投稿作版

プロローグ


 ディシベリア帝国の大理石で築き上げられた王宮の一角の樫の書棚や大きな机が収まる飾り気のない小部屋。そこに華やかな色彩を添えているは少女というには大人びていて、女というには幾分幼いひとりの女性だった。

 肩口で真っ直ぐ切りそろえられた白金の髪は硝子をふんだんにつかった大きな窓辺から差し込む夏の名残の少し強い陽光にきらめき、机の上にある書類に向けられる真摯な瞳は冬空のように澄んだ水色で知性を湛えている。

 三日月のような冴え冴えした印象の顔の彼女の名はフィグネリア。華やぎの欠片もない黒い軍服姿ではあるがディシベリア帝国の第一皇女だ。

 フィグネリアはカラスの羽ペンで書類に署名を書き付け、次の書類へと手を伸べる。外の方で大きな足音が聞こえるがいっこうに気に止めない。

 それより気になるのは今月の予算書にある雑費の文字である。

「……額が大きすぎるな」

 つぶやくフィグネリアの表情は険しい。

「フィグネリア!」

 そこへ樫の扉をぶち破らんばかりの勢いで大岩のような男が入ってきて声をとどろかす。短く刈り込んだ髪はフィグネリアより少し濃く、瞳の色は同じで群青の軍服を纏った彼は彼女の十年上の兄で現皇帝のイーゴルだ。

「……兄上、経費に関しては出来るだけ明確に示すように命じて欲しいとお願いしたのですが」

 兄の頭の中に加減という言葉がないことを知っているフィグネリアは書面から顔を上げようともせずに淡々と問う。

「うむ。それは来週十八になるお前への誕生祝いだ! 今年は今までで一番すごいぞ!」

 庶民が三年は暖炉に火を絶やさず真新しいパンを食べられそうな誕生祝いとはなんだと柳眉を顰めてフィグネリアはようやく顔を上げて兄を見る。

 イーゴルの目は無垢な少年の様に輝いていた。

 去年自分で捕った大熊を担いで持って来た時以上の表情に嫌な予感がした。

「本当は当日まで秘密にしておきたかったのだが準備もあるからな」

 たっぷりと間を持たせてイーゴルが分厚い胸を張る。

「今年のお前への誕生祝いは婿だ! 来週の誕生日には挙式だぞ」

 式の費用にしてもいささか多いのではないのだろうか。

 実に満足げな兄を見上げながらフィグネリアはぼんやりとそんなことを思い、しばらく呆けてから椅子を倒す勢いで立ち上がった。

「私は嫁がないと言ったでしょう!」

「だから婿だぞ。俺もお前に嫁がれると困るしな。嫁に行かせられないというのなら婿を取ればいいとはいい考えだと思わないか。相手はハンライダ公国の第六公子でクロードというお前より一つ年下の者だ」

 ハンライダ、と聞いてフィグネリアは素早く頭の中の大陸図から国名を書き込むのが精一杯な小さな国を見つけ出す。

「……パンミエット? またなぜそんなところから」

 かつて北のディシベリア帝国と南のロートム王国は大陸の領土を皿の上の一個のパンを引きちぎるようにして奪い合った。百年たって開戦時より大陸の国の数を半数以下に減らして戦争はようやく終結した。そんな中、益も薄く後回しにされて戦火の及ばなかった大陸南西部の小国達はパン《ミエッ》、と呼ばれている。

 さらに五十年経ってその小国達も合併したり併呑されたりして数を減らし、今は八カ国が残っている。

 ハンライダ公国といえば戦乱の前より残り続け、小鳥すらつつかない黴びたパン屑とまで言われる弱小国である。

 どう考えても婚姻を結ぶ有益性はこちらにはまるでない。

「益がないからお前も気兼ねしないだろうと皆が言っていたぞ。会ってみたがなかなかいい奴だった。しかしあちらの人間はやはり小さいな。お前より少しだけしか大きくなかった」

 イーゴルにとって他人の九割は小さくていい奴だ。どうせまた重臣達の口車に乗せられたに違いないとフィグネリアは重いため息をつく。

 そもそもハンライダはロートムに日和って改宗までしている国である。こちらに媚びを売るにしても妙だ。

「……なんだ、気が進まないか」

 兄が目の前でおやつを取り上げられた子供のような顔をしているのでいいえ、とフィグネリアは笑顔を取り繕う。

「謹んでお受けいたします。ただし、式の費用の詳細は提出してください」

 ぱっとイーゴルの表情が明るくなりフィグネリアは仕方ないなと思う。

 この純朴で人のいい兄をだまくらかしてよからぬ企みをしている者の尻尾を掴むためにはひとまず敵の策にかかってみるのも手だろう。

 そう決意を固めてフィグネリアは顔すら知らない男との結婚を決めたのだった。

 





 一週間後、王宮の南側にある鋭い穂先のような尖塔がいくつも連なる大神殿で式は挙げられることになった。式の刻限も近づく中、控え室にいるフィグネリアの元に客人が訪れていた。

「まあ、お姉様綺麗……」

 レースや白鳥の羽で飾られた絹の純白のドレスを纏うフィグネリアをうっとりと見つめる愛らしい少女は一つ年下の妹で末子のリリアだ。この日のために嫁ぎ先から帝都へ夫と共に帰ってきた彼女はフィグネリアと髪と目の色だけは全く同じである。

「うん、まあ高価いから見栄えがよくないと困る」

 式の費用は切り詰められるところは切り詰めた。せめて春先であればもっと予算を削減できた上に地方から観光客も呼びこめ、祝賀ムードにおされ人々の財布も緩み経済効果も期待できたろうに。

 まだ見ぬ夫のことより財政のことで頭のいっぱいのフィグネリアは今日何度目かのため息をつく。

「大丈夫ですわよ。なにがあっても静かに、旦那様に身を任せていればいいんですわ。でもお姉様のことだから心得ても無理ね。だからこれを調合してきましたの」

 桃色の液体が詰まった愛らしい硝子の小瓶をリリアが取り出す。

「……なんだこれは」

「旦那様に身を任せたくて仕方なくなるお薬、ですわ」

 赤く染まった自分の頬に両手を当てリリアがきゃっと恥じらってみせる。

「これを他に試した者は?」

「お姉様が使うのが初めてですわよ。だってわたしはそんなもの使わなくたっても旦那様に全て任せていますもの」

「…………もう少し実益のあるものを作れ。これは返すぞ」

 妙な薬を作るこの悪癖だけは治まらないようで迷惑きわまりないと思いつつも妹の変わらない様子は嬉しかった。二月前に双子を産んだが難産で大変だったと聞いていたので心配していたのだが顔を合わせてみれば元気そうで何よりだ。

「義姉上、このたびはおめでとうございます」

 続いて両腕にリリアによく似た二つぐらいの幼い女の子三人を抱えた屈強な壮年の男が入ってくる。彼がリリアの夫のデニス・バラノフ伯爵である。

 二十近く年上の男に義姉と呼ばれるのはいまだに慣れない。

「本日は遠方よりおこしいただきありがとうございます。三つ子は連れてこられたのですね」

「赤子は無理ですがこの子らだけなら自分ひとりでも面倒を見られますので」

 三つ子に髭を引っ張られながら生真面目に答えるこの年上の義弟をどうして妹が十四で口説き落とせたのかいまだに謎だ。

「あら、お父様のおひげが本当に好きね。お母様と一緒」

 リリアがデニスの側に寄り娘達と一緒になってその髭を撫でる。デニスはなされるがままだがその瞳は優しく妻と娘を見つめている。

 ともあれ結婚して三年ですでに五人の子を持ち妹夫婦は幸せそうだ。

「準備が出来たかっ! おお!」

 そして次にあいもかわらず全力で扉を開けて突進してきた兄のイーゴルが満面の笑みを浮かべる。

「ようやく、結婚するのだな…………お前もちゃんと女らしくなって」

 イーゴルが言葉を詰まらせて目尻に涙を浮かべフィグネリアは返す言葉もなく黙りこくる。 不審な点が多すぎる結婚に大切な兄がこんなにも喜んでいるのを見るといたたまれない気持ちになる。

「遅れてごめん! ちょっと熊が見つからなくてね。きゃー、フィグ綺麗ねー! リリアもデニスも久しぶり。三つ子ちゃん達も今日も可愛いわね」

 兄と妹の微妙な空気をぶちこわして最後にやってきたのは皇后、つまりイーゴルの妻のサンドラだ。そばかすの散る顔はイーゴルと同い年にしては幼く、纏っているのも狩りのための装束でとても大帝国の皇后に見えないが彼女の飾らないところがフィグネリアはとても好きだった。

「……いえ、猪でも十分です。ありがとうございます。しかしいつもながらお見事です、義姉上」

 フィグネリアはいいながら黒髪が美しい長身のサンドラが背中に担いでいる猪に視線をやる。

 なかなかの大物だ。さすが兄が惚れ込んだ狩りの腕前の持ち主である。

「喜んでもらって嬉しいわ。じゃあこれ城の厨房に持って行くよう頼んであたしも着替えるから。また後でね!」

 さっとイーゴルの頬に口づけて、来た時の勢いのままでサンドラが出て行く。

「俺は本当にいい妻を貰ったな」

 すっかりしまりのない顔でイーゴルがつぶやく。

 兄も妹も、その家族もみんな今日も元気で幸せそうなのが嬉しい。

 この笑顔はなんとしてでも護り抜かねばならない。それが、自分ができるただひとつのことだ。

 そして、今ある幸せを脅かすのは今から夫となる者かもしれない。

 数十分後、全ての支度が調いフィグネリアは硬い表情で部屋を出て赤い絨毯をたどり礼拝堂へと向かう。

 扉が開かれ、部屋の最奥に置かれた大地に宿る全ての神霊を産み落としたとされる地母神ギリルア像の前に夫となる男、クロードがいた。

 まず目についたのは真新しい銅のように艶と輝きがある赤い髪だった。顔は優美ではあるが女々しさはない。じっと見ていると琥珀色の瞳と視線がぶつかった。

 クロードはフィグネリアの鋭い視線に眉を上げて驚きを見せるものの、すぐに優しい笑みを浮かべる。それはまるで長年寄り添ってきた恋人を迎えるような表情だった。

 隣に並び立ってみると遠目で見たより背丈はあるが、自分の周りの男達のよう隆々とした筋肉はなく細い。全体的に柔らかい印象を受ける男は顔だけの軟弱者に見えた。

(というか、十七なのか?)

 ひとつ年下と聞いていたが目の前の男の面立ちに少年らしさは微々たるもので、その上纏う雰囲気は落ち着きすぎていて二十半ばぐらいに見える。

「汝らこれより共に大地に根をおろしやがて同じ土へと還る日まで、黄金の果実を育み神霊らへ捧げ続けることを誓いなさい。同時に夫は妻へ妻は夫へとたゆまぬ愛と幸福を捧げると誓いなさい」

 神官長の言葉に誓います、とふたりが声を重ねる。

「では、神霊らへの誓いの証をここに」

 差し出されふたりの親指に神官長が短刀で傷を付ける。そして地母神像の前に置かれた杯へ血が落とされる。

「……最後に、夫婦の誓いの証を」

 クロードが差し出されたフィグネリアの手をとり、傷に口づけて血を舐めとる。

 フィグネリアも同じように彼の血を舐めた。

「これをもってふたりを夫婦となす」

 全てが終わり、静かだった周囲から歓声があがる。

 そして皇帝であるイーゴルがむせび泣き始めると周りのやはり厳つい軍人達ももらい泣きし始める。

「……よろしくお願いします」

 無駄に暑苦しい後ろの声を聞かないふりをして微笑みかけてくる夫にフィグネリアはああ、と小さくうなずいた。

 挙式が終わると道の舗装から建物まで赤煉瓦で築き上げられた市街を馬で周り白亜の王宮まで戻ることになった。民衆が花びらを蒔いて祝う中、フィグネリアはクロードの様子が気になった。

 笑顔は絶やさないもののどこか引きつっている。手綱さばきもどうも怪しく、ときどき遅れたかと思うと追い越してしまったりでフィグネリアがどうにか馬の速さをそれに合わせなければならなかった。

 まさかまともに馬に乗ったことがないのではないだろうか。

 ふとそう思ったが、さすがにそれはないだろう。どこの国でも王侯貴族は目的は様々ではあるが乗馬をよくするはずだ。

 しかしいくらなんでも下手すぎる。

 よろよろとこちらにぶつかってきそうなクロードから距離を取りながらフィグネリアは民衆の喜びに水を差すわけにもいかないと顔をしかめるのをこらえる。

 どうにか王宮にたどり着いて馬を止めたときクロードの体が揺らいでぎょっとしたが落馬することなく彼はよろよろと地面に降りた。そして安堵したようにため息をついていた。

「……馬は苦手なのか?」

 近寄ってこっそり聞いてみると彼は三月前に初めて乗りました、などと苦笑して見せた。

 普通の少女達ならばほのかに覗く年相応の幼さに母性をくすぐられるような表情だったが、フィグネリアは怪訝な顔をするだけだった。

 間者かはたまた刺客かと身構えていたのにこれでは気が抜ける。

 しかしそれが狙いなのかもしれないとフィグネリアは気を引き締め直した。

 さて場所を王宮に移してからは盛大な晩餐会で賑わうが、慣例通りふたりは一言も喋らずなにも食さず、日が落ちるとようやく同じ杯の火酒を飲んで義姉の捕ってきた猪の肉を口にする。その後、侍女に導かれふたりは別々に湯殿に浸かった。

「姫様、けして手を出されてはいけませんよ。今夜だけはお人形のように大人しくしていてくださいね」

 古参の侍女がフィグネリアの濡れた髪から水気を取ってすきながらリリアと似たようなことを言う。

 さすがに初夜で夫を殴るほど何も知らないわけでもないのになぜこんなことを言われるのだろう。

 若い侍女達もなにやら人差し指と中指を唇に当ててお祈りをしている。

 しかし彼女らには悪いと思うが今宵は大人しくするつもりはなかった。

 全ての支度を調えたフィグネリアは体の線に沿った薄手の夜着の袖口に針を一本、巧妙に忍ばせ寝所へと向かった


 ***

 

 足に絡んでまとわりつく夜着の裾を颯爽と裁きながら寝室に乗り込んだフィグネリアはクロードの姿が見えずに眉根を寄せる。

 扉を閉めると部屋の中で風が踊る。そしてベッドにかかる天蓋の紗が揺れてめくれ上がり横になっているクロードの姿が見えた。待ちくたびれたのか、寝ていたようだ。

 本当になんの目的もないのだろうか。それにしても花嫁より先に寝ているなど失礼な奴だ。

 フィグネリアは起こそうとベッドに近づくが、クロードが体を揺らしたのでそのまま足を止めて身構える。

「うん。ありがとう。起きるよ」

 ぶつくさとそう言いながら半身を起こしてあぐらをかき、クロードが小さくあくびをする。

「すいません。勝手に仮眠取らせて貰っちゃいました。……ええっと、改めましてふつつか者ですがよろしくお願いします」

 フィグネリアはそのままの格好で頭を下げる夫を見ながら慎重に近づき、ベッドに腰を下ろした。

「単刀直入に聞くが、ハンライダの目的はなんだ」

「いや、俺に聞かれても困るんですけど、三ヶ月前急に婿に行けって父上に言われて来ただけですから。なんか裏はあると思うんですけど俺、この通りですしってうわあっ!」

 フィグネリアは小首をかしげて笑うクロードの腕を掴み組み伏せる。

 反射神経は鈍い。とっさの受け身も出来ていないようだし、腕も贅肉はないが筋肉もさしてないようだ。

「……刺客、と言うわけではないな」

 フィグネリアは戸惑うクロードの琥珀色の瞳を覗き込みながらつぶやく。

「だから何も知りませんって。せっかくの初夜なのにこういう話やめません? このまま俺、下でもいいんで」

 残る可能性は間者か、とクロードの言葉を聞き流しながらフィグネリアは袖口に仕込んであった針を出した。

「…………すいません、俺ちょっとそういう趣味はないんで」

「拷問の趣味は私にもない。ひとまずお前はただの腑抜けのようだな」

 本気で怯えているクロードの様子に呆れながら針を袖口に戻す。

 顔以外になにもとりえのなさそうな男だ。だが目的が分からない以上は用心に越したことはないだろう。

 そんなことをクロードの上に乗ったままつらつらと考えていたフィグネリアは腰に腕を回されてびくりとする。

 殺気はないが、煩悩ははっきりとわかる手つきだ。

「首だけで実家に送り返されたくなかったら手をどけろ」

 低い声ですごむとクロードはきょとんとした顔をした。

「初夜は?」

「隣の部屋で寝ろ。私はまだ床入りする気はない」

 フィグネリアにきっぱりと宣言され、クロードが悲しげに彼女の薄布に包まれた豊かな胸元から細い腰のくびれに視線を滑らす。

「あんまりだ」

 そしてこの世の終わりかのような悲壮な声でつぶやいた。

「ちょっと寒いんで上掛け貰っていっていいですか? あとそろそろどいていただくと嬉しいです。感触が魅力的すぎて辛いです」

 このまま腹に膝を沈めてやろうかという思いをこらえつつフィグネリアはクロードの上から降りる。

「侍女が外に控えているから頼めば上掛けは持ってきてもらえる。明日は私の公務につきあえ」

 必要最低限のことだけ告げるとクロードは大人しくうなずいてとぼとぼと部屋から出て行った。

 その銅色の髪が風に揺らされていてフィグネリアはベッドを降りて窓辺に行く。そしてカーテンを開けて目を瞬かせる。

「開いて、ない?」

 たしか風で天蓋がめくれたのは扉を閉めてからだった。それにクロードの髪も扉を開ける前から揺れていた気がする。

 すきま風だろうかとも考えたが納得がいかずフィグネリアはクロードが去った扉を見つめたまましばらくそこに立っていた。


 ***

 

 翌朝、寝室に入って間もなく夫を追い出したことについて侍女ががっかりしながら朝食を運んでくる。フィグネリアはその視線に気づかないふりをしてタマネギのスープを固い黒パンで掬うようにしながら素早く胃に収める。そして着替えをすませ髪を手櫛で整えてからフィグネリアは隣室のクロードを訪ねた。

「あ、おはようございます。おそろいなんですね」

 フィグネリアと同じ黒の軍服を纏ったクロードが相好を崩す。ディシベリアの男達に比べれば枝のような細さだが一応は様になっている。ひとまずは物珍しいお飾りになりそうだ。

「……皇族は全員黒だ。お前は婿入りした立場だからな」

「ああ、そういえば見かけた兵士はみんな白い服でしたね。しかしこの国の兵士は軽装ですよね。胸当てぐらいしかない……」

 裏に鎖帷子が縫い付けられてある胸ポケットのあたりを心許なさそうにクロードが触れる。

「実戦の時はこれに少し手甲や膝当てが増える。まあ、うちの兵どもは自分の肉体に自信があるなら防具などいらんという奴が多いが。それを鑑みても他国の兵に比べれば軽装だな。同じぐらいの重量の甲冑を着た相手ならば自在に動かせる自分の筋肉を纏った方が上だから不足はないが」

 いいながらフィグネリアは不思議に思う。

 ディシベリアの男の身長の平均は二メートル。その長身に加え隆々とした筋肉を全身に纏い斧や大剣、棍棒などを振り上げて敵に迫っていく。その見た目だけでも圧倒される巨体と腕力を備えた軍団で版図を広げてきたことは他国でも有名だ。一国の公子ともなれば当然それぐらいは知っているはずである。

「……このご時世俺が出てかなきゃならない戦争なんて起こりそうにないのが幸いです。あ、だからやたら天井が高くて部屋とか廊下も広いんですね。ソファーもひとりで寝るには十分すぎてベッドみたいでおかげでよく眠れました。そういえば皇女殿下も背が高いですね」

 なるほど、と一七六センチのクロードが視線を下ろして一六七センチのフィグネリアと視線を合わす。

「この国では私は低い方だ。まさか、お前なんの教育も受けてないのか」

 その視線を真っ直ぐに受け止めてフィグネリアは問うた。

「……受けたけど、寝てるかどこかに隠れてたかですね」

 わずかに視線をそらしたのは恥じているのか、何か隠しているのか。

 判別はつかないもののフィグネリアは仕方ないと進路を執務室から書庫へと変更することにした。

「まずは基本からだな。九候は分かるか?」

「…………九人の侯爵。侯爵、だから偉い人ですよね」

 三つの子供でもまだましな返答をしたのではないのだろうかとフィグネリアは呆れる。

「ディシベリアは十の部族が集まって出来た国だ。我がディシベリア家が武力でもって他の九つの部族を従えまとめ上げた。九候とはその部族長の子孫になる。今でもそれぞれ皇帝に次ぐ権威を持っている。今、口で全部言っても覚えられないだろうが、まずはアドロフ家の名前だけ覚えておけ。先帝の皇后の父君がアドロフ家の当主パーヴェル・アドロフ侯爵だ。アドロフ家は九候の中核的存在でもある」

「ええっと、要するに皇女殿下のお爺さまってことですよね。あれ、式に来てましたっけ? 俺挨拶してないと思いますけど。他の家の人たちも来てたんです?」

 フィグネリアは口を引き結んで来ていない、と声を固くして言う。

 何とも言いがたい沈黙がふたりの間に降りた。

 顔を覗き込もうとしてきたクロードから逃げるようにしてフィグネリアは歩調を早める。

「祝いの品は届いた。今日の公務はまずその礼状書きだ。文面は私が書くから署名だけでいい。その間に九候とその所領の位置ぐらいは覚えておけ」

 早口にまくしたててフィグネリアは書庫の両開きのドアを開ける。そしてそのまま地図と歴史書を引っ張り出して部屋の中央の広いテーブルに広げる。

「これを読むんですか」

 ぱらぱらとページをめくってクロードがげんなりした顔をした。

「……俺のことは信用してないんですよね。こういうのは知らない方がいいんじゃないですかね」

 そうして一ページ目に目をやり広大な地図を見た後に彼は愛想のいい笑顔で目の前の課題から逃げようとする。

「まだ信用はしていないが、三食昼寝付きで遊ばさせる気もない。雑用ぐらいはして貰う。タダで食事にありつけると思うな、馬鹿者」

 ぴしゃりといいのけてフィグネリアは礼状のための紙とペンが届けられるのを待つ間、クロードの学習につきあうことにした。

 そして何度目かの驚きと呆れを覚えるのだった。

 クロードはこの国の事はおろか祖国の政情すらよく知らないというのだ。

「いったい何をして暮らしてきたのだ」

「笛を吹いて古い物語を読んだり、ですかね。宮殿から出たこともなかったんでここに来るまでにもいろいろ驚きがありましたよ」

 こともなさげに言うクロードの不自然な笑顔にフィグネリアはそれをどう受け取っていいのか困惑する。

 箱入りの令嬢のような育て方をされていたようだが、彼は男だ。意図的に国務から遠ざけられていたのかもしれない。身辺調査の報告がまだ上がっていないのでどう捉えていいのか分からなかった。

「だから、あまり期待しないでくださいね。なんにも出来ませんから俺」

 どこか投げやりな言い方にフィグネリアは苛立った。

「期待はしてない。ただお前に出来ることを探しているだけだ。それとやる前から音を上げるな。不快だ」

 それきりふたりの間に言葉は絶えた。

 その静寂をかすかに動かしたのは紙とペンの他に紅茶を持ってきた侍女だった。その顔に見覚えがなく、かつその指先が普段見慣れている侍女の手より荒れているのに気づいてフィグネリアは彼女を呼び止めた。

「いつから働いている」

「え、昨日からです。申し訳ありません。洗濯場で働いていて急にこんなお役目をいただいたものでまだ不慣れで。なにか不躾な真似を……」

 おどおどとしたまだ若い侍女の顔色をうかがいながらフィグネリアは紅茶に目をやる。

「……いや、なんでもない。一つ頼みたいことがある。厨房からネズミを貰ってきてくれ。私がネズミを欲しがっていると言えば分かる」

 フィグネリアの研ぎ冷まされた切っ先のような声が穏やかになり緊張がとれた侍女は目を瞬かせながらうなずいて早足で出て行った。

「ネズミって、なんです?」

 不思議そうに問うてくるクロードが紅茶のカップを手に持っていて、フィグネリアは目を見張る。

「待て! 出されたものを不用意に口にするな」

 間一髪クロードの唇がカップにふれる前に止まる。そのままの姿勢で彼はカップの中の自分と目を合わせた後にフィグネリアを見る。

「……もしかして毒が入ってるかも、とか?」

 冗談めかして笑うクロードはフィグネリアの硬い表情を見て静かにカップを下ろした。

「素性を把握している者以外からの給仕は受けないようにしている」

「そうなんですか。でも、皇女殿下を暗殺して得する人間はいるんですか?」

 フィグネリアはすぐに十数人の顔が思いつく自分が嫌になりながら頬杖をつく。

「皇位の継承権は男女関係なく年齢順で他家に嫁いでいない私にも継承権はある。兄上は結婚して五年になるがまだ子供がいないのでこのままであれば私が次の皇帝だ。それがおもしろくない連中はごまんといる。それに私が国務に口出ししているのも気にくわない奴もな」

