第2部-夕闇の影-第3話
結局、衣緒と雄輔、そして緋紗人は交流を深め、一緒に過ごすようになっていった。特に、雄輔が友人グループに引き込んだおかげで緋紗人は学校に馴染むことができ、自分のクラスにも友人ができたらしい。衣緒たちはあれからも図書室で落ち合っては好きな作家の話で盛り上がり、緋紗人が言うところの「高校生らしい生活」を楽しんでいた。だが、緋紗人は緋紗人で気を遣うのか、衣緒と雄輔より先に下校することが多い。それでも、話が盛り上がった時などは今でも三人で一緒に帰ることもあった。
「へぇ、転校生」
ある日の夕飯の席で、衣緒は近況報告として初めて緋紗人の話を持ち出した。草平は、衣緒が学校での出来事を話してくれることに安心しながら耳を傾けた。
「うん。最初は変な人だなって思ったんだけど――、いや、今でも変な人なんだけど」
「そんなに変わってるのか」
「なんか……、ずれてると言うか。悪い人じゃないんだけど」
娘の口調から、どこか扱いに戸惑っているらしいことがわかる。雄輔の話をする時は明らかに信頼しきった表情で、実に楽しそうに語るのとは対照的だ。
「でも、里村くんとも仲がいいんだろう、その子」
「うん。この間一緒に神宮球場に野球観に行ったみたい。写真見せてもらったけど、お揃いでツバメのTシャツ着てた」
「へぇ、里村くんスワローズファンか」
「尾咲くんは元々サッカー好きなんだけど、里村くんが野球やってたから野球に興味を持ったとかで」
そこまで話して衣緒は箸を止め、不思議そうに首を傾げる。
「あのふたり……、全然違うタイプなのに、妙に馬が合うみたい」
腑に落ちないといった表情でそう呟く娘に、草平はぷっと吹き出す。
「なに」
「おまえ、妬いてるのか」
思いもしなかった言葉を言われ、衣緒は慌てて茶碗をテーブルに置く。
「なんで私が尾咲くんに焼き餅焼かなきゃいけないのよ……!」
「里村くん取られそうで焦ってるんじゃないのか。せっかくふたりで仲良くなってたのに」
「ち、違うもん……!」
よほど困惑したのか、どもりながら顔を横に振る。
「別に私たち、そんなんじゃ……」
必死で否定する娘に、草平は嬉しそうに笑う。
「じゃあ、安心してデートのお誘いができるな」
「え?」
まだ戸惑ったまま聞き返す衣緒に、草平がカレンダーを指差す。
「レンブラント始まっただろう。日曜日、観に行こう」
一瞬目を丸くした衣緒だったが、すぐにその顔が喜色に満ちる。思えば、父と出かけるのは久しぶりだ。だが、衣緒は思い出したように無表情を装うとそっぽを向いて答えた。
「いいよ。一緒に行ってあげる」
「それはどうも」
一瞬喜んだ表情を見逃さなかった草平は、かしこまって頭を下げてみせる。そして、人知れずほっと胸を撫で下ろした。
日曜日、衣緒と草平は連れ立って上野へ出かけた。「行ってあげる」と居丈高な態度だったにも関わらず、衣緒は朝から機嫌が良かった。休日は早起きをするのが苦手な彼女だが、すぐに目覚め、父親の手を引っ張る勢いで家を出てきたのだ。そしてもちろん、そんな娘に草平は内心嬉しくて仕方がなかった。
朝早く出たおかげで十時には上野駅に到着できたが、改札を出た乗客が皆一斉に美術館方面に向かう様子に衣緒が舌を巻く。
「すごい人!」
「レンブラントだからな。でも、里村くんと行った動物園もこれぐらい多かったんじゃないのか? 夏休みの終わりごろだったから」
「うん――、まぁね」
雄輔の名前が出るたびにぎこちなくなる衣緒をちらりと見やり、思わず微笑む。
「なに?」
「いや」
草平は微笑を浮かべたまま娘の服を指差す。
「なんか、里村くんのデート並に気合いが入った服装で父さん嬉しいよ」
言われて衣緒は目を丸くして立ち止まる。
「だってそのニットお気に入りだろ? それから、スカート。あまり見たことがないから最近買ったばかりじゃないのか?」
父親の指摘に一瞬ぽかんとした様子の衣緒だったが、すぐに満足そうに頬をゆるめると草平の腕に抱き着く。
「お、おいおい」
「そうだよ、今日のコーディネートはばっちり考えてきたんだから」
嬉しそうに頬ずりでもしそうな勢いで密着してくる衣緒に、草平は戸惑いながらもされるがままに引っ張られてゆく。
