第2部-夕闇の影-第5話
雄輔が紹介したファーマーズ・バーガーは大手のファストフード店に比べればこぢんまりとした店構えだった。が、若者を中心に客数も多く、それなりに繁盛しているようだ。雄輔と緋紗人は照り焼きチキンバーガーのLサイズセットを注文し、衣緒はMサイズを頼んだ。
「佐倉ちゃん、足りるの?」
「多いぐらいだよ……」
衣緒の小食ぶりを知っている雄輔は驚かなかったが、それでも「足りなかったら俺のポテト食えよ」と気遣いをみせる。そんな彼に緋紗人はにやにやしながら小突いてくる。
「相変わらず優しいなぁ、雄輔」
「別に……。紳士の嗜みってやつだ」
照れ隠しに大袈裟な言い方をしてみせる雄輔に、衣緒は少しはにかんだ表情をしてみせる。
「いただきます!」
大きな挨拶と共に、緋紗人は嬉しそうにバーガーにかぶりついた。
「あー、こうやって買い食いしたりするのも夢だったんだ」
「青春の一ページってやつか」
「そうそう」
相変わらず、高校生活を楽しめることに喜びを隠さない緋紗人に雄輔は呆れながらも微笑ましげに肩をすくめる。
「まぁ、こんなことでおまえの青春とやらに協力できるなら本望だよ。なぁ、佐倉」
そう振られ、衣緒は微笑んで頷いてみせる。やがて雄輔と緋紗人は互いに今読んでいる本や好きな作家の話で盛り上がり、衣緒がその様子を見守るという構図が出来上がる。
「なんか最近さ、作家がSNSとかで積極的に発言することが多いじゃん。そのせいで夢が壊れたとかいう奴がいるらしいぜ」
「へぇ。いいじゃんな、作家の人となりがわかるだろうし、作品以外の姿にまで夢持つことないよな」
「なぁ。俺なんか尊敬する作家って昔の外国の作家だったりするからさ、今の作家が好きって連中は羨ましいよ」
熱く語り合うふたりだったが、黙ったまま食べる手まで止まってしまった衣緒に雄輔が気付く。
「佐倉」
「――えっ」
少し間を置いて衣緒が顔を上げ、慌てて居住まいを正す。
「あ、ごめん、聞いてなかった」
「大丈夫か、おまえ」
顔をしかめて心配そうに尋ねてくる雄輔に衣緒は申し訳なさそうに俯く。
「ご、ごめんね、どうしても、ちょっと、気になっちゃって……」
「そんなにお父さんが外食するのが嫌なの?」
ずばり率直に聞いてくる緋紗人に雄輔が「おい」とたしなめる。
「嫌というか……、その、今までなかったから……」
「でも、お父さんだって社会人なんだからさ、飲みの席ぐらい普通にあるでしょ」
親が飲食店を経営している緋紗人にとっては、衣緒の戸惑いが理解できないらしい。
「それは、そうなんだけど……。でも、今までは忘年会とか歓送迎会とかで、急に外食するなんてなかったから……」
「ああ、それはさ」
緋紗人は得意げな表情で身を乗り出した。
「セッタイという名の飲み会だよ。たまには息抜きでもしたくなったんじゃないの? 会社の人とキャバクラでも行っ、てっ!」
饒舌にしゃべり続ける緋紗人の後頭部を雄輔が叩き、衣緒が悲鳴を上げる。
「里村くん……!」
「痛ぇな、雄輔ぇ」
「ふざけたことぬかしてんじゃねぇ。佐倉のお父さんは立派な大学教授なんだぞ」
大学教授という言葉に緋紗人が目を丸くする。
「へぇ、佐倉ちゃんのお父さん大学教授なのか。でも、教授だからって立派だとは限らないぞ」
そこで緋紗人は急に真面目な表情で声をひそめる。
「親父が言ってたけど、教育関係の連中はけっこう汚いってさ。ストイックな仕事だから欲求不満が溜まってるらしいぜ」
「おまえ、それを佐倉の前で言うか」
「あ、でも、それは私も父さんから聞いたことはあるよ」
雄輔をなだめるようにして口を挟む。
「飲み会の予約する時なんかに、教育機関だとわかったら嫌がられること多いって、嘆いてた」
「そうなのか」
