第6話

「よいしょっと」


 創一はロフトに掛かっている梯子(はしご)を降りると、比較的空間の空いているソファーの前に、抱えていた敷布団を置いた。使うかどうかは別として、繭羽の寝床を用意しているのだ。


 部屋のロフトの隅には、ベッドの寝具とは別に、簡易的な寝具が二組置いてある。それは、友人が寝泊まりで遊びに来る機会が何度かあったので、その時に為に、ホームセンターの特売セールの際に買っておいたものだ。


 現在、繭羽はシャワーを浴びる為に脱衣場にいる。創一の住むアパートに辿り着くまでの間、雨に打たれて繭羽の衣服はかなり濡れてしまっていた。それなので、創一は繭羽に、濡れた衣服をドラム型洗濯乾燥機で乾かすついでに、風邪を引かないよう入浴を勧めたからだ。


 繭羽は当然のように創一の申し出を遠慮した。しかし、日中にかいた汗も流さずに異性と同室で長時間を過ごすことに抵抗感を覚えたのか、シャワーならばと妥協したのだ。


「さて、次はシーツと毛布と……枕も必要か」


 創一がそれらを取りに再びロフトの梯子を上がろうと足を掛ける。


「あのー……ちょっといい?」


 脱衣場の方から、脱衣所の扉越しに繭羽のくぐもった声が聞こえてきた。


 どうかしたのか、と創一は疑問に思いつつ、繭羽がいる脱衣場の扉の前に立った。


 脱衣場の奥から、ドラム型洗濯乾燥機の唸るような駆動音が聞こえてくる。衣服を乾燥させているのだろう。


「何か用?」


「あの、その……ちょっと困ったことになっちゃって」


 そういう繭羽の声音は、普段の凛とした態度と対象的な弱々しいものだった。


「困ったこと?」


「あの、乾燥させようと思って洗濯機の中に服を入れたのだけれど……いつもコインランドリーで服を洗濯していたから、その、つい癖で……」


 創一は繭羽の言葉を聞いて、まさかと嫌な予感を覚えた。扉越しに耳を澄ませば、ドラム型洗濯乾燥機の駆動音の中に、水が波打つような音も聞こえる。


「もしかして……今、服を洗っている?」


「……ごめんなさい」


 創一の予感通り、繭羽は衣服を洗濯してしまっていた。恐らく、洗濯と乾燥を一流れで行うコインランドリーの洗濯乾燥機を使い慣れていたので、ついスタートボタンを押してしまったのだろう。現在、繭羽の衣服は、乾かすどころか水洗いされてしまっているに違いない。


「……いや、いいよ。それならそれで、ついでに洗っちゃうから」


「手間を掛けさせてしまって悪いけれど、そうしてもらえると助かるわ」


「ははっ、手間なんて。洗剤を入れてスイッチ一つ押すだけだよ。特に気に病む必要なんてないさ」


「じゃあ、ちょっとお願いするわ」


 創一はそう言われて脱衣場の扉のドアノブに手を掛けた。


 その時、あることに気付く。


 繭羽の衣服は、現在水洗いされてしまっている。そして、繭羽には脱衣場に入る前にバスタオルを渡したけれど、もともと彼女の衣服を乾燥させる前提だったので、それ以外は何も渡していない。


 では、現在――繭羽は何を着ているのだろうか。


 そのことに思い至った瞬間、創一の思考は凍り付いた。


 ちなみに、浴室に続く扉は施錠出来る種類のものであるけれど、脱衣所に続く扉は、施錠出来る種類のものではない。


「……あ、ちょ、ちょっと待って! 開けちゃ駄目! 今、絶対にドアを開けちゃ駄目!」


 繭羽は自分がどのような事態を招こうとしているか気付いたらしく、扉の向こうから、悲鳴染みた大声が聞こえてきた。続いて、バタンッ! という浴室の扉を勢いよく閉めた大音が響いてくる。


「……入って大丈夫?」


「……どうぞ」


 繭羽の消え入るような声が微かに聞こえた。


 創一は浴室の扉が壊れていないかどうか心配しつつ、恐る恐る脱衣場の扉を開けた。


 脱衣場の光景が視界に映る。当然ながら、繭羽の姿は浴室の扉の向こうへ消えていた。繭羽が慌てふためいていたことを示すかのように、浴室の電気は付いておらず、扉の曇りガラスは真っ黒に染まっている。