「やっぱり、今日一緒に来てよかった」
そう言って嬉しそうに笑う娘に、草平も来て良かったと心から安堵した。福井から帰って以来の笑顔ではないだろうか。
「……学校、楽しそうで良かったよ」
やや抑えた口調で呟くと、衣緒は少し間を置いて頷く。
「うん」
「変わった転校生は大丈夫?」
「うん。変わってるけど。しょうがない」
「しょうがないか」
苦笑しながら呟くが、ふと真顔になると耳許に口を寄せる。
「……体は、大丈夫か?」
一瞬、衣緒の表情が強張る。草平は眉をひそめたが、衣緒は視線を逸らすと「うん」と返す。
「別に。大丈夫だよ」
父の心配がただの体調ではないことぐらい、衣緒にもわかっているのだろう。だが、何をすれば体に異変が起こるのかもわからない状態だ。衣緒は毎日異変に怯えながら暮らしている。だが、草平も同じぐらい不安と恐怖を共有しているのだ。同じ痛みを分かち合うことしか、自分はできない。痛ましげに目を眇めた時。
「父さん」
目を上げると、娘は大きな目を瞠って見上げてきた。黒目がちの、吸い込まれそうな瞳。
「……大丈夫だよ、きっと」
大丈夫。何の根拠も裏付けもない言葉。だが、衣緒の気持ちを後押ししなければ。そう言い聞かせながら腕を抱く衣緒の頭を撫でた、その時だった。
「ちょっと失礼します」
背後から呼びかけられ、ふたりは同時に振り返る。そこにいたのは、あろうことか警官だった。
「え、自分ですか」
思いもしない相手に草平は眉をひそめながら問いかけ、衣緒は抱いていた父の腕を慌てて離す。が、後から思えばそれがいけなかった。草平よりももう少し若い年代の警官は愛想笑いを浮かべながら、だが探るような目つきで軽く頭を下げる。
「お手数ですが、身分を確認できるものを拝見できますか」
身分証。ふたりはますます顔をしかめた。状況がよくわかっていない彼らのために、警官は申し訳なさそうな顔つきで言葉を続けた。
「おふたり、どういった関係ですか」
「えっ」
草平が声を上げ、衣緒は一瞬遅れて身を乗り出す。
「ちょっと――! どういうことですか!」
娘の叫びに、草平はかえって冷静さを取り戻した。折しも場所は上野駅近く。動物園や美術館が集まる観光地の中心部だ。行き交う人々の数人が騒ぎに気付き、振り返りながら通り過ぎてゆく。
「親子以外の何に見えるっていうんですか!」
猶も警官に噛みつく娘を下がらせ、草平はジャケットの内ポケットから免許証を取り出す。
「衣緒、生徒手帳」
言われて衣緒は顔を怒りで真っ赤にさせながら黙ってパスケースから生徒手帳を取り出す。
「ほら!」
目の前に手帳を突き出された警官は、草平が差し出した免許証と照らし合わせた。佐倉衣緒と佐倉草平。警官は頷くと手帳と免許証を返し、帽子を取って頭を下げた。
「確認できました。ご協力ありがとうございます」
「確認って何」
衣緒の声が怒りで震えている。
「協力も何も――、ひどいよ……!」
「衣緒」
ともすれば泣き出しかねない娘の頭を撫でると、草平は息を吐いてから警官に向き直る。
「職務でしょうが、不愉快な思いをしました。協力の御礼ではなく、謝罪の言葉をいただきたい」
落ち着いた声色の草平に、警官は恐縮したように帽子を取ったままもう一度、今度は深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。今後は充分配慮してまいります」
警官が素直に謝罪してきたことに草平は満足し、衣緒の手を引いてその場を立ち去ろうとするが。
「そんなに、似てないですか」
まだ震えながら問い質す衣緒に、草平は顔をしかめる。
「そんなに、私たち、似てないですか」
「衣緒」
大きな瞳に涙を浮かべる少女に警官がわずかに動揺するのを見てとると、草平は頭を下げて衣緒の肩を掴んでその場から連れ出した。
「もういいよ、衣緒」
「よくない……!」
叫ぶようにして訴える衣緒だったが、草平は優しく頭を撫でてやった。
「ちょっとびっくりしたけど、あのお巡りさんは悪くないよ。ちゃんと謝ってくれたしね」
衣緒は手のひらで涙を拭う。
「でも、ひどいよ……!」
「ああ、わかった」
