第7話 転移
2月14日月曜日、そんなのにはしゃぐ歳ではないけれど・・・いつもより1時間早く目が覚めた。
「おはよう~」
「あらぁ早いのねぇ」
「うん、食欲ないから 野菜ジュースだけでいいよ」
「亜美、大丈夫?何か顔色良くないみたいだけど・・・」
「平気よ、じゃあ行ってきます」
箱が横にならないように、慎重に自転車の籠に入れてから、まだ少し薄暗い道をゆっくりと駅へと向かう。
7時30分過ぎ、品川駅に着いてからも箱が横にならないように慎重にゆっくりとオフィスへ向かう。
スターバックスの明かりが見えてくる、 開店したばかりの店内に数名のお客が座っているのが見える。
たぶん堤部長はいつもの様にコーヒーとBLTをテイクアウトして、もうデスクにいるはずだ。
エレベーターを待ってると心臓が高鳴ってくるのがわかる。
「ただの、ただのバレンタインディの義理チョコ、ザッハトルテ・・・じゃない」
そう思おうとしても、義理じゃないってことは私が一番わかっている。
エレベーターが来て、23階のボタンを押すとゆっくりとエレベーターのドアが閉まる。
「ふぅぅ~」
大きくひとつ深呼吸をする。
23階、 エレベーターのドアが開く、さすがにまだ誰もいない、オフィスには明かりが半分点灯いていた。
オフィスのドアを恐る恐る開けて中の様子を伺う、広いオフィスの中に堤部長だけがデスクに座っているのが見えた。
私はコートを着たままゆっくりと堤部長のデスクに近づいて行った、 心臓の鼓動が急速に早くなっていくデスクに近づいても堤部長は私に気づかない。
私は部長の左横に立って声を掛けた。
「おはようございます」
「おっ、おはよう、早いんだね・・・」
堤部長は少し驚いた顔でそう言った。
「りんご、本当に美味しかったですよ、 堤部長甘いもの大丈夫でしたよね?これ、良かったら食べてください」
私は少し早口でそう言った後ザッハトルテの入った水色の手提げ袋を手渡した。
「ぁぁありがとう」
堤部長は目を丸くして、そう言うと大事そうにその手提げ袋を受け取ってくれた。
私はホッとして、自然に笑顔になってオフィスを出て行った。
ロッカールームから戻るとオフィスには誰もいなかった、私がデスクでPCを立ち上げていると、堤部長が戻ってきた。
何となく堤部長の視線を感じる、私は部長のデスクに視線を向けることが出来なくて、立ち上がったPC画面をただボォ~っと見つめていた。
しばらくふたりだけの時間だけがゆっくりと流れていく。
(私たちの距離って・・・また少し近くなったのかな?)
その日の深夜、フェイスブックには堤部長からの書き込みがあった、 写真には半分食べかけのザッハトルテが写っていた。
< ザッハトルテすごく美味しかったです(○゜ε^○)v 本当にお店に出せるくらい☆☆☆すごい!あっという間に食べました♪ 写真送りますありがとう(*^^*ノ >
嬉しくて、すぐに返信する。
<堤部長からそんなに褒めてもらえると嬉しいです☆♪(^^)bGood! 日曜日 がんばって作った甲斐がありました♪ 私 ザッハトルテ大好きなので、自分の分も作っちゃいました (;^_^A 私は来週2日ほどお休みを頂きます。
おやすみなさい☆GOODNIGHT☆(;д;)ノ~▽''。・゜゜・>
食べかけのザッハトルテの写真を眺めながら堤部長が本当に喜んで食べてくれたことが私には嬉しかった。
来週は鈴木先生の定期健診の予定が入っていた。
「もしかしたら・・・1泊してもらうかも知れないから、準備だけしておいてね」
先生のその一言が私を不安にしていた。
私はそんな不安を振り払うかのように、堤部長とのフェイスブックを綴っていった。
<今、長崎に来ています!お昼は長崎ちゃんぽんを食べました。お土産は「松翁軒」のカステラにしました300年以上も前からある老舗のカステラ屋さんです>
<白濁したスープに野菜がドッサリのっているちゃんぽんの写真が美味しそう>
<えぇ~w(゜o゜)w 300年以上も前の?江戸時代?歴史得意じゃなくて(-"-;A … >
<カステラ しっとりしていて 美味しかったです♪ さすが300年☆ ザラメのとこがめちゃくちゃ 好き v(^_^ v) もうすぐ3月ですね ♪ 大好きな 桜の季節です。(=^ー゜)ノ 堤部長はお花見とか行きますか?>
堤部長からのお土産の長崎「松翁軒」のカステラを食べていた時、母がまた訊いて来た。
「堤さんって、ご家族は?」
「確か、お子さんがふたり・・・」
「そぉ、こうやっていろんなところのお土産買ってきてくれるって、家族の方も嬉しいわよねぇ~うちのパパなんてお土産なんて買ってきたことなかったから」
「家には、買っていないみたい・・・」
「えっ、じゃあもしかして亜美のため?だけに?」
「わかんない、そんなのどうでもいいじゃない・・・」
「そぉ、そぉ~よね、このカステラ ホント美味しい」
そう言って母は最後の一切れのカステラを口に入れた。
私は少し、堤部長からのお土産が・・・なんて言うか・・・負担になっていたのかもしれない。
(どうして?私だけに?)
