第2部-夕闇の影-第7話

 翌朝、草平はそわそわしながら時計を見上げていた。リビングに衣緒の姿はない。朝食の用意はしたが、このままでは遅れる。草平は溜息をついた。

 昨夜は帰宅すると玄関にしか灯りがついておらず、リビングは真っ暗だった。台所を使った形跡はなく、衣緒の様子が心配だった草平はこっそり部屋に忍び込んだ。衣緒は頭まで布団をかぶって眠っており、ちゃんと食事をとったのか、それだけが気がかりだった。

 もう一度時計を見上げる。もう限界だ。草平は重い腰を上げた。

「衣緒、起きなさい」

 部屋のドアをノックする。

「もう起きないと。遅刻するぞ」

 それでもしばらく部屋は静かなままだ。もう一度ノックすると、やがてゆっくりドアが開く。

「早くしないと。遅れるぞ」

 顔をしかめて声をかけるが、その脇を滑り抜けるようにして洗面所に向かう衣緒。草平は胸騒ぎを感じながらその背を見送る。リビングに戻り、冷めかけたコーヒーを飲んでいると、制服に着替えた衣緒がやってくる。が、そのまま鞄を抱えて玄関に向かおうとする娘に眉を釣り上げる。

「衣緒、ご飯は」

「いらない」

「衣緒!」

 顔を背けて呟かれ、思わず一喝する。それでも衣緒は振り向きもしない。

「急に外食になったのは悪いと思ってる。でも、日付が変わる前には帰ってきたんだ」

「怒ってないよ」

 かすれた声で言いながら振り返った衣緒の青白い顔に、草平は言葉を呑み込んだ。目の縁を赤くした娘は子どもらしさを失い、凄絶な空気を纏わせていた。そして、

「食欲がない」

 その言葉に眉をひそめる。

「――体調が悪いのか。熱は」

「大丈夫。行ってくる」

 そう呟くと衣緒は玄関のドアを押し開いた。草平は困惑の表情で立ち尽くした。

 家を出た衣緒はとぼとぼと駅に向かった。駅前のコンビニで野菜ジュースと昼食用に菓子パンを買う。改札を抜ける前に、ベンチに座り込んでジュースを口にする。空腹は感じていたが何も食べる気がしない。お気に入りの野菜ジュースも今日は美味しくない。ストローから白い唇を離し、息をつく。しばらく空を見つめていた衣緒はやがて恐々と手のひらを広げる。指と指の間に、縮れた皮膚が張り付いたように残っている。震える指先をぎゅっと握りしめる。

 駄目だ。やはり興奮したり、落ち着きをなくすと体に異変が起こる。今は指の水掻きと足首の鱗だけだが、これから先どんな変化が起きるのか想像もつかない。

「俺はおまえが好きだ」

 昨夜の雄輔の言葉が胸に蘇る。衣緒は歪めた顔を両手で覆い隠した。どうして、この言葉を素直に喜べないのか。このままでは、彼とは一緒にいられない。ただ側にいるだけでいいのに、それすら許されないのか。自分には、あとどれぐらいの時間が残されているのだろう。その間に、終わりにしなければ。衣緒は震える息を吐き出すと、立ち上がった。

 腹に何も入れていない体に、電車の揺れは酷だった。ふらふらになりながら電車を降り、改札に向かう。通勤通学でごった返す構内を抜けた先。いつもの場所で、いつものように自転車に跨ってスマートフォンを操作している雄輔の姿。衣緒は胸がきりきりと締め付けられた。すると、彼がスマートフォンから顔を上げる。