 創一は取り敢えずドラム型洗濯乾燥機の中止ボタンを押し、設定を初期化した。その後、真っ暗な浴室の電灯を付けてあげようと思い、扉の横の壁にある電灯スイッチを押した。


 電灯に照らされて、繭羽の姿が曇りガラスに黒くぼやけて映り上がる。曇りガラスにぼやけつつも、綺麗な曲線を描く繭羽の肢体は、彼女が下着姿であることを表している。直接的に姿が見えない所為か、どこか扇情的な印象を漂わせている。


 創一はあまり浴室の方を見ないよう意識しつつ、ドラム型洗濯乾燥機の蓋を開いて洗剤を入れた。蓋を閉じると、乾燥付加のおまかせモードに設定して、スタートボタンを押す。


「これでよし、と」


 創一は脱衣場から出ると、自分の衣装箪笥の方へ向かった。学校の体操着として着用しているジャージの上下を選ぶと、ついでにバスタオルも持って脱衣場へ取って返す。


「とりあえず、洗濯は始めたから、あとは放って置けば乾燥まで全部やってくれる。それと、代えの服なんだけれど、僕のもので良ければ、洗面台のところに置いておくから使ってね。あと、バスタオルも置いておくから」


「何から何まで本当にありがとう。なんだか、私……情けないやら恥ずかしいやら……」


「うん、まあ……僕は全く気にしてないから。それじゃあ、また何かあったら言ってくれ」


 創一は洗面台に衣服を置くと、そそくさと脱衣場から出た。


(まさか、こんな事態になるとは思わなかったな……。お風呂に入るよう申し出るべきじゃなかったかな)


 創一はリビングまで戻ると、ソファーに腰を下ろした。横になって、今日一日のことを振り返る。


 今まで平凡な学生生活を送って来ていたのに、ディヴォウラーの襲来、幻魔のリリアと魔術師の繭羽との遭遇、メイド姿のベルの誘拐未遂など、非日常的な出来事が立て続けに起きた。そして、今後は何故か自分を狙うリリアの奇襲を警戒する必要がある。リリアが抱く目的によって、最悪、自分の命に危機が生じてくるかもしれない。


 自分が抱いている日常に完全な崩壊の兆しが芽生え始めている。それは強烈な不安を感じさせるものである。けれど、同時に、見知らぬ世界の冒険へ繰り出すような、不思議な高揚感を抱いている自分自身を感じていた。


 自分は、心のどこかで日常が壊れることを望んでいるのかもしれない。自分という存在の立ち位置を新たに教えてくれるような、異世界を望んでいるのかもしれない。


「……あ、そうだ。毛布とシーツを出す途中だったっけ」


 創一はソファーから起き上がると、ロフトへ続く梯子を昇り、毛布とシーツ、そして枕を纏めて抱え込んだ。抱える寝具に足元が見えなくなるも、足先で慎重に梯子(はしご)を探る。


 梯子の段を一段一段ゆっくりと降りながら、創一は今後の身の振り方を考えた。


 リリアに狙われている以上、いつどこで彼女が襲撃してくるか分からない。その為、繭羽のそばから離れないようにすることは当然だ。それに加えて、幻魔と魔術師の闘いが人知を超えている以上、周囲の被害を最小限に抑える為には、人通りの多い所へ行くことを控えるべきかもしれない。高校での生活は仕方無いとしても、放課後は真っ先にアパートへ帰った方が良いだろう。


 そう言えば、心陽(こはる)が言っていた妙な噂が気になる。繭羽は後で調査すると言っていた。彼女の側から離れない方が良いのだから、自分も随伴する必要があるかもしれない。


 創一は梯子(はしご)を半ばまで降りた頃、ふと、あることが気になった。それは、繭羽の生い立ちだ。


 繭羽は自分と同程度の年齢のように見えるけれど、魔術という尋常ならざる技を修得している。また、長く独りで放浪して来ているような気丈で悲壮な気配も漂わせている。そのことから、何か一般人とは異なる境遇の中で生きてきたことは明白だ。魔術を扱う家柄に生まれたのか、それとも特殊な事情で魔術を身に付けなければならなくなったのか。


