向かった。夕方ということもあり、通りは学校帰りの学生や早めに退勤したと思わしき社会人の往来に溢れている。


 繭羽は双眸(そうぼう)を瞑ると、かっと見開いた。虹彩が鮮紅色に染まり、瞳孔に縦の切れ目が走る。


「……どう? 何か幻魔らしき人はいそう?」


 繭羽は視線を巡らせて通りを歩く人々を観察したが、否定を示すように首を振った。


「いえ、今のところは、特に何も見えないわ。別の場所をお願い」


「分かった。道沿いに通りを歩いて行こう」


 創一は道沿いに歩きつつ、街の構造を思い浮かべて、主要な通りを迂回するような道順を選んで進んだ。この道順で行けば、最後に商店街へ辿り着く。


 通りを歩き始めてから十数分が経過した頃、


「それにしても、どうもこの街……歪みが多すぎる気がするわ」


 視線をせわしなく巡らせながら、繭羽は深刻そうに呟いた。


「歪み? そう言えば、ディヴォウラーの説明をしてくれた時も、歪みがどうとか言っていたけどさ、それってなんなんだ?」


「歪みというのは……秩序の綻びみたいなものよ。ディヴォウラーや幻魔が人を襲うと、その人が存在しなかったように、世界の修正力が辻褄を合わせようとするわ。たとえば、その人に関する人々の記憶や戸籍の名簿などが消えてしまう現象が起きる。でも、どうしても修正し切れない部分も出てしまうらしくて、僅かながらも道理に矛盾が生じてしまう。これが歪み。魔術を使う際にも、歪みは生じるわ。歪みが大きくなり過ぎると、秩序の整合性に綻びが生じてしまい、現実界とパンタレイを仕切る境界が脆くなってしまう。その程度がある閾値を超えると、現実界とパンタレイ界が混じり合う融合現象が起きるわ」


「つまり、この街には、その歪みが溜まっているってことなのか?」


「そうね。原因は、たいてい人を食う幻魔やディヴォウラー側にあるけれど……ここまで強烈な歪は久々かもしれない。余程の大食らいか、セーヌ結界を張らない自信家か、そのどちらかでしょうね」


「セーヌ結界? そう言えば、前にも一度同じことを言っていたけれど、セーヌ結界ってなんだ? そこで動けることを不思議なように言っていたと思うけど」


「セーヌ結界というのは、魔術に長けた幻魔が開発した、人を食らう為だけに特化した結界のことよ。結界内では、一般人は糸繰り人形のように動けなくなる。動きどころか、その人間の意識すら停止するわ。さながら、操り手のいない人形劇みたいに。幻魔は人を襲う時、いつもこのセーヌ結界を張るわ。その方が人を狩りやすいし、世界結界の性質も織り交ぜているから、結界の内外は連続性が断たれる。内部の情報が外部に漏れないから、妙な噂も広まりづらく、歪も溜まりにくい。私のような攻魔師がやって来る事態を予防出来るという訳よ」


 創一は昨晩のベルとの遭遇を思い出した。あのセピア色の世界こそ、セーヌ結界の内部だったのだろう。


「なあ、繭羽。世界結界ってなんだ? セーヌ結界とは、また違うものなのか?」


「世界結界というのは、一種の隔離結界のこと。歪の堆積が限界を超えて、両界の境界が曖昧になると、パンタレイが現実界を侵食し始めるわ。その侵食をある一定の広さで留めておく為に、どうやら世界が自動的に空間を隔離するよう結界を張るらしいの。それが世界結界。世界結界が張られると、内外の連続性が断たれて、外部から内部の存在を知覚出来なくなる。言い換えれば、その隔離された空間内が無かったことにされる。魔術師や幻魔でもない限り、世界結界やセーヌ結界の存在を知覚することは出来ないわ」


「へえ……そんな結界があるのか」


 だから、今まで幻魔やディヴォウラーが暴れても、たいした騒ぎにならずにすんでいた――すまされていたのか。


「……今も、今もこの世界のどこかで、誰かが運悪くディヴォウラーに食われたり、たまたま居合わせた幻魔に襲われたりしているんだよな」


「そうね。こうしている今も、世界のどこかで、誰かが食われているでしょうね。昔も、今も、そしてこれからも……人知れずに食われ、殺され――そして忘れ去られる。自分の見知らぬ人も大切な人も、一切関係なく」


 そういう繭羽の声は、妙に力が込められていた。沈鬱に陰る表情には、深い怒りと憎しみの情が仄(ほの)めいているように見える。


 この少女もまた、心に大きな欠落を抱えているのだろう――創一はそう確信した。


「繭羽、一つ聞きたいことがあるんだけどさ……ここに来る前は何をしていたんだ? 今みたいに、幻魔を追って街から街へ放浪して来たのか?」


「え? ええ、まあ……。おおむね、そんな感じかしら。闘って、探し歩いて、また闘って、また探し歩いて……そんなことばかり繰り返して来たわ。こうして、同じ年頃の人と長く行動するのは……本当に久しぶりだわ」


 そう言う繭羽の表情は、どこか孤独な切なさと憂いを湛えていた。


 幻魔を討ち巡るその孤独の旅は、自身の本懐ではないことを示すかのように。


「……そっか。分かった」


 創一は突然進路の向きを変えると、先ほど通過した交差点まで戻る。


「あれ……ねえ、どこ行くの? 逆戻りしているけれど」


「良いんだよ、こっちで。ちょっとした進路変更さ」


 信号が青に変わり、創一は横断歩道を歩き始める。後ろから慌てて繭羽も付いて来た。


「ちょっと待って。いったいどこへ向かっているの?」


「商店街だよ」


「え? でも、まだ大通り巡りは途中なんじゃないの?」


「それは中止だ。ちょっとお店が閉まる前に、商店街に寄った方が良いと思ってね」


「ああ、そっか。お店が閉まると、人通りが減るからね。だから、先に商店街へ向かうのね」


「その意味もあるけれど……本当の目的は別さ」


 創一は立ち止まると、繭羽の方へ振り返る。


「少し、君は楽しんだ方が良いと思ったんだ」

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