なぎさ

「お腹空いた」

 平泳ぎしていた莉奈がふいに訴えてきたので時計台を確認してみると、時刻はいつの間にか正午を回っていた。今日は朝も早かったし、確かにわたしもお腹が空いている。

「じゃあなにか食べようか」

「賛成!」


 二人で水から上がって更衣室に戻る。財布はロッカーに入れてあるのだ。それに濡れた状態でご飯を食べるのも、ちょっと気がひけるし。

 シャワーを浴び、身体を拭いてから財布とスマホだけを持ってプールサイドに戻ってくる。決められた場所では食事をしても良いことになっていて、軽食を売っている店や売店もあった。市民プールにしてはサービスが充実しているのはこの場所の良いところだ。


「彩花はなに食べる?」

「うーん、焼きそばとか」

 泳ぐと焼きそばが無性に食べたくなるのはどうしてだろう。海の家の定番だからかな。ここはプールだけど似たようなものだ。莉奈も「私もそうしよっかなー」と意見を合わせてくる。


 軽食を売っている建物の前には長い行列が伸びていた。やっぱりお昼時だから仕方ないか。大人しく二人でその最後尾に並ぶことにする。そこでふと思いついた。

「これさ、一人が場所取りしておいた方が良くない?」

「確かに! どっちが行く?」 

 しばらく無言で向き合った後、公平にじゃんけんで決めることにした。負担で考えたらどっちも大差ないだろうけど、後で変な言い争いにはなりたくないし。



 その結果、グーとパーでわたしが敗北して場所取りを担うことになった。あちこち歩き回ってみるけれど、なかなか空いているスペースが見つからない。テーブルがあることが理想的だけど、そう贅沢も言っていられないかも。最悪ベンチでもいいや。

 そうしている間に店からかなり離れた場所まで来てしまった。

 左手側には流れるプールがあって、小学生くらいの子供たちがきゃっきゃとはしゃぎながら流されている。中には流れに逆らって泳ごうとするやんちゃ坊主もいて、つい笑みが零(こぼ)れる。よくいるよね、ああいうやつ。周りの迷惑にならない程度にしておくんだよと心の中で注意をしておいた。


 そして右手側に顔を向けてみると、何やらチャラそうな大学生風のお兄さんたちが一箇所に集まっていた。その声が断片的に聞こえてくる。

「キミほんと可愛いね。誰かと来てるの?」

「良かったらオレたちと遊ばない?」

 もしかして、あれが噂に聞くナンパってやつかな。実際に見るのは初めてだけど、あまり気分が良いものじゃない。どんな人がされてるんだろうとお兄さんたちの隙間から確認してみると。

「……えっ」

 

 その中心で困ったように愛想笑いを浮かべているのは、他でもないあの人だった。

 大きな浮き輪を手持ち無沙汰にしながら、きょろきょろと周囲の様子を伺っている。その視線の先にふとわたしの姿を見つけると、驚いたように目を見開いた。

 わたしも戸惑って立ち止まっていると、ふいに意味ありげな笑みを口元に浮かべた彼女は、お兄さんたちの間を縫ってわたしに歩み寄ってきた。そしてわたしの手を取ると、意味の分からないことを口にする。


「もう、こんなところにいたの? お姉ちゃん心配したんだからね?」

「え? はい?」

 お姉ちゃん? いつからこの人はわたしのお姉ちゃんになったんだろう。

 疑問符をいくつも頭の中に浮かべていると、彼女はお兄さんたちに振り返って。

「妹がいるから貴方たちとは遊べないの。ごめんなさいね」

 お兄さんたちも呆気に取られている様子だ。そりゃいきなり真偽不明の妹が現れたら驚くよね。わたしだって驚いているのに。

 そのままわたしは彼女に手を引かれて連れられて行った。何か尋ねようとしてもぐいぐい引っ張られてしまう。誘拐でもされそうな勢いだった。




「本当にごめんなさい、いきなり巻き込んじゃって」

 もちろんそんなことはなく、お兄さんたちが見えなくなるとちゃんと手を離してくれた。休憩スペースの隅の方、ちょうど木陰になっているエリアだ。

「いいですよ。お役に立てたようなので」

 わたしもあのまま見過ごすのは、何となく嫌だったし。


 こうして真正面から向かい合うと、いっそうその見栄えの良さに圧倒されてしまう。さっきは結んでいた髪が今は解かれていて、頬には一筋の濡れた髪が垂れていた。

「そうそう、自己紹介してなかったわね。私は渚(なぎさ)っていうの」

 渚さん、と頭に名前を刻み込む。

「わ、わたしは彩花(さやか)です」

「彩花ちゃんは中学生?」

「はい、二年生です。渚さんは?」

「私は高校二年生。二年生仲間ね」

 ということは、三つくらい歳が離れてるってことかな。大体予想していた通りだった。でも、言葉遣いや雰囲気にはそれ以上に大人びた印象がある。普段街で見かける女子高生たちは、渚さんみたいに落ち着いていない。

 渚さんは「そうだ」と何か良いことを思いついたように優しく微笑んで。


「ねえ、少しだけお話ししない? ちょっとしたお礼もしたいし」

「え、でも……」

 せっかくの提案だけど、莉奈がそろそろ焼きそばを買い終わる頃だろう。わたしも早く席を探して合流しないと。それにお礼されるほど大したこともしてないし。むしろ何もしてないとも言える。

 わたしが言い淀んでいると、渚さんは察したように。

「あっ、そうよね。さっきお友達いたもんね」

 ごめんね引き止めちゃって、と軽く頭を下げる。わたしは「いえ……」と歯切れの悪い返事しかできなかった。本当は尋ねたいことがいくつもあるはずなのに。どうしてずっと浮き輪に乗ってるのか、とか。ひとりで来てるのか、とか。


 その時、手に持っていたスマホが震え始めた。画面には「莉奈」の文字。どうやら買い終わっても連絡がないので電話をかけてきたらしい。それを切っ掛けとしたように、渚さんは浮き輪をひょいと腕に抱えた。

「じゃあ、私は行くわね。また会ったらよろしくね?」

「あ、はい……また」


 だんだん遠ざかっていく渚さんの背中を眺めながら、スマホを耳に当てる。

『あ、もしもし彩花ー? 場所見つかったー?』

「莉奈、どうしよう。わたし、今夏の運使い切っちゃったかも」

『はぁ?』

 心底意味が分かっていなそうな莉奈の声が聞こえてきた。

 でも、まさかあの人と知り合いになれるなんて。本当はもう少し喋りたかったけど、渚さんは「また」と言ってくれた。それって、また話してもいいってことだよね? うん、そういうことにしよう。


「……渚さんかぁ」

 電話を切って、その名前を小さく呟いてみる。

 たったそれだけで、今年の夏はちょっと違ったものになるような気がした。

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