オトキュン(現代パロディ)(初出2013.10.15/ビーズログ文庫)

『保健室の先生と危険な放課後を』




 私立ディシベリア学園の保健室の常連である高校二年生のクロードは、今日も今日とてベッドの上で横たわっていた。

「微熱だな。少し休んでいればいい」

 黒のタイトスカートからすらりと伸びる足に、白衣がまとわりつく光景を眺めながら、クロードは硬質で澄んだ声を聞く。

 視線を上に持っていけば、ワイシャツのボタンが苦しそうなほどのたわわな膨らみが見えて、最後に伶俐な美貌と巡り会える。

「フィグネリア先生、いつもありがとうございます」

 フィグネリアはこの学校の理事長の妹だ。いろいろ事情があって、商売事がさっぱり苦手な理事長である兄の変わりに、ここで学校経営の補佐をしつつ養護教諭をしている。

「まったく、除霊の度にこれでは身が保たないぞ」

 呆れと心配混じりの声は銀色の髪や薄青の瞳が与える冷たい印象と違い暖かく優しい。

「先生は理想の保健室の先生だと思います」

 贅沢を言えばシャツのボタンをあと一個外してみて欲しいところだが、白衣、美脚、巨乳、美人それで優しいと十分に男子学生の夢を叶えている。

「…………褒められている気がまったくしないのだが。それで音楽室の件は片付いたのか?」

 フィグネリアが不審そうな目を向けつつ、そう問うてくる。

「すいません、失敗しちゃって……それでいつもより霊障が酷いかんじです」

 クロードが保健室に通うにはわけには霊感体質がある。

 この学園は霊が集まりやすく、うっかり遭遇することが多い。大人しく話を聞いて先祖代々伝わる笛を吹けば、大抵の霊は成仏してくれる。だが時に抵抗されることもあり、そうするとこうやって体調を崩してしまうのだ。

(先生は全部信じてくれたんだよなあ……)

 半年前、体育倉庫が霊によって荒らされることが頻発し、様子を見に来たフィグネリアとバスケットボールが乱れ飛ぶ中でかち合った。

 自分は間抜けにもボールが顔に当たって鼻血を出していて、成仏させた後に治療をしてもらい洗いざらい喋った。フィグネリアは喋り終わるまで、真剣に話を聞いてくれたのだ。

 それ以来はずっと保健室で休ませてくれている。

「次は一緒に行くか。ピアノが勝手に鳴られては困るし、大事な生徒に何かあってもな」

 フィグネリアが腰をかけたベッドが軋む。

 気づかってくれるのは嬉しいけれど、一生徒としか見てもらっていないのは寂しい。

「どうした。他に悪い所があるのか?」

 ひっそりとこの素敵な保健室のお姉さんに片想いしているクロードは落ち込む。すると具合が悪いと勘違いしたフィグネリアが、少し体を近づけて顔を覗き込んでくる。

「先生、俺……」

 クロードは勢い任せに告白してしまおうかと思う。だがそこで床がミシミシ揺れて、フィグネリアが腰を浮かしてしまう。

 しかし彼女は揺れる床とシーツだかカーテンだかに足を取られでもしたのか、バランスを崩して倒れ込んでくる。

「と、すまない。大丈夫か?」

 クロードの耳にフィグネリアのそんな言葉は入っていなかった。

 視界いっぱいに大きく柔らかそうなものがあるのだ。ちょうど頭を胸に抱き込まれるような体勢で、鼻先に触れる寸前だ。

(近い、胸近い。すっごいいい匂いもする! ちょっと透けてるレースっぽいのって、キャミソールとブラどっちだろう。白衣があるから後ろからじゃ確認できないか。でも、そんなガードが堅いところも好きだし)

 わずか一秒たらずの間にそれだけのことを考えていたクロードははっと気づく。

 シャツのボタンとボタンの間が少し開いていて、頑張ったら中が覗けるのはないかという魅惑の隙間ができている。

「フィグネリア! 怪我人…………取り込み中か、すまん」

「違います! 怪我人はこちらへ」

 ちょっと顔を傾けて角度を変えてみたところで大声が響き、フィグネリアがすぐに離れていってしまった。

(ああ、しまった! そんなことより、ちょっとした弾みを装って顔を埋めとくんだった……)