「へえ。え、じゃあもしかして……皇帝陛下とかも」

 声を潜めて言うクロードにフィグネリアは鼻を鳴らす。

「兄上は私がいるから無理に側室を持つ必要がないと喜んでいる。兄上ほど優しく権力に執着しない者はいない」

 兄のクロードは心の底から妻のサンドラを愛している。だからいくら世継ぎをと重臣から側室を持つようせっつかれても妹がいるからいいじゃないかとあっけらかんと答える。

 あの何も考えない楽観主義は尊敬に値する。

「そうなんですか。兄妹仲、いいんですね」

 ぽつりとつぶやくクロードの声は少し重たげだった。

「そちらは悪いのか」

「まあ、あんまりですね」

 歯切れの悪い返事が引っかかったが、フィグネリアは詮索する気は起きなかった。

 統治者の家族など、問題のひとつやふたつはあるものだ。

 それからときどきすいませんと断って分からないところをクロードが聞き、礼状をしたためるフィグネリアが短く答える。それ以外に会話はない。

 ふとカップの中の紅茶が揺れた。

「じ、地震?」

 椅子から伝わる振動にクロードがおろおろとするのにフィグネリアは兄上だと短く答える。

「おお、やっとみつけたぞ!!」

 扉が開いた音と同時にイーゴルが声をはりあげる。

「なんでしょうか、兄上」

「クロードを軍の訓練につきあわせてやろうと思ってな!」

「……皇帝陛下直々のお誘いを断るのは大変恐縮ですが、皇女殿下のおそばにいたいので今日は遠慮させていただきます」

 慇懃にクロードが断るとイーゴルがわかりやすくがっかりした顔を見せた。

「そうか。そうだな。お互いのことをこれからよく知っていけないといけないからな。しかしそれではいかんな。遠慮なく義兄上あにうえとよんでいいんだぞ」

 身長二メートル三〇センチの大男に期待に満ちた少年のまなざしを向けられたクロードがフィグネリアに視線でどうしましょうと問う。

「遠慮はいらんぞ」

 フィグネリアにそう言われおずおずとクロードは義兄上、と呼んだ。

「うん、まだ固いがその調子だぞ! 鍛えたくなったらいつでもつきあってやるからな!」

「……兄上、その手に持っているものは私が厨房に頼んだものでは?」

 イーゴルに右肩を掴まれたクロード笑顔が引きつっているのを見てフィグネリアはさすがに骨が折れたら面倒だと助け船を出す。

「ん、そこで侍女に会ってお前のところに持って行くと聞いたから代わりにな。しかしネズミなどどうするんだ?」

「こちらのネズミは彼の国のものと違うらしいと話すと見たいと言うので……」

 クロードの肩から手を離したイーゴルはそうか、とあっさり納得した。

 兄のこの単純さは愛すべき点ではあるが悩みどころでもある。

 フィグネリアはやれやれと適当に言いつくろいイーゴルを書庫から追い出してネズミの入った鉄の籠を机に置く。

「……うわあ、ネズミまで大きいんですね」

 掴まれた肩を撫でさすっていたクロードがでっぷりとしたネズミに身を退く。

「そうなのか。まあいい。ちょうど二匹だな」

 フィグネリアはおもむろに自分とクロードのカップの中身をそれぞれのネズミに分け与える。するとほどなくしてネズミたちは体を痙攣させたかと思うと泡を吹いて死んだ。

「俺も殺されるところだったみたいですね……」

 籠の中の動かなくなったネズミを見るクロードの顔は青ざめていた。

 芝居でもなさそうなその顔にフィグネリアは顎に手を当て考える。

 見慣れない侍女をよこせば疑われるのは向こうも分かっているだろうが、ただの脅しかもしれない。暗殺の罪を着せられる者ができたので心置きなく刺客を差し向けられるという。

 そうなると後ろにいるのはロートムか、あるいは九候のいずれかとハンライダが取引したのか。

 どちらにせよ、今後はことさら身辺に注意した方がいいだろう。

「このことは義兄上には報告しなくていいんですか? さっきの侍女も調べないと」

「……兄上には言うな。事態が余計にややこしくなる。それにあの侍女を追ったところで行き着く先は死体だ。放っておけばいい。お前は余計なことは考えずに目の前の課題に集中していろ」

 ネズミの入った籠を机の下に置いてフィグネリアは礼状書きに戻る。だがその紙がふわりと浮いた。

 窓が開いているのかと立ち上がろうとするとクロードが先に大きな音を立てて立ち上がった。

「お、俺が窓閉めてきます。あとちょっと笛吹いていいですか!?」

 あまりにも切羽詰まった顔に気圧されてフィグネリアはああ、とうなずいてしまった。

 そうするとすぐにクロードは書架の奥に走っていってしまった。

「……何故、笛を」

 不思議に思っている内に小鳥の囀りが聞こえてくる。よく聴けばそれは軽やかな旋律を持っていた。

 花が弾けるようにしてつぼみを開き鮮やかな色彩を零していく。そんな風景を想起させる美しい音色だ。

 思わず耳を傾けて聞き入っている内に演奏は終わった。

「すいません、おまたせしました」

 安堵した顔で戻って来たクロードの片手には細い銀製の横笛があった。彼は胸ポケットから袋を取り出し三つに分解した笛を入れてまた胸ポケットに戻した。

「変わった笛だな」

「母の形見なんです。代々母の家に伝わってるものだそうです」

 そう聞いて初めてフィグネリアはクロードが母を亡くしていること知った。

 特に自分に関わりのない事だからまるでそういうことは気にしなかった。ただ彼に関して興味があるのは自分や家族の敵か否かだけだ。

 夫となったとはいえと思ってフィグネリアはああ、そうだと今更ながらに思う。

「皇女殿下?」

 これも一応家族かとぼんやりとクロードの整った顔を見ていると彼が首をかしげた。

「……なんでもない」

 自分にとって結婚とは公務の一環で、費用やら相手側の政治的意図やらにばかりに考えがいって新たな家族が増えるということにまるで繋がっていなかった。

 結婚が決まって一週間。式が終わって丸一日。

 フィグネリアは今になってようやく目の前のよく分からないたいして取り柄のなさそうなこの男が家族でもあることを理解したのだった。

 

 ***

 

 その日の夜、フィグネリアはベッドの上でつい先ほど届いたクロードの身辺調査の報告書を読みながらため息をつく。

 とりたてて警戒を抱くような要素はない。兄弟仲は確かに悪いらしく病死とされている第一公子と第二公子は相続権を巡り対立して相撃ちだったらしい。残る公子も可もなく不可もなくだ。

 ただクロードの母親に関しては知らなければよかったと思った。

 十年前、クロードが七つの時に彼の母は階段から転落して死んだとなっている。近くで遊んでいた当時八つの双子の第四公子と第五公子が誤って身重だった彼女にぶつかったらしい。

 事故、というのは疑わしい。双子の母は第三公妃でクロードの母は元は第三公妃付きの侍女。クロードと双子の年の差は半年足らず。下種な勘ぐりはおおよそ真実だろう。

 とにかく今手元にあるものから分かるのはクロードが後見もなく捨て駒にしやすいということだけだ。

「しまったな……」

 波立つ感情にじっとしていられずフィグネリアはベッドから降りて窓辺に腰掛けてつぶやく。

 クロードが間者でも刺客でもなければどうするかなど全く考えていなかった。自分で冷静のつもりでも全くそうでなかったようだ。

 かたかたと揺れる窓の向こう、城の裏手の黒い森がさざめいて甲高い風の音が聞こえてくる。

「……笛の音か」

 よく聞けばそれは隣の部屋からのもので、フィグネリアはそっと窓を開ける。

 隣も窓を開けているらしく笛の音が風に乗って流れ込んでくる。一定の高い音を保ちながら時折旋回するように旋律を踊らせる。さながら花びらが舞い踊るように。

 今のところ見つけたクロードの取り柄といえばこの笛か。

 しばらく夜風に当たりながら聞いていると笛の音が止んでフィグネリアは窓を閉じた。少し気持ちが落ち着いて眠れそうだとベッドに戻ろうとすると扉が遠慮がちに叩かれた。

「あの、すいません。いいですか?」

 そう言いながら入ってきたのは枕と上掛けを携えているクロードだった。

「どうした」

「ひとりで寝るのが恐いんで一緒に寝てもいいですか?」

「…………駄目だ。ひとりで寝ろ」

 子供じゃあるまいしとこめかみを抑えながらフィグネリアはクロードをねめつける。

「無理です。恐いです。だって今日は二回も殺されかけたんですよ」

 首を横に振るクロードは頑として譲らなさそうだった。

 今日は朝の毒の他に午後の乗馬訓練中に矢が飛んできた。突然の強風で矢はかすりもしなかったが一日に二度とはまたせわしないことだ。

「狙われているのは私だ。一緒にいるとなおさら危険だぞ」

「いや、だってもし皇女殿下が殺されたら俺は全部罪きせられて殺されるんですよね。それならひとりでいるよりふたりでいる方がいいです」

 たしかに結果は一緒だろう。

 そう考えてフィグネリアが好きにしろと言葉を投げるとクロードが安心した様子でベッドに近づいて来た。

「ありがとうございます。ところで今日は昨日と違う格好ですね……おそろいでも悪くないんですけどあっちの方が好みなんですけど」

 そう言うクロードの顔は実に残念そうだった。

「あれは花嫁衣装だ。あんなもの毎日来て寝られるか。だいたい夜着は通常これだ。おそろいというなら兄上ともおそろいだぞ」

 体の線の出ない大きめの膝丈の上衣に同じくゆったりしたズボンという格好のフィグネリアはベッドの上に投げ出していた資料を取る。

「まだ仕事してたんですか?」

 サイドテーブルに資料を置こうとしたフィグネリアは少し考えてからクロードにそれを渡す。

 少し不思議そうにその資料に目を落としたクロードの顔が一瞬強張るのが見えた。

「いまのところお前の身辺に問題はなしだ。なにか間違っている記述はあるか?」

 クロードが首を横に振るのを確認してフィグネリアはクロードがいる反対側のベッドの端に寄って寝転がる。

「ならいい。お前はそっち側で寝ろ」

「…………お互い端っこにいたら手も繋げないじゃないですか」

「繋ぐ気もない。真ん中よりこっちへ寄ってきたら床に蹴り落とすからな」

 そう言ってクロードに背を向けて上掛けにくるまると背後で彼が小さく笑い声を上げるのが聞こえた。

「てっきり床で寝ろって言われるかと思いましたよ。ちょっとは俺の境遇に同情してくれてます?」

「違う。ただお前が敵である可能性が低くなった以上、一生のつきあいをしなければならなくなるのかもしれないからだ」

 そう、同情はしないとフィグネリアは背を丸めサイドテーブルの燭台の揺れる灯火を見つめる。

 ただ少し共感は覚えて、嫌なことを思い出した。それだけだ。

「そうなんですか。俺てっきり役立たずとか言われてそのうち放り出されるかと思ってました」

 心底驚いたような声だった。

「神霊への誓約を自ら破る気はない。お前が破ったら別だがな」

「あれって具体的になにしたら離婚なんです? 浮気とかはまず駄目ですよね」

 フィグネリアは背を丸めて例外もあるとぼそりという。

「……配偶者の許可さえあれば愛人を持つことは許される。基本的には許可なく相手が不利益を被るようなことをしたとき神官の裁量により離縁となる。だから、それぞれの夫婦次第だ」

「へえ。わりとおおざっぱな感じですね。じゃあ、上手くやってけるように努力します」

 軽い調子で言ってクロードがようやく横になってかすかにベッドが揺れる。

 燭台の火は消そうかとフィグネリアは思うがあと少しで蝋燭は尽きそうなので置いておくことにした。

「婿入りする前に私についてのことは何か聞かされたか?」

 おそらく何も知らないだろうとは分かっていながらも、念のために確認する。

「いいえ? 義兄上にちょっと気が強いけど優しくていい子だからよろしく頼むって言われたぐらいですね。……まさか再婚とか、子供がいるとかそういうのですか?」

 案の定の答えにフィグネリアは逡巡するものの結局はいずれとしか言えなかった。

 人づてに聞くことになるかもしれないが、その事実を今ここで口にするのは馴れ合いを求めているかのようで嫌だった。

 やはり、知らなければよかった。

 フィグネリアはクロードの呼吸が規則的な寝息に変わるのを聞いても眠れず、蝋燭の明かりが消えても炎が揺らいでいたはずの場所を見つめ続けていた。

   

 ***

 

 翌日、王宮の東隣に面した軍の兵舎にフィグネリアは乗馬の訓練もかねてクロードを連れてやってきていた。王宮も兵舎も隣あっているとはいえ敷地が広大なので馬を使って移動するのが常なのだ。

 どうにかクロードが落馬することなく兵舎までたどり着き、挨拶をしようと思ったイーゴルの姿が兵舎に見えずにふたりは歩いてすぐ側の練兵場まで行くことにした。

「すごいですね」

 物珍しげに周囲を見ながらクロードがつぶやく。周囲の自分よりも上にも横にも二回りは大きい屈強な男達が雄叫びを上げ斧や槍を振り回しているのが恐いのか、彼は必要以上にフィグネリアの側に寄っている。

「急に襲ってくるわけはないからそうくっつくな」

「いや、新婚だから仲良くしてるように見せたほうがいいかと」

 さりげなく手を繋ごうとしてくるのでフィグネリアはそれをよける。するとクロードがしょげた犬のように琥珀の瞳で見つめてきて言葉に詰まる。

 こういう期待を裏切られて落ち込んだ目というのは苦手だ。全面的に自分が悪いような気がして何も言えなくなる。

「……いいから普通にしていろ」

 そう言ってクロードから視線をそらした先にフィグネリアは漆黒の髪と灰色の瞳の鉛を思わせる精悍な面立ちの青年を見つける。彼もすぐにこちらに気づいたようで会釈をして近づいてくる。

「フィグネリア様、このたびはご結婚おめでとうございます。クロード様、お初にお目にかかります。自分は皇帝陛下の近衛を勤めさせていただいているラピナのタラスと申します」

「ええっと、ラピナっていうと九候の方」

 ですよね、とクロードがフィグネリアを見ながら確認する。

「そうだ。ラピナ家の次期当主になられる方だ」

 今日はクロードを彼に会わせるのも目的のひとつだった。

 どの貴族も十歳頃から嫡男を王都の軍に預け五年ほど従事させるが、タラスは自分の意思で十年軍務についている。年も近いこともあり子供の頃から話をする機会も多く、他の者たちより先進的な思考を持つ彼に何度か相談を持ちかけたり持ちかけられたりすることがあった。

「いわゆる幼馴染みなんですね」

 そんなタラスとの長いつきあいの話を聞いたクロードが興味深そうにつぶやく。

「そのようになります。フィグネリア様、後でお見せしたい物があるのですがお時間は取れるでしょうか」

「例の物ですか?」

 タラスがクロードを一瞥しながら慎重にうなずく。

「……兄上に挨拶をすませたらクロードも連れて参ります」

 しばし考えてフィグネリアがそう答えるとタラスが驚いたように少しだけ眉を動かした。

「神殿の託宣があって今し方皇帝陛下は熊狩りに出ました。自分は今日はこちらに残らせていただいています」

 イーゴルが近衛を常時全員つけておかないのはいつものことだ。タラスのことは気に入っているので毎回つれて出たがるが、ラピナ家の嫡男である以上いらぬ詮索を受けないためにもタラス自身が待機を申し出ることも多い。

 こういうことにイーゴルは疎いのでタラスには面倒をかけて申し訳ないと思うが聡明な彼がついていることはありがたい。

「そうですか。ならば見せていただきます」

 フィグネリアは予定を変更してタラスについて兵舎へと引き返す。そしてタラスの私室へと向かうことになった。

「これからのことは他言無用だぞ」

 タラスが寝室へ行っている間にフィグネリアは不思議そうな顔でいるクロードにそう告げる。

「いいんですか、この場に俺がいて」

「問題ない。お前にも見て欲しいからな」

 いったい何をとクロードが言いかけたとき、タラスが細長い箱を持って寝室から戻ってきてテーブルの上に置く。

「これってもしかして銃とかいうやつですか?」

 厳重に鍵のかけられた箱が開けられクロードが目を瞬かせた。

「そうだ。見たことはないか?」

「絵で見たことはあるんですけど本物は初めてです」

 予想していた答えではあった。銃はロートムが開発し始めたものの実用にはあまり適さなかったこととディシベリアとの間の戦争も終息したこともありそう普及はしていない。ハンライダの様な小国には実物などありはしないだろう。

「ずいぶん軽くなりましたね。命中率と暴発の危険性は?」

 銃をおもむろに持ち上げてフィグネリアは問う。

「それは改善されています。技術的な訓練を受ければ、十発中七発は当てることが可能だそうです。撃ち手への負担は軽減されてさほど力がなくとも撃てます」

「……量産の体制は?」」

「これはまだ整ってはおりません。命中率を上げるための加工が手間がかかるようで。それと鉄や鉛、硝石の安定的な供給もできていないようです。しかし硝石の生産方法も確立しかけているようですし、南方の方にたびたび使節団を送り鉄や鉛の供給にも余念がありません」

 フィグネリアは銃を置いて腕組みをする。その眉間には深い皺が刻まれている。

「あの、すいません全然話の意味が分からないんですけど」

 難しい顔で黙りこくるフィグネリアとタラスの側でおずおずとクロードが手を挙げる。

「今、ロートムに有能な学者がいるらしくここ十年あまりで急速に銃の性能を高めている。だが鉄や火薬を作るのに必要な硝石がまだ安定的に入手できる術がなく高価なものだ。だいたい分かるな」

「……つまり、新しい銃をロートム王国はたくさん作ろうとしていて要するに戦争を起こす気かもって事ですか」

 そういうことだとフィグネリアはうなずく。

 昨日半日クロードの学習につきあってみて彼は飲み込みが早く察しがいいことは分かった。まだ信頼は出来ないが、とにかく武術はまるで向いていなさそうな分こちらを伸ばした方がいいだろう。

 その方が自分も助かる。本当に彼に裏がなければの話だが。

「さらに改良されて量産できるようになればいくらディシベリアの兵達が屈強でも敵わんだろうな。こちらも遅れを取っている場合ではないのだが、な」

 フィグネリアは嘆息してタラスを見上げる。

「兄上に上手く進言いただくようお願いします」

 あまり自分がとやかく口を出すと重臣がうるさい。ただでさえ煙たがられているので軍に関してまで口出しは出来ない。

 だからこういうときはタラスが頼みの綱だ。

「自分にできうる限りのことはさせていただきます。ただ陛下も少し旧弊的なので……」

「いつまでも精神論だけではまかり通らないと理解していただけたらいいのですが」

 フィグネリアとタラスは顔を見合わせて困り顔をする。

 確かにこの国の男達でしか引けない長弓の威力は大きい。しかしこのまま改良されていく銃に比べると心許ない。

 だが恐ろしいことに鍛え上げられた肉体と気合いがあればどうにかなるとディシベリアの男の大半が思い込んでいるのが現状である。

 それから少しフィグネリアと銃の普及について語ったタラスが話について行けず置物のように椅子に座っているクロードを見る。

 再びフィグネリアに向けられたタラスの目は本当にこの男は大丈夫かと問うていた。

「いまのところ害はなさそうです。では、本日はこれで失礼いたします。ありがとうございました。行くぞ」

 フィグネリアが呼ぶとクロードは見るからに安心した顔で立ち上がった。そして部屋を出て扉が閉まったとたんに彼はぐっと背を伸ばす。

「疲れたー。タラス殿って真面目で優秀な人ですね。皇女殿下もいろいろ信頼してるみたいですし……もしかして初恋の人とかですか?」

 好奇心に満ちた視線を向けられてフィグネリアはがっくりと肩を落とす。

「……お前は侍女達のようだな。そんなことより銃には興味はわかなかったのか?」

「あれなら力のない俺でも弓よりは簡単に使えるかな、と思いますけど争いごとは嫌いです。でもあれがたくさん作れたら非力な人間でも戦えるってことですかね。女性や子供でも訓練したら使えそうですね」

 そう言って少し黙った後に深刻な顔でクロードがそれはちょっと恐いですね、とフィグネリアを見下ろす。

「危機感をもつのはいいことだ。何も出来ないと思わずまずはそうやって自分で考えてみればいい。少なくともこの国ではお前は十分に先進的な考え方が出来ている……なんだ?」

 クロードが目を丸くして見つめてくるのでフィグネリアは首をかしげた。

「いや、なんかそう言われたの初めてで驚いたっていうか。恥ずかしいっていうか……ああ、嬉しいっていう感覚か」

 子供っぽい無邪気な笑顔に虚をつかれたフィグネリアだったが、気がつけば口元を緩めていた。

「笑うと可愛いんですね……」

 今度はまた別の驚きの声と視線を向けられてフィグネリアはすぐに表情を引き締める。

 まだ気を許したつもりはない。ついつられてしまっただけだと心の中で自分に弁解するものの決まりが悪い。

「褒め言葉はありがたく受け取っておく」

 下手な返しだと我ながら恥ずかしくなりながらフィグネリアは歩調を早める。

 後ろでクロードが小さく笑う気配がして耳が熱くなった。

 

***

 

 フィグネリアは自分の執務室に戻って気を取り直して机に向かう。座る場所のないクロードは立ったまま部屋を見渡して不思議そうにしている。

「皇女殿下の執務室っていうからもっと立派なものだと思ったんですけど、意外と狭いんですね。それにここ、ずいぶん中央から離れてましたよね」

 存外いろいろよく見ているものだとフィグネリアは無花果の果実のような形をした水晶のインク壺の蓋を開ける。

「私が政務をするのが嫌な重臣達の目につかない所だからな。こちら側は日当たりもいいし悪い部屋ではない」

 ここはも三代前の時に側室のために増築された離れの子供部屋だ。王宮は最初に建てられた中央宮の裏側から放射線状に柱廊が延び各所に大小八つの小宮が建てられている。その中でも特に小さく立地の関係で他の小宮より中央から離れていて半分森に埋もれているのがこの宮である。

「しかしなんでそんなにみなさん皇女殿下が仕事するのが嫌なんですか? 俺の国じゃ女性は政治にも軍にも関わらないけどこの国は違うみたいですし」

「みんな、私が嫌いなんだ。それだけだ」

 それは答えになっているようでまったくなっていない返答だったが、フィグネリアの表情に落ちる影にきづいたクロードが質問を重ねることはなかった。

 それからしばらくすると狩りから戻ったイーゴルが訪ねて来た。

「兄上、ミスイカの橋の再建工事についてですが、工費の試算がまだ不明瞭です。建材の輸送費に明確な根拠を示すように指示してください。それと財務官吏二名の減給については不当です。言われているように紙を無駄に使いすぎているという事実はなく、それが例え事実だとしても四割もの減給はありえません」

 フィグネリアはイーゴルに書類を示し、重点に下線を引きながら説明する。

「橋の件は分かった。減給に関してはちゃんと叱っておかねばな。卑怯きわまりない」

「減給に値する理由はない、その一言だけでかまいません。兄上の持たれる威厳があればそれで片付きます。不当である事は減給に処すと決めた本人がよく分かっているはずですから。私からは以上です。兄上の方は何か問題は?」

「いや、今日は特にない。ではさっそくお前の言ったことを実行してくる。いつも助かる。では、またな」

 イーゴルが書類を受け取り、ディシベリアの地図と睨み合っているクロードにも声をかけて出て行った。

「……皇女殿下っていろんなことやってるんですね。人事とかも全部やってるんですか?」

 クロードが地図から目を離して背を伸ばしながら問う。

「一通り目を通しているが、全部というわけではないな。問題点が見つかったら知らせにくる官もいる。それを聞いて裏付を取ったら兄上に報告したりだな」

「はあ、なんか大変なんですね」

 そうぼやいてクロードが視線を周囲に巡らせて胸ポケットから笛を取り出す。そして吹いていいかと問われてフィグネリアは持っていた羽ペンを置く。

「……いつも持ち歩くのはかまわないが職務中は控えろ」

 別に笛の音が嫌いなわけではないがそう頻繁に吹かれると何かの連絡手段かと疑ってしまう。

 命じるとあからさまに動揺した顔をみせるのでなおさら疑わしい。しかしわかりやすすぎて間者にはとうてい見えない。

「今すぐ吹かないとちょっと困るというかなんというか……ちょ、ちょっと待った!」

 クロードが声をひっくり返すと同時に机の上の書類が舞った。風が吹いたのかと思ったが、窓は開いてはいない。

 そしてフィグネリアは自分の目を疑った。

 インクが螺旋を描きながらつぼから飛び出している。黒い竜巻のように渦を巻くインクを囲んで書類がくるくると廻っていた。

「わかった、わかったからそれだけはやめてくれよ。皇女殿下、失礼します」

 クロードは何かに語りかけたかと思うと笛を組み立てて音階を駆け上がり急降下するのを繰り返す。タイミングや間をわずかに変えながら上り下りする音は軽快な旋律となる。

 それと同時に書類は元の位置に戻り、インクは壺の中に戻った。そのかわり風はクロードの髪を揺らしながら部屋を周り、窓を押しあけて外へと飛び出していく。

 半ば伏せられたクロードの琥珀色の瞳は光を帯びて黄金の様に輝いている。

 フィグネリアは声も出せずにそれを見ていた。

 演奏が終わるとその名残の風がフィグネリアの白金の髪を撫ぜて消える。

 笛から口を離したクロードが口を半開きにしているフィグネリアを見ながら引きつった笑顔を浮かべた。

「…………なにがどうなっているか説明してもらおうか」

 すうっと息を一つ吸って自分を落ち着かせてフィグネリアはクロードをねめつける。

「なんていうか妖精に気に入られてるんです。母の血筋がそうみたいなんですけどいろいろ教えて貰う前に母が亡くなって俺もよく分からないんですよね」

「つまり、妖精を使役する神の楽士というわけか」

 万物に妖精は宿り、それを統べるのは地母神の産み落とした神霊達だ。だがその昔、人間でも歌なり笛なりで妖精を従える神の楽士と呼ばれる一族がいたそうだ。しかしいつの間にかその一族は姿を消してしまいおとぎ話の住人になってしまっている。

