一章 寒暖の世界

第2話 寒暖の世界


 衛星のように日本の上空を漂う機械群、〝アマテラス〟と名付けられたその気象制御システムが暴走事故を起こし、日常が崩壊してから、十年の歳月が流れた。


 何かを失う怖さは、あの出来事で十分心に刻まれた。同時に、虚しさと悲しみも、心の奥底まで傷跡を残している。そのことを一時的に忘れることはあるが、しかしふとしたことでぶり返してくる。


翔太しょうた! 忘れ物はないか?」


 今このときもそうだった。不意に襲いかかった虚無感や恐怖心に、半ば呆然とした。そして声をかけられたことにより、少年は我に返る。


「ああ、大丈夫だ、母さん。荷物も全部下ろした」


 翔太と呼ばれた少年は、旧横浜ランドマークタワーの広大な地下駐車場にて、開け放たれたワンボックスカーの荷室を勢いよく閉めると、そそくさと回り込み助手席の扉を開けて車内に飛び込む。投げやりに扉を閉めると、翔太はシートベルトを締めて発進の準備を整える。


 運転席に座る翔太の母親がアクセルペダルを踏み込もうとした瞬間、不意に運転席側の窓がノックされる。車内の二人がそろってその方を見やると、そこには小柄な中年男性が微笑みながら佇んでいた。その存在に気がついた翔太の母親は、指先で操作して窓を開ける。


明美あけみちゃん、配達引き受けてもらってありがとうね。助かったよ。これ、お土産。いろいろと自家栽培しているけど、今回リンゴに挑戦してみたんだ。よかったら帰ってから食べてね。リンゴはお肌にいいから、これ食べて明美ちゃんの美貌を維持しなきゃね。実年齢より若く見えるからって油断していると、すぐうちのかみさんみたいにヨボヨボになるから。翔くんも、明美ちゃんを困らせて老けさせるんじゃないよ」


 窓がゆっくりと下がり始めた途端、中年男性の愉快な声が車内に響き渡る。まくし立てる中年男性は、窓が完全に下りきるとその話を止め、小ぶりのダンボールを差し出してきた。翔太が小うるさいお節介を煩わしく思っているさなか、翔太の母親こと明美は徐に受け取ったダンボールを開封する。すると中には、緩衝材に包まれた色の薄いリンゴが二つ入っていた。


「……なあこれ、ちっちゃいし、なんか瑞々しくない。食べて大丈夫なの?」


「明美ちゃん、贅沢はよくないよ。流石にね、十年前のスーパーに並んでいるようなリンゴは、今のご時世栽培することは不可能だよ。まだ改良の余地はあるが、それより格段によくすることはできないね。でも味はリンゴそのものだよ。ちゃんと試食したから大丈夫だよ」


 明美は握りこぶし大のリンゴのヘタを摘んで持ち上げると、訝しんだ視線をリンゴに注ぎつつ正直な感想を述べる。しかし言われた中年男性は、意に介さず笑顔のまま返事をした。


「まあ、ありがたくいただくよ。おっさんと話していると貴重な夕方の時間を消費しちゃうから、とっとと出発するよ」


「おお! そうだったね。くれぐれも、安全運転でね」


「わかっているわかってる。アタシらを誰だと思っているんだい? 今や知る人ぞ知る自称運び屋の片山親子だぞ。車の中で死ねるなら本望だ」


「待て、母さん。その発言のどこに安全運転の要素があるんだ!?」


 明美が今回の仕事の依頼主である中年男性に別れを告げているのを、翔太はそれとなく聞いていたが、その思わぬ話の流れに反射的に突っ込みを入れてしまう。漫才であるかのような親子のやりとりに中年男性は身を反らして哄笑した。