 クロードは彼女の後ろ姿が見えてからそのことに気づいて、枕に顔を埋めて自分の判断ミスに撃沈した。

「なんだ、お前か。今日も体調が悪いのか。体は大事にするんだぞ!」

 間の悪い来訪者の声をかけられて顔を上げると、ジャージ姿の身長二メートル越えの大男の姿見えた。

 どう見ても体育教師だが、彼が理事長兼学園長のイーゴルだ。大体いつもこの格好で体育授業に参加し、用務員の仕事も手伝っているのでまったくそれらしく見えない。

「健康第一だからね。またうちにご飯食べにくるといいわ」

 そして、その後ろから顔を出したのはイーゴルの妻で、弓道部の特別顧問をしているサンドラだ。彼女もやはりジャージである。

 保健室で今日のように伸びているときに、何度か夕食に誘われている。ひとり暮らしで、肉親の縁に薄い自分にとってはいろんな意味であったかい食事だった。

 そしてふたりとも自分の霊感体質を知っている数少ない人物である。

「また、お邪魔します。あ、ニカ怪我したのか?」

 どうにか復活したクロードは理事長夫妻に微笑み返して、イーゴルに俵担ぎで運ばれて来た生徒が知り合いであることに気づく。

 一ヶ月だけ年下のの後輩であるニカ・エリシンだ。吹奏楽部の後輩で、質の悪い霊に取り憑かれたのがきっかけで親しくなった。

「バスケの試合中に転んだんです。自分で歩けたんですけど、学園長先生が親切に運んで下さって。……本当にありがとうございます」

 フィグネリアにすりむいた膝を消毒してもらっているニカが、イーゴルにぺこりと頭を下げる。

「かまわん、生徒の安全と健康が第一だ! おお、もう休み時間か。では、俺は見廻りに行ってくる」

 ベルが鳴って、イーゴルが妻を伴いどかどかと去って行った。

「理事長のやることではないのだがな」

 フィグネリアが幸せそうに苦笑するのを見ながら、こういう所も好きかなとクロードは思う。

(でも、惜しかった。本当に、あれは惜しかった)

 そして再び思い出して、往生際悪くフィグネリアの胸元に目をやる。

 薬箱を棚に戻し忙しく動く度に、ふるふる揺れ動いてにどきどきする。マシュマロとかプリンとかいろんな例えがあるけれど、どれが一番近いのだろう。

「…………先輩、それで音楽室のピアノに取り憑いている幽霊は除霊できたのですか?」

 クロードは、ニカの心なしか冷ややかな声にそちらに顔を向ける。

 うわー最低とでも言いたげな顔をしている後輩は、確実に自分の視線の先がなんなのか気づいている。

(貧乳好きだから、あの魅力が分からないんだ)

 そこは後で先輩としてじっくり話すとして、音楽室の件に移ろうとするとまた新たな人物がやってくる。

「君、音楽室のピアノがまた勝手に鳴っているらしいが、どういうことだ」

 現れた優美な面立ちの教師は、政経担当のザハール・イサエフである。ニカとの一件で彼もまた特異体質を知るひとりである。

「う、失敗しちゃって……。放課後また行きます」

 クロードは鋭い視線にたじたじになりながら答える。

 顔よし家柄よし背も高くて頭脳明晰。そのおかげで性格は難ありでも女子生徒から女性教師、ついでに保護者にまで好かれるこの教師は全男子の敵だ。

「まったく、失敗して僕の授業をさぼったのか。まともにやらないと出席日数は考慮しないぞ」

「待て、クロードはあくまで好意で除霊をしてくれているんだ。そう責め立てるな。それに本当に熱があるから休ませている」

 フィグネリアが窘めてくれて、クロードはほっとする。

「あなたは生徒に甘い。今度は私もついていきますよ」

「え、やだ!」

 反射的にそう返すと、ザハールに殺気を感じるほどの強さで睨まれた。

「自分もついていきます!」

「ニカは怪我してるから別についてこなくてもいいぞ。フィグネリア先生が今日はついてきてくれるし……だからイサエフ先生もついてこなくても大丈夫ですよ」

 せっかく保健室以外でふたりっきりになれるチャンスなのだ。

 先輩思いなニカには悪いが、断固拒否させてもらう。

「男手が多い方が私も安心するが。……クロード、なぜそう落ち込む」

 しかしフィグネリア本人によって、いろんな期待感は打ち砕かれた。

「……イサエフ先生、自分達も行きましょうか」

「そうだな」

 そしてニカも下心に気づいてあっさり寝返った。

 自転車操業の会社の跡取りであるニカは、フィグネリアの経営手腕を信奉していて下心など言語道断らしい。

(うう、先生は恋愛禁止のアイドルじゃないのに……)

