第2部-夕闇の影-第4話

 草平は乞われるままに電車で南新宿へ向かった。だが、小さな路地までは覚えておらず、結局衣緒がスマートフォンのアプリを駆使して無事レストランへ到着することができた。

「ああ、ここだここだ」

 小さな白い扉を見つけると草平はほっとして声を上げた。中へ入ると、夏に訪れた時よりも人が多い。

「ふたりなんですが、テラスは使えますか」

「申し訳ございません。テラスは今満席で……。店内のお席でしたらすぐご案内できますが」

 草平が衣緒を振り返ると、彼女はこくりと頷いた。

「じゃあ、店内で」

「はい、ありがとうございます」

 ふたりは案内されたテーブルに腰を落ち着け、衣緒は興味深げに店内を眺め渡した。ランチタイムではあるが店内はやや薄暗く、頭上に吊り下げられたレトロなランプから明かりが投げかけられる。

「ふぅん」

 まるで品定めでもしているかのような表情で鼻を鳴らす。

「雰囲気があるところだね」

「そうだな」

 草平は運ばれてきた水で喉を潤す。

「前は外のテラス席だったんだ。明るくて綺麗だったよ」

 そのうち、先ほどのウェイトレスがメニューを持ってくる。

「単品とカジュアル・コースがございますが」

「せっかくだからコースにしよう」

 父の言葉に衣緒が身を乗り出す。

「約束だったよな。コース料理の食べ方を覚えるって」

「うん」

 少しはにかんだ表情で頷く衣緒。草平はウェイトレスに「コースの肉で。ふたりとも」と告げた。

「畏まりました」

「え、ちょっと」

 下がってゆくウェイトレスの背を目で追ってから、衣緒はメニューを覗き込む。

「他に何のコースがあったの。選ばせてくれても――」

 が、ランチのカジュアル・コースに肉と魚しかないとわかって言葉を飲み込む。草平は黙ったままテーブルの上で手を組んだ。

「……父さん」

 声をひそめて呼びかけてくる娘に目を上げる。眉根を寄せ、慎重に言葉を選ぶと、思い切ったように口を開く。

「父さんも私も、本当は、アレルギーなんかじゃ――」

「駄目だ」

 静かに、だが太い声で遮られ、衣緒は口をつぐんだ。魚介アレルギーだと言われて、これまで口にしてこなかった魚。だが、本当の理由はアレルギーではなかった。何か言いたげな表情に、草平は目を伏せる。もう、どうしようもないことだ。

「お待たせしました」

 不意に声をかけられ、ふたりはびくりと体を跳ねらせる。

「サラダでございます」

 ウェイトレスが、目にも鮮やかなサラダをテーブルに並べる。

「自家製ドレッシングでどうぞ」

 アンティークなガラスのボトルが添えられ、サラダを前にふたりは息をついた。

「……おばあちゃんからもらったブレスレットみたいだな」

 そう言って中心に盛られたみずみずしいプチトマトを指差す。衣緒はぎこちなく笑った。

「……そうだね」

「食べよう」

 重苦しい空気を振り払うように声を高めると、待っていたように衣緒は勢いよくフォークを手に取った。

「いただきます」

 フォークの歯をプチトマトにぷつんと差し、口に運ぶ。

「美味しい」

「うん」

 サラダを食べ終わる頃にスープが出され、やがてメインのビーフソテーが運ばれる。

「お肉美味しい」

 柔らかいビーフを口にして衣緒は嬉しそうに微笑む。

「疲れちゃったから元気出そう」

「そうだな。今日は朝から疲れたな」

 草平も思わず苦笑いをこぼしながら同調する。

「藤木先生にも会えたし」

 その言葉に、我知らずぎくりとして手を止める。だが、衣緒の方は特に気にする風もなく言葉を続ける。

「藤木先生って大学違うのにどうやって知り合ったの?」

「えーと……、学会だな」

 草平は片手を額に当ててしばし思案した。

「藤木先生の論文をたまたま読んだ後で学会で会ったんだ。確かそうだ」

「ふぅん。違う学校の先生と仲良くなることってあるんだ」

 衣緒の表情から察するに勘ぐった様子ではなく、純粋に不思議そうな口ぶりに少し安心しながら説明してやる。

「父さんは大学で近代文学を教えてるけど、研究してるのは中世や近世の説話や伝承が近代でどう扱われているか、ということでね。藤木先生は明治維新以後の日本文学の変化を研究してるんだ。維新前後の比較対象のひとつが妖怪とかの怪談でね、ほら、父さんと研究テーマが似てるだろう。それで、お互いの資料を貸し借りすることが多いんだ」