意外そうな表情で雄輔がぼやき、何事か考え込む素振りでコーラを飲み干す。衣緒は息をつくと無理やり笑顔を取り繕った。
「ごめんね、せっかく私のために晩ご飯に付き合ってもらってるのに、ひとりで落ち込んでて」
「気にするなよ。大丈夫だって」
明るい表情で返す雄輔に、緋紗人は微笑ましげに笑いながらふたりを見守った。
ささやかな夕食を済ませると、衣緒たちは熊谷駅へ向かった。駅前のロータリーまで来ると衣緒はふたりに感謝の言葉を伝えた。
「今日はありがとうね。おかげでひとりでご飯食べずに済んだよ」
「なんか寝るまでに腹減りそうだけど大丈夫か」
雄輔の心配に衣緒が苦笑してみせる。
「家に何かあると思う」
「おう。ちゃんと食えよ」
じゃあ、と言って自転車に跨ろうとする雄輔に緋紗人が「冗談!」と声を上げる。
「雄輔、佐倉ちゃん家まで送っていくんだろ?」
「えっ」
思わぬ言葉に衣緒も雄輔も戸惑いの声を上げる。
「だってほら、もう暗いんだしさ」
そう言って親指で夕空を示す。確かに、夏に比べると空が暗くなるのはぐっと早くなった。西の空は赤黒い雲に覆われている。
「紳士なら家まで送るだろ」
憤然とした表情で告げられ、雄輔は口を半開きにして衣緒を振り返る。見つめられた衣緒はどぎまぎしながら口ごもる。
「だ、大丈夫だよ。子どもじゃないんだし、これぐらい……」
「あぁあ、俺は心配だなー、どうすんだ、雄輔」
緋紗人に煽られ、雄輔は戸惑いながらも自転車から降りる。
「わかったよ、送るよ」
「里村くん」
慌てる衣緒を尻目に、雄輔は「自転車置いてくる」と言って駐輪場へ向かう。その姿を満足そうに見送ると、緋紗人は衣緒の肩をぽんと叩いた。
「じゃ、後はふたりで楽しんで」
「尾咲くん?」
驚いて振り返ると、緋紗人は相変わらずにやにや嬉しそうに笑うばかりだ。
「たまにはふたりっきりもいいでしょ」
何と言い返せばわからず、戸惑っているうちに雄輔が戻ってくる。
「じゃあ雄輔、佐倉ちゃん頼んだよ」
「ああ」
緋紗人は実に爽やかな笑顔で手を振ると、ちょうどやってきたバスに乗り込んだ。残されたふたりは、思わず同時に息をつく。
「……なんかごめんね、こんなことになっちゃって」
「別にいいよ。ひと駅だろ?」
「うん」
最初こそ困惑していた雄輔だったが、何事もなかったかのように券売機に向かう。
「あ、私出すよ。出させて」
雄輔が切符を買う前に窓口に向かい、往復切符を買ってくる。
「ありがとう」
雄輔はにっこり笑って受け取り、ふたりはホームへ向かった。
電車はほどなくしてやってきた。ふたりは乗り込んでからしばらく黙り込んでいたが、やがて雄輔が苦笑交じりに呟く。
「しかし、相変わらず突拍子もないこと言いだすよな、緋紗人のヤツ」
「うん……」
どこか強張った表情で頷くと、顔色から警戒心を感じ取った雄輔が穏やかに呼びかける。
「佐倉さ、緋紗人のこと苦手だろ」
衣緒はバツが悪そうに頷く。悪い人間ではない。だが、実際のところ何を考えているのかわからないところが怖い。ふと、手を掴まれた記憶が脳裏を過ぎり、眉根を寄せる。
「限りなく自由なヤツだからな。でも、あいついいヤツなんだぜ」
雄輔らしく、男気を感じる口ぶりに衣緒は思わず相手を見上げて耳を傾けた。
「あいつだけだもんな、俺が芥川読んでいても馬鹿にしないヤツ。クラスや図書委員の連中はあからさまにからかってくるけどさ」
「え、図書委員が?」
目を丸くして尋ねると、雄輔は苦笑いを浮かべて肩をすくめる。
「みんなじゃないけど、自分の好きな作家やジャンル以外は馬鹿にするヤツらがいるんだ。でも、緋紗人は自分が興味なくても俺が好きな作家やすすめた本はきちんと読むし、それなりに感想くれる」
衣緒は意外そうに声を漏らした。一見軽い印象の緋紗人が。