 生徒との恋愛が問題であることはクロードの頭からすっぽり抜け落ちていた。

 そして、放課後はぞろぞろと幽霊退治に向かうことになった四人だった。


***


 夕暮れ時の立ち入り禁止がされた音楽室周辺は、しんと静まりかえってはいなかった。

 運動場の方から野球部やらサッカー部やら、運動部のかけ声が響いてくる。しかし遠い音と薄暗さはこの場の閉塞感を高めている。

「フィグネリア先生、大丈夫ですか?」

 クロードは自分の袖をぎゅっと握りしめているフィグネリアを振り返る。

「何がだ。けして恐いわけではないからな。お前の安全のためにこうしているだけだ」

 完全無欠に見えて幽霊が苦手らしい彼女は決してそれを認めない。そこが可愛くて仕方ない。

「フィグネリア先生、私が変わりに彼の首根っこを掴んでいましょうか」

 ザハールが面白いものを見つけたといった顔で提案する。

「いえ、自分がしっかり抑えておきますので」

 そして事実に気づいていないニカまでがそう言う。

「ザハールはそのまま投げ飛ばしそうだから駄目だ。エリシンは怪我をしているので、負担をかけるわけにはいかん」

 フィグネリアが必死に拒否するのに、クロードは前を向いて口元を緩める。

 これで前回は果たせなかったあんなアクシデントとか、こんなアクシデントとかを期待できる。

(背中に抱きついてもらう。これが今日の目標)

 除霊はどうしたという突っ込みを受けそうなことを考えつつ、クロードは足を進めていく。

 やがてぽろんと、ピアノの音が響いてきて強く袖を引かれる。フィグネリアの足が鈍っていた。

「危険だから落ち着いてゆっくり歩け」

 ここまで来て恐いとは絶対に言わない彼女もなかなか強情だ。

 やがて音楽室に近寄るとピアノの音はさらに激しくなる。クロードは先祖代々伝わるフルートに似た三連結の小さな銀の横笛を、制服のポケットから取り出す。

 この横笛を聞かせると大半の彷徨える魂は安らかに成仏する。

 ピアノの音と共に近くのドアや窓が、がたごととわめき出す。袖を掴んでいたフィグネリアの手がいつの間にか手首にあった。

 ついでに痛みもある。

(先生以外に握力あるよな。でも、これに耐えたらきっと、背中に至福の感触!)

 苦難に耐えつつクロードは歩調を緩める。

「慎重に進まないと駄目ですからね」

「そうだな。何事も慎重にだな……」

 次の瞬間、ガシャンと派手な音を立てて窓ガラスが割れ、何かが飛んでくる。

「「フィグネリア先生!」」

 それがフィグネリアを狙ったことに気づいたザハールとニカが同時に、警告を放つ。

 フィグネリアが手を握っていたせいで上手く避けきれずに、その場に尻餅をつく。

「先生! 大丈夫ですか!?」

「ああ、問題ない」

 よかったと、ほっとしつつクロードはこっそり視線を下にやって、今度はしょんぼりする。

 フィグネリアの開いた足の間には白衣の裾が上手いこと落ち込んでいて、スカートの中を見せないカーテン代わりになっていた。

(鉄壁過ぎる。今はこの白衣が憎い)