その後も、堤部長とのフェイスブックは綴られていく。
<お花見かぁ、しばらく行ってないな~ 会社行く駅までの桜並木を見るくらいかな( ´△`) >
<岩手県に出張です、東北はまだ春は先みたいです。岩手には岩を割って生えている樹齢360年の石割桜が有名です。岩手は海の幸山の幸が本当に旨いです。 釜石 中村家の海宝漬をお土産にしました☆冷凍だから自然解凍して食べてみてくださいv(*'-^*)-☆ ok!! >
そんな書き込みがあった金曜日の夕方、堤部長がデスクに戻ってきた。
デスクに座ったと同時に大きな溜息をした後、バックからPCを取り出してオフィスから出て行った。
その後お互いに顔を合わせることもなく17時半になろうとした時、私のデスクにブルーのポスト・イットが貼られていてそこには『冷蔵庫』一言そう書かれていた。
(冷蔵庫?)
「お先に失礼します」
定時になってロッカールームに向かう途中リフレッシュルームの冷蔵庫の中を覗いてみる。
(あっこれって?海宝)
冷蔵庫には『中村屋』と印刷された手提げ袋に『柴咲さん』と書かれたポスト・イットが貼られていた。
一瞬躊躇して、私はその手提げ袋を冷蔵庫から取り出してロッカールームへ向かった。
「ただいまぁ~」
「お帰りなさい」
コートも脱がずに慎重に持って帰った海宝漬けを家の冷蔵庫に入れる。
「あら~何?ケーキでも買ってきたの?」
母がリビングから訊いてくる。
「うぅん、何でもない」
そう言って玄関に戻ってコートを脱いで2階に上がる。
着替えてリビングに行くと母が冷蔵庫を覗いている。
「なにぃこれ中村屋?三陸、海宝漬」
「あぁそれ」
「また、 堤さん?」
「う、うん岩手に出張だったみたい・・・」
「まだ冷凍みたいだから、明日の夕食にいただきましょうよ、おいしそうねぇ」
母はそう言って私を見て微笑んだ。
土曜日、HARUの散歩をしていると突然背中に激しい痛みが走る、5分ほど痛みでうずくまる。
「HARU・・・」
心配そうにHARUが私の横に寄り添って悲しげな声を発している。
「平気よ・・・大丈夫」
HARUにそう告げる、本当は自分自身にそう言い聞かせていた。
「なに?この痛み」
言い知れぬ不安が静にそして重く押し寄せてくる。
「帰ろうHARU、ごめんね」
散歩の途中で家に戻る。
「ただいまぁ」
「お帰り、あら早かったのねぇ、顔色良くないみたい・・・大丈夫?どうしたの?」
「なんでもない、平気よ、ちょっと気分悪くなっただけ」
「お母さん、HARUのお散歩の続き、お願い」
「わかった、あっそう さっき 鈴木先生から電話着たわよ、来週必ず来てくださいって」
「そぉ、わかった、少し横になるね・・・」
そう言って2階に上がってベッドで少し横になる。
今まで感じとことのない不安が私を締め付けていくようだった。
30分ほど横になっていると自然と痛みも消えていった。
夕日に照らされた窓の外からはHARUの鳴き声が聴こえてくる。
「ホント大丈夫なの?」
母が心配そうに訊いてくる。
「うん、ちょっと疲れているだけだから」
「じゃあ頂いた海宝漬でも食べて元気出して!」
そう言って冷蔵庫から海宝漬を取り出した、食卓にはアボガドとトマトのサラダ、菜の花のごま味噌和えが並んでいた。
いつもの母の手料理が私の心を落ち着かせてくれる。
「いただきます・・・」