「あのヘラヘラした顔で、口では真面目な文学論語ってんだよ。笑えるだろ」
そこまで話してから雄輔は一瞬口を閉ざし、不意に真顔になる。
「……顔もいいし、明るいし、敵わねぇな」
低い声で呟かれ、衣緒は眉をひそめた。どこか寂しげな影のある表情に、衣緒は身を乗り出して雄輔を見上げた。
「里村くん」
呼びかけに目を見開き、次いで目の前に衣緒の顔があることに雄輔は慌てて顎を引く。
「里村くんには、里村くんのいいところがあるでしょ」
「いや――」
しどろもどろに口走ると、衣緒は不満げに口をへの字に引き結ぶ。
「尾咲くんも、里村くんには敵わないって思うところがあると思う」
「あ……、ありがと……」
気圧されたように呟く雄輔に、衣緒はさらに言い添えた。
「……里村くん優しいし。私、いつも助けられてる」
その言葉に、雄輔は胸を突かれたように黙り込んだ。
気恥ずかしい沈黙の後、ふたりを乗せた電車は目的地へ到着した。改札を出ると家の方向へ足を向ける。
「けっこう暗い道があるじゃん」
「うん」
桑畑や麦畑の周囲は人気もなく、街灯も少ない。日も落ち、一層青暗い空気に満ちる道をゆく。畑が姿を消すと住宅地に入るが、高い生垣が鬱蒼とした黒い空気を溜め込み、少し不気味な雰囲気を滲ませている。
「……人、あんま通らないんだな」
「もう少ししたら、仕事帰りの人が多い時間帯になるんだけど」
「そっか……」
雄輔は少し緊張した顔つきで辺りに眼差しを投げつつ歩みを進めた。が、ふと足許に目を落とす。隣で歩く衣緒の歩みがやけに遅い。彼女は黙ったままゆっくり、ゆっくり歩いてゆく。雄輔も特に指摘することもなく衣緒の歩みに合わせた。
「……あ、あそこ」
不意に声を上げると、衣緒は傍らの生垣を指差す。
「お稲荷さんの祠があってね」
「へぇ」
「白いお狐さんがいっぱいいるの」
衣緒の言葉に雄輔は歩みを速めて生垣に向かう。一か所、生垣が途切れた場所から覗き込むと、確かに小さな祠がひっそりと鎮座していた。苔むした屋根の下に、陶器で作られた白い狐が溢れんばかりに並んでいる。雄輔は思わず息をひそめた。
「ちょっと変わったお稲荷さんだな」
「でしょう」
狐たちは古いらしく、埃や泥がこびりついている。だが、汚れが付いていない場所はつるりと艶めかしい光を放っており、綺麗なのか汚れているのか、古いのか新しいのか、それすらわからなくするような不思議な空気を纏っていた。
しばらく祠の狐を眺めていた雄輔だが、祠の向こうに目を向けた。
「あれ、公園があるじゃん」
そう言って祠の前を通り過ぎ、奥の小さな公園に向かう。
「公園と言ってもブランコと砂場だけだよ」
衣緒はそう言うが、雄輔は顔をほころばせてブランコに乗ると漕ぎ始めた。
「懐かしいなー。何年ぶりだ、ブランコなんて」
ほの暗い青い空気に満ちた公園で、衣緒は塗装の禿げた古いベンチに腰を下ろしてブランコを漕ぐ雄輔を見守った。膝を使い、全力でブランコを漕いでいた雄輔だったが、やがて勢いをつけて地面に飛び降りる。そして、どこかぼんやりとした顔つきでベンチに座り込む衣緒を振り返る。
「――佐倉」
明るく呼びかけると歩み寄り、隣に腰を下ろす。黙ったままの衣緒に、雄輔は蒼い夕空を見上げる。
「家、帰りたくないのか?」
返事がない。雄輔はゆっくりと首を巡らし、隣の衣緒を見下ろした。俯き、固く唇を閉ざした衣緒に小さく吐息をつく。
「今帰っても、お父さんいないかもしれないな」
もう一度空を見上げる。鮮やかな紺色の空に星がひとつふたつ、煌めき始めた。
「誰もいない家に帰るの、寂しいよな」
「――父さんね」
不意の呟きに雄輔は口をつぐんで振り返った。衣緒は固い表情のまま、言葉を続けた。
「女の人と、ご飯に行ってるの」