 まさかこんな威厳もなにもない男がと信じられないが目の前であんなものを見せられてしまったら現実と認めるしかない。

「……ああ、こっちではそう言うんですよね。よかった」

 ほっとクロードが胸をなで下ろすのにそうか、とフィグネリアは思い出す。

 ロートムの国教であるナルフィス教に宗旨替えしたハンライダでは世界はひとりの神の掌の上に乗せられているものとなっている。こちらで神霊と呼ぶものはナルフィス教で言う悪さをする妖精達を諫め払う使徒と呼ばれている。そして一部の神霊は妖精達を操り人に害をなす悪魔とされている。

 後ろ盾も何もない公子がこんな力を持っているとなれば悪魔の使いと呼ばれて生涯幽閉されかねない。

「そうなると王宮から出たことがないというのはそのせいか」

「いいえ。母にこのことは誰にも言ってはいけないときつく言われていたんで父にも隠してました。兄弟仲いいわけでもないしひとりでほっとかれてたんで遊び相手っていえば妖精達ぐらいで。俺は特に力が強いからあまり構い過ぎてはいけないともいわれたんですけど、ね」

 唯一の味方であった母を亡くし幼くしてひとりきりになった彼が妖精達と戯れることで寂しさを埋めとしていたことは容易に想像できた。

 フィグネリアはどう言葉を返したらいいものかわからず口を噤む。

「ご覧の通り使役は出来てないんです。ちょっとした頼み事を聞いて貰ってお礼に笛を吹くんです。でもさっきみたいに笛が聴きたくて俺が困ることをやったりで大変なんですよ」

 苦笑しながらクロードが重たい空気をはらうようにわざとらしく肩をすくめてみせる。

「隠していることはそれだけか」

 静かな問いかけに他にはないですよ、とクロードが軽い口調で答える。それは嘘に見えず、迷いながらフィグネリアは口を開く。

「……私が重臣達に嫌われている理由は私が側室の子という立場で政務に口出しするからだからだ」

 え、とクロードが目を見張った。

「兄上のことはどう思う」

 そして間髪入れずに問われて彼は目を瞬かせる。

「いい人、ですね。おおらかなかんじで優しそうだなと思いました」

「そう、人として兄上はこの上なく優良だ。だが君主としてはどうだ」

 クロードは少し考えてそれは、とさきほどのフィグネリアとイーゴルのやりとりを思い出しながら口ごもる。

「……お前の思っているとおりの事を父上も思った」

 当時十歳になろうとするイーゴルを見て先帝は国の行く末に不安を抱いた。イーゴルは疑うことよりも信じ愛することを尊ぶ子だった。それだけならばまだよかったのだが、武芸には秀でているものの勉学はからきし、だった。

 つまるところお人好しで頭が悪いと君主としては最悪の取り合わせなわけだ。

 先帝はもうひとり子を求めたが、当時皇后はイーゴルの出産以降は孕んでもすぐに流れてしまい子を産むのは難しいと言われていた。そこで側室を持ち、すぐにフィグネリアが産まれたが側室は難産で娘の産声を聞いてすぐに亡くなった。

「じゃあ、本当は皇女殿下が皇帝になるはずだったんですか?」

 いや、とフィグネリアは首を横に振る。

「前皇后殿下は九候家の中心であるアドロフ家の息女だ。兄上が帝位に就かねば九候家との関係が悪化する。私は周囲を牽制し帝位に就いた兄上を支えるように教育された。だから余計な相続争いが起こらぬように私の母は身寄りがなかった衛兵のひとりから選ばれたんだ。だが、父上が逝くのが早すぎた」

 五年前、心の蔵の病で前皇帝は急死した。そのときイーゴルが二十三、フィグネリアは十三だった。

「身分が低く後ろ盾のない側室のたった十三の小娘がやれ帳簿の計算が合わない、予算に無駄があるなど口を挟んだらどうなる」

 クロードがああ、と顔をしかめる。

「それにしたって暗殺っていうのは大人げないですね」

「そうだな。まともな者もいるが重臣達のほとんどが九候家の縁者でしめられていて楯突けない。父上はこの現状も変えていこうとしていたんだがな……」

 祖父である先々帝は九候家を抑えきれなかった。贈賄、横領、暗殺と貴族達は腐敗し民は蔑ろにされてもはや内から崩れかけていたところで父が祖父を玉座から引きずり下ろし帝位についた。

 そしてたまった膿は時間をかけて絞り出され今の安定した国がある。だが九候家の権威は依然強く、一時たりとも気を緩められない状況だ。

 父は少しずつ九候の息のかからない者たちにも重職を任せられるように九候中心の内政を変えようとしていたが、突然没してしまった。

 後は任せた、とまだ幼い娘に全て託して。

 先帝の元で力を削がれていた九候達にとって父の政策を引き継いで兄に進言している自分は邪魔で仕方ないのだろう。

 あげくに九候家の中心であるアドロフ候が自分が父の子でないのではと疑っているのでなおさらだ。

「そして、私が死んだら都合よく罪を被せられるのはお前だろう。遺書の一枚や二枚できあがっているだろうな」

 顔を引きつらせるクロードに正直な男だとフィグネリアは思う。

「はあ、なんかすごく大変なところにお婿に来たわけなんですね俺。それにしたって同じ側室の子供っていっても全然違うもんですね」

 しみじみとつぶやきながらクロードは壁によりかかった。フィグネリアは机に頬杖をついてその憂える端正な横顔を眺める。

「どちらにしろ面倒だ」

「でも、あなたはまだいいですよ。必要とされて産まれてきたんですから」

 孤独が滲む声にフィグネリアは立ち上がりクロードの正面に立った。

「……いらないと言われないように努力はした。お前は、ただふてくされてじっとしていただけか?」

 我ながらきつい言い方だと思いながら少し不快そうなクロードの瞳を正面から見据える。

「ふてくされたっていうより諦めた、が正しいですね。母の死について父は何も動かなかった。四番目と五番目の兄上に講義がうけられないように部屋から閉め出されても教師も何も言わなかった」

「なるほど。それなら私にとって必要と思われるように今から努力しろ。いいか、同情で馴れ合うつもりはないからな。この国では夫婦というのは互いに利益をもたらしあうものだ」

 ふっとクロードが視線をあげて小さく苦笑する。

「……一応は努力しますけど、俺、何すればいいんです?」

「まずは知識を詰め込め。あとはその妖精に関しても勝手に暴れないようにどうにかして他の者にばれないようにしろ」

 こくこくと従順にうなずくクロードにフィグネリアはそれと、と付け加える。

「意見や文句、要求は言え。出来うることはきく。出来ないことの理由はちゃんと説明するからな」

 ただ一方的に命じるつもりはない。神殿で誓った以上今は自分は彼の主君ではなく妻なのだから。

「あ、じゃあ早速今夜は夫婦の勤めに励みませんか」

 一瞬クロードが言っている意味が分からなかったフィグネリアは理解したと同時に眦をつり上げた。

「駄目、だ。小指の爪先ぐらいでもまだ疑いが残っている以上は床入りはなしだ。今夜は床で寝ろ」

「いや、そんな本気で怒らないでくださいって。ちょっとした冗談ですって。ちゃんと隅っこにいますからベッドで寝かせて下さい」

「…………隅だぞ」

 念押しするとクロードがほっとした顔をしたあと、今度は真剣な顔をしてあの、と言う。

「今度は本気のお願いなんですけど、皇女殿下のこと名前で呼んでもいいですか?」

 その問いかけにフィグネリアは結婚して三日目になるのにまだ一度も名前で呼ばれていないことに気がついた。別に異論はなかったので許可するとクロードが緊張を緩めてはにかむ。

「じゃあ、これからいろいろ教えてくださいね、フィグ」

 それは名前じゃなくて愛称だろうが。

 そう思ったフィグネリアだったが、クロードの笑顔に毒気を抜かれてしまい反論することは出来なかった。






 結婚式からひとつきであっという間に短い夏の名残は消え冬の影がさしていた。

「なんだか急に寒くなりましたね」

 執務室に新たに据えられた机に向かうクロードが各大臣や官吏の続柄などを示したものを読みながら身体を縮こませる。

「まだこれからだぞ。後もうひとつきもしたら雪が降り始める。それからリクル運河が凍って半年は冬だ」

「北のほうはもう降り始めてるんでしたっけ? 寒いのは苦手なんですけど雪は見たことがないから楽しみです」

 そう言うクロードは十七という年相応の顔をしていた。

 婚礼の時よりわずかな時間の間に彼はずいぶん変わった。今まで押さえ込まれていた反動か乾いた土が水を吸うより早く知識を吸収している。史学が気に入ったらしく書庫より持ち出した本をベッドに持ち込んで読んでいるほどだ。

 フィグネリアはその変化に驚きつつも羨ましくもあった。

 物心ついたときから史学、政治、軍事と詰め込まれていた自分にとって学ぶことは生きるのに必要なことだった。食事中も延々と講義が続けられる日も珍しくなく食事と一緒に知識も呑み込まされることに苦痛を覚えても耐えるしかなかった。

 彼のように学ぶことに喜びを覚えられるのは羨ましい。

「物珍しいのは最初だけだぞ。前に南から来た商人も三日でげんなりしていた。兵士達は活気づくがな」

「そうなんですか。あ、もしかして雪かきですか」

「当たりだ。戦のないこの時勢、雪かきと冬眠しそびれた熊や餓えた狼が出てきたときが最大の活躍の場だな」

「熊とか狼、出るんですか?」

 恐ろしげにつぶやくクロードのわかりやすさにフィグネリアは小さく吹き出しながら頻繁なことじゃないと返す。

「……遭遇しないことを祈ります。ああ、もう、駄目だって言ってるだろうが」

 傍らに積んである書物のページがばらばらとめくれあがってクロードが苛立たしげな声をあげる。

 妖精に関してはまだちまちまと小さないたずらをしかけているようだ。

 こればかりは門外漢なのでクロードになんとかしてもらうしかないが、彼自身もよく分かっていないので改善には時間がかかりそうだ。

「しかし風の妖精とは騒がしいものだな」

 彼曰くいたずらをしかけてきているのはすべての妖精ではなく好奇心が旺盛で騒ぐのが好きな風の妖精達がほとんどだそうだ。他の妖精達は自分の産まれた場所から離れられないので近づかなければどうということはないらしい。

 だが面倒なことに妖精側は人間の言葉は分かるが人間側は声を聞くどころか姿を見ることも出来ずにそこにいるという存在感しかないそうだ。

「たまに助けてくれたりするのはいいんですけど……」

 しかたなしといった様子でクロードが笛を吹き始める。

 その曲はまた新しいものでまだ一度も違う曲を聴いたことがない。尋ねればいつも即興なので楽譜は読めないということで驚かされた。

「…………やはり、引っかかるな」

 クロードの奏でるそよ風のような穏やかな調べに耳を傾けながらフィグネリアは眉宇を曇らせる。

 見比べる書面は今年に入ってからのと去年の塩の収穫量である。領土の三分の一で作物がまともに育たないこの国では北東に広がる塩湖からとれる塩が食料を買い付けるための貴重な財源だ。

 その塩の収穫量が今年の方がわずかに少ない。

 微量とはいえ半年以上となればそこそこの量だ。ふたつき減少が続いた時点で訝しんだが、ただ単に今年は採れが悪いと思っていた。しかし各月それぞれ去年の同じ月よりほぼ一定の量減っているのは妙だ。

「……つまりこっそり誰かが拝借してるってことですか」

 笛を吹き終わったクロードがフィグネリアの渋面の理由を聞きそう尋ねる。

「そうなると厄介だ。塩の管理には三十の部署を設けているがそれを全てかいくぐるということは塩業所全体が腐敗し始めていることになる」

 利潤の一部は塩業所に携わる貴族や実際に売買をやりとりする商人に支払われる。売り上げを誤魔化し懐にしまいこまれないように目を光らせているが数年に一度は問題が起きて組織の体制を見直さなければならなくなる。

 それでも管理するのは人だ。良心が絶対ではないことが網の目になってしまう。

「ルドクシア候、か。まただな」

 塩業所の所長は最近になってこれまで税のことなどで揉めた九候家のひとつと縁続きになったことを思いだしフィグネリアは黒に近いと考える。

「また、なんですか」

「あそこは父上が崩御してからしばしば問題を起こしている。そのたびに神殿に多量の奉納で領民の不満を誤魔化している姑息な奴だ。まずは兄上に…………来たか」

 いつもの地響きと共にイーゴルが現れた。この頃は初めて出来た年下の弟が嬉しいのか決まった時間に尋ねて来てクロードに困っていることはないかと聞いたり遠駆けや狩りの誘いをしたりしている。

「クロード、今日も見事な笛だな。これから冬籠もりの祭事についての朝議があるのだがお前に楽士を頼もうと提案する気があるのだがどうだ!」

 挨拶もそこそこに是非をきくというより、いい考えだろうと同意を求めるように言ってイーゴルがふんぞり返る。

「……兄上、その前に塩のことで聞いていただきたいことが」

 クロードが返答に窮している間にフィグネリアがそう言うと、イーゴルが真面目な顔つきになる。そして仔細を聞いてますます表情を険しくした。

「なんという不届き者だ! さっそくあとで朝議で話合わねばな」

「いえ、それはお待ちください。今の塩業所の所長は九候家縁の御方です。まだ確証のない内に広めて先に事を大きくしてしまうのは得策ではありません。査察官へ内密に調査をご命じください」

「…………あまりこそこそするのは好きではないが、お前そういうならそうした方がいいだろうな。よし、では今日の朝議は祭事だけだな」

 表情を一転させ明るい顔でイーゴルがクロードを見る。

「人前で笛を吹くのが嫌でなければ引き受けてくれたらいい」

 クロードの視線にフィグネリアがそう答えると彼はイーゴルに謹んで承らせていただきますと笑顔で答えた。

「そうか! では頼んだぞ!」

 早く朝議でこのことを言いたいらしく満面の笑みでイーゴルが部屋を出て行った。

「……で、冬籠もりの祭事ってなんですか?」

「雪が降る前に今年最後の狩りをした翌日に恵みを与えてくださった地母神様達に感謝を捧げる祭りだ。そのときの供物のひとつが音楽だ。なぜ音楽を捧げるかはお前がよく分かっているだろう。……大神子様にお前のことを聞いてみるのもいい」

 神霊の言葉を降ろす大神子が神殿から出てくるのはこの日だけだ。願いが届けば話を聞いてもらえるだろう。

「ちょっとでも解決するといいですね」

 他人事のように言ってクロードが学習に戻った。

 フィグネリアもこれ以面倒ごとの種が見つからないように祈りながらペンを取った。

 

***


「お待たせしました」

 翌日、フィグネリアは執務室にクロードを残しタラスを別室に招いていた。使われてはいないが手入れの行き届いた広間のソファーへ座るようフィグネリアが促すと律儀にタラスが腰を折って座った。

「いえ、お話とはなんでしょうか」

 招いた、とは言っても先に話があるとイーゴルを介して伝えられたのでタラスを招き入れたのだ。

「こちらをご覧ください。クロード様宛のもののようです」

 タラスが持っていた書状をテーブルの上を滑らせてフィグネリアの目の前に置く。

「……影を消せ、か。暗殺の指令のようですね。出所は?」

「ボーリン伯からです」

 簡潔な答えにフィグネリアは顎に手を当てて書面を眺める。

 最初に今回の縁談を持ち出したのは彼だったということは掴んでいる。だが情報の秘匿はされておらず、蜥蜴の尻尾にすぎないことは明白だ。

「恨みはいくらでも買われているのでやはりまだ絞るのは難しいですね。タラス殿、わざわざお知らせいただき感謝します。しばらくは自衛に徹します」

「ならば、クロード様は遠ざけるようした方がよろしいのでは」

「近くに置いていた方が安心です。それに、おそらくこの手紙はクロード宛ではないでしょう」

 自分だったらまず、彼に暗殺は命じない。今日まで観察しても腕力のなさも、反射神経の鈍さも演じている様には見えなかった。 

「……ならば、よいのですが。やはり一度皇帝陛下に暗殺の件は申し立てた方がよろしいのでは」

「そうしたらどうなるか、タラス殿には十分おわかりでしょう」

 苦笑してみせるとタラスがひどく深刻な顔をして腕を組んだ。

 イーゴルにこの件を告げても事が収束するどころかあちこちに飛び火して大火事となるだろう。それに、兄が悲しむようなことはあまり知らせたくはない。

「タラス殿がこうして尽力していただけるだけでもありがたく思っています。しかしあなたはいずれ必ず九候や軍のあり方を変える方です。私の暗殺に関しては関わらないほうが御身のためです。お願いします」

 なにかと頼りにはしているが、暗殺の件に関してはタラスには相談はしていない。彼がラピナの嫡男である以上は手の内全てを見せられないのだ。先帝である父が没してから何かと助けをしてくれるが、全幅の信頼というのは難しい。

「……あなたも、そうです。今実際に国を支えているのはあなたです。影の皇帝、と呼ばれているのはご存じでしょう」

 暗殺指令書の影の部分を指さすタラスにフィグネリアは声を出して笑う。

「嫌味ですよ。だれも私を認めてはいない。それに」

 真実父の子であるかどうかさえ疑われている。

 そう続ける前にタラスが口を開く。

「少なくとも、自分はあなたを認めています。あなたはご自分の価値を正確には把握されていない」

「ありがとうございます。ただそれは外では口にされないようにお願いします。蔑まれるのも命を狙われるのも私ひとりで十分です」

 そう、自分さえ的になっていれば誰も傷つきはしない。

 栄光の後ろには必ず影が引きずられるというのならそれをすべて引き受けるのが自分の役割だ。

 フィグネリアが穏やかな笑みを浮かべるとタラスが勢いよく立ち上がった。

「自分はこの国のためにこれからも皇女殿下を害する者の排除をしていくつもりです。では、失礼します」

 そう言い捨てるタラスにお前はこの国のために生きるのだと何度も言っていた父の面影を思い起こして気が重くなる。

「……残念ながら、私は国のためにしているのではありません。大切な家族である兄や妹のためにしているのです」

 タラスの返答はなかった。

 扉が閉まった後にフィグネリアはソファーにだらしなくもたれてクロード宛とされている手紙を指で爪弾く。

 くだらない小細工だ。タラスがはたしてこんなものを真剣に受け取るだろうか。

「ああ、そうか、知らないのか」

 ふと思いいたってフィグネリアはつぶやく。

 タラスはクロードの事をよく知らない。だからこその警戒なのだと考える前にタラスのことを疑う自分が嫌になる。

 人を信じるのは難しい。だが、もう自分の中でクロードは白だ。

「……あれに害意がなさすぎるからだ」

 矛盾する自分の思考に適当な理由を押しつけてフィグネリアは手紙を胸ポケットにしまった。

 

***


 落ち着かない、とクロードはまるで頭に入ってこない文字を眺めることを諦めて本を閉じる。

 新妻が昔の想い人、かもしれない男と別室でふたりきりというのはよくない。ついでにまた自分にあらぬ疑いでもかけられて相談されてるのかも知れないかもと考えるとなおさら落ち着かない。

「いや、いや、いくらなんでも駄目だろ、俺」

 妖精に頼んで会話をこちらに流してもらおうかと考えてしまう自分をクロードはいさめる。

 が、聞きたいと思う反面聞きたくないという思いもあった。

 嫌なことには耳を塞いでいたい。

 せっかくおいしい三食付きにとびきり美人の妻、おまけに新しい楽しみも見つけて充実した毎日を過ごしているのだ。それに水を差すことはない。

「でもなあ、気になるよなあ」

 机の上に寝そべりクロードはつぶやく。傍らでは妖精達が興味を示して騒ぐ気配がしている。

「うるさい。後で聴かせてやるから静かにしてろよ」

 不満を示すように風の精達がクロードの赤銅色の髪をかきまぜた。

「…………勝てるとこ、ないよなあ」

 最初に会ったタラスの姿を思い起こしながらクロードは体を起こす。

 もし彼とフィグネリアが恋仲と仮定するとそう遠からず自分はここから追い出される。せっかく手に入れたささやかな幸せはここで終わり。

 いや、しかし口はきついが存外優しいフィグネリアなら狭い領地ひとつとかわいい侍女ひとりぐらいつけてくれて幸せになれよと送り出してくれるかもしれない。

「それはそれできっついなー。って、ん?」

 前向きな考えのはずなのにかえって落ち込んでいる自分にクロードは眉をひそめる。

 自分が惜しいのはこの生活をなくすことなのか、フィグネリアをなくすことなのか。

「あのな、うん、いろいろいい方向に予想外だったわけだよ」

 側にに感じる気配にクロードは語りかける。端から見ればその様子はひとりで見えない誰かと喋っている頭が気の毒な人間である。

「本当に、義兄上に最初会ったときには正直期待してなかったんだけど、いざとなったらすっごい美人だったわけだ。胸大きいし」

 笛の音ほどでもないが声も好きな風の精たちがクロードを取り囲み、それでとせっつくように彼の周りで旋回する。

「だから書類は飛ばすなって。……朝は早いしやらなきゃならいことはいっぱいあるしで全然自由じゃないのになんだろうな。あそこにいたときより自由な気がする。見てて飽きない美人付きだしな」

 思い返すのはいくつかの煉瓦を積み上げた四角い箱のような建物が並ぶ王宮の一番北の端に佇む一番小さな棟。その中央は四角くくり抜かれて中庭になっていた。

 空ばかりが高く周囲の蔦の這う灰色の煉瓦の壁に囲まれたそこで朧気な母との思い出と共に閉じこもっていることしか出来なかった。一歩出れば異母兄の双子がにやけた顔で待ち構えているし、外に出たところで何があるわけでもないのでただ怠惰な毎日を過ごしていた。

「ここ来てまだひとつきぐらいだけど毎日楽しいんだよなあ。なあ、フィグって可愛いって言うと困るんだ。なんでかな。でも可愛いよな。最初はおっかない美人だったけど最近ちょっとは目の前で笑ってくれるようになったし、それも可愛いと思う。そうだ、夕べちょっとくしゃみしたらすぐに侍女呼んで上掛けくれたんだよ。相変わらず端っこでしか寝かせてくれないけど。うーん、これって好きになったって事だよなあ」

 憂い顔で高い天井を見上げながらクロードは椅子にもたれかかる。

「でも、向こうに好きになってもらうって難しいよなあ。結婚してるのに片想いって変だよな……っと」

 うっかり体を傾けすぎて椅子と一緒に倒れかけたクロードを風の精達が支える。

「ありがと。しっかしひとりって寂しいなあ。フィグ早く戻って来てくれないかな。…………帰ってきたとたん出て行け言われても困るけどな。なあ、愛してます! って言ったら怒ると思うか?」

 尋ねても返事があるわけでもなくクロードはまた机に突っ伏す。

 なんとなくむなしい。そこに妖精達の気配はあるから話を一応聞いてはいることは分かっているが相づちでいいから欲しい。

 フィグネリアは基本的に聞いたことには真面目に答えてくれる。ちょっと冗談を言って怒られることもあるが。

「フィグがいないと寂しくて死にそう……は怒られるな」

 クロードが研ぎ澄まされた瞳を思い出して苦い笑みを零したとき扉が静かに開かれる。そこには待ち望んだ新妻が部屋には入らずに両腕を組んで立っていた。

「声が大きい。この大馬鹿者が」

 そう淡々と告げるフィグネリアの白磁のような頬はよくよく見れば朱色に染まっている。

「いつから、いたんですか」

「ひとりしかいないはずの部屋から話し声が聞こえたら怪しまれることぐらい考えろ。だいたいそういうことを大声で話すな」

 たぶんこれはわりと最初のほうから聞かれてたらしい。

 いつまで経っても戸口から移動してこないフィグネリアの様子が妙に初々しい。

「……まったく、こんな奴に暗殺など出来るか。阿呆か」

 そしてようやく歩み寄ってきたフィグネリアが何か紙を押しつけてくる。

 クロードはくしゃくしゃになったそれを開いてなんですかこれとむくれた顔のフィグネリアを見る。

「お前宛の暗殺指令書だ。私を殺せ、ということだ」

 フィグネリアが自分の椅子に座ってクロードから顔をそらすように横を向いて頬杖をつく。

「まあ、無理ですね」

 剣術も体術もからきしだ。それに腕力でも馬上で中ぐらいの大きさの弓を引けるというフィグネリアに敵うはずがない。

「それに俺はフィグなしじゃ生きられませんしね。いろんな意味で」

 白銀の髪に隠れてフィグネリアの表情は見えないが、その耳が赤くなっているのは分かった。

 クロードは席をたって執務机に暗殺指令書を置く。そのときこっそりとフィグネリアの顔を覗き込んで怒っているわけではないと確信する。

「……フィグ」

 名前を呼ぶとフィグネリアが深く息を吸って挑むような視線を投げつけてくる。

 その美貌と相まって凄みがある照れ隠しは可愛いものではないがクロードはなぜだか楽しくなってきてしまっていた。

「俺の気持ち、どこまで聞いてました。俺がフィグのこと好……」

 クロードの言葉を遮るようにしてフィグネリアが立ち上がる。

「ひとつきだ。まだひとつきだぞ」

「でも好きなものは好きですし」

 確かに共に過ごした時間はそれだけだが、自分の心はすっかり彼女に捕らわれてしまっているのは事実だ。今だって近くにいるだけで嬉しいし、その姿から目を外せない自分がいる。