 いつもは魅力的な白衣がこんなに邪魔なものとなるものだと思わなかった。

「フィグネリア先生、早く足は閉じた方がよろしいかと」

 ザハールが余計な一言を上から落として、フィグネリアは顔を赤らめて言う通りにする。

「見たか?」

「いえ、残念ながら何も見えませんでした」

 うっかり正直に答えてしまって、フィグネリアがさらに頬を紅潮させてむくれる。

「それでエリシン、何が飛んで来たんだ」

 そして不機嫌そうにクロードを無視して、彼女は飛来物の正体をニカに訊く。

「黒板消しでした。先輩が狙われたんでしょうか」

 いつになく視線が痛いニカの問いかけに、クロードは首を傾げる。

「真っ直ぐ狙ってきたなら違うと思うけど。フィグネリア先生が狙われた……?」

 なぜ彼女が狙われる必要があるのかさっぱり分からない。

「何か恨まれるようなことをしましたか?」

 ザハールが訊くのにフィグネリアがむくれる。

「そんな覚えはない。それよりだ。ガラス一枚でいくらすると思っているんだ! 弁済はしてもらえずとも、謝罪はしてもらうぞ」

 緊急出費への怒りが恐怖を越えたフィグネリアが仁王立ちで啖呵を切った。

「経営者として素晴らしいお姿です!」

 ニカが感極まる横で、クロードはますます消沈した。

 今日の目標はきっと果たせないだろう。

「さあ、クロード、行くぞ」

 白衣をひらめかせ颯爽と歩くフィグネリアに隙はなさそうだった。

「先生、危ないから俺の後ろについててください」

 それでも諦めきれないクロードは先頭を歩こうとするフィグネリアを追い越す。

「……なんだ、珍しく頼もしいな」

 感心した声に、良心は痛むものの名誉挽回はできたかもしれない。

「君、なんだかこれは怒っているんじゃないか」

 激しく鳴り響いているピアノの音は、ザハールの言う通り怒りに満ちている気がする。

「先輩、どんな幽霊だったんですか?」

「女の子の幽霊だったんだけど、笛を吹いてみたらちょっと気にいられ過ぎちゃって……。話を全然聞いてくれなくて……」

 クロードは思い出して深々とため息をつく。

 あれは今までで出会った悪霊の中でも相当質が悪い方だ。思い込みが激しくて我が強い。押しが強すぎる女の子は苦手だ。

「そんなに危険なのか? ならば無理はせずとも……」

「いや、やります。俺がやらないと、他になんとかしてくれる人なんていないし、悪い噂で入学生が減ったら先生も困りますよね」

「まあ、それもそうだが……だが、お前の身の安全には変えられんからな」

 こういうフィグネリアのためだから、頑張る気になるのだ。

 子供の頃からの体質でなんとなく幽霊達に付き合ってきたが、これまでそれで変な目で見られることも多かった。

 しかし、フィグネリアは家族でさえ気味悪がった自分の話をちゃんと聞いて、理解してくれた。

 それだけでなくて、ひとりでいることが多い自分に吹奏楽部に入ることを薦めてくれたり、授業で遅れた分を教えたりまでしてくれている。

「先生のために、俺、頑張ります」

 クロードが真摯にフィグネリアを見つめる後ろでぷしゅーと妙な音がする。

 次の瞬間にはふたりそろってずぶ濡れだった。

「つ、冷たい! うわあ、水が溢れてる!」

 原因はすぐ側の水飲み場だった。蛇口が一斉に逆さに向いて、噴水さながらに水を天井近くまで噴き上げていた。

「水道代が!」

 フィグネリアが衝撃を受けつつ素早く栓を閉めに行く。クロードとニカもそれを手伝ってどうにかそれが収まった。

「どうやら、焼き餅のようですね」

 ひとり離れたところで水難を逃れていたザハールが、濡れ鼠できょとんとしている三人を眺めて涼しい顔でそう言った。

「その幽霊の彼女は君のことがお気に入りなんだろう。だから、フィグネリア先生に嫉妬しているんだよ」

「いや、私は別に嫉妬されることはしていないぞ。あくまで養護教諭として生徒に付き添っているだけだ」

「そのつもりがなくとも、彼はあなたへの下心丸出しですし」

「下心…………?」

 フィグネリアがそうなのかと怪訝そうな眼差しを向けてくる。

 濡れて透けたワイシャツの下がキャミソールだったことにがっかりしながらも、うっすら見える谷間に目がいっていたクロードはおおいに動揺する。

「ないです! 嘘です、イサエフ先生のいつもの意地悪です! 思い込みが激しい子だしきっと勘違いしてるんですよ!」

 ぶんぶんと首を横に振って必死に否定すると、フィグネリアはそれならいいと引き下がってくれた。

(もっとじっくり見たかったな……)

