第3話 少女の目的
明美によって改造されたワンボックスカーは、外気を完全にシャットアウトし、空調によって快適な温度を保っている。ダッシュボードに取り付けられた温度計は、そのセンサーを車体にも取り付けているため、表示されている温度は車内と車外で二つあった。車内温度は一定の数値を維持しているが、対する車外の温度はまるで秒針のように刻々と変化していき、厳しい夜の訪れを如実に表していた。
昼の猛暑と夜の極寒が中和する夕方は、人が外で活動できる気温になるのだが、それはつまるところ急激な気温変化の最中であることを意味している。外出する際はこまめに着替えて体温を維持するか、車に乗って移動に専念するかの二択になる。
後者の例である一行は、都心に向けて首都高速神奈川1号横羽線を疾走していた。かつては幾台の車が行き交っていた首都高速道路だが、〝アマテラス〟暴走事故による多くの犠牲で人口が激減したため、現在はすれ違う車は皆無であった。
翔太は高速で流れゆく景色をただ眺めていた。それは単純に、運転していないので手持ち無沙汰になっているためでもあるが、後部座席で出会ったばかりの見知らぬ女の子と同席していることによる気まずさ回避の行為でもあった。
しかし変化のない景色を眺めているのは、非常に退屈なことである。翔太は退屈をリセットするために一度車内を見回す。運転する母の姿を見て、次いで隣の少女に視線を向ける。
「ん?」
翔太がちょこんと座る絵真を見たとき、ふとポシェットのように肩から下げられたものが気になった。
「それ、なに?」
翔太は興味本位で尋ねてみる。すると反応した絵真は、それを愛でるように両手で抱えて持ち上げた。
「デジカメだよ」
絵真が持っているものはデジタルカメラであった。銀と黒の筐体のそれは、一眼レフのような大きく厳ついものではなく、フィルムカメラのようなオールドタイプを模したものであり、絵真の小さな手でも負担のない大きさであった。
「いや、それは見ればわかるよ。そうじゃなくて、それどうしたの? 今の時代、カメラを下げて遠出なんて珍しいし。何か撮りたいものでもあるの?」
正確な犠牲者数がわからないほどの大事件であった〝アマテラス〟暴走事故。十年たった現在もその影響を受け続けている状況にて、わざわざカメラを持って遠征する人は酔狂以外何者でもない。いや、このご時世、精神的苦痛を和らげるためにかつての娯楽に手を出す人は多くいるが、年端もいかない女の子が危険を冒してまで街を出る意味がわからなかった。何か、撮影以外の別の目的があるのではないか、と勘ぐり過ぎてしまう。
「撮りたいもの、というよりは、撮れるようにしたい、かな」
絵真は儚い記憶を辿るような遠い目をしながらカメラを眺める。
「撮れるように、とは?」
「このカメラ、お祖父ちゃんの形見なんだ。別に写真好きとかではなかったけど、遺品を整理していたら出てきたの。充電器や説明書など一通り揃っていたけど、肝心のSDカードだけなくて、写真を残すことができないの。数少ない遺ったものだから、せめて使える状態で持っていたくて」
「それで池袋に?」
「うん。前に池袋から帰ってきた人が、池袋のジャンクショップでSDカードを見かけたって話していたの。それでどうしてもそれが欲しくて、毎日あの場所で横浜を出る車を待っていたの」
そのためにあんなことをしていたのか、と翔太は呆れてものも言えなかった。どうやら翔太の疑いは杞憂であったらしい。
絵真の話に出てきたジャンクショップとは、首都圏の遺物が集まる店であり、かつての娯楽に手を出す酔狂の温床になっている場所である。
各街の居住区にそれぞれ店を構えており、人々は夕方の時間帯に外出して街の遺物を回収してジャンクショップに売りつける。そして探し物をしている者は、お目当ての遺物をジャンクショップから買い取る。今の時代、金銭のやり取りは主にジャンクショップ絡みの事柄に限られているのである。
ちなみに走り屋の妻であり現在自称運び屋の明美は、車両専門の遺物回収人でもある。その行為はかつての日本であれば完全に車上荒らしの手口そのものであるが、今はそれを咎める存在はとくにいないし、そもそも人口減少によって放棄されたものを回収しても被害を訴える者がいない。自動車のスペシャリストである明美は、こうして金銭を稼ぎつつ車を整備して運び屋を名乗っていのであった。
「SDカードか……」
これまでデジタル機器に触れる機会があまりなかった翔太にとって、SDカードは縁のない代物であった。翔太は池袋のジャンクショップにそのようなものがあったか記憶を辿るが、ガラクタの山のような店内でそれを見かけた記憶は、残念ながら出てこなかった。
「まあ、目撃情報があるってことは、もしかしたらあるのかもな。あとは今も店にあることを願うしかない」
所詮中古品である故、基本的には一品ものである。ものによっては豊富に在庫している商品もあるが、横浜のジャンクショップにSDカードがないことを考えると、池袋のジャンクショップも品数が少ない可能性が高い。かつての東京は至るところに家電量販店があり、投げ売りするかのようにメモリーカードを販売していたので、現在出回っている数が少ないことを考えると、そもそも遺物として回収されていないのかもしれなかった。
「うん。駄目もとで覗いてみるつもり」
そういう絵真は、どことなく儚げであった。もしかしたら、池袋のジャンクショップにもないという不安を抱いているのかもしれなかった。
「まあ、そう悲観するなよ。もしなかったら、他の街のジャンクショップを覗けばいい。なんなら俺が車出そうか?」
