第2部-夕闇の影-第1話

 しとしとと地を打つ雨音だけが響く闇。雨に濡れ光る地面の一角に、カラスの濡れ羽のように広げた雨傘がかすかに揺れる。

 傘の下には、前髪で顔の大半を隠された男が蹲っていた。血の気のない白い唇がくわえた煙草からは、灰色の細い煙が音もなく漂っている。煙草がゆっくり上下に揺れると、俯いていた顔がわずかに上がる。細身の眼鏡越しに現れた黒瞳。周囲と同化するかのような、艶のない闇色の瞳。顔貌から察するにまだ若い男。だが、生気のない瞳からは瑞々しさといったものがまるで感じられない。男は表情を変えることなく、煙草を口から離した。手許に灯る小さな赤い火をじっと見つめているうち、脳裏に罵声が響く。

「俺が誰かなんて、俺が決めることだ」

 男はゆっくりと目を細めた。

「俺は誰かの指図なんか受けない」

 煙草の小さな火が、少しずつ、少しずつ大きくなってゆく。赤い灯。目に焼き付いている、赤。男は溜め込んだ息を大きく吐き出した。指が弾いた煙草が地面に落ちる。弱々しい音を出して火は消え失せ、灰色の煙が立ち上った。



 弱まる気配のない、うだるような熱気に包まれた街。盛りの頃に比べれば、溶けるような水色の空に浮かぶ入道雲もどこかうすっぺらく、確実に夏は終わり始めている。その夏の終わりを惜しむかのように、人々が群がっている場所があった。

 居座る暑さに汗だくになりながら、群衆は同じ方角を一心に見つめていた。押し合いへし合いの人々の間から、「見えた」「見えない」と言った声が上がる。ついでに落胆の声や歓声も。

「見えるか?」

 背を伸ばし、必死に爪先立ちをしている少女に声がかけられる。上から降ってくるような囁きに首を巡らす。見下ろしてくるのは、体格の割には童顔の少年。

「全然……」

「そっか」

 気の毒そうな声色で呟く相手に、少女は顔をしかめた。

「もう少し身長が欲しいなぁ」

「それぐらいでいいよ」

「里村くんはいいけどさ」

 思わず唇を尖らせて言い返す。その顔に里村雄輔は思わず吹き出し、同じように口を尖らせて見せる。

「そんな顔すんなよ」

「もう……!」

 からかわれたことにかちんときた少女、佐倉衣緒が口をへの字に歪めた時。

「よっしゃ!」

 雄輔は突然腰を曲げたかと思うと、衣緒の脇を掴んで持ち上げた。

「きゃあ!」

 衣緒の細い体が宙に浮き、周囲の人々が困惑の声を上げる。揺れる視界。眼差しの先には、笹の森に囲まれたパンダがのんびり寝そべっている姿が。

「見えた……!」

「見えたか!」

 衣緒の嬉しそうな声に雄輔の笑顔がはじける。が、

「そこー、危ないからやめてねー」

 動物園の職員から呼びかけられる。

「はい! すんません!」

 そう叫び返すと、雄輔は衣緒を床に下ろした。

「見えたよ! パンダ! 可愛かった!」

 はしゃいだ様子で声を上げる衣緒に雄輔はふぅと息をつく。

「よかった」

 彼は、相変わらず人懐っこい表情で笑ってみせた。

 衣緒と雄輔がやってきたのは上野の動物園。夏休み最終週とあって、園内はどこもかしこも人で溢れていた。

「パンダも見られたし、飯食いに行くか」

「うん、お腹空いた」

 人波から逃れるようにして動物園を後にすると、当てがあるのか、雄輔はどんどん先へ進んでゆく。

「どこ行くの」

「この先に美味いベーグル屋があるんだ」

 と言ってからようやく歩みを止め、真顔で振り返る。

「……ベーグルでいい?」

 衣緒は思わず顔をほころばせた。

「美味しいんでしょう?」

「おう」

 その言葉に勇気づけられたように再びしっかりとした足取りで進む雄輔に、衣緒が小走りに追う。そして、衣緒が必死で追いつこうとしていることに気付いて歩みをゆるめる。

「……動物園、楽しかった?」

「うん」

 言葉少なく返す衣緒。ふたりはしばらく黙り込んで通りを歩んだ。雄輔は隣で歩く衣緒をちらりと見下ろした。見慣れない短い髪。それでも、美しい艶のある黒髪に変わりはない。そして、夏が終わろうとしているにも関わらず、相変わらず抜けるように白い肌。思わず見とれていると、不意にうなじが巡り、上目遣いに見つめられる。