 シャツがぴったりと体に張り付いて胸の形がはっきり見えて、目を凝らせば谷間まで拝める千載一遇のチャンスを逃すことになるとはつくづく惜しい。

「後は自分達や先輩に任せてフィグネリア先生はここでお戻りになった方がよろしいのでは?」

 透けたシャツには目もくれずニカが言うのに、クロードも同意する。

「俺も先生が狙われるならここまでにしておいた方がいいと思うんですけど……」

 下心は山ほどあるけれど、さすがにピンポイントでフィグネリに危険が迫るなら諦めるしかない。

「ここまでされて逃げるわけにはいかん。どうあっても謝罪してもらう。それにこの程度の嫌がらせだしな」

 あえてガラスではなく黒板消しとか、水をかけるとか確かにやり方は子供っぽい。

 見た目は中学生ぐらいの女の子だったし、そんなものかもしれない。

「でも、本当に危険だったら逃げて下さいね」

「分かった」

 フィグネリアが素直にうなずいて、一行はそのまま音楽室へと進んでいく。

 しかしそう簡単に通してはくれないらしく、次に進む廊下は夕日にぬらぬらと光っていた。

「えっと、石けん?」

 近くにあるのがトイレで、ちょっと泡立っているところと、液体石けんぽい匂いがするところからおそらくそうだろう。

「ますます子供じみてきたな。だが転倒すると危ないので気をつけて……」

 そう言った矢先真っ先に滑ったのはフィグネリアだった。

 けして彼女が不注意だったわけではない。その足下に固形の石けんが滑り込んできたからだった。

「先生!」

 石けんを避けようとして転びかけるフィグネリアを、クロードはどうにか支えるために手を伸べる。

「すいません……」

 しかし結局一緒にすっころんでしまった。

「いや、大丈夫だ。お前も怪我はないか?」

「はい。全然無事です。というより俺が先生を押しつぶし、そう……」

 フィグネリアを押し倒す格好のクロードは、自分の手の位置に気づいて愕然とする。

 きちんと、床についている。

(こういうときは、つい鷲掴みにするお約束があるのに……。というか、朝からさっきまで定番のあんなことやこんなことがあったのに、漫画みたいに上手くいかないのはなんでだ!?)

 朝から寸止めばかりでいまいち嬉しくない。

「どこか痛いところがあるのか?」

 フィグネリアの心配そうな声に、クロードは罪悪感にかられて大丈夫だと返す。

 そしてふと、フィグネリアの顔がとても近いことに気づく。

(先生の顔、こんなに近くで見たの初めてだな。睫、長い。目も凄く綺麗な水色だし、肌だって白くてふわふわしてそうで、それから唇……)

 桜色の艶のある唇を意識したとき、一気に顔が熱くなった。恥ずかしさと高揚感がない交ぜになって心臓がばくばくする。

(どうしてだろう。胸とか足とか見てた時よりずっといけないことしてる気になる)

 それなのに、どの部分よりも触ってみたい。

「先輩、いい加減退いてあげて下さい」

 床が滑る中やっと倒れるふたりに追いついたニカが、クロードの背中を掴んで引っ張る。

「う、あ、ごめんさい。…………イサエフ先生、なんで写真撮ってるんですか」

 起き上がったクロードは、ふとザハールが携帯電話で撮影していることに気づく。

「いや、何かの機会に利用できないかと思って。だが、普通に転んだ風にしか見えなくて残念だ」

「今すぐ消しておけ」

 立ち上がったフィグネリアが眉をつり上げて、ザハールはデータを消した後にスーツの内ポケットに携帯をしまった。

「イサエフ先生、半分遊んでますよね」

 ニカが半眼でザハールを睨む。

「エリシン君、僕はそこの彼がきちんと役目を果たすかどうか見届けるためにいるんだ。それ以外の目的はない」

 きっぱりと言い切るザハールだが、どことなく嘘くさかった。

 三人は胡乱な目をザハールに向けながらも、気を取り直して先へと進むことになった。

「ガラスと水道と、石けんか。これ以上の損害がないといいのだがな」

 フィグネリアが物憂げにつぶやく。

「あとは音楽室で暴れないでいてくれるといいですけどね」

「……楽器だけはできるだけ護ってくれると助かる」

 そんなことを言っている内に、やっと音楽室にたどりついた。中からはピアノの音が聞こえて来ている。

「じゃあ、行きますよ」

 クロードは深呼吸してドアを開ける。

 学校の音楽室としては広い。四〇人ほどの生徒を収容できるスペースの他に、大型の楽器を置けるスペースもあるので普通の教室の二倍近くの広さがある。

 規則正しく並ぶ椅子と机の向こうで、黒光りするピアノは素人目にも高級そうと分かる代物だ。先々代の理事長が予算も考えずに購入した、学校一高価な備品である。

「クロード、あのピアノだけは死守してくれ」

「分かってます。えっと、ラウキルさん。俺です。昨日、会ったクロードです」

 声をかけながら中へ入ると、ピアノの音が止まった。

「ねえ、そのひと、何?」

 そしてピアノの影から、中学生ほどのセーラー服を纏った少女が現れる。くるくるとした金の巻き毛に縁取られる輪郭は卵形で、怒りにぎらつく翡翠の瞳は大きく唇は可憐。

 申し分ない美少女だが、まったく好みではなかった。

「クロード、声が聞こえるぞ。あそこにいるのか?」

 フィグネリアが恐る恐る問うてくるのに、クロードはこくりとうなずく。

 普段はクロード以外に幽霊の姿はもちろん声も聞こえないものだが、ラウキルはそれなりに強い力があるらしく声だけは響いていた。

「僕はピアノの横にいるよ。このピアノすっごくいい音がして大好きなの。それで、クロード、その胸の無駄に大きいお姉さん誰? この僕というものがいながら、さっきからずっといちゃいちゃしてたでしょ。見てなくったって気配でわかるんだからね!」

