第23話 ハッ天神の咄

 ここのところ、和尚さまは悩んでおった。

「……最近わし、イックーにあなどられてない?」

 真実に気付きはじめたようじゃな。

 イックーさんとて表向きは恭順しておる。本堂でイクこと以外は、そうそう言い付けに背くこともない。だがときおり、ひどく冷たい目で和尚さまを見ておるのだ。まるで三日も洗っていないふんどしでも見るかのような……

 宵の口、自室にて蜜ツボを取り出し、いざナメようと思ってもどうにも気が乗らない。蜜ツボをそっと隠し場所に戻すと、しょんぼりとため息をついた。

「昔はこうではなかった……イックーはちゃんとわしを尊敬しておった。使用後のオナホを洗っておけと言っても、いやな顔ひとつせなんだ……」

 それは嫌われる。

「はあ、まぶたを閉じれば思い出すわい、あやつの幼かった日のことを……」

 和尚さまの頭上に、フワフワと思念の雲が浮かんだ。

 思い出すのはイックーさんがアンッコク寺に来たばかりの頃、初めての正月を迎えたある日のことじゃ……



 ──朝もはよからこっそりと、出掛ける支度をしていた和尚さまのところへ、まだ幼かったイックーさんがやってきた。

「和尚さま、おはようございます」

 和尚さまはビクッとした。

「ぬおッ、い、イックー!」

「どちらに参られるのですか?」

「いやこれは、その……ちと都に用があってな、法事……そう、法事じゃ!」

 うそじゃな。

 今日はハッ天神テンじんのお祭りがあるので、和尚さまはこっそりイこうとしておった。

 ハッ天神とは、北野手満宮で催されるその年で初めての縁日のことで、規模の大きさもさることながら、ひげの剃り跡の青々としたたくましい男たちが大勢集まることで広く知られておった。和尚さまにそのケはなかったが、売り出される質の良い道具類が目当てじゃ。

 イックーさんは驚いた様子で言った。

「えっ! 和尚さまをお一人イカせるなんて、わたしにはとてもできません! お供いたします!」

「い、いや、子供にはまだ早い!」

「え? 法事が?」

「あ、いや……と、とにかく、よいのじゃ! わし一人でイクッ!」

 イックーさんはハッとして、悲しげに目を伏せた。

「……そうですよね。わたしのような若輩の新参者が、和尚さまのお供などと、出過ぎたことでしたね」

 それから、泣きそうなのを我慢するような、気丈な微笑みを見せた。

「では、他の誰かを起こして参ります!」

「ヌッ!? いやいや、気を遣わんでよいから!」

「わたしは和尚さまが心配なのです……お待ちください、今起こしに!」

「待て待て、わかった! おぬしに供をしてもらおう!」

 他の小坊主に、特に年長組に知られでもしたら困りものじゃ。イックーさん一人ならどうにかごまかせると、和尚さまは考えた。

 いやはや、どこまでも俗物。

 こうして二人はそそくさと、ハッ天神へと出掛けたそうな。

 北野手満宮は、芋洗いの様相であった。縁日の賑わいの中に、パンパンと互いの尻を叩きあって笑う男たちの姿がある。

 心おどるようなにぎわいじゃな。

「──あっ! 和尚さま見てください、水あめを売っていますよ!」

 はしゃぐイックーさんを、和尚さまは猜疑のまなこで見ておった──わしは法事だと言うたのに、こやつ疑う様子もなく、まるで最初から縁日を楽しみにしていたかのように……いやいや、まさか。イックーに限ってそんなことはあるまい。純真な小坊主じゃ、疑うべきではない……