 じっとふたりは見つめ合う。

 互いの心の奥、光も届かないような深い深い底まで探るように。ただ、ふたりの間に甘やかなものはなく乾燥して張り詰めた空気が漂っていた。

「……私は隣で仕事をする。さぼるなよ」

 先に視線をそらしたのはフィグネリアだった。彼女はさっさと机の上の書類と筆記具をまとめて出て行ってしまった。

 扉が静かに閉まってクロードは前髪をかき上げる。

「手強いなー。でも全然駄目ってことはないよな」

 頑張ればどうにかいけるかもしれないと考えてクロードは小さく笑う。

 こんな風に何かしてみようと思うのは初めてだ。

「こういうのが恋なんだと思うんだけど、なあ?」

 同意を求めると風の精達がざわめいて笛の入っている胸ポケットに入り込んできて、クロードは窓を開けた。

 

***


 少しだけ開けた窓の隙間から入り込んできて優雅に跳ねていた音が転調し哀切なものへと変わった。フィグネリアは嫌がらせだろうかとさして動いていなかった手を完全に止めてしまう。

 そしてペンを置いて顔を両手で覆う。まだ頬が熱い気がする。

「まったく、ひとりで妖精と話すのは禁じておくべきだったな」

 話し声が聞こえるのですわ密談かと思えばあれだ。どうしていいかわからずひとまずクロードが喋り終えるの待っているうちにどんどん入りづらくなったのだがそれ以上聞いてもいられずに部屋に入ってしまった。

「というか、私は好かれるようなことをした覚えはないぞ」

 普通に話をしていただけだ。そんなに笑った覚えはない、はずだ。上掛けをクロードによこしてやったのだって祭事が近いのに体調を崩されたら困るからだ。

 それだけだ、とフィグネリアはつぶやいてソファーに横になる。

 クロードの奏でる笛の音が低い場所からふっと高みへと上昇しどこまでも昇っていくような余韻を残して終わる。

 仰向けになり高い天井を見上げてフィグネリアは薄青の瞳を細める。

 なぜクロードはあんなにも簡単に好きだと言ってしまえるのだろう。自分が彼の力を利用しようだとか考えているということは微塵も疑わないのだろうか。

 自分ならまず疑うことから始める。

 相手のことをしらみつぶしに調べ上げて、敵対する者と繋がりがないか分かったところでまだ新たな敵対者となる可能性も考慮してどこまでも疑い続ける。兄と妹が結婚するときもひそやかに調べをいれたぐらいだ。

 それなのにクロードときたらひとつきくらいで、自分の事もよく知らないくせに。

 ふっと盗み聞いた彼の言葉を思い出して耳が熱くなった。

 愛していると言ってくれたのは兄と妹、それに父と。

 母上、とつぶやいてフィグネリアは瞳を伏せて下唇を噛んだ。

 側室の子である自分の事を前皇后は実の子として確かに大事にしてくれた。愛していると言葉にして伝えてくれた。

――フィグネリアは可愛いわ。娘も同然だもの。でも、でも時々思うの。わたくしはあの方が望むような子の母親になりたかっただけで、自分のためにあの子を愛してるのかもしれない。それに今でも思うのよ。リリアを授かるがもう一年早かったらって。

 あれは、十一の時だっただろうか。なんのために皇后の部屋を尋ねたのかは覚えていないが、彼女が嫁ぐときに生家から連れてきた初老の侍女にそう話しているのを聞いてしまった。

 いつも穏やかで柔らかな笑みを湛えているはずの彼女の声は震えていた。

 母が泣いているのを聞いたのはその時と父が死んだときだけだ。一昨年前になくなったときは笑っていた。

 兄や妹に向けているのと同じ笑みを自分にも向けてくれていた。

「いかん、こんな事をしている場合ではない」

 視界が滲んでてフィグネリアは起き上がり書類と再び向き合う。

 やらねばならないことは山ほどあるのだ。過ぎたことをいつまでも考えていても仕方ない。

 だが、先のことは。

「本当に、余計なことを」

 これといった正答のない問題は嫌なんだとフィグネリアは口元に手を当てて顔をしかめた。


 ***


 それから数日後の夜、夫婦の寝室では敷布や上掛けが天井高くまで持ちあげられてひらひらと揺れていた。たとえるなら子供がマントのように肩にかけて走っている様子に似ている。

 妖精とは子供の様な姿をしているのだろうかと部屋の隅でフィグネリアはクロードと並んで見ながら思う。

「なんにもいませんね」

「そのようだな」

 一昨日のように書類に挟まれていた毒針が仕込まれているわけでもなく、昨日の晩のように毒蛇がいるわけでもなさそうだとフィグネリアがうなずく。

「じゃあ、これでゆっくり眠れますねって、こっちじゃないって!」

 突然上掛けと巨大な敷布が頭上に振ってきて目の前が真っ暗になる。

「何をやっているんだ。待て、動くな!」

 抜け出そうともがいているうちにクロードとぶつかってフィグネリアがしりもちをつく。そのときクロードの足を引っかけてしまい転んだ彼が体の上に落ちてくる。

「ああ、すいません。これどうにかしないと笛、吹けないぞ」

 クロードがそう言うとふわりとふたりを覆う布の塊が浮くが下に敷き込んでしまっていて完全には浮き上がらない。

「…………今日はこのまま寝ましょうか」

 ごく近い距離で囁きかけてくるせいか吐息が耳の下辺りにかかってきてフィグネリアはうろたえた。

「ふざけるな。まずそこをどけ」

 しかし声だけは平静を保ってクロードの体を押すが、不自然な体勢のせいでうまく力が入らない。

「やっぱりだめですよね」

 湿っぽい声でつぶやいてクロードがごそごそと動く。布をかき分けているようだがなかなか上手くいかないようだ。

 ふたりで動くと余計に絡まりそうなのでじっとしているフィグネリアは寝転がったまま小さくあくびをする。ふたり分の体温で暖まった布の中は心地よく眠気がした。

 気を抜いている場合ではないと自身を叱咤していると、あ、というクロードの声が聞こえて夜気が吹き込んできてぬくもりが消えてしまう。

「うわあ、火、消えちゃってますよ」

 クロードの声を頼りにフィグネリアは布の塊から顔を出す。そうしたところで燭台の火が消えてしまっていて真っ暗で何も見えなかった。昨日冬に向けて掛け替えたカーテンは分厚く月明かりも届かない。

 蛇の一件から侍女達も近くの部屋に置かないようにしてしまったのでここから呼びかけるのも無理だろうし、下手にこの暗がりの中で動くのも躊躇われる。

「火の妖精は使えないのか」

「いや、消えちゃってるんで無理ですよ。俺に出来るのはそこにいる妖精に何かして貰うことなんでいない妖精を呼ぶことはできないんです。ていうか寒いですね」

 クロードが自分の近くの布をかき寄せるので仕方なくフィグネリアは彼に寄り添うような形でふたり一緒に寝具にくるまる。

「目が慣れるまでだぞ」

 触れ合った肩から伝わってくる温度に自然と体が強張る。

 クロードの告白から数日。よくよく考えればもうおそらく一生夫婦としてやっていくのだからお互い嫌いでいるよりはいいと受け入れればいいことだ。

 そうは思えど愛情だけ素直に受け取ることは出来ない自分がいる。

「俺が最初に好きになったのはフィグの見た目だけど、それよりこういう優しいところが好きなんですよ」

 ふと小さく笑ってクロードがそんなことを言いながら手を重ねてくる。

 フィグネリアは逃げようとした手を留めてうつむく。

「お前は本当に簡単に好きだと言うんだな」

 彼の言葉に重みがないわけではない。ただ本当に出会って間もない人間に自然と愛情を込めた言葉を紡げるのが不思議だった。

「嫌ですか?」

 問い返されてフィグネリアは返答に困った。

「じゃあ、これが答えでいいですか?」

 手を握られているのに振り解こうとしないフィグネリアの耳元でそっとクロードが問いかけを重ねる。

 緊張はするし、気分は落ち着かないけれど嫌ではなかった。

「分からない。……お前のことは嫌いじゃないが、好きかもよく分からない」

 だから手を握り返すことは出来ない。

 ひゅるりと高い音をたてて風が舞う。凍みるような冷たい風で、ふたり同時に身をすくめると体がぶつかった。

「すいません……」

 そのはずみでクロードが手を離して、手の甲がやけに冷たかった。

「いや。妖精達は笛を聞きたいのではないのか?」

「笛はサイドテーブルですしこの暗さじゃ無理ですよ。寒いから大人しくしてろよ、朝には聞かせてやるから。よけいなことするお前らが悪いんだからな……しかし本当に何にも見えませんね」

 フィグネリアと違ってまだ何も見えていないらしいクロードが隣であくびをする。

 そういえば今日の午後は遠駆けに出てその場で軽く護身術を教えたのだが、城に戻って来た時にはクロードはずいぶん疲れている様子だった。

 少しは体力がついてきたように感じていたが、無茶をさせたのかも知れない。

「このまま寝るか」

 投げやりな口調で言ってフィグネリアは横になる。え、とクロードが驚きの声を上げるがそれを無視する。

 床は絨毯敷きなのでそう寒くはないから大丈夫だろう。

「すきま風が入ると寒いから隣で寝ていいですか?」

 クロードが問うのにフィグネリアは今日だけだぞとつけ加えて目を閉じる。背中のすぐ側に彼がいて、ひとりで眠るよりずいぶん暖かい。

 人間でなく温石だと思えば気楽だ。

 クロードが眠った後、程なくしてフィグネリアも意識を眠りの淵にすとんと落とした。

 そして気がつけば朝だった。

 いつ眠ったのかも覚えていない自分にフィグネリアは驚いて、目を開いて今度は飛び起きそうになった。

 背中合わせでいたはずなのになぜかクロードの腕を枕にして彼の胸に頭を埋めるような体勢になっていた。

 頭上では穏やかな寝息が聞こえている。

 フィグネリアが怒鳴り声を上げそうになるのを抑えてそろりと起き上がるとクロードが小さく呻いた。

 そして緩やかに彼の瞼が持ち上げられて目が合う。

「……おはようございます」

 舌の回りきっていないぼやけた口調で挨拶をしながらクロードが琥珀色の瞳を蜜のように蕩けさす。

「いい朝ですね。今日もフィグは綺麗だ」

 そうして腕を伸べてきて分厚いカーテンごしの淡い光の粉がまぶされたフィグネリアの髪を撫でる。

 彼の指先が頬に触れその瞬間、心臓が飛び上がった。

「寝ぼけてないで早く起きろ!! この大馬鹿者が!」

 訳の分からない動悸と火を噴きそうな頬の熱さに混乱しながらフィグネリアは大声を上げる。それでもまだクロードは寝ぼけた様子で半身を起こして子供の様な仕草で目をこすっている。

 いつも彼より先に起きて自分の支度をすませてしまうからこんなにも寝起きが悪いとはしらなかった。

 ひとまずフィグネリアは上掛けと敷布の塊から抜け出して分厚いカーテンを一気に開ける。

(しまった。妖精にカーテンを開けてもらえばよかったのだ)

 そして眩い光と一緒にそんなことが閃いてなぜこんな単純な事に気づかなかったのかと額に手をやった。

 どうしてこう人の正常な思考をことごとく奪ってくれるのだ。

 フィグネリアはそう思いながら布にくるまってもそもそしてまた横になってしまいそうなクロードをちらりと見る。

「…………眠い。わかってる、わかってるからこれ元に戻しとくんだぞ」

 ようやく起き上がったクロードは妖精にまとわりつかれていた。彼の言葉に従って布の塊がまた浮きあがってベッドへと移動していく。その間に彼はサイドテーブルに置かれた笛を取ってフィグネリアの隣に立った。

 真横にあるクロードの顔にまた鼓動が高鳴る。

「おはようございます。フィグは朝早いですよね。俺どうも苦手で……なんか顔赤いですよ」

 どうやら起き抜けのことはまるで覚えてないらしいクロードにじっと顔を覗き込まれてフィグネリアは視線をそらす。

「気のせいだ。私は身支度をすませるからその間にお前もすませておけ」

 まだ半分ぐらい眠っているらしいクロードが間延びした返事をした後に笛に口をつける。

 そこから流れ出る音は夏の朝の様に涼やかで川のせせらぎにも似たものだった。

(寝ていても笛は吹けるのか)

 呆れ半分で感心しながらフィグネリアは無意識のうちにクロードが触れた自分の髪を撫でてふるりと頭を振る。

 そして深呼吸をひとつして気を静めたつもりだったが部屋を出るその動きはどこかぎこちないものだった。

 




 結婚式からふたつき。空に雲がかかる日が増える中で二日ぶりに薄水色の空が広がる日に冬の祭事は行われた。

 日が昇ってすぐに神殿から大神子を乗せた五色の紗がかけられた輿が担ぎ出され、この日のために織られた幾何学模様の織物を背にかけた馬に乗る皇帝と皇后がそれを先導する。輿の後ろには大神子に仕える九才から十四才までの少女達が後ろを付き添い歩く。

 フィグネリアとクロードはその列の最後尾に騎乗してゆっくりと進んでいた。

「はあ、すごいですね」

 ふたつき前と違って馬に慣れたクロードが首を伸ばして周囲を見る。列の周囲は騎乗した屈強な兵士達が壁を築くようにしているのでそうでもしないと見えないのだ。

「あまりきょろきょろするな。ぶつかるぞ」

 前を歩く最年少の少女を見ながらフィグネリアはクロードに注意する。

 十分な距離があるしクロードの馬はとても大人しいしなにより彼自身の手綱さばきも上達していて心配はしてはいないが念のためである。

「……そうですね。脇見は事故の元ですからね。それにしても鈴の音、綺麗ですね」

 輿が通るたびに通りに並ぶ民達が手に持った鈴を鳴らしていく。それはいくら混ざっても音が濁ったり割れたりする事なく調和し美しい音を奏でている。

「ああ。こういう音は妖精が好むのだろう?」

「そういえばなんかすごく楽しそうですね」

 クロードが目を細めてうなずいた。彼の表情が妖精の感情そのものであるようにすら思える。

 本当に不思議な男だ。

 結婚してから今日までは雑事に追われている間にあっという間に過ぎた。その中で自分でも信じられないほどクロードに気を許してしまってる。

 冷え込んできたこの頃は手を伸ばしたら互いに触れられる距離で眠っている。昨日はもう少し小ぶりのベッドに変えてそのかわり大きめのテーブルを用意しようかなどと考えている自分がいて唖然としてしまった。

 なぜだろうか。頑なに他人を信じるということが出来ないと思っていたのに。

 今では隣で危なげなく馬に乗れているクロードの成長を素直に喜んでいる自分がいる。

「フィグ、あれ」

 クロードがふと指さす薄青の空に灰色の鳥が並んでいるのが見えた。

「雪雲鳥だ。数日中に雪が降るな……」

「へえ。いよいよ人生初の雪か。なんだかわくわくしますね」

 境遇は自分よりいろいろとあったようなのになぜこうも生きていて楽しそうなのだろう。

 クロードの横顔をちらりと見てからフィグネリアはもう一度空を見上げ眉をひそめる。

 雪雲鳥は雪から逃げるようにして南へと渡っていく鳥だが、それが大神子の渡りと重なるとその冬は荒れるという凶兆となる。

 なにも起こらなければいいがと思うが火種はあちこちにあるので無理な話だ。

 せめて塩の件だけでも片付けられればとつらつら考えつつ、浮き足立ったクロードの相手もしているうちに城の裏手に広がる森にある祭壇へとたどり着いた。

 森の中の広場に石を積んで出来た高い台があり、その周辺に控える数十人の神官が輿を迎える。

 フィグネリア達従者達は側に跪いて輿から降りる大神子を待つ。

 少女達が輿の紗をめくり上げ、真白いガウンに身を包んだ女がゆったりとした動作でその場に降り立つ。その腰まである髪も雪のように白い。

「あれ、意外と若いし綺麗ですね」

 大神子の白いベールの隙間から覗いた三十前後の透き通るような雰囲気の美しい顔にクロードがなにげなくつぶやく。

「クロード」

 あまりに不躾な態度にフィグネリアは小声ながらもきつい口調でクロードの名を呼んだ。彼はすぐにすいませんと謝って固く口を閉ざした。

 フィグネリアはまったくとこぼれそうになったため息をのみこんで視線を祭壇へ昇る大神子に戻す。

 ちょうど太陽を真後ろにして立つ大神子の姿にその場にいる者たちが畏敬のまなざしを向けてから頭を垂れる。

 すっと大神子が両手を広げると神官達がひとりずつ木箱を持って祭壇へ上がっていく。

 これからが長い。

 冬籠もりの祭事は北から順に国の各地で行われ、大神殿から神官がひとりずつ派遣され現地の神子と共に祭事を執り行う。そして帰還した神官が一斉にここに集い大神子に各地で捧げられた供物を持ち寄るわけだが、その数五十七人である。

 地理が苦手なクロードにはあげられる地名がどこにあるか聞きながら思い出してみろとは言っているが。

(……諦めたな、これは)

 半分ほど終わった頃に覗き見たクロードは退屈そうにあくびをこらえていた。

 そうして太陽が中天にさしかかるころにようやく終わり、フィグネリアの隣でため息が聞こえた。

 いつクロードが船を漕ぎ始めるかとはらはらしたがとにかく無事終わってフィグネリアもつかの間安堵する。

 しかし、これからだ。

「さあ、音を捧げよ。神霊に、妖精に、その心を潤す甘美なる音を」

 大神官長の言葉にクロードが息を詰める。眠気も吹き飛んだようでその顔は緊張に強張っていた。

「大丈夫だ。いつも通り吹けばいい」

 ゆっくりと立ち上がったクロードにそう告げると彼はこくりとうなずいて祭壇の前に立ち、大神子に向けて一礼する。

 そうして笛に口をあてた瞬間、彼の纏う空気が変わるのがわかった。

 緩やかに、音がこぼれ出す。

 最初は風が木々を揺らすかすかな音に紛れ込んでいた音が音階を上げながら次第に存在感を増していく。

 軽やかにかけていく美しい乙女に似た音色。

 それを追いかけていくうちにふと沈黙が訪れる。美しい乙女のその手を取りたいと恋焦がれさせるような余韻を残して。

 そうして高い音が音階と緩急を巧みに変えながら転がりでてきた。

 聴衆の期待と同じように音は膨れあがって弾け、激しい旋律が踊り狂う。

 乙女が嵐の女神に姿を変えて全てを呑み込んでいくようだ。

 息継ぎをしていないのではと思ってしまうほどの勢いで音がその場を駆け巡った。

 ゆっくりと嵐が静まる。

 そうすると嵐の女神はまた乙女に戻り、静かに去って行った。

 クロードが笛から口を離し、最初と同じように一礼して人々はようやく我に返り歓声を上げるのをこらえる。

 最初に言葉を発するのは大神子、いや神霊でなくてはならない。

「ここへおあがり」

 玲瓏な声が響いて、クロードが大神子を見上げた後に後ろを向いてフィグネリアに視線を送ってくる。

 そのまま従えとフィグネリアが首を縦に振ると彼はゆっくりと祭壇を昇っていく。

 クロードと大神子は何か話しているようだが、フィグネリア達には聞こえない。

「影の娘、そう、名はフィグネリアか。この黄金、気に入った。このアトゥスに献上せよ」

 気まぐれな西風の女神に呼ばれてフィグネリアはきょとんとする。

「はよ返事をせよ。この妾を捕らえられる人の子など久しぶりじゃ。姉様方にも見せびらかしてやるのだ。ほれ是と答えよ」

 そこにいるのは紛れもなく風の四女神のうちのひとり、アトゥスだ。

 彼女がこうして真っ先に降りてくるのは珍しいことだと半ば現実逃避のように考えていたフィグネリアは急かされて現実に引き戻される。

「失礼ながら、私とその者は大いなる地母神ギリルア様や他の神霊方に宣誓し婚姻しています。私ひとりの一存では決めかねます」

「つまらん娘よのう。そういうことを訊いておるのではない。この黄金はお前にとってこの妾に譲れぬほど大事かどうかと訊いておるのじゃ。いらぬと言うならすぐさま神界にとって引き返して母様や兄弟らに許可をもらってくるわ。ほれ、ほれ。はよせぬとこの者を連れて帰るぞ」

 実に、楽しげにアトゥスはフィグネリアをせき立てる。

 周囲は息を呑んでふたりの様相を見守っている。

 どうやらおちょくられているらしいと分かってはいるもののどう返答していいかは分からない。

 どうぞと言って本当に持って行かれても困る。何故と言われれば使い物になりそうだとせっかく手をかけているのに取り上げられるのは腑に落ちない。たとえ女神様であろうとも。

 それに煽るようになにやらクロードの腰に手を回したり、わざわざ耳元に口を寄せて話していたりするのを見ていると胸がむかついてくる。後頭部しか見えない夫は鼻の下を伸ばしているんだろうかと思うとなおさらだ。

「その者は私が磨き上げる黄金です。お譲りするわけにはいきません」

 つい目つきを鋭くして切っ先を向けるように言葉を発する。

 我に返ったフィグネリアが自分の言動に青ざめると同時に高らかな笑い声が響いた。

「安心せい、このクロードには先に自分の女神はそなたひとりと先に断られたわ。しかしそなたからはまるで相手にされないと嘆くのでそれが真実ならば無理にでも攫ってしまおうと思うたが……のう」

 フィグネリアはもはや耳まで赤くするより他なかった。

「よい、よい。なかなかに可愛らしい顔も出来るではないか。よし、アンハルム姉様にもそなたらが永久とこしえに睦まじくあるよう祝福を贈ること頼んでやろう。実に楽しいものを見せてもらった。春には妾からも恵みの風を送ろうぞ!」

 アトゥスが高らかに宣言するとそれまで押さえていたものを一気に放出するかのような歓声が巻き起こる。

 その熱気の中で別の意味の熱さで汗をかくフィグネリアはいますぐここを離れたくて仕方なかった。

 しかしながら次に現れた愛の女神アンハルムに呼ばれことさら目立つ羽目になってしまう。

 祭壇に昇ってようやく顔が見れたクロードの緩んだ顔と熱の籠もった視線に言葉は一切奪われてしまっていた。

「あなたがたの愛が永遠に続くように」

 アンハルムがフィグネリアとクロードの手を取って重ね合わせた。

「さあ、愛の印を唇に」

 さらりと続けられたアンハルムの言葉にうつむき加減でいたフィグネリアは思わず顔を上げる。

 そうするとクロードの琥珀色の瞳が真正面にあって凍り付いてしまった。

 逃げ場などあるはずもなく覚悟を決めてぎゅっと目を閉じる。

 そうすると頬にクロードのかすかな吐息がかかって、次に額に口づけられた。

「唇は、いずれ」

 そして赤く色づいた耳朶にそっとそんな言葉を残して彼が離れる。

 アンハルムが両手を合わせて、あらあらかわいらしいわと少女のようにはしゃぐ横でフィグネリアは小しむくれていた。

 せっかく人が覚悟を決めてやったのに。

 そんな自分自身の思考にフィグネリアは大いに動揺し、心の内であれこれと自己弁護しているうちに次々と神霊達が降りてきてふたりとディシベリアに祝福を約束していった。

「……そなたの笛はこの上ない美酒だ。だが過ぎたる酒は妖精達を狂わせ人も狂わせる。風の妹達には妖精達をおさえるよう進言しておくが、そなた自身も気をつけるがよい。その妻であるお前はこの者が心愚かな者に利用されぬよう気をつけておけ」

 最後に降りてきた地母神ギリルアの二番目の子である闘争の男神、キサガダがふたりに密やかにそう告げた。

 闘争の神が降り立ったこととその言葉に速やかに思考を転換させたフィグネリアの脳裏に雪雲鳥が空を渡る姿が閃く。

 キサガダが降りてくる時にはふたつの意味がある。

 戦の最中であれば勝利をもたらす吉兆。それ以外の時は争乱の幕開け、だ。

「そう恐い顔をするな影の娘。火種はまだ小さい。己をよく知ればそれは治められるであろう。……困難は多くあろう。だが、春には恵みを我が妹が約束した。人の世とは常に戦の場。お前達ならば必ずや打ち勝てるだろう」