 創一は繭羽の来歴に思いを致した所為か、先ほど曇りガラス越しに見た繭羽の姿態(したい)を自然に思い出してしまった。


(……と、真面目な考え事をしているのに、何を思い出しているんだ)


 創一は邪念を振り払うように首を左右に振った。その直後、足元への注意が散漫となって、梯子(はしご)の段から足を滑らせてしまう。


「わ……わぁあああ!」


 ズドドドッ! と派手な音を立てながら、創一は残りの段を全て滑り落ちた。再下段まで落ちると、勢い余って前につんのめる。不幸中の幸いか、寝具を抱えていたお蔭で、床に頭部を打ち付けるような事態を免れることが出来た。


「いって……」


 創一は毛布に埋めた顔を上げた。滑り落ちる際に梯子(はしご)の段で強かに打ったのか、臀部(でんぶ)と足の踵(かかと)に鈍痛を覚える。


「あー……くそっ、前に一度やったから、注意していたっていうのに……」


 前回はベッドの寝具を天日干しする為に、ベランダへ運び出そうとする際に足を踏み外してしまった。その時は、自分の部屋がアパートの一階にあることを感謝したくなるような音を立ててしまった。改めて、一階の部屋で良かったと痛感する。


 創一が自身に呆れつつ身を起こそうとした直後、脱衣場の扉を勢いよく開け放つ、けたたましい音が轟いた。


 それについで、左の掌中から大太刀を半ばまで引き抜いた、バスタオル一枚の姿の繭羽が跳びだして来た。


「創一、大丈……夫……?」


 繭羽は、創一が毛布に埋もれて床に倒れている光景を見て、きょとんとした。何が起きたのか図り兼ねているのだろう。


「ああ、ごめん、繭羽。ちょっと梯子から滑り落ち……て……」


 繭羽の方を振り向いた創一の言葉が詰まる。


 繭羽の長い髪は水気を帯びて漆のような光沢を帯びており、その肢体からは、ぽたりぽたりと水の滴がしたたり落ちている。どうやら、シャワーを浴び始めたところ、突然聞こえた大音をリリアの襲撃に関するものと勘違いしたのか、バスタオル一枚を体に巻いて、慌てて脱衣場から出てきたらしい。


 繭羽の肢体は美しかった。見事に引き締まった筋肉質の足はすらりと伸び、腕は重量ある大太刀を軽快に振るえるとは思えない程に華奢である。バスタオル越しでも腰のくびれは明確に表れ、胸は年相応の膨らみを見せている。


 創一と繭羽の視線が重なる。その時になって、ようやく現状の把握と自分の姿の危うさに気が回ったのか、繭羽は思わず体を竦め、両の頬を――それどころか耳まで一気に紅に染め上げた。極度の羞恥のせいか、視線は定まらず、口元はわなわなと震えている。


「え、あ……あの、その、ご……ごご、ごめんなさいっ!」


 刹那、繭羽は韋駄天(いだてん)もかくやと言わんばかりの速度で脱衣場に逃げ込んだ。


 創一はしばし呆然とした後、自己嫌悪に駆られて、毛布に顔を埋めた。しかし、視界を塞ぐと、繭羽のバスタオル姿がまざまざと脳裏に浮かんでしまいそうになったので、仰向けに転がって天井を見上げた。


「……まずい」


 創一は白い壁紙の天井を見上げながら、身を切るような焦燥感を覚えていた。


 一人の男として眼福物の光景を目にすることが出来たけれど、そのことで繭羽から嫌われて、自分のそばにいて貰えなくなってしまったら、自分の生存確率が著しく低下するかもしれない。繭羽自身、護衛者と被護衛者は、互いの信頼感が重要であると述べていた。だからこそ、名前を呼び捨てで言い合うよう求めていたのだ。


「……まあ、なるようにしかならないか」


 創一は一種の諦観からそう呟くと、ひとまず体を起こして、頭に敷いている寝具を抱えて、ソファーのところに置いた。


 さて、これからどうするべきか。


 創一の頭の中は、いつリリアやベルが奇襲を仕掛けて来るか分からないという危機感すら一切忘れ、『いずれは脱衣場から出てくる繭羽の機嫌をどう取ろうか』という重要事項に埋め尽くされていた。

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