「何?」

「あ、い、いや」

 しどろもどろに返す。

「その、やっぱ、髪短いの、見慣れねぇなって」

 言われて衣緒は少し困ったように微笑むと、肩の上で揺れる髪を摘まむ。

「……また伸ばそうかな」

「うん! 長い方がいいよ! 絶対!」

 待ってましたと言わんばかりに力説され、思わず吹き出す。

「じゃあ伸ばすね」

「お、おう!」

 自分の希望を汲んでくれる。そう思うとよほど嬉しいのか、上気した顔に満面の笑みを湛える雄輔を、衣緒はどこか安心した表情で見守る。

「あ、あそこあそこ」

 弾んだ声につられて、雄輔の眼差しを追う。小さいがお洒落な雰囲気のベーグル屋。雄輔はドアを開けて衣緒を先に通す。

「いい匂い」

 炎天下から解放されると同時に、店内にたゆたう焼き立てベーグルの香ばしい匂いに衣緒の期待が膨らむ。

「こちらでお召し上がりでしょうか」

「はい」

 清楚な白いエプロン姿のスタッフに示されたメニュー表をふたりが覗き込む。

「えーっと、俺何にしようかな」

 衣緒もメニュー表に載せられた様々な具材をサンドしたベーグルの写真に目移りしているうち。

 衣緒の目が、それを捕えた。赤と白の模様が鮮やかにくっきりと浮かんだエビ。照りのある綺麗なオレンジ色のサーモン。衣緒はごくりと唾を呑み込んだ。未だ口にしたことがない、海の幸。口にすることを許されていなかった、海の恵み。

「佐倉」

 雄輔の呼びかけにはっと顔を上げる。

「俺、生ハムとクリームチーズのサンド。佐倉は?」

 少しうろたえた様子で視線を彷徨わせると、「私も、同じものを」と囁く。

「いいの?」

「うん――、美味しそうだよね」

「おう」

 雄輔はメニュー表を指さしてスタッフに呼びかけた。

「すいません、生ハムとクリームチーズサンドふたつ。飲み物はコーラと紅茶。……で、いい?」

 そう尋ねられ、衣緒はこくりと頷いた。

「少々お待ち下さいませ」

 注文を終え、テーブル席に着くと雄輔は両腕を伸ばして息をついた。

「それにしても、動物園すごい人だったな」

「そうだね」

 店内を見渡すと、若いカップルが多い。皆それぞれ楽しそうに語らい、共に食事を楽しんでいる姿を目で追っているうち、雄輔は少し緊張した面持ちながら間を持たせようと口早に話しかける。

「ああ、夏休み終わっちまうな。来週から学校だと思うと面倒くせぇ!」

 そうは言いながらも嬉しそうな表情の雄輔に、衣緒も微笑ましげに頷く。

「バイトは?」

「続けるよ。今年いっぱいはバイトしてもいいって。でも、来年は受験勉強しろって言われてさ」

 受験という言葉に衣緒ははっとする。

「受験かぁ……」

「佐倉も進学希望?」

「うん」

 そこでスタッフがベーグルを運んでくる。焼き立てベーグルに瑞々しいレタスや生ハムが挟まれ、食欲をそそる香りがふわりとふたりを包む。

「美味しそう」

「食おうぜ」

 早速かぶりつく雄輔だったが、小さな口で大きなベーグルを難しそうに食べる衣緒に思わず笑う。

「そういや、佐倉のお父さんって大学教授だったよな」

「うん。でも、同じ大学は駄目だってさ」

「なんで」

 驚いたように目を丸くする相手に衣緒が肩をすくめる。

「親が働いてる学校に通うのはフェアじゃないって。何かそんなこと言ってた」

「へぇ。真面目なお父さんだなぁ」

 それ以上は特にコメントすることなく、黙ってベーグルを食べる衣緒を、雄輔はじっと見つめた。グラスに手を伸ばし、コーラで喉を潤してからおもむろに体を乗り出す。

「佐倉、余計なことかもしれないけどさ……」

「なに?」

 顔を上げると、真顔で真っ直ぐに眼差しを向けてくる雄輔にどきりとする。

「お父さんと何かあったのか?」

 思いもしなかった指摘に衣緒は言葉を失くした。眉をひそめ、両手でベーグルを持ったまま口をつぐむ衣緒に、雄輔は取り繕うようにしてベーグルを口に押し込む。

「ごめん、いや、ちょっと、気になってさ」

「……里村くん」

 口をもぐもぐさせ、コーラで流し込んでからふぅと息をつく。

「……だってさ、あんなに見たがっていた海を大好きなお父さんと見に行ったのにさ、福井の話全然してくれないじゃん」

 雄輔の口調は穏やかだったが、衣緒の受けた衝撃は大きかった。そのうち、雄輔は右手で衣緒の左手首を指さした。白く細い手首に纏わりつく血のように赤い雫の連なり。赤い石の間には光の彩が織りなす白い珠。

「じいちゃんやばあちゃんの話はしてくれたけど」

 衣緒はブレスレットを指先で撫でた。祖母からもらったブレスレットは常に身に着けていた。そして、思わず恥じ入るように目を伏せる衣緒に雄輔が慌てて腰を浮かす。

「あ、別に、話したくないならいいんだぜ。無理には……」

 それでも衣緒はゆっくりと両手をテーブルに下ろした。雄輔は多少の後悔を抱えながら目の前の少女を辛抱強く見守った。

 佐倉衣緒。父は近代文学専門の大学教授、佐倉草平。母はいない。ふたりはこの夏、初めて草平の故郷である福井の仰浜あおがはまを訪れた。そこで邂逅したのは、父が愛した人。

