レヴェンテは太陽を知らない

春暁

レヴェンテは太陽を知らない

かれはいつだって自分の傍にいた。

ヴェルサイユで帝王学を詰め込まれていたときも、フォンテーヌブローで一時の静養に勤しんでいたときもそれは同じだった。気がつけば一番近くにいて、影のように自分に寄り添っていた。


ただひとつ問題があるとすれば、それはそれが夜だけである、ということだけだろう。不思議なことに、昼間はかれの姿を探してもどこにも見つからなかったというのに、夜になると何事もなかったのようにひょっこりと現れて自分の傍を離れようとはしなかったのだった。


かれはとても物知りだった。

かれは自分が知らないことを訊ねればではあるが、ほとんどすべて教えてくれた。政治、歴史、芸術、音楽、科学……。それは家庭教師のヴォギュヨン公をも凌ぐほど。毎晩眠りにつく前、かれはベッド際に座って公よりも詳しく丁寧に、王のあるべき姿について説いて聞かせてくれた。


ただし、何故だかこの国の王については語ろうとはしなかった。どれだけ強請っても、かれは当たり障りのない話しかしようとはしなかった。


かれは歳を取らなかった。

まだ自分がただのベリー公オーギュストだった頃からずっと、かれの容姿は一切変わらなかった。艶やかな赤い髪はいつまでも白いものが混じることはなく、強い意志を感じるその青い目はずっと若々しい硬さを保ったままだった。


赤い髪は不吉であるし、困ったことはなかったのかと聞いたところ、かれは"昔はこんなのじゃなかったからね"と苦笑いで返すのだった。


かれは自身がハンガリー出身だといった。

だから自国の歴史を詳しく語ることができるのだ、とも。かの聖王がまだヴァイクと名乗っていた時話も、ハンガリー王国に聖なる冠が戴かれた話も、まるでその場で経験したかのような、そんな臨場感をもってかれは自分に語ってくれた。私はそれを、まるで自分のことのように受け止めた。先に息子を亡くした哀しみも、精彩を無くした聖王のその最期、そしてその後の悲惨な動乱の時代も。


何故こんなにもかの王について詳しいのか、かれに直接訊いたことは何度でもあった。もしかすると、嘗て王やそれに近い身分であったのではないか、と。でなければ自身の憧れでもある先代の今も語り継がれるその風格、それと良く似たそれなど出せまい、と。


「さあね、分からないな。僕は太陽を知らないから」


しかしかれは一頻り大笑いした後、決まっていつもそう言って誤魔化すのだった。


そんなかれは名をヴァイク・レヴェンテ、といった。




いつも傍にいたように思っていたというのに、気がつけば、かれは自分の前からいなくなっていた。思えばそれは、我が身が王となった時を境にしているのかもしれない。自分だけでは分かるはずもないことではあるが。




かれと再会したのは、いよいよ塔に閉じ込められてからのことだった。自身は家族にすら会えないというのに、かれは自身の居室に堂々と入ってくるのだった。


かれは覚えていた容姿そのままで、やはり一切歳を取ってはいなかった。髪は自分が覚えているのと全く変わらない混じりけなしの艶やかな赤色で、青い眼の瑞々しさは初めて会った頃と何ら遜色なかった。


私は自分の父や祖父にしかしたことのなかった最敬礼でかれを迎えた。意表を突いた出迎えだったのだろう、かれは困惑した顔で問うのだった。


「なんだって君は僕をこんなに敬ってくれるんだい」


「それはあなたがイシュトヴァーン1世だからです」


私は間髪入れずにそれに応えた。あんなにも聖王を鮮明に語ることの出来る人物など、本人以外にありえまい。私には何故だかそうである自信があった。さして驚きはしないものの、かれは心底心外だ、という顔をした。


「イシュトヴァーンは聖王じゃないか。何故こんな歳を取らない化け物と同一人物といえるんだい」


「体が化け物であったとて、心は気高き王そのものでしょう。でなければ私に王とは何たるかなど説きはしない。そうではありませんか」


「………」


その夜、この問答は、かれが端正な眉の間に皺を寄せて溜息を吐くことで打ち切られた。





かれとはその後、毎夜私室で幾許かの会話を交わすようになった。主に話すのは会えないうちに自分たちの身に何があったかであった。かれは会えない間、この国をゆるりと周遊していたと言った。北の町のカルヴァドス職人が頑固一徹で、真面目を絵に描いたようなひとだっただとか、南の町の食堂には陽気な人々が毎夜集まっては歌を歌っているのだとか、そんなとりとめのない話をかれはとても楽しそうに話すのだった。