 フィグネリアに語りかけた後、キサガダが祭壇の下へと声を張り上げるとイーゴルが前に進み出る。

「お言葉。感謝いたします!! 我ら大陸随一の闘争心で必ずや勝利しましょう!」

 腰の太刀を抜いて高く掲げた皇帝の宣言に兵士らが雄叫びをあげた。

 地が割れんばかりの咆哮にキサガダはよき闘争心だと満足げに言って神界へと戻っていった。

 それと同時に大神子がその場に崩れ落ちる。

「だ、大丈夫ですか!?」

 屈んで抱き起こそうとするクロードをフィグネリアは制する。

「毎年こうだから心配はいらない。後は神子達がやる」

 ほら、とフィグネリアは顎で静々と昇ってく少女達を示し入れ違いに降りていく。

 その間もキサガダの言葉が気にかかって頭を離れなかったが、不意にクロードに手をとられて思考が止まった。

 顔を上げるとクロードは調子に乗りすぎてしまったかと思っているのがありありと分かる気まずそうな顔をしていた。

 フィグネリアは無言でその手を握り返す。

 その時はもう正面を向いていたが温度の上がる掌から伝わってくるものから夫が喜んでいるのを感じた。

 こうして触れるだけで分かるものもあるというのはなんだかとてもよいものだとフィグネリアは思ったのだった。 


***

 

 早朝から続く祭事は神霊達が降り立ち帰った後、祭壇から軍の広大な練兵場に移りクロードは興奮冷めやらぬままに周囲を見渡す。

 敷地の半分には屋台が建ち並び、売り子のかけ声や民衆の楽しげなさざめきでごったがえしていて見ているだけで心が浮き立つ。

 だがクロード達の向かうのはて柵で区切られたもう半分の三つの櫓が建てられている場所である。中央の櫓に大神子と神子達、右側に皇帝夫妻、左側にフィグネリアとクロードが登ると神が何を語ったか聞こうと民衆が柵まで集まってくる。

 そしてイーゴルが祭壇での出来事をよく響く声で語り始めた。

 今年は皇女が迎えたばかりの夫を巡り神霊に対峙し見事に死守したというところで民衆は口々に祝福をのべた。キサガダが降りてきたことに少し動揺が見られたが、気にするほどのことでもないとわかるとすぐに賑やかさを取り戻す。

 やがて屋台の方へと戻っていく民衆を見渡すクロードは顔を綻ばせた。

「いっぱいお祝いしてもらってなんかいいですね。しかし使徒様……あ、こっちでは神霊か。本当に話できるなんて思いませんでしたよ」

「妖精と共に過ごしているなら疑う余地もないだろう。ナルフィス教徒からしてみればまやかしだのなんだのにみえるかもしれんがな」

「信じてないわけじゃないんですよ。ただ身近な妖精達とすら話せないのにさらに遠い存在と会話できるなんていまいちぴんときてなくて」

 実際に声を聞いたときにも疑いの心などなかった。声が、なによりも確かな力を宿して耳から魂まで響いてきたのだ。神霊が降りてくると妖精達が行儀よくしているような感覚もあった。

「そういうものか。……しかし、お前の力については詳しく聞きそびれたが、キサガダ様の言葉がやはり気にかかるな」

 食事が運ばれてきてフィグネリアがまず火酒の入った杯に口をつける。その瞳は冴え冴えとしていて祭壇の上での愛らしさの面影はなかった。

 こういう顔をしているときは近くにいても彼女の心は遙か遠く、クロードは浮ついていた気持ちを沈ませる。

「よくわかんないですけど、俺の力のことは秘密にしておけば大丈夫じゃないですか。あとはフィグにかまってもらえたらいいな、と」

 フィグネリアの正面に座ってみると彼女はほんのりと頬を染めてふいっと顔をそらす。

 視線はこちらに向いていなくても心は引き戻せたようだ。

「……一週間経たずに国中に伝わるんだな。まったく、アトゥス様もお戯れが過ぎる」

 そのまま少し疲れた顔をしてフィグネリアがつぶやく。

 地方から戻ってきた神官はもう一度同じ場所へ戻り今日のことを報告するそうだ。

「いいじゃないですか。夫婦円満が国中に伝わっておめでたいですよ」

「……めでたい話題はなければならないが。……なにかあったか?」

 櫓へ登るための階段を踏む音にフィグネリアが持っていた酒杯を置き近くにある乾し肉を切るためのナイフを手に持つ。

 クロードもその様子を見て近くに妖精の気配があるのを確認する。

 ゆっくりと姿を現わしたのは白い軍服の大柄な中年の男だった。片手には巨大な斧と異様にぎらついている目にクロードは顔を引きつらせる。

 これはどう考えてもまずい。

 とりあえずフィグネリアはどうあっても護らねばとは思うものの突然のことに上手く頭が回らない。

「……近衛ではないな。なぜここにいる」 

 一方、フィグネリアは冷静にそう問いただしていた。

 返事はなかった。その代わりに男が突進してくる。

 それと同時にクロードはフィグネリアに思い切り蹴飛ばされた。

「フィグ!」

 ちょうど腰を上げてようとした瞬間だったものだから階段側へと軽々と転がってしまったクロードはフィグネリアが襲撃者の影になって見えず心臓が握りつぶされる気がした。

「逃げろ!」

 その鋭い声に一瞬の安心を得たものの、襲撃者は攻撃の手を緩めることはなく、バキバキと床板が割れる音と同時に櫓も揺れてすぐに動揺が戻ってくる。

 このままでは足場がなくなり櫓が崩壊するのも時間の問題だ。

 逃げろと言われてもフィグネリアは置いていけない。だがどうすればいいだろう。

 すぐに動かせそうなのは風の妖精で、少し遠くに樹の妖精。地面に土の妖精に石の妖精。しかし風でどうにか出来そうもないし、他は遠すぎるし使い道も思いつかないとクロードは近くの割れた酒瓶を見ながら側に酒の水たまりに視線を移す。

「人間の目ってわかるか?」

 声をかけると酒だまりがアーモンドのような形をとる。

「それだ、それ。お前話分かるな。よしあの大きい方の目の中に入ってくれないか」

 そう言うとすぐに酒だまりは空中に浮き上がりクロードの意思どおりに動いて、斧を振り下ろそうとしていた男が叫び声をあげて地団駄を踏む。

「今のうちにこっちへ!」

 声をかけるとフィグネリアが自分の元へと駆けてくる。後は階段さえ降りれば衛兵が多くいるはずだ。

 クロードはフィグネリアが来るのを待つ。だがその間に櫓が大きく揺らいだ。

 男が巨体を揺らして斧を振り回し始めた。そこへ何かが飛んでくる。

 矢だ。

 飛んできた方向は皇帝と皇后のいる櫓。放ったのは皇后のサンドラのようだった。

「すごい、あの距離からでも当たるのか」

 的が大きいとはいえ百メートル以上は離れているのに命中させるのもそうだが、これだけの距離を飛ばせる弓を放てるサンドラの腕力も相当なものだ。

 半ば呆けるように感心していると、また大きく櫓が揺れてクロードは我に返る。男が痛みに暴れていい加減もろくなった床が抜けたのだ。

「フィグ!」

 フィグネリアが背中を掴まれて一緒に引きずり落とされようとしていてクロードは駆け寄ったが遅かった。

 彼女の体を抱き寄せたと同時にがくりと自分の体が傾ぐ。

 落ちる。

 そう思った瞬間、目を見張っているフィグネリアと視線が交わった。

 ここで終わりたくない。まだ彼女と生きていきたい。

 落下しながらクロードはフィグネリアを強く抱きしめる。

 その瞳は光を帯び、黄金に輝いていた。

 

***

 

 なぜ、先に逃げないのだろうかこの馬鹿亭主は。あげくに助けに来るとはもうどうしようもない。

 フィグネリアは落ちる瞬間、そんなことを思った。

 そうして落ちながら抱きすくめられて逆の立場だったらたぶん自分も馬鹿になっていたのだろうと思った。

 しかしこれは助からないなと他人事のように考えていると背中を風が吹き抜けて妙な浮遊感があった。

「クロード、これは……」

 見えない何かの上に乗っている感覚があった。

 フィグネリアは下を見ながら自分を抱きすくめているクロードに問いかける。

「妖精、みたいですけど……降ろしてくれるか?」

 おそるおそるといった体でクロードがそう告げるとゆっくりと体が降ろされていき、土の上に足がつくとあたりで風が踊った。

 ひとまず助かったようだとほっとしながら地面に座り込む体勢でいたふたりは身を離して立ち上がる。

「何が起こった?」

「いや、俺にも何が何だか……でも無事でよかった」

 改めてクロードが抱きしめてきて頭上で安堵のため息が聞こえた。

 全身に染み渡る温度にさっきより生きているという実感がしてフィグネリアは夫の肩口に額を当てて瞳を閉じる。

 クロードを巻き込まずにすんだと思うと眼裏が少し熱くなった。

「フィグネリア! クロード!」

 狼狽した兄の声が聞こえてフィグネリアははっと目を開く。クロードも腕を解いて声の方へと向き直る。

「無事か!? ふたりとも怪我はないな。神霊様の奇蹟に感謝せねばならんな」

 目を潤ませてイーゴルがフィグネリアとクロードをふたりまとめて抱きしめる。

「兄上、私たちは無事ですので」

 力が強すぎて息が詰まりそうで身を捩ると緩やかに解放されたが、その代わりにぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。

「フィグネリア様、ご無事でなりよりです。皇帝陛下、ここは私がいますので大神子様にこの騒ぎについてのご報告を」

 後にタラスが他の兵とやってきて、イーゴルがもう一度だけ妹夫婦の頭を撫でて大股で大神子の櫓へと向かった。サンドラは祭事の場を血で穢したことを詫びるため先にそちらに行っているらしい。

 あの場でイーゴルに弓を引かせなかったのは穢れを自ら引き受けるためだろう。

 フィグネリアはそれを見送ってようやく襲撃者の男を視界に入れる。うつぶせに倒れた男に刺さった矢は急所を外れているが、首の曲がり方からして生きてはいないだろう。

「すぐに救援に向かおうと思ったのですが、登るわけにもいかず皇后陛下のお手を穢すことになり申し訳ありません」

 それはもう仕方ないことだ。自分とクロード以外が登ることは考えずに建てられた櫓に巨体を備えている男がもうひとり登っていたら確実に崩れていただろう。それにあの距離で確実に矢を当てるにはイーゴルかサンドラのどちらかが弓を引くより他なかった。

「いえ、選択肢が他になかったことは承知しています。それよりこの男は?」

「素性は分かりません。すぐに調べさせます。……フィグネリア様、衛兵を常時おつけください。向こうはなりふりかまわなくなっています」

 真摯に訴えかけてくるタラスの瞳から目をそらしてフィグネリアは白い軍服を着て死んでいる襲撃者を見る。

「信頼できる者がいれば、そうはしますが……」

 誰ひとりとしているはずがない。身の周りの人間は家族以外全員信じていない。目の前にいるタラスにでさえかすかな疑心を抱いているのだ。

「あの、俺が頑張ります。フィグは俺がちゃんと護ります」

 静かにフィグネリアとタラスの会話を見ていたクロードが一歩前に出てよく通る声でそう告げた。

「失礼ながらクロード様にそのようなお力があるとは見えません。ただ、あなた様が神霊様の加護を受けておられているのならお任せしたい」

 自分たちが浮いているのをタラスがいた位置からでも見えたということは他の大勢の民衆にも見られたかもしれない。そう思い柵の向こうを見ると人集りが出来ていて食い入るように自分たちを見ていた。

 まずいことになったと思いながらもフィグネリアは表面上だけ冷静な顔を取り繕いクロードに視線で何も答えるなと制止する。

「あれに関しては私もクロードもよく分かっておりません。今日は祭事です。いずれかの神霊様の御慈悲かもしれません。護衛に関してはまたいずれ。それまでは自衛に努めます」

「……そうですか。クロード様、フィグネリア様はディシベリアの礎となるお方です。それをしかと覚えておいてください」

 納得いかないと顔に書いていながらもタラスはそれ以上何も訊いてこなかった。

 それからふたりはタラスに付き添われて祭事の席で騒ぎを起こしたことを大神子に詫びに行った。

「よい、とおっしゃっております。神霊様より加護をいただいたことが罪なき証だそうです」

 櫓の上で大神子に耳打ちされた神子の少女がそう告げるのを聞きながら、フィグネリアは大神子がベール越しにクロードをじっと見ているような気がした。

 さすがに何か勘づいているのだろうか。

「フィグ! 怪我ないわね、本当にないわね。ああ、よかった。クロードもありがとう」

 櫓から離れてサンドラにも迷惑をかけたと言おうとするより先に彼女の方から駆けてきて抱きしめられた。

「申し訳ありません。お手を穢させて。助かりました」

「ごめんない、は大神子様にだけでいいの。あたしにはありがとうだけで十分」

 こんな風に優しくされると余計に申し訳なく思えてフィグネリアはわずかに表情を陰らせた。

「兵舎の方でちょっと休みません? 静かなところに行きたいんですけど」

 クロードが胸ポケットを軽く叩きながら言って妖精への礼をするのだと気づいたフィグネリアは兄夫婦に断って兵舎へと引っ込んだ。タラスが念のためとついてきたが、突き当たりにある部屋を選んで扉の前ではなく少し離れた廊下に立ってもらうようにした。

「すまない、助かった」

 椅子に座ってまずフィグネリアはそう告げた。

「謝るのは駄目です。さっきも義姉上に言われましたよね。愛してるなら当たり前のことなんです。俺も義姉上も一緒」

 窓辺に立つクロードが素っ気なく言ってフィグネリアの返事を待たずに音を奏で始める。

 流れてくるのは優しい旋律だった。小春日和の木漏れ日のようにどこまでも柔らかく包み込むように音が耳朶から全身に満ちていく。

 愛しているなら、当然のこと。

 それは頭では理解できるし、心でも分かる。

 だがどうしたって自分に限ってはそれを受け止められない。

「恐いんだ」

 演奏が終わってフィグネリアは零す。

「ひとりでなにもかも護りきれないと、いらないと言われそうで。私は兄上の影となるために産まれたのに、それだけが私の産まれた意味なのに……受け入れてくださった母上も報われない。全てを私に託して志半ばに亡くなられた父上にも申し訳が立たない」

 どうしてクロードにこんな事を話しているのだろうと思えど言葉は止まらなかった。

 吐き出しきれなかった感情は涙になって零れる。

「フィグ……」

 そっとクロードに背を撫でられてフィグネリア小さく頭を振る。

「すまない。今の私はどうかしている」

 ひりつく喉で言葉を押し出すとクロードがため息をついて視線を合わせるために跪いた。

「謝る意味が分かりません。言いたいことは言っちゃ方がいいですよ。俺なんて子供の頃は兄上達の悪口とか妖精相手に言いまくってましたから。ちょっとした手違いで聞こえちゃって酷い目にあったこともありますけど」

 その様子はなんとなく想像がついてフィグネリアは涙をぬぐいかすかに笑う。

「お前らしいな。……私は出来ない。言葉は常に揉め事を起こさないように選ばなければならないものだ」

「それで周りが傷つかなくても、フィグ自身は苦しいでしょ」

「私だけが苦しいならそれでいい」

「それが義兄上のためだから?」

「……何が言いたいんだ、お前は」

 上から琥珀色の瞳を覗き込んでフィグネリアは眉根を寄せる。

「理屈とかいったん忘れましょう。愛に打算はないんです。別に義兄上はフィグが難しい事ぜんぶやってくれるから愛してるわけじゃないでしょう」

 一度言葉を切ってクロードが寂しげに微笑む。

「血が繋がってたって愛し合えない兄弟だっているんです。お互い想い合えるって事はフィグにとっては当たり前のことかもしれないけど、たぶんフィグが思ってる以上にすごいことだと思いますよ」

「だが兄上や母上達に貰った愛に報いるためにはやはり私は全て背負わねばならない」

「だーかーらー、報いるとかそういうのなしです。愛してるって言われたら愛してるって返せばいいんです。自分から愛してるって言ったっていい。それが心からの言葉なら他には何にもいらないものなんです」

 自信たっぷりに断言されてフィグネリアは目を瞬かせる。

「勢いだけしかないのに説得力があるなど意味が分からん」

「説得力があるって感じるならそれはフィグが愛を知ってるって事ですよ」

 にこりと笑ってクロードが表情を真剣なものに変える。

「愛しています。だからフィグを失いたくなくて俺は必死になってたんです。妖精達もそれに応えてくれたんだと思います」

 期待するような目にフィグネリアは言葉に詰まる。

 どう、なのだろう。

 自分はこの男を愛しているんだろうか。

 いつもの癖で使えるところ使えないところと理詰めで考えて、神霊にたてついて自分と、クロードを死なせずにすんだと思ったときの事を思い出す。

 失いたくない。

 理屈なんてものはなくてただ漠然とそう思った。

「……私もお前のこと愛している」

 口に出してみると感情はより明瞭になって胸の奥が熱くなる。

「びっくりするぐらい幸せですね」

 そんなこと言われなくても分かる満面の笑顔でクロードは言って立ち上がってフィグネリアを抱きしめた。

「すいません、愛してるだけでいいって言ったけどもうちょっと欲張りになっていいですか?」

 そしていったん体を離して彼は至極真面目にそう言った。

「なんだ?」

「唇、今ここでいただいていいですか?」

 フィグネリアは答える代わりにほんのり頬を色づかせて瞼を閉じる。

 そっと触れ合う感触と同じ柔らかさの幸福を感じた。


***

 

 そしてその夜。

「すいません、なんで距離は変わらないんでしょうか」

 フィグネリアがいつも通りの間隔で寝台に潜り込むとまだ半身を起こしているクロードが遠慮がちにそう聞いてきた。

「神聖な祭事の場であの揉め事を起こしてくるような奴らだ。ここに踏み込まれる可能性もある。警戒は怠るな」

「ですね。いろいろ我慢します」

 クロードが意気消沈した声で言って背から倒れ込んで寝台が軋む。

「…………別に嫌なわけではないからな」

 なんとなく悪いことをした気がしてフィグネリアぼそりとつけたした。

「ああ、そういうのが一番辛いです。可愛すぎる」

「話を変えるぞ。この馬鹿が」

 サイドテーブルの燭台の灯は寝台の上まで鮮明に照らしておらず、赤くなった顔を見られないことに安堵しながらフィグネリアは語調をきつくする。

「話変えるって言っても妖精のことはもうあれ仕方ないですよね」

 それについてはあの後何度も話し合った。祭事中で神霊より祝福を受けた後なのでクロードが神の楽士である事は気づかれてはいないだろう。

 だが不安は濃い。雪雲鳥の渡りにキサガダが降り立ったことにと不吉すぎる。

 祭事が終わると妹夫婦の心配でそれどころでなかった兄が遅れてやってきた怒りを爆発させていたのも気にかかる。今まで暗殺のことを隠してきたというのに面倒なことになりそうだ。

「そうだな。だが兄上はどうしたものか……」

「ああ。怒ってましたね。あれは恐かったです」

 怒りの矛先が向いているわけではないのに部屋から逃げ出したそうにしていたクロードが重苦しく言う。

「厄介なことが起きないように祈るしかないな」

 下手をすれば内乱まで起こしかねないイーゴルのことを考えながらフィグネリアはため息をつく。

「そうですね…………」

 クロードがあくびをして、フィグネリアは自分も眠たいことに気づく。

「今日は疲れたな。……お互い助かってよかったな」

 時間が経てば経つほど死が指先をかすめた瞬間の恐怖は深まり思い出すと背筋が冷えた。

 どちらともなく手を伸べて指先を絡め合い無言でお互いの温度を確かめる。

 フィグネリアは引き寄せられるままにクロードの元に身を寄せる。

「今日ぐらいは近くで寝かせてもらっていいですか?」

 囁かれる言葉にフィグネリアは首を縦に振っておやすみと言い目を閉じる。

 そしてふたりは手を繋いだまま慌ただしい一日を終えた。



 祭事から二日が経ち昼過ぎにフィグネリアとクロードは皇帝の執務室の隣の部屋に呼び出された。

 広い長卓に沿って並べられた三十の席は空でイーゴルとタラスだけが座っている。

「ようやく来たか! タラス、早く話せ。俺の妹と義弟を殺しかけた上に祭事の場まで穢し不届きな奴は誰だっ! 俺自ら出向いてこらしめてやる」

 部屋に入るや否やイーゴルが立ち上がり気炎を吐く。

 席につきながらフィグネリアは頭に血が上りきっている兄の様子にサンドラにいてほしいと思った。しかし彼女は祭事の血の穢れを償い清めるためあと三日は日が昇って沈むまで神殿に籠もらなければならずここにはいない。

 とにかく自分とタラスで諫めるしかないだろう。すでに及び腰のクロードは当てにはならない。

「皇帝陛下、事は単純ではありません。あの襲撃者の身元はアドロフ候と繋がっています」

 祖父の名にイーゴルが一瞬呆けたような顔をした。その様子を見ながら最悪だ、とフィグネリアは歯噛みする。

「馬鹿な! お爺さまがなぜ孫を殺そうとするのだ!」

「フィグネリア様はアドロフ候の孫ではありません」

「例え血が繋がってなかろうが、母上が娘と認めたなら孫同然ではないかっ!!」

 怒りに目を充血させイーゴルが叩いた樫の机がひび割れて、フィグネリアの隣のクロードがびくりと肩を跳ね上げる。

「タラス殿、確証などはあるのですか?」

 わずか二日で突き止められるということに怪しさを感じ静かに問うとタラスは躊躇うように口を開く。

「大変失礼ながら五年前よりフィグネリア様に仕掛けられた暗殺について独自に調査をさせていただいていました。ある程度はどのルートで暗殺の指令が回っているかは把握していますのでそれを踏まえ調査した上の結論です。それと他にルドクシア、カルヴァナ、そして私の実家のラピナの三候も」

 九候の半数近くだ。あまりの事の大きさに目眩さえ覚える。あげくにタラスの父親が関わっているなど。

 イーゴルは目を白黒させてタラスとフィグネリアを見ていた。

「五年も前から、だと。俺は妹がそんな目にあっていると知らずにいたのか。フィグネリア! なぜ俺に言わなかった。タラスもだ!」

「兄上、申し訳ありません。心配をかけせたくなかったのです」

 だからずっと隠していたのになぜまずタラスは自分にだけに告げてくれなかったのだろうか。

 情報を秘匿していたことはアドロフ候の存在の大きさと実家のこともあるからだと推測できるが、なにも兄に直接言うことではないか。

 フィグネリアは批難の目をタラスに向ける。

「フィグネリア様、もはやこれ以上あなたおひとりで全てを背負うのは無理です。私も実家に戻らず近衛を続けながらあなたのお力になれるよう尽力してきましたが父を御するのも難しくなってきました」

 タラスは視線をそらさず受け止めて真っ直ぐに見返してくる。

 そこには自分が正しいことをしているという強い確信があってフィグネリアは唇を引き結んだ。

「お前達、俺の頭でも分かるように説明しろ。なぜフィグネリアが命を狙わなければならんのだ」

 イーゴルが苛立たしげにふたりを見る。理解の範疇を超す事態に怒りは幾分おさまっているようだった。

「皇帝陛下、人は欲深いものです。九候を中心に疑うことを知らず無知で御しやすい陛下を上手く利用し利権を貪ろうと目論む者が大勢います。それに目を光らせ牽制しているフィグネリア様が彼らにとっては邪魔で仕方ないのです」

「タラス殿! 陛下に対してなんということをおっしゃるのですか!」

 あまりにも直接的すぎる言い方にフィグネリアは立ち上がった。

「かまわん。俺のせいか。俺が帝位に相応しい才覚を持ち合わせていないからフィグネリアにそんな苦労をかけさせているのか」

「違います! 兄上に責などありません! 悪いのは全て欲深い愚か者共です」

 嫌だ。いつも剛気な兄がこんなにも悲しそうな顔をしているのは見たくない。

「長い間すまなかった。頭を冷やしてくる」

 イーゴルがいつになく落胆してそっとフィグネリアの頭を撫でて退出する。

 追いたくてもその大きな背はそれを拒んでいる。

「……タラス殿、あなたという人は」

 半ば殺意さえ込めて睨みつけるとタラスは不快そうに眉根を寄せた。

「フィグネリア様のやり方は皇帝陛下のためにはなりません。いままであなたのそのお気持ちを尊重しこらえていましたが、私はあのままの陛下に膝を折る気にはなれません。他にも九候と繋がりがなく蔑ろにされている臣下も同じ思いを抱いているはずです」

「これ以上兄上を侮辱するなっ!!」

 あまりの言いように堪えきれずフィグネリアはタラスの胸ぐらを掴み怒鳴りつける。

「フィグ、落ち着いて」

 おろおろとやりとりを見ていたクロードがフィグネリアをタラスから引きはがす。

「お前は黙っていろっ!」

「俺が口出しできるような問題じゃないのは分かってます。でも今ここで言い争ってたって解決することでもないでしょう」

 クロードがそう諫めている間にタラスが部屋の出口に向けて歩き出す。

「フィグネリア様、あなたは分かっているはずです。イーゴル殿下は帝位につくにあまりにも無知で善良すぎると」

 反論は出来なかった。

 だからこそ自分は産まれたのだ。それは分かっている。それでも兄を侮辱されるのは我慢ならない。

「私も熱くなりすぎました。しばし失礼いたします」

 タラスの背が扉の向こうに消える。

 フィグネリアは自分を押さえつけているクロードを振り払い、椅子の背もたれを殴りつけた。

「フィグ!」

 鈍い音と赤くなったフィグネリアの拳にクロードがその腕を取って無理矢理椅子に座らせる。

「タラス殿は言い過ぎだと思いますよ。でも、ある程度は間違いないってフィグも分かってますよね。全部自分で背負い込もうとしないで義兄上と少し話し合ってみたらどうですか?」

