第2部-夕闇の影-第6話

 衣緒が思いがけない夜を過ごしていた頃。草平は藤木と共に上野のレストランバーを訪れていた。待ち合わせ場所に現れた彼女は緊張で固い表情だったため、箸が進まないのではないかと、草平は一品料理を少しだけオーダーした。案の定、いつになく言葉数も少ない藤木はあまり食べず、彼女のために頼んだサーモンのカルパッチョがいつまでも手をつけられないまま置かれていた。

 藤木から「食事をしながら相談をしたい」とメールを受けた草平は、まず衣緒に伺いを立てた。少しでも嫌がる素振りを見せたなら、ランチに変えてもらおうと思っていた。が、返ってきたのは「わかった」の一言。不安にはなったが、この状況で「断った」と言えば衣緒は怒るだろう。そう考えた草平は、素直に食事へ行くことにしたのだった。

 ほの暗く、静かな店内は半個室になっており、ゆっくり話すにはちょうど良さそうであった。地物を使ったイタリアンの料理はどれも美味だったが、藤木が何を相談したいのかわからない草平は落ち着かず、会話は途切れがちだった。そして、藤木は食欲がないようだが、どういうわけかアルコールは最初から飛ばし気味だった。ビールに始まり、その後赤ワインが数杯続いたところで草平は老眼鏡越しに眉をひそめた。

「先生」

 呼びかけに藤木はグラスの手を止める。

「大丈夫? 少しペースが早いようだけど」

「す、すみません……!」

 慌ててグラスを置く彼女に手を振る。

「いや、先生がお酒好きなのは知ってるんだけど、その、あまり食べずに飲むのはちょっと心配で」

 藤木はすっかり恐縮した様子で黙り込んだ。草平は息をつくと鴨肉のソテーを口に運んだ。ベリーソースがさっぱりとした味わいに仕上げている。もう、料理もあらかた平らげた。カルパッチョが残ったままだが、草平は口にできない。そう告げようかと思った時。

「……すみません、せっかく来ていただいたのに」

 藤木らしくない、心細げな囁きにますます不安になる。

「いや、僕は大丈夫だよ。いいレストランだね」

 そう言ってビールで喉を潤すと、目の前で縮こまっている藤木を見つめる。今夜の彼女はダークグレーのパンツスーツ。とろみのある柔らかな白のブラウスに、ピンクゴールドのネックレスが控えめに光っている。いつか、衣緒も社会人になればこんな風になるのだろうか。そんなことを考えていると、藤木がわずかに居住まいを正した。

「……あの、私」

 ようやく本題に入るか。急かすつもりもなかったが、草平は心してグラスを置く。だが、

「本当は……、相談じゃないんです」

「え?」

「私、先生にお聞きしたいことが――」

 その時、暗がりから不意に現れたスタッフが「お下げしましょうか」と声をかけ、ふたりは同時に飛び上がった。

「あ、はい、お願いします……」

 食べ終えた皿が下げられ、グラスとカルパッチョだけが残される。そして、どちらからともなく息をつく。

「聞きたいことって?」

 そう尋ねると、藤木はかすかに怯えた瞳で見上げてきた。その不安に満ちた眼差しににわかに緊張する。

「……はい」

 藤木は観念したように低く返すと、居住まいを正した。

「失礼なことをお聞きします。お許しください」

「――うん」

 腹を括って頷いてみせる。何を聞きたいかわからないが、相手は藤木だ。可能な限り答えてやろう。そんな心持ちだったが。

「……先生は」

 一度口を閉ざし、唾を飲み込むと、真っ直ぐ見つめてくる。やがて、思い切った様子で口を開く。

「お嬢様のお母様とは、ご結婚されていたのですか」

「……え?」

 表情を歪め、思わず聞き返す。彼女は眉をひそめたまま前のめりに身を乗り出した。

「今でも、ご交流があるのでしょうか」

 突き刺さるような真剣な眼差しから逃れるように目を伏せる。そして、投げかけられた言葉を胸で繰り返す。彼女は今、何と言った? 動揺を隠すためにグラスに手を伸ばすとビールを呷る。その時、視界に飛び込んできたのは泣き出しそうな表情で俯いた藤木の姿だった。草平は自らを落ち着かせるために、大きく息を吐き出した。そして、おもむろに両手をテーブルの上で組む。答えようにも、すぐには言葉が出なかった。藤木も催促することなく、沈黙を守っている。だが、このままではいられない。草平は観念すると唇を湿した。

「結婚は、していません」

 藤木はかすかに身動ぎした。

「今まで、結婚したことはありません。本当のことを言うと……、娘の母親とは一緒にはいられないとわかっていました。それでも僕は彼女が好きになってしまって、すぐに娘ができました。そして、娘を生んで、彼女は姿を消しました」

 そこまで一気に語ると、藤木は驚愕の表情で凝視してきた。何も言わず、ただ困惑の表情で見つめてくるばかりの彼女に、草平は苦い思いで息を継いだ。ここまで語る必要はなかった。つまらない意地を張った。よりによって、藤木を相手に。いや、それとも――。