 一瞬、衣緒の手が止まる。が、表情は変えないまま「へぇ」と相槌を打つ。

「大学って面白そう」

「うん……、変な人も多いけどね」

 思わず本音がこぼれ、衣緒はぷっと吹き出した。

「良かったね、藤木先生が変な人じゃなくて」

「変な人だったら仲良くしないよ」

 草平も笑いながら返す。衣緒はしばらくおかしそうに笑ってから息をつき、グラスの水で喉を潤した。

「藤木先生いい人だった」

「うん?」

「私の名前素敵だって」

「ああ」

 いつか、衣緒の名を教えた時のことを思い出す。

「やっぱり文学の先生だからね、漢字とか言葉の響きにこだわりがあるんだよ。でも……、自分の名前には少しコンプレックスを感じてるようだったな」

「え、なんで?」

 少し驚いたように目を見開く衣緒。

「さえ・・さんっていうんだけど、小さい枝って書くんだ」

「……小枝こえだ?」

「うん、そう読まれることが多いって寂しそうに言ってた」

 少しの間、視線を逸らして何か考え込んでいた衣緒は大きな瞳で父親を正面から見据えた。

「父さん、好きそうな名前」

「え?」

 思いもしない言葉に少々素っ頓狂な声を上げる。

「そういう少しひねった名前、好きそう」

「そりゃ……、父さんも、文学者だからね……」

 動揺を隠すようにビーフソテーを口に頬張る。

「美人だし」

「美人?」

 今度こそ眉をひそめて顔を上げると、衣緒は呆れたように大きく身を乗り出す。

「藤木先生のこと、美人だと思わないの?」

 言われてみれば、大きな瞳に明るい表情、清潔感もあり、彼女は美人の部類だろう。だが、草平は今さらそのことに気付く。衣緒は驚愕の表情から転じて訝しげに眉をひそめた。

「信じらんない。あんな美人と一緒にいて、今頃……」

「おいおい、ちょっと待って」

 慌ててフォークとナイフを皿に置き、居住まいを正す。

「父さん、今まで藤木先生をそういう目で見てこなかっただけだ。ただ、優秀で将来が楽しみな若手研究者としか……」

「だから、それが信じらんない」

「やましいことは何もない。そういうことだって」

 困り切った表情で必死に訴える草平に、衣緒はからかうように笑っていたが、やがて気を取り直して再び食事を口に運び始める。だが、

「藤木先生と付き合わないの?」

「……えぇ?」

 困惑とも狼狽ともつかない声を上げると、草平は眉間に皺を寄せた顔を上げる。衣緒は視線を合わさずに食べ続けている。

「付き合っちゃえばいいのに」

「衣緒」

 たしなめるように声をかける。それでも衣緒は黙ったままだったが、やがてぽつりと呟いた。

「いい人だもん」

「何が」

 衣緒はしばらく黙って口の中で咀嚼していたが、やっと瞳を父親に合わせる。

「職質されたって聞いて、あんなに怒ってくれたんだもん」

 草平は思わず口を半開きにして娘を見つめた。そうか、嬉しかったのか。自分が傷ついたことで一緒に怒ってくれた藤木を。

「名前も褒めてくれたし」

 衣緒はすぐに目を伏せると言い添えた。

「だから、藤木先生ならいいよ」

「衣緒」

 少し安堵しながらも、溜息交じりに呼びかける。

「まだそんなこと、考えてないよ」

「付き合っちゃえばいいのに」

 もう一度同じことを言いだす衣緒に草平は今度こそ顔を強張らせると、テーブルに肘をついて身を乗り出す。

「じゃあ、おまえこそ里村くんと付き合ったらどうだ」

 一瞬、食事の手を止めた衣緒だったが、頬を膨らませてそっぽを向く。

「……里村くんはクラスメートだもん」

「だろう。父さんも藤木先生は研究仲間だよ。同じことだよ」

 何が同じことなのか。思わず自問しながら、草平がフォークを取り直した時。

「――付き合えるわけないじゃない」

 低い声で呟かれた言葉に、草平は頭を殴られたような思いで息を呑んだ。ごくりと唾を呑み込む。体中から脂汗が吹き出したのを感じながら、口を開こうとすると。

「美味しかった」

 フォークを置き、ナプキンで唇を拭う衣緒に、草平は言葉をかけられない。力なく肩を落とす父親に、衣緒が大きな瞳を向ける。黙り込んだふたりだったが、そこへウェイトレスがやってくる。