「じゃ、毎度ありね。また何か欲しいもんあったら連絡して。すぐ調達して届けるから」


 地下駐車場に笑い声が木霊する中、明美は早口で別れを切り出して窓を閉める。するとその笑い声は、徐々に上昇する窓と連動するかのように溶暗した。


 こうして片山親子こと片山翔太と片山明美は、ようやく横浜を出発することができた。


 明美がシフトレバーを操作し、ゆっくりとアクセルペダルを踏み込む。親子が乗り込んだワンボックスカーはそれに連動して前進を始める。


「とこでさっきおっさんが話題にしていたけど、実際母さんはいくつなんだ?」


 地下駐車場の頼もしそうな四角く太い柱の間を徐行運転で進み、出口に向かう。そのさなか、翔太はふと湧き出てきた疑問をそのまま口にする。


「三十代」


「いや何でそんなアバウトな答えなんだよ……」


 翔太の問いに明美は即答したが、その答えは答えとして成り立っていないほどいい加減なものであった。


「まあこれだけは言っておくと、翔太を産んだのはアタシが未成年のときだった、ってことだけかな」


「だったら素直に三十代半ば、もしくは後半って言えばいいのに。まさかと思うが、四十歳を目前として、自分の年齢を素直に受け入れられないとでも言うつもりじゃ――」


「おっと危ない」


 翔太が四十歳というワードを口にした途端、明美は故意にハンドルを切り、進路を急に変える。ワンボックスカーは近くの柱に急接近し、左側面――翔太が乗っている助手席側――から柱に衝突しそうになるが、寸前で再び目一杯ハンドルを切って柱を回避する。翔太は助手席の窓すれすれに通過していく柱に戦慄し、その後の急ハンドルの反動として引き起こされる蛇行運転に身体を揺さぶられる。


「あ、危ないだろうがッ!!」


 車体が安定したところで、翔太は憔悴したかのような疲れきった表情を浮かべながら、明美に怒鳴る。しかし明美はどこ吹く風といった様子で車を運転していた。翔太はこれまで明美の年齢に触れることはあったが、年々その問いに対する仕打ちがエスカレートしているような気がした。取り敢えず車内でその話題になると、明美の卓絶した運転技術による制裁が行われることを学んだ翔太は、今後運転中に母親の年齢の話をしないよう心に誓った。


 明美の年齢が見た目と釣り合っているのであれば、翔太もそこまで母親の年齢に関心を持つこともなかっただろう。しかし実際、明美は実年齢よりはるかに若々しい。小柄で童顔であるのもそうだが、何よりもその佇まいが年齢を感じさせない。明美には同年齢の女性にはない活気に満ち溢れているのである。それは悪い言い方をすると、落ち着きがないと言えなくもないが、結果として明美の女性としての魅力を増している要因になっているのは確かであった。


「母さんは昔からそんなに傍若無人だったのか?」


 翔太は母親を揶揄するように尋ねた。


「そうだね……。まあ、こんな性格じゃなかったら、走り屋の男と結婚なんてしてないよ」


 明美は遠い過去を懐かしむような目をしながら答えた。翔太はそれに「そうか」としか反応することができなかった。


 翔太は、父親は産まれる前に死んだと聞かされている。そんな顔も知らない父親のことをぼんやりと考えていると、不意に衝撃が襲い、慣性の力で身体が前のめりになる。そしてシートベルトによって背もたれに引き戻される。翔太は一拍の間が過ぎ去ってから、ようやく急ブレーキによって車が停止したことに気がつく。


 その不意打ちに驚きつつも、翔太は荒い運転を問い詰めるために、顔を上げて運転席の方を見やる。するとそこには、眉をひそめ怪訝な表情を浮かべた明美が前方を注視していた。翔太もそれに釣られて前方に視線を移す。すると明美が急ブレーキをかけた理由を把握することができた。


 地下駐車場の出口付近、その道のど真ん中に、一人の少女が立ち尽くしていた。


 頭上の照明が少女を照らす。その矮躯から、十代前半から半ばくらいだろうかと翔太はあたりをつける。ショートボブの少女は長袖のパーカーを羽織り、短めのスカートから伸びる細い足は黒のニーソックスに包まれている。そしてこちらを見つめる双眸は猫の目のように大きく愛らしいが、それに伴うように独特の眼力があった。しかしそれが、少女が立ち尽くしている理由に直結する情報ではないことは、すぐさまに理解した。


「何、しているのだろう?」


「さあ?」


 翔太の純粋な疑問が口から漏れる。明美はその疑問に首を傾げながら答えた。


「まあでも、何かしら事情があってこんな危ないことしていると思うから、まず事情を聞くところからじゃないかな」


 少女は明らかに意図して道を塞いでいた。このままではこの駐車場から出られない。時間が限られている中、こんなことで時間をロスしたくはなかった。


「お嬢ちゃん、どうした?」


 明美は運転席側の窓を開け、頭だけを出して問いかけた。すると目の前の少女は小動物のようにとぼとぼと近寄り、運転席側の窓の前まで来る。


「き、急に飛び出してごめんなさい。あ、あの、突然すみませんが、この車は、何処に行く予定ですか?」


 猫目の少女はかなり緊張した様子であり、身を縮こまらせながら話す言葉もつっかえつっかえになっていた。しかしそんな仕草も幼さがあいまって愛らしいものであった。


「これから池袋に帰るところだけど」


 明美が真っ直ぐ少女を見つめながら答える。するとそれを聞いた少女は、その瞳に光を宿したかのようにキラキラとした期待の眼差しを向ける。


「あ、あの! 不躾ですみません。わたしを乗せて、池袋まで連れて行ってはくれませんか? 迷惑にならないよう気をつけますので」


 少女は縋るように明美に懇願する。少女の意外な申し出に、明美と翔太はそろって目を見張った。秩序がかつてのように機能していないご時世故に、少女を出しにして車を強奪しようとする輩が近くに潜んでいるのではないかと疑っていた。翔太も明美も、車から下りずに少女に接触しようとしたのは、そういった理由からだ。だからこそ、乗せてくれという申し出は予想外であった。