「……これまで、脇目も振らずに生きてきました」

 そう口にすると、強張った肩から力が抜けていく気がした。藤木は小さく頷いた。

「当然、両親の理解は得られず、僕は娘を連れ、姉を頼って東京に出ました。そして今の大学で職を得て、熊谷に移住しました。……姉夫婦がいなければ、ここまでこれなかった」

 そこで一度口を閉ざし、溜息をつく。

「姉夫婦だけじゃない。多くの助けがあって、ここまでこれました」

 藤木は固唾を呑んで見守っている。

「でも、娘を持ったことは後悔していません。娘がいて良かったと感謝しています」

 その言葉を最後に、重苦しい沈黙が続いた。予想もしていなかったであろう話を聞かされ、藤木は衝撃を受けた様子で項垂れている。そんな彼女に、急に罪悪感を覚えた草平は少しだけ表情を和らげさせて身を乗り出した。

「ああ、誤解のないように。不倫とかではないよ」

「……はい」

 か細い返事に、草平は困ったように眉根を寄せた。そして、間を持たせようとグラスに手を伸ばした時。

「すみません……!」

 突然、藤木が細い声を漏らした。見ると俯き、強張らせた肩が細かく震えている。

「先生の心に……、土足で上がり込むような真似を……!」

 今まで聞いたことのない藤木の弱々しい声音に、草平は溜息をついた。

「一体どうしたの」

 たしなめるように声をかける。

「普段、ここまで話すことはありません。娘でさえ……、すべてを話したのはこの夏が初めてです」

 藤木の表情からは、後悔とも取れる色が見えた。まさか、こんな話になるとは思いもしなかったのだろう。本当なら、過去を語ることを拒むこともできたのだ。だが、話してやらねばならない空気がそこにはあった。草平はビールのグラスに手を伸ばしかけたが止め、水が注がれたグラスを手に取って口につけた。

「……先生」

 いくぶん落ち着きを取り戻した声で呼びかけられ、目を上げる。

「ここまでお話していただいたのですから……、私も、お聞きした理由を話さないといけませんね」

「無理しないでいいよ」

 何だか強制している気分になってやんわりと返すが、彼女もここまできたら引っ込みがつかないのだろう。意を決した様子で背を伸ばした。どこか憑き物でも落ちたような、潔い表情だった。

「先月、ある人から結婚を前提にお付き合いをしたいと、申し込まれました」

 はっきりとした口調。少し遅れて草平は「えっ」と返す。

「でも私、お断りしました」

「どうして」

 思わず反射的に口走る。藤木は、かすかに眉をひそめたような気がした。

「……同じことを言われました。『どうして』って」

 草平は胸騒ぎを覚えながら藤木の表情を見守った。少しの沈黙の後、藤木は静かに言葉を継いだ。

「片想いの男性がいるからと、お答えしました」

 なるほど。草平は顔をしかめたまま頷く。が、その反応に藤木はどこか寂しそうに見つめてくる。

「――え、それで、その人は納得したの?」

「いいえ、まったく。何故片想いなのかと問い質してきました。片想いに甘んじているのは何故なのか。片想いを続けるあなたのために、自分はあなたを諦めなければならないのか、と」

 それはそうだが、強情な男だ。藤木も困ったことだろう。同情のこもった瞳で相槌を打つ。

「ですから……」

 藤木の声が小さくなり、テーブルの下で両手を握りしめて項垂れる。ほの暗い間接照明のせいで、表情はまったく見えない。

「私は……、こうして、お聞きしたのです」

 聞き取りにくい声。草平は眉を寄せて身を乗り出す。

「……佐倉先生は、どうして独身でいらっしゃるのか、と」

「……え?」

 藤木は、恐る恐る上目遣いに見上げてきた。

「……今でも、お嬢様のお母様と……、お付き合いがあるのか、と」

 どこか必死な眼差しに、草平はようやく気付いた。まだわからないのか。まるでそう責められているようで、草平は途端に落ち着きをなくすと狼狽えた。少々もつれる指先で思わず老眼鏡を押さえる。やっと伝わった。そんな表情で見つめてくる藤木と、驚きを隠せない草平。ぎこちない沈黙を破ったのは、藤木だった。

「……私、佐倉先生とお付き合いしたいです」

「先生――」

 困惑に満ちた声色に、藤木は哀しそうに微笑む。

「でも……、お嬢様のお母様と今でもお付き合いがあれば、私は敵わないなって――」

「それは」

 思わず遮る。だが、言葉が続かない。何と言えばいいのだ。黙り込んだ草平に藤木は小さく息をつき、ぎゅっと唇を引き結んで俯いた。彼女は思いを伝えてくれた。それに応えねば。だが、よく考えろ。草平は頭の中で様々な思いが飛び交うのを感じた。