「デザートはバニラアイスのラズベリー添えかチョコレートケーキですが、どちらにいたしますか」

 衣緒はすかさず「チョコレートケーキ」と答えた。ややあって、草平は少しかすれた声で「僕はアイスで」と答える。ウェイトレスは続けて笑顔で申し出た。

「ただいまテラス席が空きまして。よろしかったらデザートだけでもお外で」

 その言葉に衣緒はぱっと笑顔になる。

「はい、お願いします」

 ふたりはウェイトレスに連れられてテラスへ続く扉へ向かう。

「どうぞ」

 扉が押し開かれ、衣緒の目を残暑の陽射しが差す。

「わぁ、綺麗!」

 衣緒ははしゃいだ声を上げると早速テーブルに着く。庭の花壇には様々な彩りのコスモスが風に揺れ、秋の訪れを感じさせている。しばらくするとデザートが運ばれ、衣緒は満足そうにケーキを頬張る。

「いいところだね、ここ」

「……ああ」

 草平は鮮やかなラズベリーソースのかかったアイスを前に頷く。

「また来たいな」

「そうだな」

 夏の名残りを集めたような陽射しがアイスを溶かしてゆくのを、草平はただ黙って見守った。


 ランチを終えると、ふたりは都内を散策した。草平は書店を巡り、衣緒は雑貨店を見て回り、帰途につく。湘南新宿ラインに乗り込むと大宮で乗り換える。プラットホームは真っ赤に焼けた陽射しで染まっていた。

「衣緒、今日はあり合わせでいいか」

「うん。お昼に美味しいもの食べたしね」

 白い顔立ちがオレンジに染まり、西日に目を細めながら振り返る。だが、顔色の悪い父親に眉をひそめる。

「大丈夫? 父さん」

 心配そうな声色に草平は疲れた笑みを浮かべてみせた。

「……ああ、こういう時に歳を感じるよ。なかなか疲れが取れない」

「気を付けなきゃ」

 真顔で囁く衣緒に頷きながら頭を撫でる。やがて電車がホームに入ってくる。ドアが開くと乗客が雪崩のように降りてくる。人波をやり過ごし、電車に乗り込もうとした時。

 親子とすれ違った男が振り返る。ドアが閉まり、車両が動き始めても男は親子を見つめ続けた。草平と衣緒は穏やかな表情で言葉を交わしている。黒髪の若い男は、眼鏡越しに親子の姿を凝視した。色白の少女と、壮年の父親。どこにでもいる親子のはず。だが、電車が速度を上げ、ホームを走り去るまで、男は無言で視線を投げ続けた。


 藤木と遭遇してから数日。衣緒は表面上、特に変わったこともなく日々を過ごしていた。少なくとも、本人はそう思っていた。

 以前から気になっていた藤木。見る限り、明るく親切で、優しい姿に心のどこかでほっと安心できたのは事実だが、同時にこれまでのもやもやとした感触が一層強くなったのもまた事実だった。父の心を捕えている女性があんなに若くて美人だとは思いもしなかった。そして、予想以上に「いい人」だったことも衣緒の心を歪めた。嫉妬なんかしてはいけない。非の打ち所のないいい人なのだから。衣緒はひたすら自分に言い聞かせた。

「さくらんってば」

 衣緒ははっとして顔を上げた。友人が肩をすくめると親指で指し示す方向に目を向ける。雄輔を含めた男子たちがスマートフォンでゲームに興じている光景。その中心には、廊下に面した窓から身を乗り出してゲームに参加している赤毛の少年がいた。尾咲緋紗人だ。