 腫れた手を撫でながらクロードが言うのにフィグネリアは下唇を噛んだ。

 自分が背負うのは当然のことで兄は今まで通りでいい。だから話し合うことなんてない。

 そんな考えを読み取ったのかクロードが苦笑して隣の席に座る。

「長年の思い込みって難しいですね。フィグは義兄上にとって自分の代わりに政務をしてくれる人、じゃなくて大事な妹でしょう。だからさっきもあんなに怒ってたし、自分が知らないところでフィグが辛い目にあっていて悲しかった。逆の立場だったら分かるでしょう」

 上がりきった熱を冷ますように優しく、丁寧にクロードが言い聞かせるのにフィグネリアは小さくうなずく。

 それでも全部自分でしなくてはという考えは自分の中に根を張り半ば同化しているようで引きはがせない。それがなければ存在意義をなくしてしまうようで。

「駄目だ。分かっているが、それでも駄目なんだ」

「急には無理でも一個ずつ考えてみたらどうですか。今まで言いたくても言えなかったこととか、我慢してたこととか。義兄上に直接言う練習代わりに俺が聞きますよ」

 優しい琥珀色の瞳を見つめながらフィグネリアは緩やかに感情を穏やかにしていく。

「……考えてみる。お前は、ないのか? 妖精達がいるとはいえお前はずっとひとりだっただろう」

 優しく慈しんでくる家族がいた自分よりずっと彼の方が孤独だったのになぜこんなにも穏やかに愛を語り孤独を癒やす術を知っているのだろう。

「愛し合える人が欲しかった、かな。母がいつも言っていたから。どんなに辛く苦しくても愛し合える人がひとりでもいるのなら大丈夫だって。それを今俺は心の底から実感中です」

 からかうような口調で言ってクロードがフィグネリアの額に口づけを落とす。

 それだけで嘘のように幸せを感じることが出来た。

「お前がいてくれてよかった」

 ほんのふたつき前にはこんな気持ちは想像もつかなかった。他の誰でもなくクロードが夫でよかったと心の底から思う。

「俺もです。問題山積みだけど一緒に頑張りますよ。で、まず何からしますか?」

「それだな。アドロフ候が動いたというの解せない。信心深い方で祭事に穢れを持ち込むような真似はしないだろう。ルドクシア、カルヴァナの両家ならやりかねんがな」

 あの二家は金に汚く散々やり合ったのでこれまでの暗殺の九割はそこかと思っていたが。

「ああ、そういえば塩業所の件は確か所長がルドクシア候のはとこの娘を後妻に迎えてましたね。繋がりが薄くてもそこから入り込んでくるってすごいですよね」

「そういうものだ。ラピナ候はまるで分からんな。衝突はこれまでもない、というのはタラス殿が間に入っていたからか。……タラス殿に握っている情報を全て見せてもらうしかないか」

 先ほど怒鳴りつけたのは半分ほど反省しているが、やはり兄に対する暴言は許せずにいるので素直に頼みにいけそうにない。

 それに父親との関係も不明瞭で安易に頼るのも危険そうだ。

「タラス殿のところには俺が行ってみましょうか。フィグより甘く見られてるはずですから向こうも気が緩むでしょうし。とりあえず任せてくれませんか?」

 クロードをひとりで行動させるのは正直不安が大きい。

 フィグネリアが返事に迷っているうちにクロードは席を立ってすでにタラスの元へ行こうとしていた。

「ま、待て。途中まで一緒に行く」

 引き留めるとクロードは困ったように首をかしげる。

「俺、信用ないですか?」

「刺客の狙いは私でもうお前を利用する気もないだろうが、用心はするんだぞ。なにかあったら気にせず妖精を使え。いいな」

「一番気をつけないといけないのはフィグだと思いますけど」

 呆れたように言われて私は大丈夫だとフィグネリアは言い切った。それにクロードは何か言いかけたようだったが、その代わり苦笑を浮かべたのだった。


***


 任せてくれ、と大見得をきったもののクロードはやりかけの仕事を片付けに執務室に戻るフィグネリアと別れてから自分の足音にすらびくびくしていた。

 この荷馬車が三台は並んで通れそうな広すぎる廊下をひとりで歩くのは思った以上に寂しい。人とすれ違ったらそれはそれで身構えてしまうが。

「ひとりって恐すぎる……。この状況でひとりになれるフィグはすごいよな」

 あまりの心細さについ妖精に向けて話しかけてしまう。

 だが考えてみればフィグネリアは少なくとも五年以上もこの心細さに堪えていたのだ。これからはこんな思いをさせないよう頑張らねば。

 クロードは自分に気合いを入れて王宮内にあるタラスの私室へと向かう。そしてようやくついた、と少しだけ気を緩め、控えめにノックをするときには顔が強張っていた。

 誰何されて名乗るとどうぞと返ってきてそろりと扉を開ける。それと共に凍てついた風が肌を刺した。

 軍舎のものよりこぢんまりしたその部屋の奥の全開にした窓辺にタラスは立っている。

(頭は冷えるだろうけどこれじゃ風邪引くぞ)

 温暖なハンライダ出身のクロードにとってはこの寒さは辛い。

「フィグネリア様はどうされたのですか。まさかおひとりにさせているのですか」

 クロードひとりと気づくとタラスが責め立てるように言った。

「お互い信頼し合っての分散です。さっきのあれでフィグもタラス殿とは顔を合わしづらいっていうので俺が代わりに暗殺のことについて聞きに来ました」

 少し意地の悪い対抗心をちらつかせながらクロードは答える。

 タラスは敵には見えない。フィグネリアのことを本当に心配しているのはよく分かる。そしてその裏にあるのは紛れもない愛だろう。

「……暗殺の件に関してでしたら仔細にまとめた文書があります」

 タラスが寝台の横に置かれた机の引き出しを開け、仕掛けをしているのか少し時間をかけて紙の束を取り出した。

 しかし彼はなかなかクロードにそれを渡そうとはしなかった。

「わずかふた月足らずであなたはあの方の信頼を得たのですね」

 鉛色をした目に嫉妬と羨望を滲ませてタラスが見下ろしてくる。

「信頼されてるかどうかはまだどうにも。俺はあなたほど優秀じゃないですからね。でも、さっきはちょっと言い過ぎでしたよ。俺よりずっと長くフィグを見ていたあなたなら彼女が何を一番大事にしていたかはよく分かっているでしょう」

 タラスの言い分は確かに間違ってはいなかった。だがフィグネリアのためを思えばあんな手順も踏まず乱暴に皇帝に事実を突きつけるような真似は酷いと思った。

「私はもう我慢がならなかったのです。どれほどフィグネリア様がおひとりでご苦労なさっているかを知りもせずに平和に過ごしているイーゴル殿下を見るたびにずっと苛立ちを覚えていました。知っていますか、フィグネリア様は十二の頃まで髪を背まで伸ばしていたのですよ。皇后陛下と同じ色をしていて自分の髪は好きだからと」

 淡々とタラスは語る。

「先帝が亡くなられてすぐにフィグネリア様は王宮内で刺客に襲われました。私も近くにいたので命は助かりましたが、刺客に後ろ髪を掴まれた時にやむなく切ったたのです。命を狙われたあげくに大切に伸ばされていた髪を自ら切り落とすことになり目に涙をためていました。それでも泣かずにあの方はイーゴル殿下にはなにも言うなとおっしゃったのです」

 そんなフィグネリアの様子は克明に想像が出来た。ひとりで堪えようとするまだ年若い少女がいたなら護ってやらなければと思うだろう。

「前から短くしてみたかったとフィグネリア様がついた嘘をイーゴル殿下は信じてよく似合うと笑っていました。その後も、襲撃を受けて傷を作り、毒を飲まされ伏せってもフィグネリア様は嘘を突き通していました。殿下はそんなことも知らずに重臣達の言葉の裏を読むことも出来ず政務はフィグネリア様なしでは立ち行かない。それでもイーゴル殿下は九候の長であるアドロフ家の血を引くからというだけで帝位についているのです」

 長々と語るタラスの苛立ちも分からないでもないと思った。

 愛しい少女が傷つき孤独に苦悩する傍らでその元凶が毎日側で悩みらしい悩みもなく脳天気に暮らしているのだ。文句のひとつも言いたくなるだろう。

「あなたはフィグを皇帝にしたいんですか?」

「したいのではありません。元よりあの方がなるべきなのです」

 確固たる意志を持った言葉にクロードは不快感を覚えた。

「そうやって重荷を背負わそうとするからフィグは愛されていても孤独なんですよ」

 自分が思っているよりずっとフィグネリアは有能で強い人なのだろうけど、あまりにも抱えているものは大きすぎる。

 いつまでもひとりで支えられるものではないとタラスも分かっているだろうに。

「……そうですね。あなたがいてくれさえすれば、あの方は孤独ではないでしょう。帝位とて」

 タラスが言いかけたところでドアが叩かれる。外では火急の用件だと訴えかける声があった。

 入室の許可があってすぐに部屋に入ってきた兵士の顔は青ざめていた。

「タラス様、ラピナ候、父君がお亡くなりになりました!」

 クロードは驚きに目を見開きながらタラスを見る。そしてその顔には驚愕も悲しみもなく二度驚いた。

 クロードの感情に呼応するように凍てついた風が部屋を吹き抜ける。

「フィグネリア様のことをお願いします。あなたさえいればなにもかもが上手くいくはずです」

 意味深な言葉を残してタラスはその日実家へと戻った。

 後になってラピナ候が毒殺であったことが知らされる。ただそれは始まりに過ぎなかった。

 翌日にはルドクシア候が毒殺され、さらに次の日にはカルヴァナ候が毒を盛られて意識不明の重体。

 そうしてさらにそれより五日後には第二皇女のリリアがアドロフ候が毒殺されかけたという知らせを持って帰ってきたのだった。

 

***


 リリアが知らせを持ってきたのは夜も遅くのことだった。雪深くなる前にひ孫の姿を見せに夫婦で訪れていたその翌日にアドロフ候は常備薬を服用したところで倒れたらしい。

 幸い薬に詳しいリリアが近くにいて毒の量も致死量ではなく今は命に別状はないそうだ。

 ただ問題は送りつけられた書状である。

――愚帝を玉座に座らせ、賢帝を影に貶めただけに留まらずその命を奪わんとした罪は死に値する。

 アドロフ候はこれを目にして憤慨し、リリアは仕方なしに一服盛って安静にさせてこちらへ戻って来たということだ。

 時間も時間でリリアも馬で二日かけて急いできたので疲れているということで今日はそこまででそれぞれ寝室に下がった。

「タラス殿は帰すべきではなかったな」

 クロードとふたりきりになって寝台に腰を下ろしたフィグネリアは前髪をかき上げながら吐き出す。

 父親の死に対する反応をクロードから聞いたときにおかしいと思ったものの、確たる理由もなく当主が急死したのにその嫡男を留めておくわけにもいかなかった。

 しかし各暗殺の起きた日はそれぞれこの帝都から祭事の翌日に出立してそこに到着する予定日であるとなるともはや誰が動いたかは想像に足る。

「ここまでしてタラス殿はフィグを帝位につけたいんですね」

「そう単純に捉えるな。兄上に説明しているのをお前も聞いていただろう。兄上は九候家の権威の象徴でもあるんだ。それをこんな乱暴な手段で退位させようとすれば九候を敵に回すことになって内乱になる」

 九候家の持つ兵団を併せれば国の兵のおよそ半分になる。もう残り半分が決起すれば国はふたつに分かれて酷い惨状になるだろう。

 むしろそれが狙いなのかもしれない。

「でも、タラス殿は俺がいれば全て上手くいくって言ってましたし、あの人は本気でフィグを帝位につけたいと思ってるんですよ」

 問題はそこだ。

 クロードとの結婚を誰が最初に画策したのかいまだにたどり着けていない。タラスであるなら結婚してすぐにクロードを不審がっていたのはただの芝居であったのだろうか。

「何かがあるはずだ。お前が選定される理由は神の楽士であるからしかないだろうが、本当に誰も知らないのか?」

「母は父にも伝えてないですし、もう何代も前から隠してるって言ってたから絶対に知ることなんてあり得ないですよ。聖典にもそういうことは一切書かれてないみたいですし」

「誰かに見られたということはないのか? 私にはあっさり見つかっていただろう」

「俺、ここに来るまではほとんどひとりだったんです。いつも笛を吹いていたし、妖精達も不満をため込んで人前でああいうあからさまなことはしませんでした」

 聞けば聞くほど分からなくなってくる。

 アドロフ候以外の毒を盛られた三人に関してはいまだに詳細は分からず、毒が同じ物かというのも分からない。調査をするにしても自分が今まで比較的信用していた内務官は九候に反発的な者たちばかりで首謀者の可能性もある。

「手詰まりだな。兄上にこれ以上落ち込んでいてもらいたくはないのだがな」

 フィグネリアはリリアからの知らせを聞いたイーゴルの様子を思い出して胸を詰まらせる。

 アドロフ候に送りつけられた書状の内容を聞くなり退位して自分に譲位すると言い出したが、それでは解決にならないと分かると自分では何も出来ないとひたすら落ち込むばかりだった。

「……人間悩むことは必要だと思いますけどね」

 クロードの言うことはもっともだがとわずかにフィグネリアは顔をうつむき気味で傾ける。

「ほら、また自分だけ悩もうとしてますよ」

 その顔をクロードが両手で挟んであげさせて額を合わせる。

「……ならお前も一緒に悩め。この状況をどう考える?」

 軽く額を押し返すとクロードは真剣な面持ちになる。

「フィグを皇帝にしたい、と思ってる人が多いのは確かだと思いますよ。血統主義の中で血筋じゃなくて実力で人を判断するフィグは後ろ盾のない人間からみれば理想的な君主です。それに権力握ってる連中が血統と同じようにご立派ならまだしも腐ってる。対立の構図はできあがってるわけで……」

「撒かれた油に火を注ぐぐらい簡単に大火事が起こせるな。だがそれで誰が得をする? ロートムの国力でもってもディシベリアを二分する内乱を治めて新たに治世を布くというのは難しい。兵器の開発を進めているようだが、それ以外に戦の支度をしている様子はないぞ」

「なら俺とか? 妖精使えるところ見せびらかせればこの国の人って敬ってくれそうですし。でも俺はそういうのは好きじゃないですね」

 クロードが冗談めかして笑う一方でフィグネリアは真剣に考え込む。

「それは、考えないでもなかったがやはり前提としてお前の力を知っている必要があるな」

「ああ、そうですね。結局またそこに戻って来ちゃいましたね……」

 言いながらクロードが窓の方を見てふらりとそちらへ向かう。そして分厚いカーテンを開け、窓まで開いてしまう。

 冷たすぎる空気が部屋に入ってきて燭台や暖炉の火が震える。

「フィグ、雪が降ってますよ。雪の妖精って静かなのに自己主張激しいなあ」

「意味が分からんぞ。妖精の声は聞こえないのだろう」

「聞こえないんですけどなんていうのかな。風の妖精みたいにがやがやした気配じゃなくて石の妖精みたいに寡黙だけど薔薇の妖精みたいに鮮やかなんです」

「やはり分からんな。雪の妖精達もお前の笛を聞きたがっているのか?」

 フィグネリアは理解するのを諦めてそう問うとクロードがうなずいて笛を吹き始める。

 高く澄んだ音が淡々と流れ出る。かすかな変化で音は閃いてまた沈む。色に例えるなら銀色のような音。

 フィグネリアは彼が感じている雪の妖精の気配というのはこういうことかもしれないと耳を傾けながら瞳を伏せて刻をさかのぼる。

 あれは父が没して最初の雪が降り積もる静かな夜だった。暖炉の灯だけでは心細く燭台の火をつけたまま寝台にもぐりこんだ。周囲にわだかまる影に誰かが息を潜めていて自分を殺しに出て来るのではないかと思うと恐かった。

「……雪の降る夜には誰かに側にいて欲しかったな」

「それは今まで我慢してたことですか?」

 雪が手を振るようにふわりと舞うのを見届けたクロードが窓を閉めて隣に座る。

「ああ。ひとりでいるのが恐いと言える年でもなかったし、兄上やリリアを巻き込むわけにもいかないので我慢するしかなかった。直に慣れたがな」

「俺が一緒だからそれは解決ですね」

 躊躇いがちにフィグネリアはクロードに身を寄せる。

 自分からこうして誰かに寄り添うことなんてあっただろうか。

「これなら春まで飽きずにすみそうですね」

 口づけられて瞳を閉じると背中が寝台に沈んだ。

「待て。ここまでだ」

「……すいません。分かったから顔つねらないで下さい。よし、早く解決しましょう。普通の新婚生活が送れるように!」

 力のいれどころが別だろうにと思いながらもフィグネリアは小さく笑う。

「なら、今夜はさっさと寝るぞ。明日はリリアから仔細を聞かないとならないからな」

 だが燭台の火を消しても眠れなかった。

 フィグネリアは穏やかに眠るクロードの暖炉の灯を吸い込んだような色の髪を見つめながら考える。

 内乱が起きて得をするのは、クロード。

 妖精を従えられるというのは内乱を治めるのに十分な切り札になり得る。神の楽士であることを現時点で分かっているのは自分と彼自身。

「もうひとり、いるか」

 つぶやいてフィグネリアは小さく頭をふりまさかと薄笑いを浮かべる。

 だがそれを前提に考えるといくらか説明がつく。それなら目的は何か。さらに背後にロートムがいるのかと考えるとそこでつまづく。

 ぐるぐるとひとりで考えていたフィグネリアは寒いのかにじり寄ってくるクロードに身を寄せてこの先は明日にしようと目を閉じた。

 

***


 翌日、イーゴルの寝室の隣にある部屋へと兄妹達は次女以外は伴侶と共に集まっていた。

「いやだわ。イーゴルお兄様がまだ悩んでいるなんて大雪になるわ」

「リリア、兄上に失礼だぞ」

 ソファーにクロードと並んで座るフィグネリアは眉をひそめて最後に入ってきた妹をたしなめる。

「いや、いいんだフィグネリア。俺は、俺はつくづく自分が情けないぞっ!!」

 落ち込んでいても声だけはいつも通りのイーゴルが叫んで紅茶のカップがびりびりと揺れる。

「ほら、お茶が零れるからおとなしくてて。もう、落ち込んでるならもっとそれらしく静かにしてなさい」

「す、すま、むぐ」

 サンドラに言われて大声で謝ろうとしてしまったイーゴルが自分で自分の口を押さえて背を丸める。

「フィグ、みんな義兄上に対していつもこうなんですか?」

「お姉様がイーゴルお兄様に甘いだけですのよ。いろいろと丈夫なのだから多少は雑に扱ってくださってもかまいませんわよ」

 クロードが声を潜めて聞いてきたが、リリアには聞こえていたようで答えながら彼の隣に座った。

 またイーゴルに対して非礼なことをとフィグネリアはリリアをねめつけるが妹はすまし顔で無視してくれた。

「おう、そうだぞ。俺は丈夫だから遠慮はするな」

 声は控えめにイーゴルが大きく胸を張るのにクロードは愛想笑いを浮かべる。

「……タラス殿の気持ちは分からないでもないですね。った」

「リリア、余計なことはいいから薬に関して詳しく教えてくれ」

 フィグネリアは夫の足を踏んで本題へと斬り込む。

「毒の混ざっていた薬はベッドサイドの鍵つきの引き出しに入れているお爺様の常備薬ですわ。毒、というよりファラント草の配分が通常より多かったみたいですわ。適量なら心臓の薬になるものですわね。服用しすぎると高熱のあとに心臓発作を起こして亡くなってしまう」

「……全員同一のものだろうな。アドロフ候の薬はいつ新しい物を手に入れたんだ?」

「お爺様は昨日神殿に行って神官長様からいつものように五日分貰って引き出しへしまったそうよ。だれかが鍵を持っていったと怒っていらっしゃったわ」

 話を聞いていたクロードがすいません、と口を挟む。

「この国では神殿で薬を貰うんですか?」

「神官はお前の国でいうところの医者というものでもある。人の命に関わることは神殿の領分だからな。薬に関してはリリアのように神殿より許可をいただいている薬師もいるが、近くに神殿がない場所がほとんどだ」

「じゃあ、神官がわざと配分を変えた可能性もあるんですよね」

 クロードの何気ない発言にその場の空気が凍りついた。

「クロードお義兄様、そういうことは思っていてもこの国では絶対に口になさってはいけませんわ。大神子様を通じて大神官長様からお言葉があるまでは神殿を穢した罪に問われますから」

「……はあ、すごいですね。なんていうかすいません」

 クロードが驚きと戸惑いで目を瞬かせて頭を下げる。

 神官は神の側にいる者として同じように尊ばなければならない。

 これはナルフィス教でも同じだが、ディシベリアとは受け止め方が少し違うのだろう。ささいな感覚の違いはお互い言われなければ気づかないことなので仕方ない。

「こういうことは経験して覚えていくしかないからな。次からは気をつけておけ。リリア、お前が直接帰ってきた理由は?」

「叔父様が挙兵もやむなしって手がつけられない状態だったのでわたくしがお姉様から直接話を聞いてくるまで待って貰ってますの。わたくしが一番中立でしょう」

「……バラノフ伯爵夫人の立場なら中立というのは少し違うだろう」

 だからこそ半ば夫のパラノフ伯を人質に取る形でリリアを送り出したようにも思えるが。

「それは後ろ盾のないお姉様につくよりお爺様につく方がいいのだけど、旦那様はわたくしの信じるものに正直でいなさいって。ああ、わたくしあの方にときめきすぎて寿命が縮まりそうですわ」

 心臓を押さえておおげさによろめいてみせるリリアにフィグネリアは疲れたため息を吐き出した。

「夫婦仲良くて羨ましいですね。それで伯爵夫人は誰の味方なんですか」

 姉妹に挟まれて肩身が狭そうにしているクロードが羨ましそうに言ってリリアを見る。

「もちろんお姉様ですわよ」

 躊躇いない妹の返答は不意打ちだった。

「そうだ! こんなことで家族の結束は崩れんぞ!!」

 フィグネリアが何か言う前にイーゴルが立ち上がり叫んでカップから紅茶が飛び出した。

「で、どうするの?」

 サンドラが無邪気な笑顔で聞くとイーゴルが一瞬だけ考えてフィグネリアに視線を向ける。

「フィグネリアっ、頼りない兄で本当にすまん! 俺は、俺は自分が情けないっ!!」

 今度は床に崩れ落ち拳を振り上げた兄をフィグネリアは慌てて止める。

 床に穴を開けられたら無駄な出費がと頭の片隅でそんなことを考えている自分を恨めしく思いながら。

「兄上、私のことはお気になさらず。タラス殿の元へ行ってきます。リリアは後の事を頼んだ。クロード、行くぞ!」

 フィグネリアは一礼してクロードを引き連れて部屋を出る。

 このまま額をつきあわせていても解決しないとなると本人に直接聞くしかないだろう。

「本当に家族仲いいですね。フィグが頑張りすぎるのも分かります。ところで、結局毒に関しては……」

「お前の言うとおりである可能性が高い。神官ならば街道の関所を腕の神官章を見せるだけで通れる上にどれだけこんでいようが優先されるので移動が容易だ。神殿になら神の楽士についてももっと資料が残っているだろうしな」

 クロードとふたりだけとはいえこんな事を口にするのは心苦しい。

 絶対的に公平で限りなく神に近いはずの神殿を疑うことは神を失うに等しいほどの恐怖がある。

「しかし、資料が残ってたってよく探し出せましたね」

「そうだな。そこは当事者にでも聞かねばならないだろうな。さあ、急ぐぞ。日暮れまでにはサラルの宿場にまで行って、明日の昼にはラピナ家にたどり着く予定だから飛ばすがついて来られそうか?」

「…………雪積もってますけど、馬で行くんですか? 馬車じゃなくて」

「馬車では遅い。無理そうならふたりで乗るか。しかしふたりでとなるとやはりもたつくな」

 どうする、とクロードに決定権を委ねてみると彼は無言で薄ら笑いを浮かべてた。そしてしばらく待つとこくりと首を縦に振る。

「ひとりで乗ります。大丈夫なはず、です」

 そしていささか自信なさげながらもしっかりとした面持ちで彼は言ったのだった。


***


 翌日、予定通りにフィグネリアとクロードは馬を進めていた。

 ラピナ候領は帝都より北西の山間部にあり特に冷える。薄手の服を数枚重ね着し、耳当てのついた毛皮の帽子をかぶり裏に毛皮を貼った外套を羽織っていてもまだ冷える。

 フィグネリアは慣れているのでまだ冬の始まりに過ぎない寒さには十分耐えられるが、クロードはずいぶん堪えているらしい。

「大丈夫か? あと少しだ」

 昨日からずっと馬を飛ばしていて一晩休んだぐらいでは回復しきっていないクロードの疲れ切った横顔にフィグネリアはそう言う。すると鼻の頭を真っ赤にしている彼はぎこちなく笑った。

