第2部-夕闇の影-第2話

 夏休みが終わり、新学期の初日。里村雄輔は寝癖がひどい頭でのそりとリビングに現れた。

「あれ、絶対寝坊すると思ってたのに」

 母、由紀が大袈裟に驚いてみせるが意に介さない。

「寝坊なんかしねぇよ……」

「あぁ、そっか!」

 由紀はしたり顔で手を打つ。

「佐倉ちゃんに会えるもんね! 楽しみねぇ」

「母さん……!」

 寝ぼけ眼が一気に冴える。朝刊を広げながらトーストをかじっていた父、広輔が口を挟む。

「佐倉ちゃんってあれか、上野デートしたっていう例の可愛い子か」

「そうそう、可愛い子よ。でも、ただ可愛いだけじゃなくて、しっかりした落ち着いた子って感じ。いい子だわ」

「ほぅ」

 広輔は興味を引いたのか、朝刊から目を上げる。

「そりゃ、いいとこのお嬢さんだな。ご両親が立派なんだろう」

 両親、という言葉に雄輔は眉をひそめた。これまで何の気なしに使ってきた言葉だが、今や穏やかではいられない。寝癖の髪を掻きむしると、ぼそりと呟く。

「あいつ、お母さんいないんだ」

 由紀が家事の手を止める。広輔も「そうなのか」と囁く。

「じゃあ、お父さんがしっかりなさってるのね」

「大学教授だってよ」

「あらま!」

 大仰に驚く母を放って、雄輔は洗面所へ向かう。さっぱりしてからリビングに戻ると、テーブルに朝食が用意されている。

「一人っ子なの?」

「うん」

「じゃあ、ふたりっきりじゃ寂しいでしょうねぇ」

 淹れ立てのコーヒーを父に手渡しながら言う母に、雄輔はトーストにかぶりついてから頷く。

「……うちん家のことよく聞いてくる。母さんってどういう人なのかとか、兄弟がいて羨ましいとか」

 兄弟という言葉に由紀があっと声を上げる。

「そういえば涼輔……! あいつはしっかり寝坊してるし……!」

 慌ててリビングを出て次男の部屋へ向かう妻を見送りながら広輔がコーヒーを啜る。

「その子、他に友達がいないのか」

「父さん!」

 父のあんまりな言葉に雄輔が目を剥いて声を上げるが、広輔は慌てて手を振る。

「ごめん、言い方が悪かったな。今まで、そういうことを聞ける友達がいなかったんじゃないかなって」

 雄輔はまだ少し憤然とした顔つきで父親を見つめる。

「今まで友達に聞きたくても、なかなか難しかったのかもな。おまえとは話がしやすいのかもしれん」

 顔をしかめて身を乗り出し、言葉を継ぐ。

「ほら、女同士の世界は色々複雑だっていうじゃないか。あれは年齢とし関係ないと思うぞ。プライドっていうか、弱みは見せられなかったのかもな」

「……よくわかんねぇけどさ」

「とにかく、その子が聞いてくるなら色々教えてやれよ」

 父の言葉に、雄輔は溜息まじりに「わかってるよ」と言い放った。


「時間、いいのか?」

 リビングのテーブルに突っ伏すように座り込み、テレビをぼんやり眺めていると父が声をかけてくる。

「……うん」

 だるそうに体を起こすと息をつく。

「……しんどいのか?」

「ううん」

 衣緒はきっぱりと返し、勢いをつけて立ち上がった。が、もう一度溜息をつく。

「衣緒」

 少し気まずそうに顔を上げると、草平はやや困惑気味に笑った。

「友達、学校で待ってるぞ」

「……うん」

 父の言葉に気を取り直したように微笑むと鞄を手にする。いつもの父なら、すぐに雄輔の名を出して茶化してくるだろうに。これ以上父に甘えられない。衣緒は覚悟を決めて玄関に向かった。