 明美は翔太の方を向き、アイコンタクトをしてくる。無言で「どうする?」と問われた翔太は、小さく頷いて承諾する。


「別にいいけど、これに乗ると最低でも明日の夕方までここに帰ってこれないけど、それでもいいか?」


「はい。構いません」


 明美の確認に、少女は即答した。


 今の時代、夕方という時間帯は非常に貴重なものであった。翔太が少女の乗車を認めたのも、この貴重な夕方を乗せるか乗せないかの不毛な言い争いで消費したくないという思いからであった。


 日本の気象を完全コントロールしていた気象制御システムの暴走後、その気候は、非情に極端で過酷なものになっていた。


 端的に言ってしまえば、一年周期であった春夏秋冬が、暴走事故後一日周期になってしまったのだ。しかもその寒暖の差は激しい。


 日中の気温はゆうに五十度を超える。これは当時の世界最高気温の記録に迫る猛暑である。そして対する夜間は一気に氷点下まで下がり、積雪で街が埋もれる。この十年間、その繰り返しである。


 安易に外出すれば、昼は熱中症で死に至り、夜は遭難して凍死する。更にその短時間で変化する気温差に人も建物も適応できず悲鳴を上げる。よって現代は、冷暖房設備が完備された頑丈な建物に引き篭るしかなく、自然とそういった建物に人が集中する。この横浜も、旧横浜ランドマークタワーの建物が最後の砦となっていた。


 しかし、この地獄のような環境にも、救いの時間はある。それは日の出の時間と、日の入りの時間、つまり朝と夕方である。


 その約一時間程度の時間は、劣悪な昼と夜の気温が中和され、人間が外で活動できる気温になる。しかしながら、日の出の時間は夜間に積もった雪が残っているため、大胆な行動ができない。だが日中の猛暑によって雪解けしたあとの日の入りの時間は、比較的自由に行動することが可能であった。


 故に、十七時頃から十八時頃までの約一時間は、生き残った人類に唯一残された希望の時間であった。


 明美が言ったことは、このことに起因する。流石に横浜池袋間を一時間で往復することは不可能であり、ここで池袋行きの車に乗ってしまうと、翌日の夕方まで帰ってくることができないのである。


 しかし少女はそれをよしとした。本人がそれでいいという以上、拒むわけにはいかなかった。


「わかった。でも、人の車に乗る前に名乗りな」


「あ、はい、すみません。申し遅れました、わたし小宮絵真こみやえまといいます。池袋までよろしくお願いします」


 明美に言われて慌てて名乗った猫目少女こと絵真は、運転席側の扉の前で深々とお辞儀をした。


「了解、絵真ちゃん。アタシは片山明美。連れは息子の翔太だ。翔太、後ろのドア開けてやって」


 絵真の名前を覚えた明美は、翔太に指示を出す。それに従った翔太は一旦助手席を下りて後部座席の扉をスライドさせる。


「よ、よろしくお願いします」


 回り込んできた絵真は、翔太が開け放った扉の前で立ち止まり、頭を下げた。どう返事していいものかわからなかった翔太は、ぶっきらぼうに「お、おう」と答えるしかできなかった。


 一応池袋には同世代の女の子の幼馴染がいるにはいるのだが、付き合いが長い故にその存在はどちらかというと兄弟のようであり、純粋に一人の女の子として見たことがなかった。そのため、翔太は眼前にいる真性の女の子との距離感を掴み損ねていた。ましては小柄故に小動物のような愛らしさを持つ美少女であるため、翔太の調子は余計に狂ってしまった。


 翔太は絵真が乗り込んだことを確認してから後部座席の扉を閉める。そして助手席に座ろうとするが、


「お前は後ろだ」


 と明美が小声で言い放つ。その言葉で、翔太は明美の真意を察する。車に乗せることに同意した明美だが、根本的なところで明美は絵真を信用していなかった。車内で妙な真似をされる可能性があるため、翔太を監視役として絵真の近くに置きたいようであった。


 ――確かに、それも一理あるな。


 明美の思惑を理解した翔太は助手席に座るのを止め、再び後部座席の扉を開けて乗り込む。右を見やれば、絵真が姿勢よく座席に座っていた。


「それじゃあ、改めて出発するよ」


 そう言い放った明美はアクセルペダルを踏み込む。三人を乗せたワンボックスカーは横浜エリアの居住区である旧横浜ランドマークタワーをあとにし、希望の時間帯を疾走していく。

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