「寒すぎると痛いんですね。俺の国の冬ってここからしてみれば春みたいなもんだったんだなあ……」

 これは冬も深まると暖炉に暖められた部屋から一歩も出られないのではないのだろうか。

 今からそんなことを不安に思いつつもフィグネリアはクロードにあわせて馬を進める。

 街道からラピナの城下町に入ると白く染まった街は閑散としていて家々の軒先には氷柱と一緒に数本の黒い棒が垂れ下がっている。

「なんで炭をぶらさげてるんですか?」

「魂を送るためだ。出来るだけ多くの妖精達に導いてもらえるように」

 風が吹いて炭同士がぶつかったり氷柱に当たったりして透明な侘びしい音が響く。

 雪のせいもあって人のいない通りを言葉少なにふたりは進む。しばらく行くと大きな屋敷が増えていきさらにその向こうに神殿とラピナ邸が向かい合って建っている。

「……俺の実家より大きいですね。まあ、九候領はどこも俺の国の倍以上の領土があるから当然といえば当然かもしれませんけど」

 馬から降りたクロードが屋敷を囲んでいる塀を眺める。

 九候家の城の大きさなど特に驚くことでもないフィグネリアはさっさと門番に取り次ぎを頼みに行き、彼がその後を追う。

 第一皇女が自ら赴いてきた事態に不審な顔をしていたもののすんなりと中に入れた。屋敷に入ると使用人達が急な来訪にばたばたとしながらふたりを客間へと案内する。

「フィグネリア様。このようなところまでどうされたのですか? また護衛もつけていらっしゃらないのでしょう」

 それから間もなくタラスがやってきて眉をひそめる。

「夫ひとりいれば十分です。アドロフ候のことはもうご存じですね」

 要点だけ問うとタラスは視線をそらした。

「神殿は一体なぜ協力をしているのですか」

 何も答えない彼にフィグネリアは立ち上がり質問を畳みかける。

「……それが、正しいあり方だと。この国のためにあなたが帝位につき腐敗の元である九候を排除するという私の思想は間違っていないと大神官長がおっしゃっていました。全ては大神子様からもそのように命が下されたとも。あなたには神殿が後ろ盾になります。そしてクロード様が紛れもなく神の楽士であるということを知らしめれば誰も逆らうことは出来まん」

「なぜ、神殿が……あなたはどうして今までそれを黙っていたのですか」

 政治にはけして関わることのない神殿がそんなことを言い出すのは不自然すぎる。

「時が来るまでは黙しているようにとのことでした。だがあなたが勘づかれたのなら全てお話ししましょう」

 タラスが黙々と話し始めてフィグネリアはソファーに腰を下ろす。

 四年前、タラスが神殿で祈りを捧げていたところ、神官のひとりが声をかけてきてということだ。そして大神官長の元へと連れて行かれ、イーゴルへ抱く不信を言い当てられ全てを吐露したそうだ。

 九候家のうちの一家であるラピナ家嫡男でありながら反九候家派達と親交を持つタラスは反旗を翻すことを決意したということだ。

「すぐにでも神殿を後ろ盾にしてフィグネリア様を皇帝に擁立しようとしました。ですが神殿側からは確実性を得るために他国に流れていった神の楽士の末裔との婚姻をすべきだと言われ捜索し、クロード様を見つけたのです」

「え、最初会ったときに俺のことすごく警戒してませんでしたか?」

「……失礼ですがもっと大神官長様や大神子様のように一目でそうだと分かるような神聖さを持った方だと思っていましたので信じがたかったのです。ですが祭事で本物だと確信しました。そしてあの場に刺客が放たれたことにより大神子様は私に決断を迫られたのです」

 タラスが両の拳を握りしめる。

「私は何度も父にあなたを殺せと命じられてきました。十分に贅沢な暮らしをしているのにまだ足りず無用な税を搾取し私腹を肥やしたいがためだけに。仲間のための散財は惜しまず自らは清貧を貫いたかつてのラピナ族の長の高潔を自ら穢し貶める父を私は許せなかった! 改めて決断する必要などなかったのです」

 自分が幸福にも抱くことのなかった感情を目の当たりにフィグネリアは言葉を失う。

 誰にも明かすことの出来なかった鬱屈を見透かされ神殿の言に希望を見いだし彼はすがってしまった。それを責めることはおろかどんな言葉も思いつきはしない。

 隣にいるクロードはそっと目を伏せて唇を引き結んでいる。

 沈黙がその場に降り積もる中、部屋の外から至急大広間へとの声がかかる。

 不自然に震えた声に先に立ったタラスがドアを開けろと命じる。

 フィグネリアも身構えていたのだが、部屋の外にいたのは初老の使用人ひとりだった。

「神官長様がおいでです」

 困惑と恐怖を顔に貼り付けた使用人にフィグネリアはタラスと視線を交わし、物々しい様子に顔を強張らせているクロードを見る。

「なんかこれまずい状況、ですよね」

「おそらくな。タラス殿、なにも知らないのですね」

「聞いておりません。神官長様は一体何をしに来られたのだ?」

 使用人は三人で出てくるようにとだけしか答えず、やむを得ず三人で大広間に向かうことにした。

 タラスを先頭にして長い廊下を進み、彼が両開きの大きなドアを開けると立ち止まった。その後ろにいるフィグネリアには大広間の様子が見えずに少し体を横にずらす。

 そして目にした光景の異様さに言葉を失った。

 大広間には神官十数人が横に並んでいる。

「フィグ、この国の神官ってみんな銃を持っているんですか?」

 唖然とした声で言うクロードの言うように神官達は銃を持っていた。あげくに銃口はこちらへと向いている。

「一体これはなにごとですか?」

 神官達の後ろにいる壮年の神官長へタラスが問いを投げかける。

「クロード様をお迎えにあがりました。手荒な真似はしたくありませんので抵抗はなさらないように。大神子様もあなたが来るのを待っているはずです」

 目的はクロードひとり。ならばやはり自分を帝位につけることは嘘だ。銃の仕入れどころはロートムで間違いないだろうが、神殿側が共謀する理由はなんだ。

 広間を隅々まで見渡しながらフィグネリアは思考を巡らし、背後から聞こえてくる足音に歯噛みする。

 囲まれたようだ。

 ここまで来るのに廊下は三方向に分かれていたが、それは応接室を出てすぐの場所で後は一本道。途中に部屋はなかったはずで退路はない。

 彼らの目的であるクロードを盾にすれば退路は作れるかもしれない。しかし向こうが彼にあてずに自分とタラスにあてるだけの腕と自信があれば一巻の終わりだ。

「分かりました。行きます」

 膠着状態の中で大きな声が響いた。

「クロード……」

 フィグネリアは手を握られて夫を見上げる。

「その代わり、全員ここから出てください。フィグとタラス殿には一切手を出さず、です。俺の力、知ってるんですよね。もしふたりに何かあったなら絶対に許さなないってことだけは覚えといてくださいね」

 虚仮威しだとフィグネリアはすぐに気づいたが周りの神官達は怯んでいる。

「それで、後どうしましょう」

 こっそりと聞いてくるクロードにフィグネリアは額を押さえた。

「……必ず助けに行く。時間稼ぎと内部調査をしていてくれ。方法は任せる」

「分かりました。……フィグ」

 いつまで経っても手を握って離そうとしないフィグネリアにクロードが微笑む。

「信用してください」

 もう一度だけフィグネリアはきつく夫の手を握ってから離す。

 クロードが神官長の前まで行くとようやく銃が下ろされて背後にいた神官達も横を通り過ぎていく。

「……フィグネリア様、私は先走り過ぎました。申し訳ありません」

「いえ、神殿がこのような真似をするとは誰にも想像がつくものではありません。それより、タラス殿、あの銃の入手経路と資金はどこから?」

「分かりません。あれほど大量に入手できる経路を神殿が確立していたとは……資金に関しては私が寄進額を増やすように父に進言しました」

「帳簿は後で拝見させていただきます。ですがあれだけ仕込めるにはまだ裏がありそうですね。さて、クロードは大神殿の方でしょうが……」

「お手伝いさせていただいてよろしいですか?」

 タラスの申し出にフィグネリアは迷いながらもうなずく。

 神殿に対峙することなど事態前代未聞だ。使える者は使わねばこの事態はどうしようもない。

「……クロード様が向こう側である事はお考えにならないのですね」

 言われて初めてその可能性に気がついたとフィグネリアはタラスを見上げる。

「あなたは、お変わりになりましたね」

 どこか寂しげに言うタラスにフィグネリアは笑ってみせる。

「変わってはいないかもしれません。私は家族を信じて愛しています。ずっと昔から」







 神官達に襲撃された二日後の朝、クロードは目を開けて側にフィグネリアがいないことに首をかしげてああ、そうかと思い出す。

 昨日の夜更けに帝都の大神殿に到着した。馬車に乗せられて体の負担は少なかったが、両脇に銃を持った神官ふたりがいては気が休まらず疲れ切っていた。

 案内されたそれほど大きくはない部屋の暖炉にはあらかじめ火が入れられて暖かく、シーツや毛布も真新しいもので横になるとすぐに眠ってしまったのだ。

「さあ、時間稼ぎとかなんとかいろいろしなくちゃな。お前らもちょっとは協力してくれよな。後でいろいろ笛聞かせてやるから」

 着替えて眠気も覚めたクロードはいつも自分にまとわりついている風の妖精や暖炉で燃えさかる火の妖精に声をかけて笛を取り上げられていることを思い出す。

 後払いでどこまで言う事を聞いてくれるかは不安だが仕方ないと部屋を出て、温度差に体を震わせながら周囲を見渡す。見張りらしき者はおらず、出歩きは自由に出来そうだった。

 とはいっても広い。中央の礼拝堂を囲むようにしていくつもの棟が立ち並んでいる造りだったことは覚えているが。

「で、具体的にここはどこだよ」

 そうつぶやいても答える者はいるはずがない。

 しばらく歩いて行けば何人かの神官や神子とすれ違ったものの挨拶ぐらいしか返してもらえなかった。

「ここが、中央」

 誰もいない礼拝堂にたどり着いてクロードは一番奥の地母神像の前に立って顔を綻ばす。

 初めて、フィグネリアと出会った場所。

 花嫁衣装を纏った彼女の美しさに見とれて、次には睨まれて驚かされた。緊張してるのかなと笑いかけて反応が素っ気なかったのは少し傷ついた。

「なんの企みがあるかはしらないけど、これだけは感謝しないとな」

 今が幸せなら、あの出会いもいい思い出だ。

 彼女は今、何をしているんだろうか。無事だとは思うが早くこんなこと解決して抱きしめに行きたい。

「どうか、ご加護を」

 クロードが祈ると背後の両開きの扉が開いた。振り返るとそこには結婚式のときのようにフィグネリアがいるわけではなく、なぜか義兄のイーゴルがいた。

「おお、戻っていたのか、クロードよ! フィグネリアはどうした?」

 堂内に声を響かせながらイーゴルが歩み寄ってくる。

「まだタラス殿のところにいると思うんですけど義兄上はどうしてここに……」

「大神官長様から呼び出しをうけてな。しかしここにお前が立っているのを見ると結婚式を思い出すな」

 実に幸せそうな笑顔でイーゴルは言った。

「本当を言うと最初は俺が婿を決めてしまうのは気が進まなかったのだ。フィグネリアには自から結婚相手を選んで欲しかったからな。どうしても嫁にいきたいというのならそうさせるつもりもあった」

「そうだったんですか。でもまたなんで俺なんかと結婚させようと決めたんですか?」

「勘だ!」

 堂内に反響する言葉にもっと深い理由を期待していたクロードは肩を落とす。

「俺はお前と実際会ってみてフィグネリアも気に入るに違いないと思ってな。俺の勘は当たっただろう」

「すばらしい勘です、義兄上」

 この勘がなくともあの手この手で自分はここにつれてこられたとは思うものの、ただ純粋にフィグネリアのために自分を迎えてくれた人がいることは嬉しかった。

「そうだろう。しかし大神官長様は俺になんの用だろうな」

「……あんまりいい予感はしませんね」

 自分のこの勘は外れて欲しいところだ。

 しかしいいことがあるかもしれないという直感が当たることは希だったが、兄にこっぴどくいじめられる気がすると思うときは大体当たっている。

「あなたを保護するためです」

 そう言いながら大神官長がギリルア像の奥にある小さな扉から出てくる。

「大神子様よりの託宣です。フィグネリア皇女殿下はずいぶん昔からラピナ家嫡男……今は当主のタラス様と情を通じており、そこにおられるクロード様の神の楽士としての力を利用しあなたから帝位を奪うために偽りの婚姻を結んだのです。クロード様もそれに気づかれてこちらへ助けを求めに来たのでお護りしているのです」

「すいません、俺、銃突きつけられて連れてこられたんですけど」

 あまりにも堂々とした嘘に唖然としながらもクロードは小声で言ってイーゴルを見る。

「……自分は神殿を疑えません。しかし妹も信じております。困ったな」

 矛盾するふたつの思考にイーゴルが腕を組んで唸る。

「あなたはこれまで一度もフィグネリア皇女殿下をうとましく思ったことはないのですか? お母君はここへ来て私に本当は父君が側室を設けることは辛いと告白していらっしゃいましたよ」

 人の隠された部分を卑しくさらけだすような言葉だった。クロードは聞いてはいけない、とイーゴルに忠告を投げようとする。

「父上が側室を持つ事に母上が苦しまれたことは知っています。だからフィグネリアが産まれるまでは可愛がれないだろうと思いはしました」

 しかしそれより先に厳かにイーゴルが口を開く。

「だが、実際産まれたばかりのフィグネリアは可愛かったのです。赤子というのは可愛いものだからそう思うのだと思っていましたが、他の赤子を見てもフィグネリアほど可愛くは思えませんでした。それから後に同じぐらい可愛いと思った赤子はリリアでした。結局それからどれだけ成長してもふたりとも可愛いのです。とにかく可愛いのです!」

 イーゴルが真顔で妹馬鹿を語ると大神官長が怪訝そうに眉をひそめた。

「真実はいずれ分かるでしょう。さあ、クロード様もご一緒に大神子様の元へ参りましょう」

 確かに真実はそのうち分かるだろうなと思いつつクロードは考える。

 自分が側にいればひとまずはイーゴルに危害は加えられないはずだ。神殿側の内側に入っておそらく裏で糸を引いているだろうロートムの思惑を探ればフィグネリアの助けになるはずである。

 後は、どうにか隙を見てイーゴルと脱出の手段を探しておく。

 思考を纏めたクロードは会うだけ会おうとイーゴルを促して部屋の奥へと向かおうとする。

 その時、炸裂音が響いて仮定が覆される。

 イーゴルがその場に膝から崩れ落ちる。

 その腹部からは止めどなく血が溢れ出していた。


***


 同じ日の昼頃、夜に急に吹雪いて足止めされて出立が遅れようやく王宮にたどり着いたフィグネリアとタラスは衛兵達に囲まれていた。

「神殿より皇帝陛下が撃たれて瀕死の重傷を負い療養中だとの知らせがあった。これはタラス殿の部屋と皇女殿下の部屋から出てきましたが、何か弁明することはありますか」

 近衛兵長が後ろの配下に命じて銃と暗殺についての相談のやりとりを残した手紙を出してくる。タラスが銃を部屋に置いたままにするわけはなく、こんなお粗末な偽造の手紙を信じる程度の低さにフィグネリアは頭痛を覚える。

 こんなものにつきあっていられない。

「道を空けろ。兄上の無事を確認しに行く」

 低い声で命じると周りを取り囲む兵達が身構えて、フィグネリアは腰の短剣の柄を握る。

 動揺と怒りはすでに頂点を超して、イーゴルの元に行くということしか頭になかった。

「フィグネリア様。どうか冷静に。何があったのですか」

「神殿へ赴いたところ礼拝堂に潜んでいた者に撃たれたとのことです。下手人は皇女殿下の命だった告白し、自害しました」

「全て嘘だ。神殿が兄上を嵌めた。ロートムと手を組んで!」

 冷静さを失っているフィグネリアの不用意な言葉に辺りがざわめく。

 禁忌を破った彼女に対して向けるのは怒りと憎悪しかなかった。

「ちょっと! あんた達、何してるの!!」

 兵達が殺気立ち一触即発の事態になってサンドラが肩を怒らせながら歩いてくる。

「皇后陛下。お下がりください、フィグネリア皇女殿下が皇帝陛下の暗殺を企てたあげくに神殿を穢す言葉までも」

「フィグがイーゴルを暗殺するわけないでしょ! ほら、さっさと武器を降ろして道を空ける! この言葉大ッ嫌いだけど使わせてもうらうわよ。命令よ、どきなさい」

 威厳を滲ませたサンドラの命に渋々従い、兵達が膝を折った。

「フィグ、中で話聞かせて。出来ることはしたいから」

 サンドラの気丈な態度とは裏腹な弱り切った瞳を間近に見てフィグネリアはようやく落ち着きを取り戻す。

 義姉だって気が気ではないのだ。自分は冷静に、動かないといけない。

 フィグネリアは冷たい空気を深く吸い込んで熱を冷ます。そいて王宮に入ってすぐの部屋には爪を噛んでいるリリアがいた。

「お姉様! よかった、無事でしたのね。クロードお兄様は?」

「神殿に連れて行かれた。ああ、そうか、クロードがいるのか」

 そのことを思い出してフィグネリアのまだ少し揺らいでいた感情に芯が通る。

 そしてこれまであったことを話すうちにいつもの調子に戻っていた。

「あんまり口にしたくないけど神殿が悪いって事なのね。そうなったら旦那取り戻しに行くわよ」

 サンドラが気合いを入れたところでフィグネリアはそれを宥める。

「向こうは銃を所持しています。正面から行くのは得策ではありません。兄上に関してもどこまでが真実かは……」

 大神官長が自ら言葉を発するだけで誰もが信じてしまう。下手に動けば帝都の兵士全員が敵に回るだろう。

 いや、すでに下手を打ってしまった。

 どう切り抜けるか行き詰まっているとふいに窓ががたがたと激しく揺れた。ただの強風かと思ったが窓の外では雪ではない白い物が揺れていてフィグネリアは窓を開ける。

 そうすると風と共に四角く折りたたまれた紙が足下に落ちた。

 紙を広げてフィグネリアは馴染んだ文字に目を細める。

 それはクロードからの手紙だった。


***


「ちゃんと届けたかな、あいつら」

 風の妖精に頼んでこっそりフィグネリアに手紙を届けてもらったクロードは窓の外に見える白い帝都の街並みを見下ろす。

 イーゴルは撃たれたものの神官達が治療にあたっていて無事ではあるが、彼を人質に取られている形であること。それと大神子と結婚させられそうであるとということを手紙には書いた。

 まずは手紙が届いているかどうかが問題だ。こんな風に妖精を使うのは初めてだし、妖精達がフィグネリアを識別出来ているかすら分からないので不安だ。

「そこは信用するしかないか。さて、と。これは浮気じゃないですからね」

 クロードは側にいない新妻に弁明して大神子の部屋へと向かうことにした。さっき少し話したがすぐに自室に引っ込んでしまってろくに話を聞けなかったのだ。

 神子達が控える広間の奥に大神子の部屋はある。通してもらうのは思ったよりも簡単だった。

 透かし彫りが施された両開きの扉を開けると甘い香の匂いが鼻をくすぐる。

 大神子は赤々と燃えさかる暖炉の側にある紗を何枚も重ねた天蓋つきのベッドの上にいる。

「おいでになりましたのね、わたしの運命の人」

 積み重ねたクッションにしどけなくもたれかかる大神子が幼く甘ったるい声でそう言う。

「お側へ行ってもよろしいですか?」

 許可を取ってクロードは寝台の側に行き、促されるままに紗をめくり上げて寝台に腰を下ろす。

 白い飾り気のないドレスに毛皮のガウンを羽織っている大神子はベールをかぶっておらず、美しい面を晒していた。三十前後と思われるその顔は年を重ねた色香と少女めいた幼さを絶妙に解け合っていて神秘的だ。

 紅玉のような瞳に見つめられると陶酔に似た気分を得られる。

(フィグより大きいな)

 ドレスの胸元から覗く谷間についつい目がいきつつクロードは大神子に微笑みかける。

「あなたはとても美しいですね」

 これは本心だった。大神子は男が惹かれる要素をあますことなく持っている。

「あなたもとても美しいです。金の瞳をもっと近くで見せてください」

 大神子が近寄ってきてクロードの首に腕を回してうっとりとその瞳を見つめる。

(当たってる、胸当たってる。それはちょっと卑怯だぞ)

 貴公子然とした顔を保ちながらクロードは少々動揺していた。

「あなたのように美しい方がなぜ俺を欲しがるのですか?」

「わたしたちは結ばれる運命にあるからです。神の器たるわたしと、妖精王であるあなたは結ばれこの国の、いえ、国だけではありません。世界の統治者となるべきだからです」

 またいきなり空想めいた話だ。

 クロードは大神子の真摯な目を見て本気だと薄ら寒くなる。

「俺は神の楽士かもしれないですけれど、妖精王っていうのは違うと思うんですが」

「違いはしません。フィシスラルの一族は神霊により妖精を統べる力を与えられ妖精王となり、神の器である大神子を妻として影の王として君臨していたのです」

 ふわりと微笑んで大神子がクロードの耳元に唇を寄せる。

「わたしたち大神子は生涯独身でなくてはならないのではなく妖精王以外の妻となってはならないのです」

 そのままクロードは寝台の上に押し倒された。

「……それならなんで俺達一族はどうしてあんな小さな国で普通に暮らしてたんですか」

 これは喰われると内心激しく怯えながらクロードは必死に冷静な声で続ける。

「それは分かりません。しかしきっと時の王族がなんらかの策略を用いてあなた方一族をおいやったのでしょう。そして妖精王としての血は薄まり、力も薄まったのです。ですが男児には必ず強い力が残っているのです。特に、金の瞳を持つ男児には」

「で、あなたがたはそれをどうして今になってそんなことを言い出してるんですか?」

 どうにか体勢をかえ、クロードは大神子を組み敷いて問う。

「妖精王がこの世界に再び訪れたのだと十七年前に神霊様に伺ったからです。私たち大神子がずっと待ち続けていたのです。あなたがこの地に再び現れることを。これは運命なのですよ」

 クロードは大神子から身を離す。

「……大変魅力的なお話しですが、一個だけ聞いていいですか? なぜそこにロートムが関わってくるんです」

 こんな夢見がちな少女のような大神子になぜロートムが銃など売ったのだろうか。そこが一番不思議だった。

「ロートムが関わってきたのではありません。わたしたちが利用したのです。皇族や九候家を殺すことも操ることも自在であることを証明し金銭を都合すれば銃を売ってくれましたよ」

 大神子の言葉にクロードは引っかかりを覚える。

 銃を持ち始めたのはおそらく自分がここに婿入りする前だろうし、それまでに九候家の当主は変わっていないし、他に。

 そんな、とクロードは目を見開いて清冽な微笑みを浮かべている大神子を見下ろす。

「先帝の病は……」

 改革の途中での突然の崩御。後を引き継ぐのは後ろ盾のないまだ幼い皇女で、新帝は九候家の傀儡とたやすくなり得る危うさを持った皇子。

 そこへ新帝に不服を持つタラスが加わって混沌とした事態はいっそう悪化し最後に人が頼るのは神だ。

「そうです。ふふ。もうひとつ細工もしました。フィグネリア皇女は先帝の血を引いていないという情報を混ぜ込めばいっそう九候家は殺意を高めるでしょう」

 大神子が寝台の上で立ち上がって踊るように一回転して子供のような笑い声を上げる。

「世界は神の名のもとわたしたたちに従うのです。王よ、わたしの運命の人。これで十分でしょう。皇家の人間を消し去り、玉座につきましょう」

「嫌です」

 間髪を入れずに答えると大神子がきょとんとしながら何が、と問い返してくる。

「フィグを愛しているからですよ」

「あなたはあの皇女よりも高い地位のつくのです。よいではありませんか」

「俺はフィグの地位や立場を愛しているわけじゃないんです。彼女の存在全てを愛しているんです」

 はっきりとクロードは告げる。

 世界の全てが自分にひれ伏す。それは想像してみると悪くはない光景だが、フィグネリアが隣にいない世界なんてなんの魅力も感じない。

「義兄上の身に万が一の事があったら舌噛み切るぐらいはします。義兄上だけでなく、フィグやその家族に何かあっても」

 妖精達が周囲でざわめく感覚がする。

 それに心の内で護るべきものがある限りは死なないよ、とクロードは返す。それは伝わったのか妖精達は大人しくなった。

 寝台から降りると大神子が手を伸ばしてくるが、それに答えることもなくクロードはその場をあとにする。

 そして廊下を歩きながら頭の片隅に違和感が残っているのに気づく。

「正直、あの人にこんなまどろっこしい計画って無理だよな」

 他に誰か余計な入れ知恵をした者がいるはずだ。大神子に助言出来てかつ神官達を自由に動かせる人間といえば。

「……ひとりしかいないな」

 その目的もおそらく非常に俗なことだろう。

 クロードはいそいそと部屋に戻って手紙を書く。風の妖精にインクをさっと乾かしてもらってまた運んでもらおうとしたが手紙は手元から攫われて部屋の高い天井付近でふわふわと浮く。