「うおー! 俺の杉内が打たれたー!」

「へっへっへっ、鉄人ちゃん舐めんなよ!」

「野球ゲームじゃ雄輔には敵わねぇべ」

 ゲームで盛り上がっているらしい男子たちに友人が首を傾げる。

「あの転校生、最初こそ浮きまくってたのに、今じゃあの溶け込みようだからね。不思議だわ」

「……そうだね」

 衣緒も腑に落ちない様子で頷く。が、別の友人が心配そうに声をひそめて呼びかける。

「でもさ、さくらん大丈夫なの?」

「何が?」

「だってあいつ――」

 と、そこへ。

「おーい、佐倉ちゃん!」

 突然の呼びかけに衣緒はびっくりして顔を上げ、友人たちは不審げな眼差しを向ける。胡乱な視線など構う風もなく、緋紗人は晴れやかな笑顔で言葉を続ける。

「佐倉ちゃんもやろうぜ! ミラプロ!」

「ミラ、プロ……?」

 戸惑う衣緒に緋紗人がスマートフォンを指差す。

「ミラクルプロ野球だよ。面白いよ!」

 衣緒が答える前に、緋紗人の隣の雄輔がゲームの操作を続けたままぼやく。

「佐倉は野球わかんねぇよ」

 すると、途端に男子たちが一斉に口笛を吹いて冷やかす。

「さっすが里村! 佐倉のことよくわかってんじゃん!」

「ばっ……! おめぇらな!」

 雄輔が顔を真っ赤にして立ち上がり、思いもしない展開に衣緒が身を竦めて言葉をなくす。だが、衣緒の友人のひとりがかっとなって声を荒らげる。

「こらぁ! 男子ぃ!」

 見れば、青白い顔色の衣緒が瞳を揺らして立ち尽くしている。男子たちは慌てて一斉に起立した。

「わ、悪ぃ、佐倉、ごめん」

「ったく、さくらんは繊細だかんな」

「も、いいよ、みっち……」

 衣緒が袖を引っ張ると、みっちは腕組みをして鼻を鳴らす。そして、「大丈夫」と言いたげに男子たちに微笑みかけると、彼らはほっとした様子で席に着いた。一連の騒動に、緋紗人は腰を屈めて窓枠に寄り掛かると感慨深げに呟いた。