「よう」

 笑顔で手を上げる。が、途端に顔をしかめる。

「どした、顔色悪いぞ。真っ白だ」

「大丈夫」

 それだけ呟くとさっさと歩み出す。雄輔は慌てて地面を蹴って自転車を漕ぎ出す。

「おい」

 耳になじんだ声を背に受けながら、圧迫される胸を手で押さえる。

「昨日のこと、怒ってんのか」

「怒ってないよ」

「佐倉」

 戸惑いの色がみえる声色に、衣緒は罪悪感でいっぱいになりながら俯いたまま歩き続ける。今のうちに、サヨナラしなければ。自分の本当の姿を知られる前に。

「昨日は送ってくれてありがとう」

 尖った声で囁くが雄輔は納得しない。

「待てよ、佐倉」

「遅れちゃうから」

「佐倉」

 一段と大きく張り上げた声と共に手首を掴まれる。ぎくりとしながらもかっとなって振り返る。

「離してよ――」

「おまえ、真っ直ぐ歩けてねぇぞ」

 眉間に皺を寄せ、強い眼差しで見つめてくる雄輔に衣緒は戸惑って顔を背ける。

「そんなこと、ないもん」

「ふらふらしてる」

「だ、大丈夫だから」

 と、いきなり手にした鞄を取り上げられる。

「ちょっと――」

「重! おまえ教科書ちゃんと持って帰ってんだな」

「か、返してよ」

 必死に訴える衣緒に雄輔はそっぽを向いて言い放つ。

「学校に着くまで没収」

 雄輔の言葉に、泣き出しそうな表情で立ち尽くす。こんなにひどく突き放しているのに、それでも自分を気遣ってくれる。こんなに優しいのに。でも、駄目だ。これ以上一緒にはいられない。そんな衣緒の気持ちなど知らないまま、雄輔は黙って隣を歩み続けた。


 学校についてからも、体調の悪さは続いた。友人たちも口々に早退をすすめてくるが、ここで早退すると負ける気がした衣緒はなんとか踏みとどまっていた。

 昼休憩になっても体調が悪そうな衣緒を、雄輔が心配でたまらない様子で見守っていると、廊下に面した窓から緋紗人が顔を出した。

「よ、雄輔。昨日はどうだった」

 相変わらずにやにや笑いながら囁いてくるが、雄輔は憤然と鼻を鳴らす。

「それどころじゃねぇ」

 そう言って、そっと目配せする。視線を追った緋紗人は、友人たちに囲まれた衣緒を見て顔をしかめる。

「体調悪そうだな、佐倉ちゃん」

「朝からな。……機嫌も悪ぃし」

 低い声で返す雄輔に、緋紗人は意地悪そうな顔つきで身を乗り出す。

「なんだよ、昨日何したんだよ、悪い男だな」

「ち、違ぇよ、何も――、して、ねぇよ」

 しどろもどろな雄輔に緋紗人は得心したように目を細める。

「ははぁ、チュウぐらいしたか」

「ばっ……!」

「わかりやすい奴だなー、おまえ」

 そう言って髪の毛をくしゃくしゃと掻き撫でてくる緋紗人の手を鬱陶しそうに払い退ける。そして、苛立たしげに息を吐き出すと、再び衣緒を見守る。


 一日中こんな感じだった衣緒は、それでも何とか授業をすべて受け終えた。まだ衣緒の機嫌が直っていないと感じた雄輔は心配しながらもひとりで生徒玄関へ向かった。すると、

「里村くん!」

 不意に名を呼ばれて振り返る。そこには、衣緒とその友人たちの姿が。衣緒は相変わらず青い顔で友人たちに「大丈夫だよ」としきりに訴えている。

「さくらん、駅まで送ってくれる?」

 衣緒の友人、みっちの言葉に雄輔は目を丸くする。

「見ての通り、体調良くないからさ。送ってあげて。あたしたち皆方向違うんだ」

「本当に、大丈夫だから。ひとりで帰れるよ」

 衣緒は必死に囁いているが、明らかに顔色が悪い。雄輔はわざとらしく息を大きく吐き出した。

「仕方ねぇなぁ」

「はいはい。本当は嬉しいくせに」

「おい、道原」

 不本意そうに顔をしかめる雄輔だったが、青い顔で立ち尽くしている衣緒に目をやる。細い体つきがいつもよりも儚げに見える。雄輔は小さく頷いた。

「帰るぞ」

 そう言ってスニーカーを履く雄輔に、みっちたちは満足そうに頷くと衣緒の背を押す。

「じゃ、さくらん、家帰ったら早く寝るのよ」

「……うん」

 結局、いつものように衣緒と雄輔は連れ立って熊谷駅へ向かった。気まずい空気が流れる中、雄輔は隣を歩む衣緒をちらりと見やった。青白い横顔。少しだけ開いた唇からは、どこか苦しげな息遣いが聞こえてきそうだ。雄輔は眉をひそめて息をついた。