「気をつけてな」

「うん、父さんも」

 小さく手を振ると、草平は素直に嬉しそうな表情で手を振り返した。

「いってきます」

 玄関のドアが閉まる音を背に聞きながら、衣緒は再び沈んだ表情で最初の一歩を踏み出した。

 甘えてるんじゃない。これでは、八つ当たりではないか。衣緒は自らに腹立たしさを感じながら駅に向かう。人と同じ暮らしなどできないことは、最初からわかっていたことだ。それでも望んでいた、当たり前の日常。それが、少しずつ手のひらから零れ落ちてゆくのを見守ることしかできない。ただ、これだけは言える。あの晩、父があの浜辺に行かなければ自分はいなかった。雄輔とも、出会うことはなかったのだ。それでも、それ以上に恐怖があった。自分はいつまで――。

 と、不意に頭上から鋭い金切り声が上がり、飛び上がる。

「なに――」

 振り仰ぐと、電線に数羽のカラスが留まっている。鋭い嘴をかち合わせ、翼を羽ばたかせている。闇をも吸い込みそうな漆黒の瞳が自分に注がれていると思うと衣緒はぞっとして顔を伏せ、足早にその場を離れようとした。が、

「あっ!」

 後頭部に鋭い痛みが走り、その場にしゃがみ込む。と、翼の羽ばたきが耳に飛び込む。頭を覆い隠しながら振り返ると、二羽のカラスが頭上で羽ばたいている。

「やだ……!」

 カラスは嘴を大きく開けると威嚇するように鋭い鳴き声を上げる。衣緒は鞄を両手でつかむとカラスに向かって振るうが、それでもカラスたちは怯む気配がない。ギャアギャアと耳障りな声を上げながらなおも嘴で襲おうとしてくるカラスに体が竦んでいると。

「こらっ!」

 女性の怒鳴り声に振り返る。と、犬を連れた老婆が小走りにやってくる。連れられた柴犬がカラスに向かって吠えかかり、カラスはすぐさま飛び立った。衣緒は心の底からほっと溜息をついてその場に座り込んだ。

「いやぁねぇ、今日はどうしてこんなにカラスが集まってるんだか」

 老婆は空高く飛んでゆくカラスを見送りながら憎らしげにぼやく。見れば、この時間によく柴犬を散歩させている近所の老婆だ。

「大丈夫? 怪我はない?」

「はい……、ありがとうございます」

 よろめきながら立ち上がると礼を述べる。しかし、今度は老婆の傍らで四足を踏ん張った柴犬が衣緒に対して唸り声を上げ始めた。衣緒はぎょっとして後ずさる。

「こりゃ、おまえまで何してるの」

 リードを引いて飼い犬を下がらせると、老婆は自分の頭を指さした。

「気を付けるのよ。ちょっとでも痛みがあればお医者様に行くのよ」

「はい、ありがとうございます」

 衣緒は深々と頭を下げると、ちょっと柴犬に恐れの眼差しを投げかけてからその場を立ち去った。

 駅に向かう途中、相変わらず鬱蒼とした木立ちの隙間から薄暗い稲荷の祠が見える。苔むした黒い屋根の下。白い陶器でできた無数の狐がびっしりと並べられた祠。衣緒は背筋がうす寒くなるのを感じながら木立ちの脇を駆け抜けた。

 電車に乗り込んでから、窓ガラスに映る自分の顔色を確かめる。後頭部の髪が乱れているのに気付いて手櫛で整えるが、鈍い痛みに顔をしかめる。カラスに襲われるなど、初めての経験だった。犬や猫に追いかけられることは多かったが――。

 衣緒は、ごくりと唾を呑み込んだ。唇を引き結び、両目を大きく見開いた顔が窓に映し出される。そして、握りしめた右手を恐る恐る差し上げると、ゆっくりと指を広げる。……大丈夫。水掻きはない。だが、細い指はかくかくと震え、衣緒は目をぎゅっと閉じると顔を伏せた。

 考えたくなかった。獣が自分の本性を嗅ぎ付けているなど。これは偶然だ。ただの偶然に過ぎない……。電車の揺れに身を委ね、一刻も早くこの恐ろしい考えから解放されたかった。熊谷に着くまで、時間がやけに長く感じられた。