「そんなことはしていない! 全て勘違いだ。ガラスを割ったり、水を溢れさせたりしたことを詫びてもらおうか」

「謝らないよ。僕はお姉さんみたいな胸の大きいひと大っきらい! その胸で僕のクロードを誘惑したんだ」

 ラウキルがぺたんこの胸を反らし、腰に手を当ててフィグネリアを睨む。

「わ、私はけして生徒を誘惑したりしない。クロード、お前からよく言い聞かせろ」

「えっと、そういうことですから。先生は悪くないですよ」

 クロードは怒れるラウキルに弱腰な態度で言う。

「じゃあ、僕のことのほうが好き?」

 小首を傾げてみせるのに、クロードは言葉に詰まる。

「えっと、だから俺は見た目が年下はちょっと……。ラウキルさんは可愛いし、俺みたいのじゃなくてもっといい人が……」

 ぐだぐだと昨日と似た言い訳しながら、クロードはラウキルのむくれた顔を見る。

「……君、昨日もその調子で逃げ帰ったのか」

 ザハールの呆れた声とフィグネリアの冷ややかな眼差しが痛い。

「だ、だって、女の子に強引に迫られたことないんですよ、俺。あんまり好みじゃない女の子に告白されて、お断りするなんて妄想でもしたことがないんです。というかそもそも、女の子に告白されたことなんてないし!」

 普段考えているのはどういうシチュエーションに持っていったら、フィグネリアといい雰囲気になれるかである。

「そうですよね。自分からいかないと駄目ですからね。でも、いっても駄目ですよね……」

「ニカ、いってみたら意外といけるかもしれないぞ。諦めたらそこで終わりだ」

 ちらりとフィグネリアを見つつ、クロードは希望的観測を口にする

「……先輩は少なくとも卒業するまでいってはいけません」

「ということは卒業したら応援してくれるんだな」

「君たち、見た目はそこそこだからもう少し言動をどうにかしなさい。フィグネリア先生、女性としての意見は?」

「お前が言動を言うのもどうかと思うが。まあ、生徒は論外だ」

 フィグネリアはどこまでも真面目でクロードはほっとしたような、残念なような気分になる。

「ほんっとに、そこのお姉さんクロードに興味ないの? 赤い髪と琥珀の目の組み合わせが綺麗だし。それに、笛の音! すっごく、すっごく素敵なんだよ」

 うっとりとラウキルが瞳を潤ませる。

「クロード、あそこまでお前に惚れ込んでいるのだからきちんと話をしてだな」

「いや、先生、絶対話聞いてくれませんよ……うわあ、怒ってる」

 フィグネリアと話し始めると、とたんにラウキルの機嫌は悪くなる。

「ねえ、僕のどこがいけないの? 胸?」

「え、えっと。うん。大きい方が好き、かな」

 クロードは馬鹿正直に地雷を踏んだ。

「そうなんだ。やっぱり僕の胸がちっちゃいから嫌なんだ!」

 半泣きでラウキルが言って、ピアノが激しい旋律を奏でる。

「今のは先輩が悪いですよ」

「クロード、ものには言いようがあってだな。それとピアノが壊れる」

 フィグネリアとニカの批難の声にクロードは身を竦ませる。

 そしてこの事態をどうにか突破しなければと、頭を悩ませながらそろそろと口を開く。

「ラウキルさん、胸の大きさより肝心なのは触れないことなんです。どんな大きさの胸だろうと、触れる可能性のない胸は無理なんです。いつか、触れるかもしれないという淡い希望があるからこそ、妄想のしがいとどきどき感が!」

 意味不明のフォローに周囲がすでに呆れて言葉もない状態でいる中、ラウキルだけが様相を変えた。

 幼さを消した冷めた表情には恐怖さえ覚える。

「ま、まずい。とりあえず、一旦逃げましょう!」

 クロードは三人に告げるが、少し遅かった。

 開けたままだったドアは大きな音を立てて閉まり、机が揺れ動き始める。

 指揮棒やチョークが飛んで来て逃げる内、全員ばらばらになってしまうと。机が一斉に動いてそれぞれ隔離されてしまう。

「フィグネリア先生! 後ろ、気をつけて」

 クロードはフィグネリアの背後にラウキルの姿を見つけて青ざめる。

「大丈夫だよ。この体は傷つけないから。決めた、僕がこの体もらうよ。そうしたら触りいただけ触っていいよ」

 悪魔の誘惑だった。

「待て、人の体で何をする気だ! クロード、躊躇するな!」

 うっかり心が揺らいだクロードだったが、金縛り状態のフィグネリアにまずいと笛で気を引こうと構える。

「だから、人の、体を。やめろ」

 フィグネリアの右手がつつ、とスカートの裾の片側を微妙にあげた。

(そ、それは集中できないからやめて)

 クロードは笛に口をつけたまま固まる。

「足とか、長くていいなあ……。胸もさ、きつそうだよね」

「勝手に外すな!」

 フィグネリアの抵抗も虚しく、ワイシャツのボタンがひとつ外される。

(あとボタンもう二個だったんだ!)