しかし、幾らとりとめのないものだとしても、そんなものは何度も顔をあわせるうちにいつかは尽きてしまう。再会してから2か月程たって、話題に困窮してしまった私は懐かしの王についての講義をまたかれに強請ったのだった。


その夜も、かれは我が居室へやってきた。その日のかれは、幾許か憔悴した様だった。


かれはいつもの様にベットの脇に座り、気まずそうに溜息をひとつついた。少し前に淹れた紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。安物ではあるが王族の手前、酷いものは用意できなかったのだろう。それが今はとてもありがたく感じた。


「国とは民のためにあるものだ」


すこしばかり唸っていたかれは、漸くその重い口を開いた。どこか思いつめる口調に多少驚いたものの、私は普段とあまり変わらずええ、と返した。何がかれを憂鬱にさせているのだろうか。


「そして、王とは国のためにあるものだ」


かれはまた溜息をついた。


「王の責務とは国に正しく尽くこと、でしょう」


「そうだ。王がどれだけ国に正しく尽くしたかは、民の様子を見ればわかるだろう。民が安寧に過ごしていれば良王だろう。民が反逆を企てていれば間違いなく愚王だろう」


それならば私は間違いなく愚王だ。幾ら国に尽くしたとは言え、こうしてその座を追われたということは、それはきっと正しいものではなかったのだろう。かれは満足そうにちいさく笑った。しかし、すぐにその笑みを消してしまい、またひとつ、溜息をついた。


「だが、その正しさとは、特に定まったものではない。人間として正しいことでもない」


「私はその正しさに囚われて、国に尽くすことを止めてしまった愚かな王だ」


そのちいさな呟きに、私の口からえっという声が漏れた。しかし、かれはそれに意も介さず、ただとうとうと話を続けた。


「私は息子を喪ったとき、自問自答を繰り返した。私が王であるから国に尽くさねばならないのは理解できる。だがしかし、私は同時に親でもある。親として我が子に尽くさねばならないというのに、何故国が邪魔をするのだ、と。王は機械ではないのだ。王にだって尽くしたいと思うものなど他にも沢山あるだろうというのに、と。私は息子に何も与えてやれなかった」


かれは虚ろな目で中空を見つめている。


「そうしていくうちに、私は国に価値を見いだせなくなっていった」


なんとなく、我が子ジョセフを思い出した。あの聡明で将来が楽しみだった子………。あの最中の三部会はあまりよく思い出せないが、よほど酷かったに違いない。未だに苦い思いを抱いてしまう。


「そうして、知らず知らずのうちに私はあの国の戦火の引鉄を引いてしまったのだろう」


かれはさらに続ける。何かを振り落とすかのようにかれは首を横に振った。


「後悔しかなかった。私は後悔したまま死んだのだ。王としての正しさと人としての正しさを、両方とも手放したまま」


段々とかれの声は小さくなっていく。


「だからこそ、死んだというのに蘇ってしまったのかもしれない」


それはどこか、堪えるような声だった。絞り出すような声だった。


「…貴方は、」


思わず、私はかれの言葉を遮ってしまった。はしたないことだと分かってはいても、かれの悲痛な声をこれ以上聞きたいとは思わなかった。


かれはこちらをちらりと見遣った。そして、自嘲するかのようにひとつ、鼻で笑った。


「すまないが、続けさせておくれ。君には全て、聞いておいて欲しい。後悔しながら死んでほしくはないのさ。……今更言っても遅いかもしれないが」


そんなことはない。確かに今は後悔もある。だが、すぐ殺されるわけでもない。しばらく内省する時間はあるはずだ。その間に大切なものを掴み直せばいい。


私はそういう旨をかれに告げた。それを聞いて、かれは少し困った顔で頷いた。


「君はまるで陽だまりのような人間だ。ぎらぎらとした皆を照らす太陽なんかじゃない。君は平和の中にいるべき人間だろう。決して今のような時代に生きるべき人間じゃない……」


柔らかなかれの声に、思わずシーツの端を掴んだ。………ああ、そんなことなど、とうの昔にわかっているというのに。


どうして、今更堪えるのだろうか。


「…いや、話を続けよう。目覚めた当初、私は神に感謝したんだ。やり直しの機会を与えて下さりありがとうございます、と。だが現実は違った」




「…私が目覚めたのは、次代の王を決める争いの最中だった」


かれの話は兎角悲惨なものだった。かれの直系の血族は死に絶え、残された王位を巡る肉親同士の対立……。漸く支配体制が安定したかと思えば王家断然、ハンガリーの地はマジャルのものではなくなってゆく……。そして、今もなお彼の地はゲルマンの支配下にある。