「昼飯、食ってねぇだろ」

「……うん」

 小さな声。

「……昨夜、ちゃんと寝れたか」

 その問いに返事はなかった。眠れなかったなら、原因は自分だろうか。あんなことをしたから。あんなことを、言ったから。今日の機嫌の悪さはどう受け止めればいいのだろう。これまで居心地のいい関係だと思っていたのは自分だけだったのだろうか。そうじゃない、と信じたい。だが、まずは体調を治さなければ。

「早退した方がよかったんじゃないのか」

 だが、衣緒はその言葉に反抗するように唇を尖らせる。彼女はこんなに意地っ張りだっただろうか。雄輔は少し戸惑いながらも言葉を継いだ。

「でも、おまえの友達皆優しいよな。あんなに心配して」

 そう言われれば衣緒も認めざるを得ないのか、申し訳なさそうに目を伏せる。

「緋紗人もそんなこと言ってた。おまえは大事にされてるって」

 雄輔にとっては偽らざる思いを口にしているだけだったが、衣緒は徐々に表情を強張らせていく。

「おまえを見てると、守ってやらなきゃって思うんだろうな。手助けしてあげなきゃって――」

「それは、うちが父子家庭だから?」

 不意に鋭い声で言い放たれ、雄輔は驚いて立ち止った。前を見据えたまま、衣緒は固い表情で続ける。

「昔から、言われ続けてきた。父子家庭は大変ねって。お母さんがいないから苦労するでしょって。だから手伝ってあげなきゃって。どうして?」

「違うよ。そんな話をしてるんじゃねぇよ」

 思わぬ言葉をぶつけられ、雄輔もかっとなって言い返す。だが、一度火が付いたら止められないのか、衣緒は顔を引き攣らせてまくし立てた。

「家にお母さんがいないって、そんなに可愛そうなのかな。父子家庭の子って、そんなに弱そうに見えるのかな!」

「やめろよ、佐倉」

 戸惑いながらも必死になってなだめる。明らかに、いつもの衣緒と違う。

「おまえ、やっぱり今日はおかしいよ。おまえらしくねぇよ」

「こ、これが私だよ」

 上擦った声で口走ると、熱に浮かされたように潤んだ目を向けられ、雄輔は言葉を失った。

「わ、わがままで、怒りっぽくて、自分勝手なんだよ、私」

 歩道の真ん中で互いに立ち尽くし、見つめ合う。涙をいっぱい溜め込んだその瞳には怒りとも哀しみともつかない色が溢れていた。昨夜と同じだ。雄輔には「想像することしかできない」痛み。だが、