草平は娘のために努めて明るい調子で続けた。
「家では年頃の娘さんに嫌われてるんじゃないのか?」
その言葉に衣緒は思わず顔を上げる。草平はここぞとばかりにおどけた表情で肩をすくめてみせる。
「お父さん臭い! とか言われてるんだよ。可愛そうに」
衣緒が立ち止まる。そして、両手で口を覆って吹き出す。
「お父さん臭い!」
「きっと、俺たちが仲良くしてるのを見て羨ましくて仕方がなかったんだろう。許してやろうじゃないか」
「うん、わかった」
ようやく機嫌を直すと、衣緒は父の手を取って美術館へ足を向けた。が、少し低い声で言い添える。
「……びっくりした」
「そうだな」
草平も溜息をつきながら同意した。これから混雑した美術館でレンブラントを観ようというのに、今からこんなに疲れてしまった。
「疲れちゃったから、お昼は何か美味しいものを食べよう」
「うん、そうしよう」
衣緒はもう一度涙を拭った。
美術館は大盛況だった。展覧会が始まって最初の日曜日であり、元より国内で人気の高いレンブラントということもあって、美術館の外も中も多くの人でごった返している。
あらかじめ前売り券を買っておいた草平親子は、割と早く入場することはできたが、それでもゆっくり作品を観るには人が多すぎた。
「ちゃんと見えてるか」
「うん」
時々声をかけながら、草平はゆっくり展示室を観て回った。
「やっぱりいいね。あの、光の加減」
「写真みたい」
蝋燭の光が投げかけられた人物を活写した構図。鋭い眼光、刻まれた皺の陰、緊迫感あふれる一瞬を切り取った一枚に、親子は圧倒された。
「レンブラントってどこの人だっけ?」
「オランダだよ」
レンブラントの回顧展としては久々に催された大規模なものであり、作品数はかなりの数に上った。
「人が多すぎてよく観れないね……」
少し不満げに呟く衣緒に草平も残念そうに頷く。
「そうだな」
「……父さんと美術館来るの久しぶりだから、いいけどさ」
その言葉に思わず振り返ると、草平は微笑を浮かべて娘の手を握る。
「また職務質問されちゃうよ」
「されたっていいよ」
ふふ、と衣緒は笑うとぎゅっと手を握り返す。ようやく最後の展示室を観終えると、グッズ売り場に出る。
「図録買って帰ろうか」
「うん」
言いながらグッズを眺めていた衣緒があっと声を上げてブースの一角に駆け寄る。
「このブックカバーいいな!」
そのテーブルには、いくつかのレンブラント作品をモチーフにしたブックカバーが並んでいた。
「どれがいい。ひとつだけ買ってあげるよ」
「本当?」
嬉しそうな声を上げてブックカバーを選ぶ衣緒を優しく見守る。そして、一緒に図録も買おうと会場を見渡した時。
草平ははっと立ち止った。人混みの中で、見覚えのある人影を瞳が捕えたのだ。目を眇めて人影を探す。ああ、やっぱり。
「ねぇ父さん、これにする」
そう呼びかけてくる衣緒の声は耳に入らなかった。草平は人混みの先にいる人物に向かって歩み寄る。行き交う人を避けながら進み、その肩を叩く。振り返った女性はあっと驚きの声を上げた。
「佐倉先生!」
「やっぱり」
その顔を目にした途端、草平に笑みがこぼれる。藤木はいかにも仕事帰りといったスーツ姿で、図録や画集を手にしていた。
「藤木先生も観にいらっしゃっていたんですね」
「ええ、出版社で打ち合わせがあって、その帰りに」
そして、思い出したように藤木は慌てて頭を下げた。
「先日は……、ご心配おかけしまして……」
「ああ」
藤木の身を案じるメールを送った後、ご心配をおかけして申し訳ない、機会があればご相談させてくださいとだけ返信があった。その文面から、実は無理をしているんじゃないかと草平は訝しんでいた。
「大丈夫ですか。あまり無理をしてはいけない」
藤木はその言葉にこみ上げてくるものがあったのか、唇をぎゅっと引き結んで見上げてきた。その表情は幼い頃の衣緒を思い出させ、草平はぎくりとして息を呑んだ。
「……藤木先生」
恐る恐る呼びかけると、彼女は一度目を伏せてから息を吐き出し、思い切った様子で一歩前へ進み出た。
「先生、今日は、おひとりですか」
「いや、娘と一緒に――」