「おい、遊んでるんじゃないんだぞ! ふざけてないで、ってやめろって!」

 紙が暖炉の前に行ってクロードは悲鳴じみた声を上げる。

「笛は取り上げられてて今吹けない。あとでちゃんと聞かせてやるから頼む。つーか俺、お前らの王様なんだよな。もうちょっと敬えよ」

 一番納得いかないのがそこだ。今の今までそれらしい態度を示されたことはないのに妖精の王だと言われても困る。

「なあ、俺みたいなのが主君だって言われたら勘弁してくれって思うのは分かる。でも、いまだけでいい。どうしても助けたい人がいるんだ。力を貸してくれ」

 これほど真面目に妖精に声をかけるのは初めてだった。フィグネリアのように毅然とした態度がとれればいいが、自分が出来るのはせいぜい真剣に頼み込むことぐらいだ。

 妖精達は少し戸惑ったように紙をくるくる回した後にクロードの手元に返す。

 その後に暖炉の火が無数の鳥の形を作って暖炉の中で踊り、サイドテーブルの水差しから水が飛び出てきてリボン状になって螺旋を描く。

「ええっと、それは分かったって事か?」

 少なくとも好意的な態度ではあるだろうが、よく分からない行動である。

「最初の時みたいにこれを俺といつも一緒にいる銀色の人間に渡してくれるか?」

 試しに手紙を差し出してみると今度はちゃんと紙を持って自分で窓を開けて妖精が出ていく。

 炎と水は自分たちは、と聞くように薪をぱちぱちと爆ぜさせたり水差しに出たり入ったりしてちゃぽちゃぽと音をたてる。

「お前達は今は動かなくても大丈夫だ。先に義兄上助け出さないとな」

 クロードはちらちらと雪の舞い始める夕暮れの空を見あげて頑張るよ、と愛妻に向けてつぶやいた。


***


 日も暮れてから二通目のクロードの手紙を受け取ったフィグネリアは自分にはりついて離れないリリアを抱きしめてソファーに深く座り込んでいた。

「フィグネリア様、言われていたものを持ってきました」

 そこへ執務室へ行っていたタラスが書類を抱えて持ってくる。リリアを腕に抱いたままでは書類を見ることが出来ないので代わりに彼に指定した場所を読み上げてもらう。

「ここ数年神殿への奉納の量からしてルドクシアとカルヴァナが共謀して銃を仕入れていた可能性が高いな。そうなると塩の収穫量を誤魔化したくすねた分はロートムに流れていた、ということか」

 過去五年に遡り二家の奉納の記録から鑑みるに、さんざんやりあった帳簿の不正は全てこのためのものだったのだ。領地もロートム接していて輸出入には目を光らせてはいたが、囮として香辛料や毛皮の輸出入に些細な不正を仕込まれてそちらに手がかかっているうちに上手く運び込んだのだろう。

 国境さえまたいでしまえば後は神殿への奉納品として関所で検閲をされることはない。

 こちらも問題なく神殿に届いてしまえば何も疑わない。

「くそ、こちらが人手が足りないからといって姑息な真似を。あげくに口封じにやられて馬鹿め」

「ロートムの狙いはディシベリアの弱体化でしょうか」

「そうでしょう。神殿にまともに国政をする力はないと向こうは踏んでいる。絶対的な信仰でもって国は一時的に纏まるだろうがクロードの手紙からして大神子は信仰を盾に取ること以外はなにも出来ずにやがては破綻する。そして混乱が生じた頃に真なる神の使いとでも名乗って攻め入る気だろうな。神を降ろす大神子も妖精王もただのまやかしだと考えているだろうことは愚かとしか言いようがないが」

 ナルフィス教徒の彼らにとって奇跡とは自分たちだけのものであると思い込んでいる。

 神霊の加護などないという前提があってこその策だ。

「でも、それってクロードが大神子様と結婚する気がなくちゃいろいろ無理よね。夫婦円満って大事ねえ」

「愛は偉大ですわ」

 うん、うんとサンドラがうなずくのにリリアもフィグネリアにくっついたまま同意する。

 その場にいる全員の視線が集中してきてフィグネリアは赤面した。

 確かにその通りで誘いに乗ってほいほいクロードが向こうについていたらイーゴルどころか自分たちもとうに死んでいるだろう。

 だが、それを改めて口に出されると身の置き所に困る。

「……そこが誤算でしょう。皇帝陛下さえ奪還すればフィグネリア様に有利かと」

 咳払いをひとつしてタラスがつけ加える。

「はい。兄上はまずクロードに任せるとして、大神子と大神官長を分断したほうがいいですね。大神子を上手く説得できれば状況は変わるでしょうし。しかし、大神官長の目的によればクロードの身が危うい、か」

 大神子を傀儡にして自分が実権を全て手に入れようとしているなら婚姻が済んだ後にクロードは抹殺される。次にイーゴルを排除し全ての罪は自分にきせて処刑とするのが順当か。

 妖精の加護はあるといえ、かつての妻を前に慈悲を見せたために殺されたとでもいえば国民も納得してしまうだろう。後は悲しみに明け暮れる大神子を表に立たせて国民の同情もついでにひけば尚のこといい。

 むしろロートムが統治権を餌にちらつかせている可能性もあり得る。

 考えれば考えればろくでもないことばかり思いつくとフィグネリアはリリアの髪を指ですきながら眉根を寄せる。

「こちらから連絡が出来ればいいのだが……」

 そうつぶやくと部屋の隅のテーブルの方でなにかがかたかたと音がする。どうやらインク壺が揺れているらしい。

「届けてくれるのか?」

 答えるように紙がひらひらと揺れる。

「すごい。あそこに妖精がいるのね」

「そのようですね。珍しいな」

 クロードがそう命じたのだろうか。今まで妖精に散々もてあそばれていた上に笛も吹けない状況でこういうことも出来るとは意外だ。

「少し、待ってくれないか。分かるか?」

 見えもしなければ存在も感じられない相手に話しかけているのは不安だ。

 リリアから離れて紙を取りソファーに戻ったフィグネリアは腕組みする。

 大神官と大神子を引き離して、それからは。優先するのは兄の救出だが、神殿をどう処理するべきか。

 白紙を前に考えていると首元に風を感じて髪を揺らされる。

「すまない、もう少し待ってくれ……義姉上、リリア。本当はふたりにはここで待っていて欲しいのだが」

 言葉が喉元で怖じ気づく。

 ふたりの視線にフィグネリアは側にいないクロードを思い出す。彼のようにもっと素直に思いを伝えられるようであればいいのに。

「力を貸して欲しい。お願いします」

 ようやくそう声に出しても心はどこかで恐怖を感じていた。だがそれは束の間だった。

 隣にいるリリアが飛びついてくる。

「お願いされなくてももちろんやりますわよ」

「そう、そう。頭使うこと以外ならなんでもやるわよ。頑張って旦那取り戻そ!」

 ふたりの笑顔につられるようにフィグネリアも相好を崩す。

 長い間張り付いていたものが剥がれた気がして、心も軽くなって。

 そして最後にクロードに会って少し、変われたかもしれないと早く伝えたくてたまらなくなった。


***

 

 翌日の朝。

 肌を切り裂くような冷たい風に晒されながらフィグネリアは神殿の前の広場に兵達に取り囲まれて立っている。朝になって兵達に神殿からの呼び出しだと促され、リリアとサンドラをタラスに託してここまで罪人のように武装した数十人の兵に連れられて来た。

 真白い軍服の男達の中にただひとり黒い軍服を纏うフィグネリアは遠目から見れば異様に浮いて見えるだろう。

 フィグネリアはじっと神殿の尖塔を見据えていると笛の音が聞こえてきて白い吐息を吐き出す。

「お前達はその武器で何を護る?」

 そして静かながらもよく通る硬く澄んだ声でそう口にすると、近くの兵士が怪訝そうに眉をあげる。

「忠義でも神でもなんでもいい。護るべきものはあるだろう」

 重ねて問うと兵士達が陛下のために、ギリルア様のためにと口々に言い始める。

「そうだ。私にもある。たいそうな大義名分、というわけではないが家内安全、といったところか」

 一体何を言い出すのかと周りがさざめく中、笛の音が大きくなっていく。

 旋律は嵐。

 音の勢いのままに風が雪を巻き上げる。

「道を空けろ」

 フィグネリアは神殿に向けて歩き出す。

 兵達は胸元ぐらいまでの背丈しかない少女が歩くことを留められずに戸惑うばかりだ。

「始めに言っておく。この声は神の声ではない。神の意志たるものでもない。ただの人間の声だ。私は神を信じる。私は神を敬う。だが、今の神殿に向ける敬意はない。大神官長は大神子を利用し私欲のために今、この国の安寧を揺るがそうとしている」

 風は激しく吹き荒びながらフィグネリアの声を帝都中に拡散する。神殿を穢すその声は家々の窓を叩き、人々は畏れと動揺を抱えながら外を見ていた。

「申し開きがあるならば、大神官長自ら私の元に出向いて来るがいい」

 張り詰めた糸が切れるように笛の音が消え、静寂が押し寄せる。

 周りにいる兵士達は何か得体のしれないものであるかのようにフィグネリアを凝視している。

 沈黙は長かったが、やがて神殿の扉が開かれてフィグネリアは馬鹿め、と胸の内で嘲笑する。

 大神官長が神官達に護られながら静々と歩いてきていた。その行進を彩るようにまた笛の音が流れ出て風が吹く。

「大層な武装だな。その銃はどこから調達した。神を悪魔と愚弄する国より買いつけたと思われるが……さて、皇帝陛下は神殿内で狙撃されたと言われたのだがな」

 周りを見渡すと明らかに兵士達は動揺し信じられない、と口々に言っている。

「……大神子様をどこへやったですか?」

「あいにく私も知らない。さて、先に質問に答えて貰おうか。その武装のためにロートムにいくら流した。おそらく売ったよりも倍の銃がつくれるぐらいにはむしり取られているはずだぞ」

 多大な無駄遣いだ。それだけの金があれば三年前の北方の寒冷地帯の食糧難も少しは楽に解決できただろうし、有能ながらも下位におさまっている官達の給与も引き上げてやることも出来ただろう。

 夕べ空いた時間にざっと試算したときの怒りを再び蘇らせながらフィグネリアは大神官長を睨みつける。

「さすがに影の皇帝と言われている皇女殿下、なんとも賢しい。だが愚かです。私にたてつくということは神殿に、神に逆らうということです。それがどれほどの意味か分かりますか」

 大神官長が薄笑いを浮かべる。

「話をそらすな! どれだけ策をこらそうとお前は終わりだ。大神子様は全てを告白している」

 怒鳴りつけると大神官長の表情がひきつった。

「言え。アドロフ候、ラピナ候、カルヴァナ候、ルドクシア候の四候の暗殺の命じたことを。そして我が父である偉大なる先帝エドゥアルトを殺害せしめたことを!」

 声を張り上げて畳みかけると大神官長が短く撃て、と命じる。

 銃口を向けられたフィグネリアはその場に立ったまま背後に声をかける。

「後ろへ下がれ! 出来るだけ……っ!」

 威嚇の一発が腕を掠めて、足下の雪に血が点々と落ちる。

「命が大事なら口を慎みなさい」

 早まったその脅し文句にフィグネリアは顎をあげて笑う。

「さすがに死ぬのは恐いな。まだやるべき事もあれば、会いたい者もずっと一緒にいたいと思う者もいる」

 この場に立ったときからずっと焦がれている。

 兄に会いたい。そして、夫にも。

「撃て。何をしている!」

 微動だにせずにいるフィグネリアと大神官長のうろたえように神官達は銃を構えたまま迷っている。

 フィグネリアは痛みをこらえて大きく息を吸う。

「さあ、神官達よ。銃を下ろせ! この醜い欲の塊を護るべきものだと思うか! 信ずるものはなんだ。己の胸の内を見ろ。それでもこの阿呆を護るなら好きにするがいい!」

 声を張り上げながら腰に差している短刀を抜いて前へと進む。

「私は世界の王の後見人となるのだ。貴様のような小娘が、私を傷つけるなど、許されない。撃て、あの不届き者を殺せ!!」

 大神官が声を荒げて叫んで、周りが従わないと分かると近くの神官から銃をひったくる。

「撃ちたければ撃てばいい。だが、お前の声は今、帝都中に運ばれていることを忘れるな。私が死んでもお前の負けは決まっている」

 一歩踏み込むと大神官長が醜く引き攣れた顔で小娘が、と吐き捨てる。

「皇女殿下をお護りしろ!」

 そんな叫びが聞こえてきたと思うと背後から地面を揺らしながら兵士達が突進してきて予想外のことにフィグネリアは目を丸くする。

「危ないから下がっていろ!」

 銃声が響く。

 しかし銃を奪われた神官が大神官長を押さえ込んで銃弾は地面に放たれていた。

「…………助かった。その馬鹿はしっかり捕まえておいてくれ」

 神官達が銃を捨てるのを見ながらフィグネリアはそっと息を吐き出す。

 そうすると神殿の奥からは巨大な寝台が出てきてその場にいる全員がぎょっとする。それを押しているのはタラスで、よくよく見ればその下は凍り付いているのが見える。

「フィグネリア、重ね重ねすまん。皆の者も混乱させてすまなかった。この通り俺は無事生きている」

 そして寝台の上にいるイーゴルが半身を起こすのタラスの影に隠れて見えなかったサンドラとリリアが支える。

 自力では立ち上がれそうにはないものの皇帝のいつも通りの元気な様子に兵達が歓声を上げた。

「兄上! ご無事で何よりです。義姉上とリリアも助かりました」

 フィグネリアは兄の元に駆け寄って目尻に涙を浮かべる。

「弓なら任せてよ。リリアの薬もすごいけど」

 あらかじめクロードに少しだけ開けてもらっていた兄が寝かされている部屋の近くの廊下の窓から、リリアの作った催涙効果のあるニブギ草の粉を先にくくりつけた矢を射たサンドラが得意げに笑う。

 合図はクロードが大神子を隠して慌てふためいている大神官長が表に出たとき。

「風の妖精にはたくさん助けてもらいましたわね。ありがとうございます」

 リリアがそう言うのが分かったのか風の妖精達が彼女の髪を巻き上げる。

 風の妖精には手紙のやりとりを手伝ってもらい、他にも広場の声を帝都中に撒いてもらったり、ニブギ草の粉を拡散してもらったりとずいぶんいろいろと動いてもらった。

「水の妖精と雪の妖精にも礼を言わねばな」

 うむ、とイーゴルが自分の寝台の下の溶けかけている長細い絨毯のように敷かれた氷を見る。

 これはクロードの提案だ。イーゴルが立って歩けないのなら寝台ごと運べばいいという少々乱暴な手立てだ。

「クロードはどこに?」

 どこかに隠れ潜んでいるはずの夫の姿が見えずにフィグネリアは首をかしげる。

「そういえば姿を見てないわね」

 サンドラがリリアと顔を見合わせた時に銃声が響いた。神殿の中だ。

「クロード!!」

 青ざめた顔で夫の名を呼んでフィグネリアは神殿の中に駆け込む。ニブギ草の粉はもうすでに外へと運ばれたのか視界は阻まれない。

 ただ廊下では銃を抱えて目を押さえ悶えている神官達が転がっている。

 音の聞こえた方に走っていくともう一発銃声が聞こえてきて恐怖に心臓が押し潰されそうだった。

「クロード! どこだ! 妖精達よそこにいるのならお前達の王の元へ案内してくれ」

 戸惑うようなつむじ風が起きて近くの石壁が揺れるとそこが崩れて扉が現れる。

 フィグネリアがそこに駆け込んで最初に見たのは大神子の後ろ姿だった。次に壁際に追い詰められているクロードを見つける。

「すいません、ちょっと油断しました」

 書棚に穴は空いているが彼は無事そうで脱力しそうになる。

「もう、終わりだ。銃を下ろせ」

 フィグネリアは大神子に慎重に声をかける。

「終わり? どうして。わたしは妖精王の妻になるのです。そうです。あなたがいなければ」

 言いながら大神子が振りむきざまに銃口を向けてくる。

 彼女の赤い瞳が漆黒に染まるのが見えたかと思うと銃が破裂する。

 血飛沫が飛んで絶叫が響く中、フィグネリアとクロードは何が起こったか分からずにその場に立ち竦んだ。

 先に動いたのはクロードで、すがりつくようにフィグネリアを抱き寄せた。

「何が、起こった」

「たぶん、火の妖精が……でもなんでいきなり」

 血だまりの中で倒れる大神子の白い髪が黒く染まっていく。それが本来の色のようにも見える。

「完全に器としての役目を終えたからです。器というものはある程度は何かが入る余裕がなければなりませんが、残念ながらこの娘は我欲で器を満たしてしまいました」

 耳の奥に畏怖に震えるほどの声が届いて、フィグネリアとクロードはそちらに顔を向ける。

 そこにはその声には似つかわしくない十四、五の少女が立っていた。真白い髪と赤い瞳のせいですぐには気づけなかったが、祭事の時に大神子の一番近くに控えていた薄茶の髪をしていた神子だ。

 だが、その中にいるのはあの少女ではないだろう。

「あなたは、いったい」

 フィグネリアは丁重に口を開く。

「ギリルアです。新たな器を子供達に与えるためと久方ぶりの妖精王の顔を見に来ました。事の一端は息子も関わったことです。この者にも慈悲を与えましょう」

 地母神ギリルアが大神子に近づいてその体に触れると、目を背けたくなるほどの傷は消えていく。

「息子、とは?」

「ラウキルです。かつて妖精王のその力を奪い合い人間達は争い、かの王はそれに嫌気がさし人が定めた神の器の娘を妻にすることも厭い他の人間の娘と争いから逃げました。妖精王の力はあまりにも強すぎる影響を妖精にも人間にも与えてしまうのでもうそっとしておきなさいと子供達には言ったのですが……ラウキルは特に妖精王を気に入っていったので久方ぶりの誕生に口を滑らせてしまったのでしょうね」

 困ったものですと母親の顔をしてギリルアがため息をついた。

 ラウキルといえば音楽を司る神霊ではしゃぎすぎたというのは分かる。人間の自分ですらクロードの笛には魅入られる。

「この娘の事は他の者たちに任せて行きましょう。新たな器のお披露目をしなくてはなりません。さあおいで」

 そっとギリルアに銃弾が掠めた腕を触れられると傷が消えた。

 そしてどこからともなく神子たちがわいてきてギリルアについていく者と意識をなくして倒れている大神子につく者とに別れた。

 どちらについてくこともないフィグネリアとクロードは見つめ合い、しっかりと抱き合う。

「終わったな」

「はい。というかなんかいろいろ俺が元凶だったみたいなんですけど……」

「お前の存在に罪はない。……私は本当にいい贈り物をもらったな」

 フィグネリアはそっとクロードに口づける。

 なんだっていい。山ほど大変な目に合ったがこの黄金が側にあるだけで全て帳消しだ。

 そしてふたりで手を繋いで外へと出ると歓声に迎えられた。イーゴルも傷を癒やしてもらったようで自分の足でしっかりと立っている。外には兵士以外にも帝都の住民が続々と集まってきていた。

「……幻聴だろうか。新皇帝などという言葉が聞こえるのだが」

 たくさんの歓声の中にちらほらと聞こえる単語にフィグネリアは目眩を覚える。

「幻聴ではないぞ! 俺はきっぱり皇帝をやめる」

 その宣言にフィグネリアはクロードと繋いでいた手を離して兄に詰め寄る。

「何をおっしゃっているのですか! それでは解決にならないとあれほど……」

「暗殺の疑惑も晴れたしギリルア様のお墨付きももらったから大丈夫よー」

 脳天気にサンドラが手を振ってきて、リリアがほら、とフィグネリアを前に押しやる。

「みんな歓迎してくださってますわよ」

 前に立つとフィグネリア皇帝陛下万歳と声が上がる。

「ううん、皇帝陛下の婿ってとんでもないことになりましたね、俺」

「待て、待て。アドロフ候の説得はどうする。他の九候家は!」

 あれとかそれとかただではすまない問題が山のようにあるのだ。その諸々を解決は。

「お前なら大丈夫だ! 俺も説得する。大体俺は皇帝らしい仕事など全くしてなかったからな。ほとんどお前が皇帝だったも同然ではないか。これまでか弱いお前を矢面に立たすまいと思って尽力してきたがかえって危険な目にあわせてしまってすまなかった!」

 か弱い、と納得いかなそうにつぶやく夫の腹に肘を入れたフィグネリアは改めてイーゴルに名前を呼ばれてその顔を見上げる。

「俺が馬鹿なせいでお前には苦労をかけた。これからも困ったことがあったら助けてもらうだろうが、お前も困ったことがあるなら俺に言ってくれ。何があっても俺はお前を護るからな」

 フィグネリアは戸惑いながらも兄に抱きつく。

 子供の頃から抱き上げてもらうのを待ってばかりだったことを思い出す。本当は兄ともっと一緒に遊びたかった。もっと甘えたかった。

「愛しています、兄上」

 そんな我が儘はたったひとつの言葉に集約されてしまうが、それを言っただけで胸のつっかえが全部とれた気がした。

「おお、俺もだフィグネリア! リリアもだぞ!」

「分かってますわよ」

 リリアも脇から抱きついて兄妹は思う存分愛をわかちあい、そこにサンドラが飛び込んでいく。

 これを傍観していたクロードをフィグネリアは手を伸ばして引っ張り込んだ。

 風達もそこにじゃれつくように吹いて、雪達が様々な花の形を作って家族の足下から広がっていき歓声と祝福の声に帝都が包まれたのだった。




エピローグ




 ひとまず神殿がらみのことが解決して十数日。フィグネリアは怒濤の日々を送っていた。

 大神官長と大神子が交代した神殿の再編は向こうの管轄なので特に問題はなかったが、やはり即位に関してはいろいろ面倒があった。しかし夫と子供達恋しさにアドロフ候の元に戻ったリリアとそれに付き添ったイーゴルの尽力のおかげで即位に対しての反対はなくなった。

 神殿から嘘を吹き込まれ祭事を穢した冤罪をかけられたこともアドロフ候には痛い失態でもあったようだ。

 後はラピナ、ルドクシア、そして瀕死だった当主は結局助からなかったカルヴァナが異を唱える権限があるはずもなく残りの五候もアドロフ候に従うようにして受け入れた。

 タラスに関しては父親の暗殺に関わったことを隠したまま領地をよく治め、国のために尽力するようにさせた。それがこれからのためには最善であり罪を生涯胸に秘めたまま生きることは彼にとってなによりもの苦痛となるだろう。

 イーゴルは皇帝を辞した後に軍の強化に努めるようだ。とりわけ銃の普及に関しても積極的に取り組むらしい。そちらの方が兄には向いているだろう。

 それからロートム側も動いた。銃が密売されてその首謀犯を捕まえたので証拠品でもある銃を返してほしいというふざけた申し出があったのだ。これに関してはもう少し時間をかけて取られた分をきっちり取り戻さねばならない。

 そして執務室も中央に完全に移行し、クロードも仕事を覚えてきて落ち着きを取り戻した頃にフィグネリアはもうひとつ片付いていない事があったと思い出したのだ。

「わざわざこれを引っ張り出すことはなかったか。いや、しかしこれが正式な衣装だからな。けして奴が好きだからと言ったから出してきたわけではなく」

 寝室の暖炉の前で独り言を言いながらうろうろとするフィグネリアは薄い絹で出来た夜着を纏っていた。

 結婚式の日の夜に着ていたものである。

「やはり、気負いすぎかこれは……」

 着替えるべきかどうか迷っている間にドアが叩かれて、とっさに入っていいと言ってしまう。

「フィグ、どうしたんですか、その格好」

 隣の部屋で夜着に着替えてきたクロードがまじまじと上から下まで眺めてきて頬に血が昇る。

「察しろ!」

「……答は分かってるんですけど。本当にいいんですか?」

 信じられないといった顔をしながらもクロードはちゃっかりと近寄ってきて腰を引き寄せられる。

 薄布越しの体温に心拍数が上がり、間近にある黄金の瞳が優しく溶けるのに胸の奥が詰まる。

「さ、寒いから、もうごたくは」

 本当は恥ずかしさで体の芯から熱いのだがそう言ってしまうと言葉をうばわれてしまう。

 いつもより少し長い口づけはどこまでも優しく、ふっと強張っていた肩の力が抜ける。

 そして無言で手を引かれて寝台へと誘われた。

「……これからもしばらく平穏と呼べない日が続くと思う。おそらくお前にもこれまで以上に負担をかけるはずだ」

 ベッドの上に座ってフィグネリアは夫を見上げる。

「俺の方もたぶんなんかこの力で訳のわからないことに巻き込んじゃいそうですしお互い様ですよ」

 クロードの指先がフィグネリアの銀糸の髪を梳いて、こめかみに口づけをひとつ落とす。

 そしてその指がどくどくと脈打つ首元に降りてきてフィグネリアは体を硬くする。

「せめてこの時間だけは心穏やかでいましょう」

 それはそれで別の意味で落ち着かないのだが。

 耳元で囁かれる言葉にフィグネリアは頭の中がぐるぐるしてきていた。

「愛しています。誰よりも、あなたを」

 肩を撫でたクロードの手がフィグネリアの手を取り、彼はその甲に唇を押し当てる。

 そこからじんわりと熱は広がり、想いが胸を満たしてすうっと気持ちが落ち着いてくる。

「私も、愛している。だから一番近くにいて欲しい。これからもずっと」

 そのまま掌を重ね合わせてふたりは寝台に倒れ込んだ。

 見つめ合うと自然と笑みがこぼれて、喜びを分かち合うように唇を重ねる。

 風がそっと天蓋を閉じて燭台の炎を消す。

 もう言葉はいらないと思えるほど重ねた掌や混じり合う呼吸から愛に満たされてほんのひとときの穏やかな夢の中へとふたりは沈んでいった。


―了―

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影の王の婚姻 天海りく @kari

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