 ようやく電車は熊谷に到着し、衣緒は車両を飛び出すようにして降りると改札へ向かう。まだ暑さが残る街。それでも、今はこの現実にすがりたかった。足早に階段を降り、駅舎を出ようとした時。衣緒は思わずその場に立ち尽くした。駅舎をすぐ出たところで、見覚えのある少年が自転車に跨ったまま佇み、スマートフォンを操作している。

「……里村くん」

 思わず上擦った声で囁いたと同時に、本人がふと顔を上げる。そして、衣緒に気付くと嬉しそうに手を上げる。

「よお」

 相変わらず、人懐っこい穏やかな笑顔。いつだって優しく見守ってくれる笑顔。そう、父のように。衣緒はささくれ立った心が凪ぎ、後から押し寄せてくるせつなさに顔を歪めながら駆け寄った。

「里村くん!」

 笑顔で迎え入れた雄輔だったが、すぐに眉をひそめる。

「どしたよ、顔が真っ青だぞ」

 一瞬口をつぐみ、頭に手をやる。

「……電車に乗る前に、カラスに頭突かれて」

「本当かよ!」

 途端に大声を上げ、自転車に跨がったまま両手で衣緒の肩を掴むと引き寄せる。

「どこやられた」

 そう言いながら温かくて大きな手が髪をまさぐる。衣緒は言葉を失って顔を真っ赤に染めた。

「……てっぺん」

 辛うじてそれだけ囁く。雄輔の指が頭頂部をそうっと撫でる。

「……血が」

「えっ」

 雄輔はポケットに手を突っ込むとタオルハンカチを取り出し、頭にそっと当てがった。

「ハンカチ汚れちゃうよ……!」

 慌てる衣緒だったが、雄輔は気にせずそのままタオルハンカチをポケットに戻す。

「ちょっとだけ血が出てた。学校着いたら保健室行けよ」

「う、うん……」

 ぎこちなく返す衣緒に雄輔はふぅと息を吐くと、改めてクラスメートを眺めた。自分がまさぐったせいで艶やかな黒髪が乱れ、顔にかかったまま赤い顔で見上げてくる衣緒。雄輔はようやく自分がしたことに気付いた。

「あ……、ごめん……」

 狼狽えたように呟くと、慌てて髪を直してやる。衣緒は黙りこくって目を伏せた。胸の鼓動がやけに騒がしい。戸惑いや恥ずかしさ以上に、その優しさが単純に嬉しかった。

「い、行こっか」

「うん」

 雄輔は危なっかしい仕草で自転車のスタンドを上げた。

「……髪、さらさらだな」

 ぼそりと呟かれ、衣緒も小さく「ありがとう」と囁き返す。と、

「あっ、髪と言えば」

 唐突に雄輔はそう言って自転車のサドルを叩く。

「さっき山田からメールが来てさ」

 山田はクラスメートの男子で、雄輔と仲が良い。

「E組に転校生が入ったんだと」

「転校生?」

 首を傾げながら聞き返す。

「正しくは編入生、か。編入生ってだけでも目立つのに、髪の毛が真っ赤らしいぜ」

 赤い髪。衣緒は目を丸くした。

「でも先生が何も言わねえから地毛なんだろな。どんな奴だろな」

「そうだね」

 その後雄輔は、赤毛といえばプロ野球に赤毛の外国人選手がいて髭まで赤いんだとか、そういった話で場を盛り上げた。楽しそうに野球の話をする彼の表情を見上げ、衣緒はようやくいつもの日常に帰れたことを実感しつつ、学校へ向かった。

 学校へ到着すると、言われたとおりに保健室へ向かい、消毒を施してもらう。クラスメートたちとも再会し、始業式も無事に終えた。友人のひとりは噂の転校生を見かけたらしく、少し興奮気味に語った。