「だから……、私なんかに……、優しくしないで……!」

「佐倉」

 怒りのこもった声に、衣緒が体を震わせたのがわかる。だが、口調を変えないまま雄輔はなおも言い寄った。

「俺は最近までおまえが父子家庭だなんて知らなかった。他の奴らと違うところなんかねぇよ。だから――」

 口ごもり、しばし黙り込んでから雄輔は感情に任せて言い放つ。

「俺がおまえを好きになったのは、そういうの関係ないからな」

 衣緒はまるで猛獣を前にした小鹿のように怯えた表情で雄輔を見つめた。体を震わせて立ち尽くし、両手で鞄を抱えて身を竦める。

「……佐倉」

 言い過ぎた。雄輔は後悔しながら恐る恐る呼びかける。

「……ごめん、でも、勘違いしてほしくねぇから」

 それでも黙ったままの衣緒に心配そうに身を乗り出す。

「……大丈夫か、おい」

 頼りなげに左右に揺れる衣緒に、慌てた雄輔が肩に手をかけた瞬間。

 ふたりの頭上から鋭い叫び声が上がり、咄嗟に空を見上げる。そこにいたのは、電線に停まった数羽の、

「カラス――?」

 そこだけ真っ黒に塗り潰されたような黒羽のカラス。ギラリと光る眼。獰猛な嘴が広がると、野太くも鋭い叫びがつん裂く。

「いや……!」

 衣緒の唇から恐怖に満ちた呟きが漏れ、後ずさった瞬間。膝を支えていた力が抜けてその場に崩れ落ちる。

「佐倉っ!」

 咄嗟に腰を屈めて背中に腕を回す。雄輔は片手で自転車、もう片方で衣緒を抱きかかえる形になった。

「佐倉! しっかりしろ! おいっ!」

 雄輔の叫びも空しく、衣緒は反応がないままぐったりと倒れ込んでいる。彼女の細い手足が弱々しく伸び、仰け反った白い喉許にごくりと生唾を飲み込む。

「佐倉……!」

 朦朧とした衣緒を落とすまいと、雄輔は歯を食いしばって踏ん張った。右手で自転車を地面に寝かしてから、両手で衣緒を抱き上げ、その軽さに息を呑む。辺りを見渡し、ひとまず沿道の店舗の前に連れてくる。ショーウィンドウに寄りかからせてから自転車を取りに行く。戻ってくると、紙のように真っ白な面立ちの衣緒におろおろしたように呼びかける。

「佐倉、おい、聞こえるか。貧血か。救急車呼ぶか」

 せわしなく繰り返す呼吸の中、衣緒の頭が一瞬だけ鮮明になる。もつれる指で雄輔の手を探るとぎゅうと握りしめる。

「駄目……! 病院、駄目……!」

「でも……」

 どうしよう。雄輔の脳裏に様々な思いが雑ぜ返った時。

「どうしたの?」

 顔を上げると、店の洒落た赤い扉が開かれ、白い帽子とエプロンの若い女性がこちらを覗き込んでいる。見れば、軒先を借りた店は洋菓子屋のようだ。

「す、すみません、気分悪くなったみたいで……」

「救急車呼ぼうか?」

「でも、病院嫌だって……」

 困り果てた様子で訴える雄輔に、パティシエらしき女性は扉を大きく押し開く。

「とりあえず中おいで。今、お客さんいないし」

「あ、ありがとうございます……!」

 雄輔は衣緒の耳許で「ごめん、ちょっと触るぞ」と囁いてから、彼女の膝裏と背に腕を回すと担ぎ上げる。店内には食べるスペースがあり、そこのソファを案内されてゆっくりと横たえる。

「病院が駄目なら、その子の親御さんは?」

「あ」

 雄輔が目を見開く。

「……佐倉、携帯貸してくれ」

 長いまつげに閉ざされた衣緒の瞼がうっすらと開く。

「お父さん呼ぼう」

 お父さん。その言葉に目を瞬かせる。そして、手が制服の裾をまさぐる。

「鞄か?」

 無言で頷くのを確認して、雄輔は傍らの鞄に手をかけた。


 その頃、仕事を終えた草平は地元の駅に降り立っていた。頭の中は朝の衣緒の様子でいっぱいだった。体調の悪さが気になり、昼休憩にメールを送ったが、返信はない。体調不良の原因も気になるし、いずれは藤木のことも報告しなければならない。そこで草平は立ち止まった。藤木のことはどうしよう。どちらにせよ、衣緒の思いは確かめるつもりだ。だが、もしも「父さんの自由だよ」と言われたら、どうする。どうしたいのだ、自分は。草平は眉根を寄せて俯いた。