心なしか、語尾が震えている気がした。雄輔は眉をひそめて衣緒の横顔を見つめた。
「……ちゃんと、私に許可取ってから」
「知ってる人なのか」
こくりと頷く。
「違う大学の先生。ちょっと前からよく名前を聞く人だったんだけど」
雄輔は、そうか、と呟いてから息を吐いた。衣緒も深い溜息をついてから夜空を見上げた。そして、吹っ切れたように声を高める。
「わかるんだ。多分その人、父さんのこと好きなんだ」
「会ったことあるの?」
「一度だけ」
目を細め、思い出すようにゆっくりと囁く。
「綺麗で……、明るい人。優しくて、多分、いい人なんだと思う」
「良かったじゃん」
雄輔の言葉に振り返る。
「こう言っちゃなんだけど、どうせなら綺麗で優しい人の方がいいじゃん」
もっともな言葉に衣緒の表情に笑みが浮かぶ。
「そうだね」
寂しさが滲んだその呟きに雄輔は眉をひそめ、言葉を失くして黙り込んだ。沈黙が横たわるふたりを、青い空気が包む。衣緒はもう一度溜息をつくと項垂れた。
「……わかってるの。父さんの自由だって。私がとやかく言うことじゃないって。でも、でも、何でだろう」
不安に満ちた囁きに雄輔は表情を強張らせたまま身を乗り出し、衣緒の囁きに耳を傾ける。
「なんだか、すごく、嫌な気持ちになるの。それが許せない。父さんはちゃんと話してくれる。隠さずに。でも、聞きたくない。でも、教えてほしい。……何なんだろう。どうして、こんな……」
「佐倉」
なだめるような、柔らかな声色。衣緒は口をつぐんだ。何かを堪えているかのような固い表情。眉間に刻まれた深い皺。雄輔は、初めて見る衣緒の苦悩と戸惑いの表情に胸が苦しくなるのを感じながら口を開いた。
「佐倉は、お父さん大好きだもんな」
衣緒は、震える唇を固く引き結んだ。体全体を固くし、必死に感情を抑え込もうとする彼女に、雄輔は優しい口調で言葉を継ぐ。
「心配するのも当然だよ。佐倉は悪くない」
何か言おうと口を開くが、違う何かが溢れてきそうで、衣緒は言葉を呑みこむ。
「それに……、佐倉さ」
慎重な囁きに衣緒は顔をしかめて振り返る。
「本当のお母さんに会ったこと、あるのか」
一瞬表情が固まるが、無言で頷く。すると、雄輔は納得したように大きく頷いた。
「だったら、仕方ないよ」
慰めるように、努めて明るく穏やかに語りかける。
「一度でも本当のお母さんに会ったらさ、他の女の人は許せないよ。どんなにいい人でもさ、本当のお母さんには敵わない。しょうがないよ」
その言葉を耳にした途端、衣緒は胸の内をまさぐられたような感覚に襲われた。そして思わず「どうして!」と叫ぶ。
「佐倉」
「どうして……! どうして、そんなこと……!」
突然のことに言葉を返せない雄輔に、衣緒は顔を背けたまま鋭く叫び続けた。
「さ、里村くんには、お父さんもお母さんもいて……! 兄弟までいるのに……! どうして、私の気持ちなんかわかるの!」
「佐倉……」
困惑の色がありありと見える呟きに、衣緒は両手で顔を覆い隠した。
「ち、違う……、そうじゃない。こんなこと、言いたいんじゃないの……! わ、私……!」
「佐倉」
「どうして……!」
取り乱し、譫言のようにまくし立てる衣緒に痛ましげに眉をひそめると、雄輔は思い切った様子で彼女の肩を掴んだ。
「佐倉」
名前を呼ぶと細い体を両手で抱きしめる。途端に、竦んだように体を強張らせるのがわかる。
「落ち着け、佐倉。聞いてくれ」
幼子をあやすように肩を撫でると、強張っていた体から少しずつ力が抜けていく。雄輔は小さく息をついた。
「俺、家族には恵まれてる。おまえの気持ちなんか、本当にわかるわけもない。でもさ、想像することはできるだろ」
穏やかで優しい声。衣緒はいつしか雄輔の制服を両手でぎゅうと握り締めていた。
「想像して、力になりたいって、思うじゃないか」