決してかれが元凶というわけではない。運命とはこういうものだ。しかし、すべてを見てきたかれが責任を感じてしまうのは至極当たり前のことだろう。かれの言葉端にはどうすることもできない後悔がありありと感じられた。


かれがもっと偉大なる王であったならば、こんな悲劇は起こらなかったかもしれない。かれが太陽のような王であったのなら。だが、現実は違う。


かれは王と人の間に悩まされてしまった。太陽を手放し、さらに人であることもまた、手放してしまった。


「私は太陽になることを諦めてしまったのさ。そして、人であることも諦めてしまった。だから、私は太陽を知らない」


ここでかれは独白をやめた。


「すまない、自嘲が過ぎるかな」


そう言ってかれは視線を下ろした。彼の手許にはとうの昔に冷めてしまった紅茶がカップの中で揺らめいている。私とかれとの間に、しばらくなんとも言えない空気が流れた。


「どうして祖国再興を願わないのですか」


その間が耐えきれなくなって、、私はどうしても気になったことをかれに問うた。聞いてはいけないことだろうと思いつつも、聞かなくては納得のいかない問い。思わず、私の声は非常に掠れたものになった。それに対し、かれは憐れむような、悲しむような、そんな表情で私を見た。


「願ったとて、それが民に受け入れられるかどうかはまた別の話さ。だいたい、化物の王なんて民が求めるとでも思うのかい」


「偉大な王であれば、民も復活を喜ぶはずです」


「そんなことはないだろう。私は恨まれもしていたのだからね。私が国の安寧を願っていたことは間違いではないが、民を喜ばせるような治世を行った自信はないよ」


「そんなことは………」


「そもそもだ。民が求めるのは国の安寧じゃない。自身の暮らしの安寧だ。現にこの国の王政は民によって拒絶されたじゃあないか。民にとって為政者が誰かだなんて関係がないのさ。自分たちの生活さえ上手くいけばそれでいい。民が王を求めるのは、国が荒れに荒れて陽だまりなんかじゃ到底敵わなくなって、強烈な太陽が必要なときだけさ」


暮らしが安寧なら、上に立つものは誰であったって構わない……。陽だまりでは敵わない………太陽………。

私は何も返すことができなかった。






それは私がここへ来てから半年ほど経った頃であった。街は聖誕祭で慌ただしい筈だというのに、塔の中は至って静閑だった。きっと私には祝い事など許されないのだろう。


その日、私は出された朝食と共に、年が明ければいよいよ私の刑が決まるだろう、ということを聞かされた。喜べ、お前はお前が蔑ろにしてきた民に首を刎ねられるのだ、と監吏は言った。あまりの衝撃に私はその日食べたものの味を覚えてはいない。


やはりその夜もかれは私を訪ねて来た。私はそのうち自身の命運が決まることをかれに打ち明けた。かれはそれを黙って聞いているだけだった。


ひと息入れた後、我々はその後のこの国を夢想して楽しんだ。王がいなくなったこの国では誰が上に立つのだろう、とか、どういった未来を描くのだろう、とか、そう言ったとりとめのない話が暫く続いた。


「死ぬ間際でいい。私は民の太陽になりたい」


私はそう思わず独り言ちた。それはひととおり話が終わり、会話の余韻に浸っていたときだった。


私は確かにこの時勢にとって、無能な王であった。この上なく愚鈍な王であった。だがしかし、私は唯人ではなかった。国で生きる民ではなかった。私はあくまでも王であった。国のための王であった。


ならば、何時だって私は王であらねばなるまい。それが例え知己の待つ断頭台の上であったとしても。


「君はそう思うのか。ならば、僕は君が処刑されるその日まではここに居るとしようかな」


そう言ってかれは朗らかに微笑んだ。そして、君の今際を見に行かなくてはならないね、とも言った。何が何だか分からなかった。かれは何故私の死を喜ぶのだろうか。


そんな顔をしていたのだろうか。かれは私を見つめてから、微笑みはそのまま、だんだんと眉尻を下げた。


「君の死を喜んでいるわけじゃないさ」


かれは私の心に応えるようにそう言った。本気なのだろう、私はなんとなくそうだろうと思った。やはりその気持ちが顔に出ていたのだろう、かれの困った笑みはまた朗らかなものに戻っていった。


「誰かを温める陽だまりが、皆を照らす太陽になる。僕も漸く、太陽を知ることができそうな気がするからね」


そうだった。レヴェンテは太陽を知らないのだ。

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