 と、胸のスマートフォンが突然震え出し、ぎくりとして顔を上げる。見れば衣緒からの着信だ。草平は慌てて電話に出た。

「もしもし、衣緒?」

「あ、あの、すみません――」

 衣緒じゃない。男の声。草平の顔が強張る。

「誰だ、君は」

 思わず鋭く問い質す。衣緒に何があった。スマートフォンを強く握りしめると、

「お、俺、佐倉さんの同級生の、里村です」

 里村。聞きなれた名前。草平はほっとすると同時に顔をしかめたまま聞き返す。

「里村くん?」

「は、はい。あの、実は今、佐倉さんが倒れて……」

 倒れた。草平は逆上しかけていた血流が一気に引いていくのを感じて息を飲んだ。

「――どうして」

 スマートフォンの向こうでも、返答に戸惑う様子が感じ取れる。

「朝から……、気分が悪そうで……」

「ああ――、そうだ。そうだった」

 言葉を交わしているうちに少しずつ冷静さを取り戻していった草平は大きく息をついた。

「今どこ」

「熊谷駅前です。洋菓子屋さんの店内で休ませてもらってます」

 草平は額を指先で押さえながら辺りを見渡す。早く迎えに行かないと。

「わかった。すぐ迎えに行く。そこで待ってて」

「はい」

「ああ、それと。お店の名前を」

 少しの間を置くと、

「ええと……、ル・トレッフル、だそうです」

「わかった、すぐ行く」


 すぐさま自宅へ帰った草平は、車に乗って熊谷駅へ向かった。朝から調子が悪そうだったが、回復しなかったのか。やはり、休ませるべきだった。そして、その原因はどう考えても自分が一端を担っているとしか思えない。昨晩はどこでどう過ごしたのだろう。聞きたいことが山のようにあったが、今は体を休めてやらねば。

 逸る気持ちを抑え、二十分もしないうちに熊谷駅前まで到着する。駅前の通りをゆっくり走らせているうち、クローバーのシルエットが描かれたショーウィンドウの店構えが見えてくる。あそこだ。ハザードを点灯させて停車し、車を降りる。赤い扉を押し開くと、甘い香りが満ちる店内を見渡す。と、店の奥の片隅でひとりの少年がさっと立ち上がる。衣緒の高校の制服。草平はほっと息を吐いて足早に駆け寄った。

「里村くん?」

「はい」

 里村雄輔も、安堵の表情で出迎える。そして、かすかに眉をひそめると傍らのソファを見下ろす。そこには、ベージュのブランケットを掛けられ、眠りについている衣緒の姿があった。草平は表情を引き締めると床に膝をついた。

「佐倉さん、昼食べてないんです」

 その言葉に草平は苦い表情で頷く。

「朝も食べていない」

 そう呟くと、草平は腰を曲げて衣緒の耳許に口を寄せた。

「……衣緒、起きられるか、衣緒」

 衣緒、という響きを初めて耳にした雄輔が思わず息を呑む。一方、衣緒の方は物憂げに重たそうな瞼をゆっくりと持ち上げようとしていた。

「あ、親御さんいらっしゃった?」

 厨房からパティシエが顔を覗かせ、雄輔が振り返る。

「あ、はい。今……」

 草平は慌てて立ち上がると頭を深々と下げる。

「すみません、うちの娘がご迷惑を……」

「いいえ、大丈夫ですよ。良かったね、早く来てくれて」

 パティシエに微笑まれ、雄輔は少し照れくさそうに頷いた。草平は息をつくと再び腰を屈め、衣緒の肩に手をかける。

「衣緒、帰るぞ」

「車ですか」

「ああ」

 草平はショーウィンドウ越しに停車している自分の車を指差す。

「家まで連れて帰るよ」

 そう言って難しげな手つきで衣緒を抱き上げようとするのを、雄輔が手伝う。

「あ、俺やります」

 娘を軽々と抱き上げる雄輔に草平が感心したように目を見開く。

「力持ちだね。野球やってたんだっけ」

「は、はい」

 恐縮した様子で答える雄輔に満足げに頷くと、「車開けてくる」と言って一足先に店の外へ出る。雄輔はその後をついてゆくと、草平が開けたドアから車内へ衣緒を慎重に運び入れる。後部座席に寝かせ、雄輔はふぅと息をついた。かすかに眉をひそめ、相変わらず青い顔で眠り続けている衣緒の姿を見ていると、やるせなさを感じた草平は思わず顔を振った。