「見た見た。けっこうかっこいい子。あれは目立つわ。でもちょっと近寄りがたいというか……、独特な雰囲気があったわ」

「髪が赤いから?」

「それもあるかな」

 友人の言葉に耳を傾けていると。

「佐倉、今日図書室行く?」

 呼びかけてきた雄輔に衣緒が振り返ると、友人たちは皆一様に嬉しげな表情で見守る。

「うん。里村くんは?」

「俺当番でさ、今日は夏休み明けで本の返却が多いらしいんだ。先行っとくな」

「うん、また後でね」

 手を振って見送り、視線を戻した途端。

「なになになーに! 前よりもっと仲良くなってるじゃん!」

 待ってましたと言わんばかりに突っ込まれ、衣緒は今更ながら慌てた。

「べ、別にそんなことないよ」

「さては夏休みの間に会ってたね?」

 嘘をつけない衣緒は答える代りに顔を真っ赤にさせ、友人たちは一斉に吹き出す。

「正直だなぁ、さくらんは! 可愛い!」

「で、でも、たいしたことは……」

「いいのいいの! さくらんが楽しく過ごせたならそれが一番!」

 何はともあれ、皆が祝福してくれていることはわかった。衣緒は居心地悪そうに皆の表情を見守りながら息をついた。


 その頃、自分がそんな噂をされているとは知らず、雄輔は図書委員の仕事に精を出していた。整理整頓は苦手な彼だが、本の返却作業は実は嫌いではない。無作為に集められた本を元の書架に収める。その過程で今まで知ることのなかった本を目にする機会が増えるのだ。おかげで、この広く深い書物の海で多くの出会いがあった。衣緒に中原中也の詩集をすすめたのも、この作業中に出合った作品だ。

 雄輔は数冊の本を抱えて書棚の森を分け入った。三か月もの間ほぼ毎日のように入り浸っていれば、どこがどのジャンルかぐらいはわかる。広い図書室は静けさに包まれていた。時々生徒らの話し声が聞こえるが、皆概ね静かに過ごしている。心地よい知的な静寂に身を委ねながら手際よく本を棚に戻していく最中、容赦なく照り付けてくる西日に目を眇めた。手を休め、息をつきながら顔を上げると。

 図書室の奥は窓に面しており、折からの西日でオレンジの光に溢れていた。そのオレンジに染まった空間に、作り物の人形のような少年が佇んでいた。雄輔と同じく長身だが、線の細さが際立っている。そして何より、西日を受けたその頭髪。映画のワンシーンで見かけたような、輝く金髪。整った顔立ちがその金髪と相まって浮世離れした空気を醸し出している。思わずじっと見つめていると、やがて相手がこちらに気付いた。少年は一瞬眉をひそめると、雄輔の脇を通り過ぎていく。すれ違いざま、手にしている文庫本が目に入る。見覚えのあるタイトルに、雄輔は少年を追うように振り返った。その時、高い本棚に陽の光が遮られ、少年の本来の髪色が知れた。赤毛。雄輔は得心したように微笑を浮かべる。