 まだ微妙にシャツの胸元は開ききらず、予測された谷間は見えないという衝撃の事実にクロードは変な音を笛から出した。

「先輩、落ち着いて早くなんとかして下さい!」

 ニカの怒声で我に返ったクロードは一度笛から口を離す。

「ラウキルさん、脱がすのも楽しみのひとつだから自分で脱いじゃ駄目です!」

 ひとまずラウキルの行動を制止するべく叫んだが、フィグネリアの視線が矢の如く突き刺さってくる。

(距離を詰めるつもりが、どんどん遠くなってる……)

 今日は物理的な距離は接近しすぎぐらいしたが、精神的には確実に離れていっている。

「分かった。じゃあ、脱がすのも触るのも好きにしていいよ。これなら僕のこと好きになってくれるよね」

 ラウキルの誘惑に、クロードはすでに声すら上げられなくなっているフィグネリアを見つめる。

 綺麗な顔も、大きい胸も、華奢そうな足も全部好きだけれども。

「駄目です。見た目が先生だけじゃ意味がないです。優しい時は暖かくて、厳しい時は恐いけど、それでもあったかいし……とにかく、外も中も全部フィグネリア先生じゃないと駄目です。だから、先生から出て下さい」

 クロードは真剣にお願いするが、フィグネリアの背後で姿を揺らめかせるラウキルは、涙目でこちらを睨んでる。

「やーだ。絶対やだ!」

 ますます幼い様子で駄々をこねるラウキルに、クロードは仕方ないと笛を構える。

 流れ出た旋律は激しいものだ。無理矢理、幽霊の身動きを封じて苦しめる音。

 こういうのは好きではないし、ましてや自分に好意を抱いてくれている女の子相手となると、ますます罪悪感が募るが仕方ない。

 音が終わる頃には、ラウキルは元のピアノの側で声もなくへたり込んでいた。

「先生、大丈夫ですか!?」

 クロードは机をどかして床に座り込んでいるフィグネリアに駆け寄る。

「う、ああ。私は大丈夫だ。それより霊はどうなった?」

「ちょっとの間声は出せないし、暴れられないと思います……先生、顔、赤いですけど」

 うつむき気味の顔が赤らんでいるのに、クロードはふと気づく。

(お、俺、告白しちゃったんだ!)