と言ってから草平はあっと声を上げて後ろを振り返った。慌ててその場を見渡すと、少し離れた場所で立ち尽くしている衣緒の姿を見つける。ブックカバーを手にしたまま、不安そうに大きな瞳を揺らしている娘に、草平は足早に駆け寄る。
「衣緒、ごめん。藤木先生を見かけて……」
藤木という名にますます目を瞠り、衣緒は眼差しを彷徨わせて藤木を探す。
「紹介するよ」
そう言って手を引く。藤木は、草平が連れてきた少女にぱっと明るい表情を見せた。
「あら」
「娘の衣緒です。衣緒、父さんがお世話になってる藤木先生」
衣緒はじっと藤木を見つめてから、ぺこりと頭を下げる。
「……佐倉衣緒です」
「初めまして」
藤木は笑顔で頭を下げた。
「私の方こそ、お父様には本当にお世話になっています。横浜開化大学の藤木小枝です」
そして、嬉しそうに目を細めると言い添える。
「お会いしたかったんですよ。衣緒さんってお名前、本当に素敵だから」
その言葉に、衣緒の目の色が少し変わったことに草平は気付いた。
「でも、親子で美術館デートだなんて素敵ですね。羨ましいですわ」
先ほどの辛そうな表情から一転、明るく振る舞う藤木に少し心が痛んだ草平だったが、彼女の気遣いを無にするわけにもいかず、調子を合わせて表情をゆるめる。
「仲が良過ぎてあらぬ疑いをかけられたけどね」
途端に、例の出来事を思い出した衣緒が頬を膨らます。
「何かあったんです?」
不思議そうに問いかけてくる藤木に草平が衣緒の肩を叩く。
「仲良く歩いていると警察から職質されました。こんなこと初めてですよ」
「えぇっ……」
藤木は思わぬ言葉に口を手で覆う。両目を見開き、草平を凝視してから衣緒に眼差しを向ける。
「え、な、何でです。どういうことですか」
「何でですかねぇ。援助交際でも疑われたのかな」
「そんな……!」
悲鳴のような声。藤木はやり場のない怒りに少し取り乱したように顔を振る。
「ひどいです、あんまりですわ……! そんなことって……!」
「まぁまぁ」
あまりの怒りように草平が慌てて手を上げる。衣緒は、少しきょとんとした表情で藤木を見上げている。
「身分は証明できたし、ちゃんと謝罪もしてもらいました。大丈夫ですよ」
「謝って済む問題ではないですわ! ねぇ、衣緒さん」
振られた衣緒は慌てて居住まいを正し、無言で何度も頷く。
「私がその場にいたら弁護士に電話してましたわ」
「その方が良かったかな?」
草平は笑ってみせると衣緒の頭を撫でた。父の大きな手の温かさを感じながら、衣緒は黙りこくったまま目を伏せる。
「あ、デートのお邪魔をしてはいけませんね」
藤木は気を取り直したように明るい表情に戻ると、腰を屈めて衣緒に目線を合わせる。
「せっかくですもの、お父様とのデート、楽しんでくださいね」
「……はい」
「じゃあ、先生。私はこれで」
「あ、藤木先生」
慌てて身を乗り出して名を呼ぶ。
「何か、相談したいことがあるんでしょう」
藤木は少しだけ苦しげな笑顔を見せ、頭を下げる。
「……また、お時間がある時にお願いできますか」
「もちろんです」
その返事に安心したのか、藤木は「ありがとうございます」と囁いた。そして、にっこり笑って一礼するとショルダーバッグを肩にかけ直し、颯爽と踵を返した。
「……あれが藤木先生」
ぼそりと呟く娘に草平が振り返る。
「そうだよ。元気で、いい先生だろう」
黙って頷く衣緒。だが、不意に上目遣いに「お腹空いた」と言い放つ。
「ああ、そうだな。食べに行くか」
「あそこにしようよ、こないだ言ってた――」
草平が首を傾げると。
「ほら、藤木先生とデートしたっていうレストラン」
デートという言葉に草平はぎくりとして口許を歪める。
「デートじゃないよ。藤木先生が資料を貸してもらったお礼にって――」
「だから、そこがいい」
有無を言わさない言葉。草平は困り切った表情で立ち尽くした。
「でも……、そのお店、新宿だぞ。お腹空いただろう」
「大丈夫。我慢できる」
こうなってはもう駄目だ。衣緒はてこでも動かないだろう。草平は諦めると神妙に頷いた。
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