「おい」

 呼びかけると少年は立ち止まり、少し迷惑そうに振り返った。その瞳にはどこか不審の色も見える。

「エラリー・クイーン好きなのか?」

 言われて思わず手許の本に目をやる。

「感謝しろよ、俺が図書室に入れたんだ」

 その言葉に対する少年の反応は意外なものだった。彼は強張った表情から一転、にっと笑ってみせた。

「全作品が揃ってるなんてセンスがいい図書室だと思ったけど、君が入れたのか」

 ハスキーな声。少し気取ったしゃべり方だが、彼の容姿と相まって妙にしっくりくる。

「おう。図書委員の特権さ」

「じゃあ、クリスティのポアロシリーズが揃ってるのも君の仕業?」

「いや――、あれは俺じゃねぇ」

 雄輔は言葉を濁しながらも歩み寄った。

「おまえ、E組の転校生だろ。貸出カード作ってやるよ」

「うん」

 素直についてくる転校生に雄輔がカウンターまで誘導する。

「生徒手帳貸してみ」

 手渡された生徒手帳を覗き込み、雄輔は目を丸くした。

「これ……、オザキヒサトって読むのか?」

「そう」

「めっちゃかっこいいじゃん。ペンネームみたいだ」

「サンクス」

 尾咲緋紗人はそう言って不敵な笑みを浮かべてみせた。

「緋紗人の緋って、赤のことだろ」

「ああ。うちの家系、男は赤毛の確率が高いんだ。だから、親父の名前なんてまんま『赤人あかひと』だぜ」

「まんますぎねぇか」

 真面目くさった表情で返す雄輔に緋紗人は笑い声を上げた。腹の底から笑っている様子に、最初は近寄りがたい印象を抱いた雄輔はどこか拍子抜けしたようにほっと息をついた。頭髪の色も真っ赤ではなく、艶のある赤みの強い栗毛といった雰囲気だ。少し変わった髪をしただけの少年。それも、端正な顔立ちをした。

「ほれ、貸出カード。ご利用お待ちしております」

 あまり綺麗とは言えない字で名前を書かれたカードを手渡され、緋紗人は身を乗り出してカウンターに肘を突いた。

「君は? 名前なんていうの」

「俺は里村」

 そう言いながら図書委員日誌の当番欄を指差す。

「C組の里村雄輔」

 緋紗人はどこか満足した様子で「雄輔か」と呟く。

「男らしい名前だな」

「サンキュー」

 と、その時。転校生の肩越しに見慣れた顔を見つけた雄輔は表情をゆるめて体を乗り出した。そして、緋紗人の肩を叩く。

「あいつだよ。あいつに言われてポアロシリーズ入れたんだ」

 言われて背後を振り返った緋紗人は、両目を大きく見開いた。

 市松人形のように艶やかな黒髪の少女。病的に近いまでの白い肌。ほっそりとした儚げな容姿に似つかわぬ強い光を湛えた瞳。衣緒は、突然目の前に現れた赤毛の少年に困惑の表情を浮かべて立ち尽くしていた。そして、自分を真っ直ぐに見据えてくる眼差しに、思わず体を強張らせる。敵意とは違う、何かを感じた。その何かを測りかねているうち。

 衣緒はびくりと体を跳ねらせた。少年の瞳。大きな瞳の中心、瞳孔がきゅうっと縦に狭まる。そう、まるで、獣のよう――。

 が、瞬間、緋紗人は目を伏せ、衣緒は呪縛から放たれたように溜め込んだ息を吐き出した。そして、

「可愛い子じゃん、雄輔の彼女?」

「はっ?」

 陽気に尋ねられ、雄輔は顔を赤くして椅子を蹴倒す。衣緒も見る見るうちに頬を朱に染める。

「さ、佐倉はクラスメートだよ……!」

「さくらちゃん? ファーストネームで呼び合う仲なの?」

 面白がるように畳みかける少年に我慢ならず、衣緒は制服のポケットから生徒手帳を取り出して見せる。

「佐倉は苗字だよ」

 長身の緋紗人が腰を屈めて生徒手帳を食い入るように覗き込み、「さくら、いお」と名を呟く。が、衣緒は手帳をさっと仕舞うと、見知らぬ少年から逃れるようにして雄輔の隣に駆け寄る。

「誰、この人……」

「あー、例の転校生だよ」

 言われて相手を振り仰ぐ。なるほど、噂の赤毛。だが、それでも衣緒は警戒心をあらわに赤毛の少年を見つめる。しかし、緋紗人の方は意に介さぬように無邪気に笑いかけてくる。

「E組に編入してきた尾咲緋紗人です。どうぞよろしく」

 そして、ちらりと雄輔に視線を投げる。

「彼女がクリスティ揃えたんだ」

「……そう。リクエストでな」

 緋紗人はいわゆる甘いマスクと形容される少年だろう。そんな顔立ちで調子の良い喋りをされれば、衣緒のようなおとなしい女子は警戒するだろう。雄輔はやれやれと溜息をついた。だが、当の本人はどう思われようが飽くまで自分のペースを貫くようだった。