「佐倉ちゃんは愛されてんなぁ」

 その言葉に雄輔が思わず振り返る。彼の眼差しを知ってか知らずか、緋紗人は目を細めて言い添えた。

「……それも性なのかな」


 その日の授業が終わり、掃除の時間になると昼間の出来事が再び話題となった。

「やっぱりさぁ、あいつ怪しいよ。尾咲緋紗人」

「ほんとほんと」

 友人たちの指摘に衣緒は戸惑いながら尋ねる。

「何が怪しいの?」

「あいつ絶対さくらんのことが好きだって」

 みっちが苦虫を噛み潰したような表情でぼやき、衣緒は何と答えていいのかわからず黙り込んだ。

「さくらんは里村くんといい感じなんだから、邪魔しないでほしいわー」

「そ、そんなこと……」

 おろおろしながら呟く衣緒に、別の友人も心配そうに声をひそめる。

「でもさ、里村くんが焼き餅焼いたりするんじゃないの? それが心配だよ」

「そうそう、里村くんって基本穏やかな子だけどさ、内心イライラしてるかもよ」

 友人たちの言葉に衣緒はすっかり萎縮した様子で黙り込む。しばらく頭の中で言葉を選んでからおずおずと口を開く。

「でも、あのふたりは仲がいいんだよ。図書室で好きな本談義でいつも盛り上がってるし」

「いつか均衡が破れるな」

 みっちがモップの柄にもたれながら囁き、皆が意味深に頷く。衣緒は胸の中が不安の雲で覆われていくのを感じて口を閉ざした。

 そのうち掃除の時間が終わりに近づき、トイレで手を洗ってから教室へ帰ろうとしていると。

「佐倉ちゃん!」

 聞き覚えのある呼びかけ。振り返ると、重たそうな段ボール箱を抱えた緋紗人が歩み寄ってくる。

「良かった! ちょっと聞きたいことが」

 そう言って箱を床に置いてからふぅと息をつく。

「これ、印刷室に持ってけって言われたんだけどさ。職員室の隣って聞いたのに行っても見当たらなくて」

 つい先ほどまで友人たちから批判の対象になっていた緋紗人が現れたことに少し緊張しながら、衣緒はまだ学校に慣れきっていない転校生に教えてやった。

「印刷室があるのは南校舎だよ。裏の渡り廊下でつながってるから」

「南校舎?」

「あそこの――」

 そう言って窓から見える校舎を指差した時。緋紗人は衣緒の細い手首をいきなり掴むと自らの目の前に引き寄せた。

「えっ――」

 突然のことに体を硬直させる衣緒。緋紗人は黙ったまま掴んだ手をしげしげと見つめた。そして、衣緒の指と指の間をこじ開けるようにして広げ、衣緒はぞくっと背筋が粟立った。金縛りから解かれたように手を振り払う。が、その瞬間、緋紗人の瞳の瞳孔がきゅっと縦に尖る。初めて出会ったあの時のように。衣緒が思わず後ずさった時。

「佐倉ちゃん、指細いな!」

 緋紗人はそう言って笑いかけると、何事もなかったように段ボール箱を持ち上げる。

「サンクス! 南校舎だね!」

 赤毛の少年は爽やかに礼を言うと背を向けた。衣緒は張り裂けそうな胸を押さえ、ごくりと唾を呑み込んだ。どういうことだ。何をしたかったのだ、彼は。衣緒は震える指先を見つめた。そして、不意にぎくりとする。緋紗人は指と指の間を広げようとしていた。

(……どうして……!)

 衣緒は、真っ青な顔立ちで廊下の先を見つめた。


 翌朝の熊谷駅前。里村雄輔は思い詰めた表情で自転車に跨っていた。ハンドルにもたれかかり、足でゆっくり地面を蹴りながらだらだらと進む。その頭の中は、昨日見かけた光景で埋め尽くされていた。

 人気のない廊下で、緋紗人が衣緒の手首を掴んでいた。彼女はしばらく固まっていたが、やがて戸惑ったように振り払っていた。実は、あの光景を偶然雄輔は目撃してしまったのである。予想外の出来事に遭遇し、その後どちらにも話しかけることができなかったが、あの光景は忘れようとしても忘れることなどできない。

 そもそも、衣緒は普段から緋紗人が少し苦手そうな雰囲気を醸し出していた。そして、手を振り払ったということは、少なくとも触れられたことが嫌だったのだろう。そこで、夏休みに動物園でデートした時のことを思い出す。人混みがひどく、パンダが見えないという衣緒のために、脇に手をかけて抱きかかえた。その帰りにも、人波に流されそうになった衣緒の肩を掴んで引き寄せた。そのどちらも、彼女は嫌がることはなかった。きっと、自分は嫌われてはいないだろう。嫌っていれば、わざわざ夏休みにふたりきりで会おうなどとは思わない。雄輔は必死に自分に言い聞かせた。

 だが、雄輔には別の心配事があった。雄輔自身は緋紗人に好意を持っていることだ。最初こそ変な転校生だと思ったが、今ではそれぞれの読書観を語り合える貴重な友人だ。だからこそ、衣緒が緋紗人を苦手でいることを少し寂しく感じる。

 だけど、と雄輔は思い直した。もしも緋紗人が衣緒を好きだと言い出すなら、話は別だ。思わず真顔でそう結論づける雄輔だったが、不意に背後から聞き覚えのある呼び声に顔を上げる。

「……里村くん……! 里村くん……!」

 慌てて後ろを振り返る。と、鞄を両手で抱えながら息せき切って駆け寄ってくる衣緒の姿が目に飛び込む。艶やかな黒髪を揺らし、上気した顔で懸命に走ってくる姿に、雄輔は胸を締め付けられるような思いで言葉をなくした。

「ひどいよ……! いつもは改札で待ってくれてるのに……!」

 かすれた声で咎められ、雄輔は狼狽えた表情で見つめ返す。と、自分の放った言葉に今更気付いたのか、衣緒はぽっと顔を赤らめると目を伏せる。

「ご、ごめん……」

「あ、謝ることねぇよ」

 雄輔もぎこちなく答える。衣緒は恐る恐る上目遣いに見上げると小さく囁いた。

「……一緒に、登校してもいい?」

 瞬間、雄輔の表情に微笑が広がる。

「当たり前じゃん! ごめんごめん、ちょっと考え事してて、駅通り過ぎちった」

 衣緒も安心したように表情をほぐし、にっこりと笑う。やっぱり、彼女は笑顔が一番だ。雄輔は胸が高鳴るのを感じながらサドルから降りた。

「考え事って?」

「いや、まぁ、色々と」

「プロミラ?」

「プロミラ……? ああ、ミラプロか! へへ、今クラスの中じゃ俺が首位だからな」

 ぎこちない空気から一転、ふたりはいつもと変わらない穏やかな表情で肩を並べた。他愛のない話題で笑い合ううち、学校に到着する。生徒玄関で靴を履き替えようとした時だった。