「……すみません」

 藤木はもう一度詫びてきた。

「突然こんなことを言い出して……。申し訳ございません」

「謝ることはない」

 それだけははっきりと言い返す。が、草平は軽く頭を振りながら指先で額を押さえた。

「すまない。ちょっと混乱した。情けないな……、いい歳をして」

「いいえ、私が悪いんです」

「……藤木先生」

 きっと、情けないほど弱々しい声色をしているのだろう。そう思いながら囁きかける。

「まず――、よく考えて。失礼だが、あなたは確か、お歳が……」

「三六になります」

「僕は今年、五二になる」

 それが? そんな表情で首を傾げてくる藤木に、困り果てたように目を眇める。

「一回り以上も歳が離れているんだ。どうして……、僕みたいな年寄りを」

 予想していた言葉だったのだろう。藤木はちょっと困ったような笑顔をみせた。

「それを言われると……、何とも言えません。気持ちに歳なんか関係ないですから」

「まぁ、そうだけど……」

 それでも腑に落ちない。藤木のように若くて魅力的な女性が。そう、衣緒が言うように美しい女性が、どうして自分のような子持ちの訳あり中年に。わからない。

「……最初から、そういう風に先生を見ていたわけじゃないんですよ」

 囁くような呼びかけに、思わず耳を傾ける。

「佐倉先生と初めてお会いした時……、私は研究者としてどん底の時でした」

 そうだ。覚えている。草平は黙って頷いた。あの頃藤木は発表した論文を酷評され、かなり落ち込んでいたのだ。草平自身は興味深く読んだ論文だったため、学会で見かけた時に励ましの声をかけた。それが、出会ったきっかけだ。

「あの時いただいたお言葉は、今でも私の宝物です」

 藤木は固かった表情をほんの少し和らげ、噛みしめるように呟く。

「研究者は、冒険をやめたらおしまいだ」

 まだ困惑の表情を浮かべていた草平は、かすかに微笑を浮かべると頷いた。自分が座右の銘としている言葉を藤木に贈ったのだ。

「あのまま大学を去ることも考えました。思えば、先生は研究者としての私だけでなく、人生も変えてくれました」

「それは、あなたの努力があったからだよ」

 穏やかに返すと、藤木は微笑んで頭を下げた。そして、俯いたまま言葉を続ける。

「研究者として尊敬する先生をずっと追いかけているうち……、先生のお人柄に、強く惹かれました」

 そこまで語ると、藤木はそれきり口をつぐんでしまったのか、沈黙が続く。思いはすべて語ってくれた。

「……ありがとう」

 ひとまず、それだけを呟く。藤木は再び緊張で固い表情で上目遣いに見上げてきた。

「……私では、駄目でしょうか」

「先生」

 草平は両肘をテーブルに突いて身を乗り出した。

「その……、よく聞いてほしい」

「はい」

 几帳面な返事。草平は息をついてから口を開いた。

「僕には、娘がいる」

「はい」

「さっき言ったように、僕にとって娘は大事な存在だし、しっかり育てていく責任がある」

 緊張した表情で黙って頷き、先を促される。

「娘が幸せになるまで……、できれば家庭を持つまでと言いたいところだけど、せめて成人するまでは、独りでがんばるつもりだ」

 それも半ば予想していたのか、わずかに顔を歪めながらも藤木は頷いた。草平は溜め込んだ息を大きく吐き出すと、グラスの水で喉の渇きを癒した。

「娘はまだ十五歳です。あと五年は……、待ってもらうことになる」

 五年.その言葉に何を思ったのだろう。藤木の黒い瞳は涙で揺れているようにも、何か決意を感じさせるようにも見えた。

「ご両親は納得しないでしょう。十六も年上の男を相手に、五年も待つなんて」

 藤木は小さく頷くと目を伏せた。そして、躊躇いがちに口を開く。

「私も……、できれば早く両親を安心させたいとは思います。これまで、ずいぶん長い間好きなことをやらせてもらいましたから」

 だが、再び目を上げた彼女の表情はどこか凛としたものだった。

「でも、私の人生ですから。私が決めたいと思います」

「先生……」

「佐倉先生」

 どこか哀願するように藤木はテーブルに手を突いて身を乗り出した。

「私は、先生のことが好きです。先生と一緒にいたいです」

 だが、哀しげに目を細めると声を落とす。

「もちろん……、お嬢様が反対されるなら、諦めます。でも、その前に、先生のお気持ちが知りたいんです」

 一途な眼差しに草平は顔を歪めた。当然、藤木のことは嫌いではない。好意を持っている。だが――。答えられない草平に、藤木は哀しそうに瞳を揺らした。

「……駄目なのですね」

「違う」

 慌てて口走ると前のめりに体を傾ける。

「……少し、待ってほしい」

 それだけをかろうじて囁く。

「即答はできない。……待ってくれないか」

 回答を先延ばしにされた藤木だったが、彼女は素直に頷いた。

「……わかりました」

「すまない。本当に、情けない男で……」

「いいえ……」

 ふたりは同時に、押し殺していた溜息を吐き出した。

「……すみません。先生を、悩ませることになってしまって……」

「それは……、大丈夫だよ」

 慰めるように、優しく言葉を返す。緊張がひどかったのだろう。この数時間ですっかり疲れ果てた表情の藤木に、草平は置かれたままのカルパッチョを見やった。

「……食べられる?」

「え?」

 草平は皿を指差す。

「元気をつけないと」

 その気遣いに、藤木は胸がいっぱいになったのか、目を潤ませて頷いた。

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