「熊谷に来るまではどんな街なのか、どんな学校なのかわからなくて不安だったけど、ふたりのおかげでまず居心地のいい図書室を見つけられたよ」

 嬉しそうに室内を見渡す緋紗人。そう言われれば雄輔も悪い気はしない。

「引っ越してきたのか」

「うん、東京からね」

 雄輔が会話を続けようとした時、チャイムが静かに響く。衣緒は無意識に腕時計を一瞥した。

「……帰る時間か」

 緋紗人の言葉の響きにどこか寂寥としたものを感じた雄輔は、隣の衣緒を振り返った。

「……佐倉」

 なに? と首を傾げて見上げてくる衣緒に、雄輔は親指で緋紗人を指差す。

「え?」

「……いい? こいつも」

 最初は何のことかわからなかった衣緒だったが、急におとなしくなった緋紗人の表情を見守っているうちに気付くとこくんと頷く。

「いいよ」

 その言葉に雄輔は表情をゆるめた。

「おい、尾咲」

「緋紗人でいいよ」

 強がるようにやや強い口調で言い返してくる緋紗人に、雄輔は身を乗り出した。

「緋紗人、おまえ帰るのどっち方面?」

「熊谷駅からバス」

「じゃあ一緒に帰ろうぜ」

 すると、緋紗人は子どもらしい驚きの表情を見せた。雄輔は素直な反応に思わず吹き出す。

「俺たちも駅方面だからさ。道、ちゃんと覚えてるか?」

 子ども扱いされたことに怒り出すかと思いきや、緋紗人は予想外に突き抜けた笑顔を見せた。

「助かった! 実は全然覚えてなくて……!」

 そう言って両手を合わせてへこへこと頭を下げ、次いで衣緒に視線を向ける。

「ごめんな、佐倉ちゃん。雄輔との貴重なデートタイムを邪魔することになって。本当に申し訳ない」

 急に真顔になって謝罪してくる緋紗人に、衣緒は眉をひそめて雄輔を振り仰ぐ。

「この人、なんかおかしいよ……」

「かなりおかしいけど、まぁ気にするなよ」

「そうそう、気にしないで!」

 雄輔にいじられながらも、緋紗人は鞄を肩にかけ直すと明るく言い放つ。

「じゃ、帰ろう!」


 こうして、三人は連れ立って学校を後にした。衣緒は雄輔とふたりといういつもの空間に現れた第三者にまだ戸惑いを隠せない。だが、緋紗人は至ってマイペースだった。

「ああ、夢だったんだよなぁ。こうやってクラスメートと一緒に帰ったりするの。高校生らしくて良くない?」

 いかにも女子から人気のありそうな容姿にも関わらず、ささやかな憧れを口にする緋紗人に雄輔は衣緒と顔を見合わせた。

「おまえ、前の学校でどんだけ寂しい思いしてたんだよ」

「友達いなかったからね」

 いまいちどこまでが本音かわからない。もう一度雄輔に振り向かれ、衣緒は小さく肩をすくめる。

「学校に馴染めなくて転校したのか?」

「いや」

 緋紗人はきっぱりと返すと、急に真顔になってふたりに囁いた。

「実は悪の組織に狙われてさ」

「はぁ?」

 雄輔はあからさまに顔を歪め、衣緒はぷっと吹き出した。

「うわ、笑われるの一番きつい」

「いや、それは仕方ないだろ」

 ふたりの反応に満足したのかどうかはわからないが、緋紗人も肩をゆすって笑う。そして、ひとしきり笑ってからふぅと溜息をつく。

「……本当はさ、ちょっとトラブルに巻き込まれて」

「トラブル?」

 穏やかでない言葉にふたりが緋紗人に視線を注ぐ。

「ちょいとおかしな奴に因縁つけられてさ。身の危険を感じたから引っ越したんだ」

 身の危険。衣緒は眉をひそめ、顔を強張らせる。雄輔も自転車を押しながら身を乗り出す。

「なんだよ、それ。おまえ何やったんだよ」

「失礼だな。俺は何もしてないよ。向こうが勝手に思い込んで……」