「うわぁ~美味しそう、これアワビじゃない~贅沢よねぇ」
母が海宝漬の蓋を外しながらそう言った。
「これ、ご飯の上にそのままのせちゃった方が美味しいわよ、きっと」
そう言ってスプーンで海宝漬をすくった、メカブのネバネバが糸を引く。
ご飯にのった海宝漬を母が大きな口で一口食べる。
「うぅ~ん美味しいこれぇ~」
そう言って母は2口目を頬張る。
「亜美も早く食べなさいよぉ~私、全部食べちゃうわよぉ」
そう言って母は笑った。
アワビ、イクラ、メカブ、見た目もすごくキレイだった、私もご飯の上にのせて食べてみる。
「うぅ~美味しい」
「でしょ~」
まるで自分が買ってきたかの様に母が相槌を打つ。
アワビの歯ごたえとメカブのトロトロした食感、プチプチしているのは何かの卵の様だった、母も私も珍しくご飯をおかわりするほど海宝漬は美味しかった。
「う~んン、また食べすぎちゃったかな?」
母が熱い玄米茶を入れながらそう言って笑った。
「堤さん、の・・・ね」
「えっ?」
母は熱い玄米茶を一口飲んで続ける。
「堤さんのお土産って、何だか、ラブレターみたいよねぇ、だって・・・上手く言えないけど、お土産にはいつも、愛が感じられるもの・・・」
母は遠くを見つめてそう言った。
「ラブレター?」
「なんてね、 ラブレターなんていまどき 古すぎるか」
そう言って母はまた笑った。
「きっと、きっとね、 堤さんって不器用なのよ、だから・・・あなたは?」
「えっ?」
「好き・・・なんでしょ?あなたも器用じゃないから・・・」
私は黙って頷いた。
「でも・・・」
母は私の言葉を遮るように言い放った、
「いいじゃない、お互い子供じゃないんだし、後悔だけはしないでね」
「うん、ありがとう、お風呂、入ってくるね」
私は泣きたくなるのを我慢してリビングを出た。
湯船に浸かりながら、この母の子供に生まれてきて本当に良かったと改めて思った。
「私もこんな素敵な母親になれるのかな・・・」
お風呂から上がってからお土産のお礼を返信する。
<海宝漬ご飯にのせて食べました♪ アワビやイクラ 三陸の海の幸が一体になって宝石みたいにキレイです☆☆☆ご飯おかわりしちゃいましたよ~メカブがいっぱい入っていて とってもやわらかくて おいすぃ ~感動です~ (⌒¬⌒*)>
(ラブレターか?)
日曜日の夕方に返信が届いていた。
<良かった 私も海宝漬をのせて食べるご飯が大好きです♪9日からは仙台に出張です!鎌倉の桜は3分咲きくらいですか?>
堤部長から初めて『鎌倉』のことが書き込んである、それがなんだかすごく嬉しかった。
(いつかふたりで段葛の桜並木を歩けたらなぁ)
そんなことを空想して、そして願っている・・・そんな私がそこにいる、そしてまた返信する。
<大変ですね (;-_-) =3 堤部長は いつも出張で、ひとりで寂しくないんですか?ごめんなさい 余計なこと訊いちゃいましたねヾ(_ _*) 鎌倉の桜 今年は開花が少し遅れるみたいです。仙台まだ寒そうですね お気をつけて♪>
寂しいのは、本当は私の方なのに・・・そう思ってベッドに入る。
木曜日、私は横浜駅からバスに揺られていた、車窓からは楽しそうに学校へ向かう女子高生の姿が見える。
(遥、元気かなぁ)昨日メールが着たばかりなのに。
(私がいなくなっちゃったら遥、どうなるんだろう?)