 あそこまで言ったら、さすがに分かるだろう。

「あの、先生、さっきの俺の声、聞こえて……」

「いや、聞こえていない。何も聞こえていなかった! それよりまだ成仏していないのだろう」

 フィグネリアがすくりと立ち上がって、背を向ける。

「先輩、早く終わらせて下さい」

 やっと机のバリケードを突破したニカがやってきて、クロードは強制的にフィグネリアから引き離される。

「君は最初からそれをやっておけばよかっただろう」

「できるだけ説得するが俺のポリシーなんです。ラウキルさん、ごめんなさい」

 クロードはザハールに一言返して、ピアノの前でほっぺたを膨らませているラウキルに謝る。

「許してあげないんだから。僕は君のこと、こんなに好きなのに」

「君は見た目と笛以外にこれといって彼に興味がない気もするのだけれどな」

 ザハールのさりげない指摘に、ラウキルが悪戯が見つかった子供のような、ばつの悪そうな顔をする。

「……本当はね、クロードが昔、僕が好きだった笛が上手な人に似てたから気にいったんだ。違うのは、分かってるし」

「だったら、俺じゃ駄目ですよね」

「駄目って程でもないんだけどなあ……。でもいいや、なんかすっきりしたから。ねえ、最後に笛聞かせてよ。そうしたらもうここから消えるよ」

 クロードはほっとして、今度はできるだけ優しい旋律を奏でる。

 それに合わせてピアノが音を重ねていく。やがてふたつは混じり合って、完璧な二重奏へと変わっていく。

 笛から口を離した時には、ラウキルの姿はもうどこにも見えなくなっていた。


***


「終わった……」

 ぐしゃぐしゃになった音楽室の机や椅子を元に戻し、床に散らばったものも片付けると、クロードはぐったりする。

「どうして君は、これを元に戻させる前に成仏させたんだ。詰めが甘い」

「忘れてたんです。いいじゃないですか、ちゃんと除霊できたんですから。フィグネリア先生、ピアノは問題ないですか?」

 クロードは最後にピアノの点検をしているフィグネリアに問いかける。

「ああ、ない。結局私も謝罪はしてもらえなかったな……」

 フィグネリアも疲れた様子でつぶやく。

「先輩、まだ廊下もなんとかしないと」

「分かってるけどニカ、今は思い出させないで欲しいんだけどな。明日じゃ駄目かな」

「駄目に決まってるでしょう。さあ、行きますよ」

 ひとり元気なニカが先に廊下に出て、残る三人も音楽室から出る。

 すっかり日も暮れて、電気のついていない周囲は暗い。

「電気をつけねばな。電気代も上乗せか。仕方ない。私が一階に降りてつけてくる」

「俺も一緒に行きますよ」

「いや、いい」

 クロードがフィグネリアにそう言うと、彼女はぷいと顔を逸らして素っ気ない返事をした。

(あ! 告白したの結局どうなるんだろう)

 除霊と片付けでちょっとの間だけ忘れていたが、返答が気になって仕方ない。

「……フィグネリア先生、携帯で警備室に連絡してつけてもらえばいいのでは?」

 ザハールの指摘に、フィグネリアが沈黙する。どうやら彼女も内心はとてつもなく動揺しているらしい。

「あ、つきましたよ。……先輩、また新しい幽霊とかじゃないですよね」

 その時、廊下が急に明るくなって、怖々とニカが問うてくる。

「いや、違うと思うけど」

 なら誰だろうと首を傾げていると、大きな足音が聞こえてきてああ、と全員が察する。

「おお、みんな無事か!」

「よかった、怪我とかしてない?」

 やってきたのはイーゴルとサンドラだった。ふたりとも午前中とは違ってスーツ姿だった。

「兄上、義姉上! 理事会ではなかったのですか?」

「ああ、フィグがピアノなんとかするって言ってたから、様子を見に来たらガラスが割れててびっくりしたわ。ザハール以外ずぶ濡れだけど、怪我はなさそうね」

 フィグネリアが放課後にこの辺りを封鎖することを、ふたりに説明していたらしかった。

「申し訳ありません。今、生徒達と片付けますので」

「俺達も手伝うぞ。人数が多い方が早い。よし、危ないから俺がガラスの片付けは引き受ける」

 そして返事も聞かずにさっさとイーゴルは廊下の向こうへと消えてしまった。

「それじゃあ、先に三人は着替えて来た方がいいわね。クロードとニカは体操着に着替えてらっしゃい。フィグはあたしのジャージ貸したげるから、一緒に着替えに行こう」

「はい。ザハールは兄上を手伝ってくれ」

「ガラス代は私がもつので、もう帰ってもかまいませんか?」

「…………それは駄目だ。お前に支払いを頼むと後々ろくなことがなさそうだ」

 たっぷりと迷った後にフィグネリアが言って、ザハールは不服そうに眉根を寄せた。

「お金で済まそうなんて狡いですよ」

「先輩の言う通りです!」

 生徒ふたりに批難されたザハールが物言いたげにしながらも、渋々といった体で廊下の奥へと歩いていった。

 それから残った全員も着替えに行って、少ししてから掃除用具も持って音楽室に再集合した。

 ぶちまけられた液体石けんに手こずるクロードは、少し離れたところでモップ掛けをするフィグネリアへと近づいていく。

「フィグネリア先生」

「な、なんだ」

 だぶだぶのジャージを着て警戒するフィグネリアの姿は妙に可愛かった。

「あの、さっきの音楽室で俺が言ったこと……」

「だから何も聞こえなかったと言っただろう。ほら、エリシンが呼んでいるから手伝いに行け」

 ことごとく邪魔をしてくれる後輩を恨めしく思いながら、クロードはこれ以上の無理強いはやめて大人しく引き下がることにした。

(やっぱり、卒業式の日にちゃんと好きって言った方がいいしな)

 真面目な彼女だから在学中にどうにかできるなんて、本当は思っていない。

 だけれど必ずその日までには、いい返事を聞ける努力は怠らないつもりだ。

「先生、明日の午前中も保健室のお世話になりそうですけど、いいですか?」

「欠席した方がよくないか?」

「ひとりで家にいるより、先生がいる保健室がいいんです」

 フィグネリアが面食らった顔をした後、また顔を逸らしてしまう。

「…………登校中に力尽きても知らんからな」

「大丈夫です。保健室にたどり着くまでは絶対に倒れません」

「お前は本当にどうしようもないな」

 フィグネリアがやっとこっちを向いて苦笑する。

 今はまだこんなやりとりができるだけで幸せだった。

 クロードはにやついたままニカの元に行って怒られるが、それでも顔は緩んだままだった。


終わり

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