 だが、その後に言葉が続かない。もどかしげな表情でしばらく黙り込んだ挙句、緋紗人は肩をすくめ、両手を広げてみせた。

「詳しいことはややこしいから言わないけど、本当に一方的でさ。さっさと引っ越して正解だったよ」

 忌々しげにぼやく表情を見る限り、相当嫌な思いをしたのだろう。

「引っ越し……。大変だったんだね」

 衣緒が控えめに口を挟むと、緋紗人は顔を横に振る。

「まぁ、うちは俺と親父のふたり暮らしだからさ、持ち物は多くないし、すぐに動けたからな」

 ふたり暮らし、という言葉に雄輔が思わず「あっ」と声を上げて衣緒を振り返る。彼女もちょっと驚いた様子で頷く。

「どうしたの?」

「あ、いや、その」

「私も父さんとふたり暮らし」

 緋紗人にとっては予想外だったのだろう、言葉をなくして立ち止り、まじまじと衣緒を凝視する。が、ただ驚いただけではなさそうな表情に衣緒はかすかに首を傾げる。

「ふたり暮らしの家ってけっこう多いんだなぁ」

 雄輔の方はどこかしみじみとした様子で呟き、緋紗人も気を取り直して歩き出す。

「そう、だな」

 そうするうち、三人は熊谷駅に到着した。

「佐倉ちゃんは電車?」

「うん」

「雄輔も電車?」

「んなわけねぇだろが」

 自転車に跨った雄輔が顔を歪めて悪態を吐き、緋紗人はいちいちその反応に喜ぶように声を上げて笑う。が、息を吐くと少しだけ疲れた笑顔でふたりに向き直った。

「でも、ありがとな、ふたりとも。転校初日でちょっと不安だったから、すっごい助かったよ」

 素直に感謝の言葉を伝えてくる緋紗人に、雄輔も衣緒も顔の表情をゆるめる。どこか抜けたところのある変わった転校生だが、根は悪い少年ではないようだ。

「おう。明日、道に迷って遅刻すんなよ」

「がんばるよ」

「じゃあな」

 そう言うと雄輔はまず衣緒に手を振り、緋紗人には親指を立て、颯爽と自転車を走らせた。その後ろ姿を見送りながら、緋紗人が呟く。

「雄輔、いい体してんなぁ」

「野球やってたらしいから」

 衣緒の言葉にへぇと返す。

「もったいないな。まだやれそうなのに」

「そうだね」

 そう言いながら衣緒は腕時計で時間を確認する。

「じゃ、私もここで」

「ああ、佐倉ちゃん」

 呼び止められ、首を傾げながら振り返る。と、思わずどきりとしてその場に立ち尽くす。緋紗人は、少し眉をひそめた表情でじっと見つめてきた。何かを見透かそうとでもするように、真剣な表情。そして、目を眇めると唇を開く。

「君って――」

 言葉が途切れる相手に、衣緒はにわかに不安になると怯えたようにわずかに後ずさる。すると緋紗人は慌てて顔を振る。

「ごめん、なんでもない」

 そして、笑顔で手を振りながらバス停へ向かう。

「じゃあ、また明日な。今日はありがとう!」

「……うん」

 わけがわからないまま、衣緒は手を振ると踵を返し、改札へ向かった。


 衣緒が帰途につく少し前。草平は仕事で横浜を訪れていた。訪問先での作業を終えると、時計を見上げる。まだ時間がある。藤木に、会えないだろうか。

 藤木小枝さえ。横浜開化大学で近代文学を研究している非常勤講師だ。そして、地元に根付いた伝承を伝える文学館を設立すべく、中心となって活動を進めている。研究内容が近しいために、藤木はよく草平に助言を求めてくる。藤木の研究に対する熱心さにはいつも驚かされてきた。自分の研究分野がこうした若手に引き継がれてゆくことを嬉しく思っていた草平は、何かと彼女を支援している。ここからなら、文学館の事務局に近い。足を延ばしてみよう。

