第5話

 水奈(みな)市の郊外。


 高級住宅が並ぶ区画の中、その中でも豪奢(ごうしゃ)を極めるとある邸宅の中にベルの姿はあった。本来ならば、この邸宅にはこの付近で有数の資産家が住んでいたが、その人物の存在は誰の記憶からも消失している。


 ベルは、とある一室の扉を叩いた。室内からの声を受け、ベルが扉を押し開く。


「マスター、ただいま戻りました」


「うむ、ご苦労じゃ。して、成果は……なさそうじゃのう」


 リリアは高級ソファーの背もたれの縁に後ろ首を掛けて、背後に侍立(じりつ)するベルの姿を見上げた。


「その様子じゃと、あの小娘が護衛にでも付きおったか。しち面倒臭い。あの坊やを楽しむ為に着替えておいたというのに、徒労じゃのう……。まあ、寝巻にもなるから、別に構わぬが」


 リリアはそう言うと、自身が来ている薄桃色のネグリジェの端を持ち上げた。


「護衛はあの小娘だけか?」


「はい。私が目視した限りでは、あの者一人のみでございました」


「……はて、それならば、あの小娘は攻魔組織の遣いではなく、フリーランスということか。恐らく、奴も歪みを辿ってこの街に訪れたのじゃな。妾(わらわ)が食う手間は省けた訳じゃが……あやつらめ、いささか食らい過ぎじゃな。なにせ、妾(わらわ)がセーヌ結界を張ろうとしたら、世界結界を招くほどのカズムが生じたからのう。そろそろ始末しておくべき頃合いか」


「マスター。もし宝具を御貸し頂けるようでしたら、私が葬って参ります」


「よい。要らぬ気遣いじゃ。手ごたえに欠けるが、あやつらでも良い退屈凌ぎの道具になるからのう。狩猟のようなものじゃよ。……それにしても、あの小娘。いったい何が目的で、妾(わらわ)の獲物に纏わりついておるのか。まさか、惚れたということもあるまいて」


 それは妾(わらわ)の方か、とリリアは自嘲気味に笑った。


「今後はいかがなさいましょうか」


「まあ、良いわ。放っておれ。小娘という障害もまた、一興じゃよ。障害は多い方が楽しめるわい。それに、まだアレの準備も終わっておらぬ。……目安として、あと何日ほどと見る?」


「今までの調子で御座いますと、あと3日もあれば、十全の準備が整うかと存じ上げます。しかし、本日のように天気に恵まれなければ、もう二三の日にちを要するやもしれません」


「まあ、それが妥当なところじゃろう。まったくもって、鬱陶しい雨じゃよ。妾(わらわ)が出向かなければならぬというのに……。まあ、準備が整うまでのもどかしさも一興じゃよ」


 リリアはソファーの発条を利用して跳ねるように立ち上がると、大きく伸びをした。


「のう、ベルよ。妾(わらわ)は少し狩りに出掛けてくる。どうも肉が欲しくてかなわぬ。留守を頼む」


「畏まりました。……しかし、マスター。この大雨の中を狩りに出掛けるのでございますか。新鮮な食糧なら、まだ貯蔵庫にいくばくか保存してございますが」


「いや、肉は肉でも、若い男じゃよ。夕方にあの坊やの匂いを嗅いでから、どうも下腹が疼いて敵わぬ。くくっ、あれは間違いなく極上物じゃよ。本当なら、あの坊やを堪能したいところじゃが……邪魔な小娘が付いておる。仕方ないから、別の男の血肉で気晴らしをしようかと思うてな。まあ、一種の虫押さえじゃよ。腹を満たせば、疼きも収まろうて。……ついでに隷属も幾人か調達して来るつもりじゃ」


 リリアはテラスの方へ歩くと、テラスへ通じるフランス窓を開け放った。室内に雨の湿気を孕んだ風が流れ込んで来る。


 リリアの背に夜の闇が凝集すると、端の破れた大きめの外套となる。


「かしこまりました。お気をつけて、マスター」


「さて、今宵はいかなる血と肉に出逢えるか……楽しみじゃのう」


 リリアは酷薄な笑みを浮かべると、外套を大きく広げ、夜の闇に飛び去った。

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