第19話 マンじゅうコわい咄

 夢漏町むろまちの頃というのは、今ほど人の領分は広くはなかった。生活圏の中心をわずかでも外れれば、険しくも美しき大和やまとなる自然が広がっておった。神秘は未だ深く、人知の及ぶものではなかったのじゃ。

 さて、夏の暑さが少しずつ落ち着いてきた頃、都にほど近い野っぱらで、一匹のキツネがアンッコク寺を眺めておった。ひどく憎々しげなまなざしでのう。

「おのれ、あの小坊主め……よくも大変化だいへんげたるこのわしに、あんな仕打ちを!」

 そう、盛夏の頃、イックーさんにゴムゴムのワイフでこっぴどくやられたあのキツネじゃな。人間にしてやられるとは、化け物業界のいい笑いもの。なんとしてもイックーさんを心底からおどろかせ、汚名をすすがなければならない。

 そのために、まず必要なのは……そう、綿密なリサーチじゃ。相手の恐いものを知らねば始まらぬ。

「ケーン!」

 キツネは甲高い声で鳴くとその場で跳び上がり、くるりと宙返りをした。着地したときには、見目麗しい若侍に変じておる。

「……うむ、完璧じゃ!」

 自分の尻を触り、尻尾が飛び出していないことを確認すると、若侍と化したキツネは勢い込んでアンッコク寺へと向かった。

 イックーさんは山門前の掃き掃除をしておった。キツネはイックーさんが掃除当番になるこのときを、じっと待っておったのじゃ。

「おい、そこな小坊主!」

「ンヒイィッ!」

 イックーさんは、激しく痙攣した……

「む、どうした?」

「うッ……く、はァ……い、いえ、なんでも……ンないですゥ……いきなり話し掛けられたので、驚いただけでへぇ……」

「驚いただと! 今のでか!」

 目を輝かせるキツネに、イックーさんは不思議そうに首を傾げた。

「ンッ……どうなさったんです? なんだか嬉しそうですけど」

「む、いや……なんでもない!」

 イックーさんはじろじろとキツネを見ながら、

「失礼ですが、どなたですか? この辺りの方ではありませんよね?」

 キツネは思わず尻を押さえて言った。

「う、うむ、わしは旅の武士じゃ! 都へ士官に行きたいと思ったのだが、道に迷ってしまってな……ほ、本当じゃぞ!」

「なるほど、それでしたら──」

 イックーさんは丁寧に、都までの道を教えてやった。

「おお、かたじけない」

「いえいえ……」

 頃合いと見て、キツネは切り出した。

「……ところで小坊主、そなたは先ほどわしに話し掛けられただけで驚いたようだが、驚きやすいのか?」

「え? ええ、まあ……」

「おお! それでは、お化けなどが出たら相当驚くのではないか?」

「お化けですか? いえ、そういうのは別に……」

 ホラーには耐性があるがビックリ系はダメ、という人はおるようじゃな。

「ふむ、お化けは怖くないか……ではそなた、どのようなものが怖いのじゃ?」

「怖いものですか? そうですね……」

 イックーさんは悩んだ素振りを見せてから、菩薩の微笑みを浮かべて言った。

「春画が怖いですね」

「なに、春画が? これは異なことを……人間の男ならば誰しも、春画が大好きなのではないのか?」

「大多数の人はそうですが、わたしなどは二次元は苦手なのです。見るだけでぞっとしますよ、ああ怖い怖い……」

「そうか、なるほど!」

「ところで、なぜそんなことをお尋ねに?」

「むっ、いや、ちょっと興味があっただけじゃ……それでは失礼!」

 ボロが出ないうちにと、キツネはさっさと退散し、その足で川原へと向かった。

「覚悟するがよいぞ、あの小坊主め!」

 そして、川原で天然モノの春画をたっぷりと採取すると、夜のうちにイックーさんの部屋へと放り込んでおいた。朝起きたとき、どれほど怖がることだろう? 想像するだけで笑いがこみあげてくる。

 だが翌日、アンッコク寺に様子を見にいったキツネの目の前には、信じがたい光景が広がっておった……寺の裏手で小坊主たちが、新しい春画を嬉しそうに読み合っておったのじゃ。その中にはイックーさんの姿もあった。

 唖然とするキツネの耳に、小坊主たちの会話が聞こえてきた。

「おい、イックー! こんな大量の春画、どうやって手に入れたんだよ?」

「天然モノばっかりだ……これだけあれば蔵がつぞ!」

「お前こそ春画枯渇時代の英雄だ!」

「性器末の救世主だ!」

「なあ教えろよ、どうやったんだよ!」

 イックーさんはまんざらでもなさそうに、

「いやあ……それがですね?」

 声をひそめて言う。

「先日こちらに、奇妙なお侍さまがやってきたんですよ。一目でキツネだとわかりました。だって、頭から耳が飛び出しているんですから……まあ、そういう趣味の人かもとは思いましたけど」

「あー、たまにいるよね、耳つけてる人」

「いるいる。都とかにいる」

 草むらの中に隠れたキツネは、ハッとして頭を押さえた。

 尻隠して頭隠さず……なんとも迂闊なことよな。

「それで、わたしが何が怖いかを聞いてくるんです。以前こらしめたキツネが、仕返しにきたってところでしょうね。春画が怖いって答えておいたんですよ」

「それでまんまと春画を手に入れたってわけか!」

「さすがだぜ!」

「いやあ……へへへ……」

 草むらに隠れていたキツネは、怒りに身を震わせていた。またもしてやられたというわけだ……このままでは恥の上塗りではないか。変化仲間にまた馬鹿にされてしまう……

 ガサガサと震える草むらを、イックーさんはチラリと一瞥した。

「……まあ、何度来ても怖くはありませんよ。わたしが本当に怖いものが、生身の女性だなんて、あのキツネは知る由もないでしょうから……二次元は大好きですが、やはり三次元は怖い怖い……」

 その言葉を聞いて、キツネはそれまでの悔しい気持ちもすべて忘れ、しめしめと思った。思いがけず良いことを聞いたぞ、今度こそ怖がらせてやると意気込んで、野っぱらに戻っていった……

 所詮は畜生ちくしょうの浅知恵よ。

 イックーさんは、捨てるつもりなのじゃ……長らく歩んできた無垢なる道程みちのり……道程どうていを捨てるつもりなのじゃ……もうキツネでもいい、そんな切迫した想いが感じられて、哀しくなる。

 その日の夜更け、首尾よくおなごに化けたキツネはイックーさんの部屋へと忍び込んでいった。罠とも知らずにのう……

 だが、一刻ほど過ぎた頃、

「──うっげえええぇぇぇあぁあああぁぁぁぁぁああぁ!」

 とんでもない叫び声をあげながら、イックーさんが窓から飛び出してきおった。

「グロテスクうぅぅぅぅぅぅぅ!」

 ……まあ、初めて見たときは、そうなるのかもしれぬな。

「なんじゃ、あの小坊主……」

 取り残されたキツネはポカンとしていたが、どうやら仕返しができたらしいとわかって、ほくほく顔で野っぱらへと戻っていったそうな。

 自然の神秘と同じく、女体の神秘もまた深く、人知の及ぶものではない……そういうことなのじゃろう。

 いやはや、怖いのう、怖い怖い……怖いのう?

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