 とはいえ、本当は今、藤木に会うのはどうかとも思った。娘の衣緒とは、「母親」のことで互いに腫れ物に触るような関係が続いている。その衣緒は、どうやら藤木に軽い嫉妬心を覚えているようだ。面と向かって付き合いをやめろとまでは言ってこないが、複雑な心境なのだろう。草平は溜息を吐き出した。きっと、不安なのだ。ひとりにされてしまうのではないかと、衣緒は心のどこかで怖がっているのだ。

「ひとりになんかするものか」

 口の中でそう囁きながらも、草平は歩みを止めることはしなかった。いつも明るく快活な藤木に会うと、日々の憂いや不安を忘れることができた。彼女が持つ人柄だろう。会えば、元気をもらえるに違いない。そんな希望を抱きつつ、草平は事務局を目指した。

 オフィス街の一角のビル。その中に文学館準備室の事務局はあった。ドアをノックすると、ややあって女性の声で「はぁい」と聞こえてくる。藤木の声ではない。

「失礼します」

「あら、佐倉先生!」

 出迎えたのは、藤木の大学の事務員だった。

「仕事でこちらまで来たので、寄らせていただきました。今日、藤木先生は」

 事務員の安倍は残念そうな表情で顔を振った。

「今日はこちらに来られないんですよ。すみません、せっかくいらっしゃったのに」

「いえ、急に思い立ったのはこちらですから」

 軽い失望を感じながらも笑顔で返す。が、安倍は眉をひそめながら小走りに歩み寄った。

「佐倉先生……。ひょっとして、藤木先生を心配してこちらに……?」

 心配? 思いもしない言葉に草平は顔をしかめた。

「いえ……、何かあったんですか?」

「あ、いや、その」

 安倍も困った表情で腕組みをしつつ、首をひねる。

「最近、藤木先生の様子がおかしくて……。何か思い詰めた表情をしてることが多いんです」

 あの藤木が。草平は驚いた表情のまましばらく言葉を失う。

「……いつからです」

「先週ぐらいですかねぇ。本当に最近です。何かあったのか聞いてみても、大丈夫です、としかおっしゃらなくて」

 藤木に最後にあったのは夏休みの終わり頃。その時は特に変わった様子は見られなかった。では、あの後何かがあったのか。その後、草平は安倍と他愛のない世間話をすると事務局を辞した。

 胸がざわついていた。会えばいつも朗らかな笑顔で出迎えてくれる藤木が、何かに心を痛めているとすれば理由は何だ。いつも元気をくれる彼女のために、何かしてやりたい。草平は、駅に着くとポケットからスマートフォンを取り出した。


 夕暮れが迫る港。赤銅色の波が踊る海の先に、赤レンガ倉庫が並んでいるのが見える。波風に髪が乱されながらも、じっと海を眺めているひとりの女性。大きなショルダーバッグにパンツスーツ。その立ち姿にはどこか潔さが感じられ、美しい。藤木小枝はぼんやりと港を眺めていた。その瞳はどこか虚ろなようでいて、その実絶えず揺れ動いていた。やがて目を伏せると長い溜息をつく。バッグのストラップを持ち直して港に背を向けた時、ポケットのスマートフォンが震える。彼女は物憂げな表情で足を止め、スマートフォンを探り出す。画面をタップした瞬間、彼女の瞳に生気が戻る。

「先生……!」

 画面には、草平からのメッセージが表示されていた。

「さきほど、事務局の方に立ち寄らせていただきました。安倍さんからお茶をご馳走になりました。よろしくお伝えください」

 事務所にいらっしゃったのか。藤木の表情に悔しさが滲む。メッセージは、「それから」と続いた。

「藤木先生に元気がないと、安倍さんが心配していましたよ。何か悩み事でもあれば、僕で良ければいつでもお話をお聞きします。仕事が忙しいでしょうが、体には気を付けて」

 藤木は、画面を凝視したまま思わずその場にしゃがみ込んだ。苦しげに顔を歪め、何度も何度もメッセージを読み返す。そしてスマートフォンを胸に押し当て、絞り出すようにして囁いた。

「佐倉先生……」

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