「まったく……、皆に迷惑をかけて……」

 だがその時、雄輔が「お父さん!」と声を上げた。驚いて顔を上げると、彼は真剣な眼差しで真っ直ぐに見つめてきた。

「……昨日の佐倉さん、すごく、寂しそうでした」

 その言葉は、草平の胸奥深くを鋭く抉った。自分は、都合のいい時だけ衣緒はもう大人だと決めつけていたのではないか。衣緒はいつまでも子どもだ。自分の娘である限り。

「……そうだね」

 決まりが悪そうに呟くと、草平は溜息をついた。途端に、雄輔は慌てて弁解する。

「あ、す、すみません、俺、偉そうに……」

「いや、ありがとう。言ってもらわなければ気付かなかった」

 わずかに表情をゆるめて礼を言うと、雄輔も安心した表情を見せた。

「鞄忘れないでね」

 不意に背後から声をかけられ、振り返るとパティシエが雄輔たちの鞄を運んでくれていた。

「あ、すみません」

 受け取る雄輔の肩をぽんと叩き、パティシエは草平に笑いかけた。

「彼、かっこ良かったですよ。王子さまみたいで」

「えっ」

 がっしりとした体格ながら、童顔の雄輔は顔を真っ赤にしてパティシエと草平の間でおろおろと視線を彷徨わせた。そのアンバランスな様子に草平は思わず吹き出す。

「助かりました。彼のおかげで」

 そして、改めて神妙に頭を下げる。

「お世話になりました。また日を改めてお礼に伺わせていただきます」

「いえいえ、大丈夫ですよ。お大事になさってください」

 そう言って笑いかけると、パティシエは店へと帰っていった。

「里村くんもごめんな。面倒をかけた」

「だ、大丈夫です」

「送っていこう。お家はどこ」

 思いがけない申し出に雄輔は緊張したまま顔を振る。

「あ、俺、自転車なので」

「そうか、残念だな」

「あ、いや、お、お構いなくっ」

 どぎまぎした様子で必死に返す雄輔に、草平は穏やかに笑った。

「でも本当に、君がいてくれて良かったよ」

「は、はい……」

 草平は息をつくと後部座席の衣緒を見やる。

「明日は休ませる。学校にも連絡しておくよ」

「はい、それがいいと思います」

 思わず力説する雄輔に頷くと、ドアに手をかける。

「じゃあ、今日は本当にありがとう」

「はい、お気をつけて……」

 ぺこりと頭を下げる雄輔に手を振ると、草平は車に乗り込んだ。

 来る時よりは慎重に運転しながら草平は帰路に就いた。昨夜こっそり覗いた時には眠っているようだったが、本当は寝ていなかったのかもしれない。夕飯は何を食べたのかはわからないが、睡眠不足の上に朝食を抜いたとあれば体調はおかしくなるだろう。少なくとも、自分が外食をしなければこんなことにはならなかったのではないか。そう思うとやり切れなかった。だが、外食を断っていても衣緒の機嫌は悪くなっていただろう。起こるべくして起きた事件なのかもしれない、そんなことを考えているうち、マンションへ到着する。車庫へ車を駐車させると後部座席のドアを大きく開く。

「衣緒、家着いたぞ。起きれるか」

 衣緒はしばらく微動だにしなかったが、やがて唇がかすかに開く。

「家に帰って休もう」

 そう囁いて抱き起こそうと肩に手をかける。と、衣緒は重そうに手を上げると父の手を押さえる。

「……どうした?」

 衣緒は目を閉じたまま、ゆっくりと片足を上げてシートに上げる。何をするつもりなのかと黙って見守っていると、衣緒はすらりと伸びた足の黒いハイソックスに指をかけた。弱々しげに引っ張るとハイソックスを下ろす。現れた細く白い足。だが、草平は息を呑んで体を硬直させた。

 衣緒の足首には、まるで雪の結晶のような白い幾何学模様が刻まれていた。それが、皮膚の下に刻まれた鱗だと気付くのに時間はかからなかった。

「……昨日は」

 かすれた声に目を上げる。青白い顔の衣緒はようやく重い瞼を開き、一字一句を絞り出すようにして囁いた。

「指に、水掻きも、あったの」

 最後まで聞けず、草平は震える両手で足首を覆い隠した。

「……衣緒……!」

 悔しげな囁き。衣緒は顔を歪めると父親にすがりついた。

「父さん……、怖いよ……」

 たどたどしく漏れ聞こえる囁き。

「私、怖いよ……、怖い……!」

 草平は脳裏がぐるぐると渦巻き、暗く深い闇に落ちてゆくのを感じながら衣緒を抱きしめた。

『おわあ、こんばんは』

 闇に浮かぶ不気味な言葉の羅列。

『おわあ、こんばんは』

『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』

『おわああ、ここの家の主人は病気です』

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