 和尚さまは首を振り、頭の中から邪念を追い出した。

「……あれは水あめではない。ローションというものじゃ」

「なんですか、それは?」

「ヌルヌルする液体じゃな」

「どう使うんです?」

「ふ、子供は知らんでよい……」

 和尚さまがそう返答すると、イックーさんはやにわにローション屋へと駆けて行った。

「すみませーん、ひとつくださーい!」

「こらこらこら!」

 和尚さまは急いで後を追った。

「なんじゃ! どういうつもりじゃ!」

「え? いや、買ってみたら使い方もわかるかと」

「わからんでいいと言うに……第一おぬし、金をもっとらんじゃろうが」

「はい、和尚さま買ってください」

「なんでわしが! 絶対に買わんぞ!」

 イックーさんは、いきなり両手で顔を覆って泣き出した。

「和尚さまがローションを買ってくれない! 和尚さまが!」

「む……なんじゃ! 泣き落としは通用せんぞ!」

 和尚さまはかたくなであったが、ふと、ひげの剃り跡の青々とした男たちが足を止め、遠巻きにこちらを眺めていることに気付いた。ヒソヒソと話し声がする。

「ンマァ……あの和尚さま、非道いわネ」

「ええホント、ローションも買ってあげないなんて、優しさが足りないワ!」

「道具をけちるなんて、つらさがわからないのかしら……」

 ひげの剃り跡が青々とした男たちの間でひとたび悪いうわさが立てば、夢漏町むろまち中に広がってしまうじゃろう。彼らは話好きだからのう。

 和尚さまは慌てた。

「わ、わかったわかった、買ってやる! ほら、どれがいいんじゃ!」

 イックーさんは真顔で言った。

「一番高いの」

「こやつ……!」

 ここに至って和尚さまも、イックーさんがただ純真なだけの小坊主ではないことがわかってきたが、これぞ後の祭りというものよ。

「やれやれ、とんだ出費じゃわい……」

「わーい」

 ローションを買ってもらってほくほく顔のイックーさん、しばらく歩くとまた口を開いた。

「あ、和尚さま」

「今度はなんじゃ!」

 出店の一つを指差し、

「あれはなんですか?」

「む……あれはたこアゲ用のたこじゃな」

「たこアゲ?」

「なんじゃ、知らんのか?」

 たこアゲとは、水揚げされたばかりのイキのいいタコを身体にまとわりつかせ、その刺激でアゲアゲになるという夢漏町の遊びじゃ。正月の風物詩とされておる。

 触手系は一定の需要があるのう。

 和尚さまから説明を受けると、イックーさんは目を輝かせた。

「やってみたい!」

「ダメじゃダメじゃ! 子供にはまだ早い!」

 イックーさんは両手で顔を覆い、

「和尚さまが! 和尚さまがたこを……!」

「わ、わかったわかった! まったく、なんてやつじゃ……!」

 首尾よくたこを手に入れたイックーさんは、さっそくアゲようと思い物陰に向かった。 

 しかし和尚さまが、自分が先にアゲると言い張った。

「わしが買ったんだから、わしが先じゃ!」

 たこアゲ用のたこはかなりの値段がする。他の道具を買うために持ってきた金子もほとんど使ってしまった。ここは譲れぬ。

「えー……しょうがないなあ」

「順番じゃ順番」

 和尚さまはもろ肌脱ぐと、全身にローションをぬり、ツボからたこをヌルリと取り出し張り付かせた。ほどよく締め付けられるだけではなく、吸盤が肌をまさぐるその快楽といったらたまらぬ。

「ンッ……はオッお! こっれスッゴアッへええ、ヒギッ……おおッ!」

 イックーさんは、目を輝かせてその様子を見守っていた。

「どうですか、和尚さま!」

「ウッふぅ、アガるぞ、アガるわい! どんどんアガッてイクぞッ! 天高く、雲を突き抜け……どこまでも高みに……!」

「早く交代してください!」

 ところが、和尚さまは譲らなかった。

「ダメじゃ、おまえは見ておれ! こんなものは子供がオッホオやっていい遊びではないンッだはァ……見ろ、糸を引き始めたぞ! 糸を引けば引くほど、どんどんアガってゆく! おッホああぁぁぁぁーッ!」

「……ちぇ」

 糸を引きながら果てしなくアガっていく和尚さまを、イックーさんは、薄汚れたふんどしでも見るかのような目で見ておったそうな……

「こんなことなら、和尚さまなんか連れてくるんじゃなかった」



 ──思念の雲が霧散し、しばしの回想から舞い戻った和尚さまは、ふと首を傾げたそうな。

「いやいや、昔から小憎らしい小坊主だったわい……可愛かったと思ったのはわしの勘違いじゃった」

 さっぱりと、夢から覚めた表情でそう言ったものじゃ。

 思い出というのは美化されてしまうもの、人はそうそう変わるものではない。その性根のところまではな。

 まさしく、三つ子のたまきん百まで、ということじゃ。

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