翔太はそんな絵真の表情を見ていると、自分まで不安な感情に支配されそうになった。そんな様子の絵真を放置することができず、翔太はその場しのぎに取り繕う。正直幼馴染相手であればこんな感情にならない、と翔太は密かに思う。それだけ翔太の中では、絵真の存在が特異なものになっていた。
「いいの? ってか、運転できるの?」
絵真は大きい目を見開いて翔太を見つめた。
「できるさ。伊達に親子で運び屋名乗ってない。車の運転に関する技術と知識は、母さんから学んだ」
「そう。じゃあ、期待する」
そういう絵真は儚げな表情を止め、相好を崩す。その笑みは野良猫のような気まぐれさを感じさせるものであり、少女でありながら魔性を秘めていた。
「でもどうせなら、こんな崩壊した都市じゃなく、もっとまともで綺麗な街を走ってみたいものだな。絵真も、こんな世界じゃなければ、こう、撮りたいと心の奥底から思えるような風景に出会えるかもしれないし」
絵真の笑みを見つめていた翔太は不意に気恥ずかしくなり、取り敢えず瞬間的に頭に浮かんだことを口に出してみた。
しかしそれを聞いていた絵真の反応は鈍い。絵真はただキョトンとし、猫のような目を瞬かせている。
「わたし、今の世界しか知らない……」
そして絵真は頭に疑問符を浮かべながら返事をした。それにより、翔太は内心「しまった」と呟きつつ納得した。
ちゃんと年齢を聞いたわけではないが、絵真の歳は十代前半から半ばくらいだと思われる。暴走事故により劣悪環境になったのが十年前の出来事なので、当時の絵真は幼稚園に通っている年頃であり、周囲の環境を正確に捉えることができていなかったと思われる。同じ十代ではあるが、翔太は軽いジェネレーションギャップを覚えざるを得なかった。
「昔の街のこと、聞いてもいい?」
絵真は遠慮がちに翔太に問いかけた。
「別にいいけど、俺も当時小学校低学年ぐらいだったのもあるし、なによりその後の混乱のせいもあって、あまり覚えていない。ただ毎日小学校に通っていたことぐらいしかないな」
「わたし、小学校に通ったことない。小学校ってどんな所?」
「言ったろ、あまり覚えていない。机を並べて皆で勉強しました、ってだけだ」
そして翔太は数拍の間を置いて「ただ……」と言葉を続ける。
「小学校のことで今もちゃんと覚えていることが一つだけある。同級生の最期だ。……事故当時、俺は風邪で学校を休んでいたんだ。冷暖房が自動運転する自室で寝込んでいたことで俺は生き残った。だけど、学校にいた連中はそうじゃなかった。空調の使用制限があった公立の学校だったから、日中の猛暑で多くの生徒が熱中症で死んだ。辛くも生存しても、その後の夜の極寒で凍死した。結局、あの学校の生徒で生き残ったのは、俺だけだった」
それが、時折襲いかかる心の傷の正体だった。暴走事故当時、翔太は数えきれないほどの遺体を目にしてきた。それは道路のいたるところに転がっていた遺体から、回収され布を被せられた遺体まで。そしてその中に、翔太のよく知る人物が大勢いた。
そのときのことはよく覚えている。変わり果てた同級生の姿を見たあのとき、息苦しいほどの動悸に襲われた。そのまま気が狂ってしまうのではないかとも思った。幼いながらに死を理解していた翔太にとって、あの光景は衝撃的であった。
そしてそれはトラウマとして、今もなお翔太を苦しめ続けている。時間が過ぎるにつれてトラウマの苦しみは小さくなってはいったが、それでも、時折心の傷がぶり返してくるのであった。
「学校って、何人くらい通っていたの?」
絵真の問いに、翔太はざっと計算する。少子化により一クラスの人数も少なければ、クラス数も少ない。それを加味しておおよその数値を弾き出す。
「大体千人ぐらいじゃないかな」
「千人も子供がいたの? 今じゃ考えられないね」
「だな」
正直、居住区の子供は容易に数えられる程度しかいない。現在はちゃんとした学校は存在せず、元教職の人が有志で分校の真似事をしているにすぎない。当然翔太も池袋の分校出身であり、絵真もしっかり会話ができる程度に語彙があることから、横浜の分校出身であることが窺えた。
絵真はふと窓から景色を望む。翔太も釣られて絵真の視線の先を見やる。流れていく景色は冬の気配を孕ませており、どことなく澄んだ空気になっている。これから極寒の夜となり吹雪が吹きすさぶだろう。
ビルとビルの隙間を走行していることから、三人が乗るワンボックスカーは、いつの間にか首都高速5号池袋線を走行していることに気がつく。池袋到着までもうすぐである。過ぎ去っていく建物たちは、どれも激しい寒暖の差により外壁がひび割れており、窓ガラスも夜間の強風で飛来してくる物によって砕かれていた。今すぐ倒壊することはなさそうだが、そこに住めと言われれば思わず躊躇ってしまうほどの荒廃ぶりであった。
「昔の東京って、やっぱり今と違うのかな?」
絵真は外を見つめながら呟く。その呟きに翔太はなんて反応していいのか考えあぐねるが、結局何も浮かばず、縋るように運転席の明美を見やった。明美は変わらず車を運転しているが、バックミラー越しに目が合う。どうやら翔太と絵真の会話が気になっていた様子であった。
息子の視線を受け取った明美は、一度目を伏せてため息をつく。そして、
「昔の東京は、どこもかしこも、人で溢れていたな」
と答えた。かつての東京を詳しく知らない翔太と絵真は、続きを促すようにバックミラー越しに明美を見つめる。その期待に満ちあふれた二人の視線を受け止めた明美は諦観したのか、訥々と昔語りをする。その容易に受け入れることのできない夢のような都市の話をしながら、車は池袋へ向かう。
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