そこに楽園はあるか

僕の背中には、大きなアイロン痕がある。いつ付けられたなんて覚えてはいない。小さかった頃は、そんな怪我なんて、日常茶飯事だったから。


両親も祖父母もいない僕は、ただ親戚中をたらい回しにされ、その中で育った。飯もろくに食えないこともあったし、下働きのようなことをさせられたこともあった。何かへまをすると拳だったり蹴りだったりが飛んでくることなんてしょっちゅうだった。たぶん、背中の痕もそんなときに付けられたのだろう。


やっと自立できる歳になってからは、育った場所を飛び出して、一人日雇いで食い繋いでいた。暴力も受けず、やりたいことができる。飯も食える。僕は自由だった。けれど、孤独でもあった。6畳一間のアパートは、孤独を感じるには丁度いい空間だった。帰る場所はここしかない。自分を知る人間はどこにもいない。


彼女と出会ったのは、そんな一人暮らしを始めて、しばらくたった頃のことだった。仕事場でもなんでもない、街中で知り合った彼女は、僕の懐にするりと入ってくるのだった。そのどこか手慣れた様子に、最初の方は僕の方が身構えてしまったほど。


圭ちゃんって、呼んでもいいかな


名前を教えたあと、そう言った彼女の笑顔はとても印象的で未だによく覚えている。人懐っこそうな雰囲気だというのに、どこか人を拒絶しているような、そんな笑み。無機質な仮面のような、そんな気がした。


彼女は会うたびいつも笑っていた。朝でも夜でも、いつだって笑顔だった。けれど、男女の付き合いをするようになってから、それはただの余所行きのものだということを知った。彼女の素顔は、どこか消え入りそうな、憂鬱そうな顔だった。


彼女は僕の身体の傷について、何も言わなかった。背中のケロイドについても、腹の蚯蚓腫れについても、何も言わなかった。


彼女と肌を合わせるとき、いつも彼女はうわごとのようにパパ、パパ、と呟いた。彼女自身は気づいてないようで、僕はそれを問い詰める気は起きなかった。彼女もたぶん、僕と同じような目にあってきたのだろうということが、痛いほどよく分かったから。







ねえ圭ちゃん


その日の彼女は、少々思いつめたような、そんな雰囲気だった。彼女が久しぶりに実家に呼び出されて、そこから帰ってきたその日だった。夕日に照らされて少しアンニュイな気持ちになっていたからそう見えたのかもしれないけれど、それでも彼女の背負う空気は、普段のものとは違っていた。僕は何か大事な話なのだと少し居住まいを正して彼女と向き合った。


あたしね、今日、死ぬことにしたの


それは唐突な告白だった。僕は一瞬理解できなかった。けれど、言葉を反芻するうちに、その気持ちが痛いほどわかってしまった。彼女の、逃げるのを止めてしまいたくなった、その気持ちを。僕だって逃げるのを止めてしまいたかった。だからなのかもしれない。


分かった、僕も今日、死のう


無意識に、そんな返事をしてしまったのは。







これで、本当に死ねるのかな


裸電球に照らされた卓袱台の上には、瓶に入った白い錠剤がいくつも並んでいる。ハルシオンだとかマイスリーだとかのラベルを眺めながら、僕はそう無意識に呟いた。今日死ぬことに、あまり実感は沸かなかった。


彼女は上の空でたぶんね、とだけ言った。彼女もまた、同じ気分なのだろう。


白い錠剤は、二人で等分にすることにした。薬品瓶一本以上もあるそれを、なんだか惜しくなってしまって、僕はそこからひと粒だけ取り出して噛み砕いた。彼女は薬を抱えて部屋の外の洗面台へ行ってしまったから、彼女がどうやってその薬を飲み干したのか、僕は知らない。噛み砕いた薬なんかよりも、自分の卑小さの方がよっぽど苦かった。









ねえ圭ちゃん、あたしね、幸せになりたい


彼女は何かを見透かすように、持ち上げた自身の掌を眺めた。外から漏れる街灯の灯りに照らされた、白魚のような手。そして、その手首には傷痕が夥しいほど浮かび上がっている。それらはどれも古いもので、完全に塞がっているというのに、なぜだかとても痛々しい。


薄い布団を普段のように二人で分け合っている状況は、明日も同じようにやってくるようなそうな気になってしまう。僕には明日がやってくるだろう。けれど、隣のぬくもりには、たぶん、ない。




パラダイスの語源はね、壁に囲われた、っていう意味なんだってね


彼女は天井を眺めながら、そう呟いた。窓から今日は月が見えない。今日の夜空はいつもよりうんと暗い。そういえば今日は新月だった。そうだね、と僕は頷いた。


じゃあさ、このアパートも壁に囲まれてるから楽園なのかな


ここが楽園だなんて、ありえないよ


僕も彼女も少し笑った。辺りを走る列車の音が聞こえてくる。


だって、壁も天井も染みだらけ、扉の建てつけも最悪、おまけにすきま風もひどいときたもんだ。こんなところ、楽園だなんてありえないだろう


そうだねえ


その後、暫く沈黙が続いた。薄い壁伝いに聞こえる深夜ラジオのヒットナンバーが僕らを包み込む。なんとも言えない時間だった。


ねえ、幸せってどこにあるんだろうねえ


おもむろに彼女が口を開いた。それが、最期に聞いた彼女の声だった。





あくる日、僕は普段よりも少し遅い時間に目を覚ました。隣で寝ている彼女におはようと告げ、僕は普段通りのルーチンに戻ろうとした。けれど、隣で寝ているはずの彼女は冷たくなっていた。


彼女は、死んでしまったのだ。


何か、喪失感のようなものが僕を襲った。僕は今、孤独なのだと痛いほど感じた。天涯孤独な僕のそばにあったはずのぬくもりは、昨日までで失くなってしまったのだ。僕にとってそれは、思っていたよりも僕の傷を塞いでいたのだ。例えそれが傷の舐め合いの関係だったとしても、それは僕にとって、かけがえのないものだったのだ…………。


ねえ、愛理。僕はどうすればいいんだい?


彼女は安らかな顔で眠っていた。昼前だというのに、空気は凍りそうなほど冷たかった。


僕は君なしで、どう生きれば、いいんだい?


彼女は蝋人形のようだった。彼女は………。


六畳一間のボロアパートで、間違いなく僕らは束の間の楽園を貪っていたのだった。

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レヴェンテは太陽を知らない 春暁 @asuasatte

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