「よっ! ご両人!」

 突然雄輔は背中を勢いよく叩かれる。見ると、相変わらずやけに清々しい笑顔の赤毛。

「いつも仲がいいなぁ、君ら」

「別にいいだろが」

 開き直った雄輔がふてぶてしく返すと、緋紗人は満足したように何度も頷く。何も考えてなさそうな晴れやかな笑顔。その笑顔を眺めていると、雄輔はあれこれと思い悩むのが馬鹿馬鹿しくなってきた。衣緒の方は相変わらず少し警戒心を込めた表情で黙り込んでいる。

「雄輔、今日は当番だろ?」

「ああ」

「じゃ、図書室で集合な!」

 そう言うと緋紗人は手を振って踵を返した。

「あいつ……、いつ見ても無意味に爽やかだよな」

 その言葉にぷっと吹き出す衣緒に雄輔は思わず笑いながら畳みかける。

「だってさ、そうじゃねぇ? なんでいつもあんなにキラキラしてんだ、あいつ」

「そこが尾咲くんの持ち味なんでしょ」

「そうかねぇ」

 苦笑しながら上履きに履き替え、ふと手を止めて衣緒を振り返る。

「佐倉も……、今日図書室来る?」

 どこか心配そうな表情で聞いてくる雄輔に衣緒は首を傾げた。

「里村くん当番なんでしょ? 行くよ」

 その言葉に雄輔はほっと胸を撫で下ろした。


 その頃、草平は研究室で学生たちの課題に目を通していた。プリントアウトされた原稿を一枚一枚丁寧に読んでいく。が、少し読むたびにデスク上のスマートフォンを見やる。何度かに一度は画面に触れて受信がないか確かめなければ気が済まない自分に、草平は溜息をついた。美術館で目にした藤木の思い詰めた表情が頭から離れないのだ。気になって仕方がないが、こちらから何度も様子を尋ねることも憚られる。そのうち、向こうから連絡をくれるだろう。そう言い聞かせると頭を切り替えた、ちょうどその時。スマートフォンが突然震える。草平は弾かれるようにして顔を上げた。


 その日の放課後。図書室には予定通り雄輔、衣緒、緋紗人の三人が集合した。貸し出しカウンター近くの机に陣取った緋紗人がカウンター内の雄輔に尋ねる。

「雄輔、ポール・ドハティ読んだことある?」

 一冊の文庫本を手にした緋紗人に、雄輔が首を巡らして衣緒を見やる。

「歴史ミステリだろ? 佐倉が読んでたな」

 自分の名前に、本を読み耽っていた衣緒が顔を上げる。

「佐倉ちゃん、ドハティ読んだ?」

「うん」

 衣緒は読んでいた本を閉じる。

「面白いけど、本格ミステリって感じじゃないね。歴史の描写を楽しむ感じ」

「なるほどね……」

 雄輔がカウンター越しに身を乗り出すと衣緒が手にしている本を指差す。

「佐倉、それ何」

「朔太郎」

 そう言って背表紙を見せる。

「父さんが朔太郎好きって言ってたから」

「へぇ! で、どう。中也に比べたら」

 衣緒は唇を引き結んで「うーん」と唸る。

「もっと、病的な感じ」

「例えば?」

「例えば……」

 雄輔の求めに応じ、ページをめくる。

「ばくてりやの足、ばくてりやの口、ばくてりやの耳、ばくてりやの鼻」

「……はい?」

 雄輔が口をあんぐりとさせ、その顔を見た緋紗人が吹き出す。

「『ばくてりやの世界』っていう詩」

「やばいな、朔太郎……」

「父さんが好きなのは、これだって」

 目次を開き、目指す詩を探し出す。


まつくろけの猫が二疋、

なやましいよるの家根のうへで、

ぴんとたてた尻尾のさきから、

糸のやうなみかづき(﹅﹅﹅﹅)がかすんでゐる。

『おわあ、こんばんは』

『おわあ、こんばんは』

『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』

『おわああ、ここの家の主人は病気です』

(月に吠える/猫)