まだ震えながら息をひそめる衣緒。薄暗い夜空の下にあっても、衣緒の艶やかな黒髪は綺麗だった。それに気付くと、雄輔は急に胸の鼓動が早鐘のように鳴り始めた。
「……里村くん」
今や完全に力を抜いた衣緒は雄輔の胸に顔を埋め、心細げな囁き声で呼びかけてきた。
「……うん?」
「どうして、そんなに、優しいの」
切れ切れに耳に届く囁き。雄輔は逸る胸を抑え、ごくりと唾を呑み込んだ。
「――だってよ」
息を吐き出し、背を抱く手に力を込める。
「好きな人が悩んでるんだ。……力に、なりたいよ」
思い切って告げた、その言葉。衣緒はしばらく黙ったまますがりついていた。が、やがて、放心したような表情で顔を上げる。
「……里村くん?」
暗がりの中、雄輔は真顔で身を乗り出した。
「俺、佐倉のこと、好きだからさ。おまえが悩んでると、ほっとけねぇよ」
両目を見開き、呆然と見つめてくる衣緒。長い長い沈黙。その間、衣緒の表情はめまぐるしく変わった。驚き、困惑、恐れ、そんなものが入り混じり、やがて彼女は眉根を寄せて顔を振った。
「で、でも、私――」
「俺のこと嫌いか」
「そんなこと――」
「嫌いなら諦める」
きっぱりとした口調。途端に、衣緒の顔がくしゃりと歪む。
「嫌いなんかじゃない……!」
「佐倉」
ほっとした声。だが、衣緒はぽろぽろと大粒の涙を零して訴えた。
「でも私……、違うの……! 人と違うの……! だから、駄目……!」
人と違う。
それを雄輔はどう解釈したのか。彼の答えは、まくし立てる衣緒の唇を塞ぐことだった。自らの唇に触れた温かい感触に、衣緒は声を失ったように黙り込んだ。すぐに顔を離すと、雄輔は顔を赤らめて項垂れた。
「……でも俺は、おまえが好きだ」
割れるような胸の鼓動。鳴りやまない耳鳴り。衣緒は自分の意識だけが体を抜けていくような感覚に襲われ、雄輔の体にしがみついた。息ができない。苦しい。体が、熱い。
「……佐倉?」
少し心配そうな雄輔の声に、深呼吸を繰り返してから頷く。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
「……帰ろうか。遅くなる」
どこか恥ずかしそうな響き。衣緒も顔を真っ赤にさせながら体を起こす。
「……ごめん、いきなり」
申し訳なさそうな囁きに、衣緒は黙って顔を横に振る。ふたりはゆっくり立ち上がると公園を後にした。
黙ったまま道をゆくと、マンションが見えてくる。
「……あそこ」
「そっか」
ふたりはどちらからともなく歩みを止めた。
「……ありがとう」
家まで送ってくれたことへの感謝なのか、それとも。雄輔は不安を押し殺して笑顔を見せた。
「お父さんのこと、ちゃんとなればいいな」
「うん……」
「……じゃあ」
ぎこちなく手を上げ、背を向ける。
「里村くん」
呼びかけに、ぎくりとして振り返る。脇に立つ街灯の青白い明かりの下。そのまま薄闇に溶けて消えてしまいそうな、儚げに佇んだ衣緒はどこか心細げな表情で唇を開いた。
「……また明日」
また明日。その言葉に、雄輔の表情が安堵に満ちたものに変わる。
「ああ」
もう一度、今度は笑って手を振ると背を向ける。衣緒は、その背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。秋の夜風が首筋を撫で、身震いする。そして、震える吐息をついてから手を胸に当て――、
「ひっ!」
甲高い悲鳴を上げて体を震わせる。細い指が激しく揺れる。青白い街灯の光が浮かび上がらせたのは、指と指の間の、水掻き。
「……ああ……!」
思わず声を漏らし、衣緒はその場に崩れ落ちた。
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