なぜかそんなことを考えてしまう。
程なくしてバスが病院のロータリーに停車して次々と患者やお見舞いに来たと思われる人たちが降りてゆく、皆表情は暗くて、俯いている。
杖をついた70歳代と思われる女性がゆっくりとした足取りでバスから降りてゆくのが見えた。
「大丈夫ですか?」
よろめいた おばさんを思わず支えてそう言った。
「ありがとう、ございます」
「そこまでご一緒しますね」
「ありがとう、ありがとうございます」
そう言ってその女性に寄り添って受付に向かう。
「診察、ですか?」
「いいえ、 私じゃなくて娘の、娘の見舞いなんですよ」
「そうでしたか」
私はあえてそれ以上は訊かなかった。
「桜を見るのは難しいって、先生が」
「え?」
そのおばあさんは、そう呟いて遠くを見つめた。
「じゃあ、私、ここで」
「ありがとう、ありがとうございました」
その女性は何度も頭を下げて私を見送った。
受付を済ませ私はいつもの様に真っ白な壁に向き合う。
「ふぅ~」
大きく息を吐く。
待合室は十分 暖房が効いて暖かいはずなのに、私は少し震えていた。
この墓場の様な空間から一刻も早く逃げ出したかった。
目を瞑って、ひたすら自分の名前が呼ばれるのを待つ。
私はバックに手を入れて、堤部長から貰った沖縄のマース袋を握り締めた。
(助けて・・・堤さん)
私はいつしか堤部長に助けを求めていた、助けてもらえるはずもないのに。
「柴咲さん、柴咲亜美さん、3番診察室へお入りください」
「 はい・・・」
自分では返事をしているつもりでも、声にならない。
「こんにちは、柴咲さん」
PC画面を見つめたまま鈴木先生はいつもの様に挨拶した。
「こんにちは・・・」
「この前の腫瘍マーカー・・・数値が上がってるから、詳しく検査しましょうね」
珍しく・・・鈴木先生は私を見つめて、穏やかな表情でそう説明した。
「検査結果によっては、明日もMRI撮ってもらうから」
「はい、 あのぉ」
「ん?どこか気になることでも?」
「はい、最近、腰に痛みが・・・背中とかも、筋肉痛みたいな、年のせい?」
私はそう言って微笑んだ。
鈴木先生は、無言のままPC画面に何かを打ち込んでいた。
「骨シンチグラフィ、あと単純X線も・・・この後予約しておいたから」
「骨シンチって?先生、骨転移ってこと?ですか?」
先生はPCから私の方に向き直って私の目を見据えてはっきりした口調で話し始めた。
「今は、まだハッキリと何もわからない、ただ、ただ可能性として、骨転移も調べておいた方がいいから」
「そんな・・・はい、わかりました」
私は何とが返事をして診察室を後にする。
(転移?骨転移)一番聞きたくなかった転移という二文字が頭の中から離れない。
地下一階の放射線部での検査が始まる。
「柴咲さん、もういいですよぉ」
単純X線撮影を終えてから検査室で『テクネチウム』を注射する。
「じゃあ4時間後、2時30分にまたここにお越し下さい食事も普通にして頂いて大丈夫ですから」
「はい、ありがとうございました」
乳腺外科の待合室に戻る。
「2時30分か」
行くあてもなく、乳腺外科の待合室に座ってひたすら時間が経つのを待つ、
どのくらい時間が経ったのだろう?突然右肩を叩かれる。
「柴咲さん、柴咲さん、大丈夫?」
振り向くと隣に鈴木先生が心配そうな顔で私を覗き込んでいた。
「あっ、はい、大丈夫です」
「そうか、骨シンチまで少し時間あるもんね、お昼一緒にどぉ?」
そう言って鈴木先生は立ち上がった。
「はい、ご一緒します」
「じゃあ行きましょう」
先生とエレベーターホールに向かう、10階のボタンを押す。
ふたりを載せたエレベーターは最上階で止まった。
「ごめんね、病院だから・・・こんなところしかなくて」
「いえ・・・」
何年も通っていて、このレストランに入るのは初めてだった。
先生は慣れた様子でカウンターの女性に向かって「日替わり定食」と言った後、「柴咲さんは?」と訊いてくれた。
「じゃあ 私も日替わりで」と答えた。
「あっ」財布を出して支払いをしようとすると先生はカードでふたり分の支払いを済ませていた。
「すみません」
「いいのよ、気にしないで、私が誘ったんだから、いつも独りだから」
そう言って先生は微笑んだ。
診察中には見たことのない穏やかな笑顔だった。
5分ほど待つと、鯖の味噌煮、ミックス野菜の炒め物、きゅうりの浅漬け、めかぶとしめじのすまし汁と玄米が載った定食が運ばれてきた。
「美味しそうですね~」
私は明るくそう言った。
「そうね、結構いけるのよ、病院のレストランにしては、栄養バランスもいいしね」
先生はそう言ってすまし汁をすすった。
「うん、美味しい」
私は鯖の味噌煮を一口食べて言った。
「そぉ、よかった、柴咲さん 娘さんは確か、遥ちゃんは元気?」
「はい、元気です」
「来年、卒業だったかしら」
「はい」
「早いわねぇ、本当に」
そう言って窓の外を見た。
「仕事は?順調?」
「はい、楽しくやってます」
「5年か、 乳癌の約60%以上に骨転移が認められるのは、以前説明したと思うけど・・・」
「はい、知っています・・・」
「仮に、 仮に骨転移が見つかっても、絶対に諦めないで、これは医者としてじゃなくて・・・友達として」
鈴木先生は、そう言って私の目をジッと見つめた。
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