「……おわあ」

 真顔で呟く雄輔にいちいち緋紗人が腹を抱えて笑う。衣緒は苦笑を浮かべながら本を閉じた。

「シュールな感じが好きなんだってさ」

「シュール過ぎるだろ……」

 戸惑いを隠せない様子でぼやく雄輔を横目に、緋紗人が腕組みをして鼻を鳴らす。

「ふーん。佐倉ちゃんのお父さんも文学好きなのか」

「文学好きどころじゃねぇ。佐倉のお父さんはな――」

 と、そこで衣緒の手許にあったスマートフォンが震える。画面をタップし、文面を目にした衣緒は思わず「えっ?」と声を上げる。

「……どうした?」

 雄輔が怪訝そうに尋ねるが、衣緒は青白い顔で画面を凝視したまま答えない。彼女は画面を食い入るように見つめると何度も文面を読み返した。が、やがて困惑しきった表情で「どうして」と呟く。ただ事ではない様子に雄輔と緋紗人が顔を見合わせ、黙って衣緒を見守る。やがて、彼らの視線に気付いた衣緒がはっとして顔を上げる。

「あ……、ご、ごめんね……」

「何かあったのか」

 問われて衣緒は眉根を寄せ、目を伏せた。

「……父さんが、知り合いと晩ご飯食べに行くことになったって……」

 男ふたりはきょとんとして少女を見つめた。が、明らかに動揺を隠せない様子の衣緒に雄輔は身を屈めて囁いた。

「よくあるのか?」

「ううん、こんなの初めて。今まで、こんなこと……」

 落ち着かない様子でまくし立て、やがて長い溜息を吐き出す。

「晩飯は?」

 雄輔の問いに、スマートフォンの画面をもう一度見やる。

「近所によく行く中華料理屋さんがあるんだけど、そこで何かお持ち帰りしなさいって」

 そして、肩を落として呟く。

「……ひとりで、食べなきゃ……」

 寂しさと困惑の混じる声色に雄輔は心配そうに見守っていたが、やがて勢いよく立ち上がる。

「じゃ、一緒に食おうぜ」

「えっ」

「佐倉ちゃん家で?」

「馬鹿たれ!」

 緋紗人のボケに雄輔が苦みばしった顔付きで返す。

「駅前のファーマーズ・バーガー行かねぇか。あそこのチキン照り焼きめっちゃ美味いんだ。良かったらそこ行こうぜ」

 雄輔の提案に衣緒は戸惑った表情で見上げる。

「で、でも……、こんな時間に食べて大丈夫?お家のご飯が……」

「大丈夫だって! 食える食える!」

「そうそう。俺も大丈夫」

 便乗してくる緋紗人に雄輔が真顔で振り返る。

「――おまえも来るのか」

 すると、珍しく緋紗人はふてくされたように唇を尖らした。

「いいじゃないか。俺もたまには誰かと晩ご飯食べたいよ」

 彼もまた父子家庭だということを思い出した衣緒が身を乗り出す。

「お父さん、夜遅いの?」

「親父、バーやってるんだ。だから完全に擦れ違い生活だよ」

「大変だな」

 雄輔も驚いて目を見開く。

「運が良かったら、朝ご飯を一緒に食べられるかな? 晩ご飯はもう何年も家で一緒に食べてないよ。店ではたまに一緒に食べるけどね」

 父は出来うる限り食卓を一緒に囲むよう努力する。だが、緋紗人の父のようにそれができない場合もある。そう考えれば、自分は恵まれている。だが、それでもまだ落ち込んでいると、雄輔がなだめるようにして声をかけてくる。

「俺たちで良ければ付き合うぜ。ひとりで食べるよりはいいだろ」

「……うん、ごめんね、ありがとう」

「ゴチになります!」

「寝言は寝て言えよな」

 調子のいいことばかり言ってくる緋紗人を軽くあしらい、雄輔は鞄を肩にかけた。

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