 夜の波間から現れた母の足は鱗で覆われていた。白く細い指の間には薄い水掻きもあった。美しい裸身を月光に晒し、緋縮緬の腰巻が目に焼き付いている。

 物心ついた頃から、自分が他人とは明らかに違うことは感じていた。それでも、成長するにつれて体の異変は治まり、父と静かな暮らしを続けてきた。平穏な時がずっと流れ続ける。そう信じていたのに。

「喧嘩でもしたのか」

「ううん。……でも」

 雄輔は勘が鋭いのだろうか。喧嘩というわけではないが、父とは福井から帰って以来微妙な距離が生まれていた。父は悪くない。全てを悪い方向に想像してしまう自分が悪いのだ。衣緒は溜め込んでいた息を吐き出した。

「……福井でね」

 消え入りそうな声で切り出すと、雄輔は頷きながら先を促した。

「いろんな話をしたんだ。……母さんのこと、私が生まれた時のこと、福井を出た後のこと」

「うん」

 雄輔の声が胸に染み入り、不意に瞼が熱くなる。衣緒は慌てて目頭を押さえると胸に大きく息を吸い込む。

「大丈夫か」

「うん」

 震える声で返し、少しの間沈黙を守ると衣緒は大きく息をついて顔を上げた。

「嬉しかったんだ。父さんが、いろいろ話してくれて」

「そうか。良かったな」

 雄輔もほっとした様子で微笑を浮かべる。が、衣緒は人形のように整った美しい眉をひそめた。

「……でも、不安にもなって」

「どうして」

 優しく尋ねられ、躊躇いがちに唇を開いては閉じるのを繰り返す。

「……父さんは、言ってくれた。母さんのことが今でも好きだって。私が生まれて良かったって。大事な家族だって、言ってくれたの。――でも」

 そこで唇を閉ざし、強張った顔つきで衣緒はしばし黙り込んだ。その間、雄輔は目を逸らさず、じっと見守り続けた。

「でも、どうしても思っちゃうの。私、本当に生まれてきてよかったのかなって」

 やっぱり、と言いたげな表情で頷いた雄輔は、それでも真顔のまま口を開いた。

「簡単な問題じゃないからさ、すぐには結論出ないだろうけど、俺が言えることはひとつだけだ。お父さんのこと、信じてあげろよ」

 衣緒は目を見開いた。雄輔はいつもの人懐っこい笑顔で言葉を継いだ。

「なんたって、おまえの大好きなお父さんじゃん」

 大好きなお父さん。何でもないその一言で、衣緒は自分に立ち返れたことに気付いた。大好きな父。これからもずっと、大好きな父。衣緒は、自然と顔が穏やかにほぐれていくのを感じた。

「――そうだね」

 そういうとにっこり笑う。

「……ありがとう、里村くん」


 食事を済ませてから上野界隈をぶらぶらすると、ふたりは帰路についた。

「お、熊谷まで一本で帰れるじゃん」

「良かったね」

 改札を抜けてホームに向かうが、思った以上に混雑がひどい。人波に押し流されそうになり、一瞬泣き出しそうな表情になった衣緒の肩を雄輔が掴む。

「離れんなよ」

 そう言ってぐいと引き寄せられ、衣緒はかっと頬が赤くなるのを自覚した。

「あ、ありがとう」

 ようやく人の波をやり過ごすと、雄輔はさりげなく手を離した。温もりが肌から消えていく感触に衣緒は急に寂しさに襲われる。思わず何か言いたげな表情で雄輔を見上げると、相手も顔を赤らめて髪を掻きむしった。

「痛かったか? ごめん」

「ううん」

 ふたりが黙り込み、互いの瞳を見つめ合った、その時。

「雄輔!」

 歌でも歌うように軽やかに呼びかけられ、ふたりは驚いて振り返った。そこにいたのは、

「か、母さん!」

 思わず叫ぶ雄輔に衣緒がはっと息を呑む。いつか見せてもらった家族写真に写っていた女の人。四十代ぐらいだろうか、綺麗なおかっぱ頭にお洒落なワンピース。そのすぐ後ろに同じ年頃の女性たちが二、三人。

「なんでここにいるんだよ!」

「あら、上野で舞台観てくるって言ったじゃない。忘れたの?」

「知らねぇよ!」

 悲鳴のように叫ぶ雄輔を見守る衣緒に、雄輔の母親はにっこり微笑みかける。

「可愛い子じゃない、雄輔! あんたも隅に置けないわね!」

「ち、違ぇよ!」

 ますます裏返った声で言い返すクラスメートを見かね、衣緒は深々と頭を下げた。

「こんにちは、里村くんと同じクラスの佐倉です」

「さくらちゃん?」

「はい、佐倉衣緒と言います」

 雄輔の母とその友人たちは感心したように嘆息する。

「まぁ、しっかりしたお嬢様ね。初めまして、雄輔の母です。うちの馬鹿息子がお世話になってます」

「もう、いいから行ってくれよ、母さん……!」

 そう言って背中を押してくる息子に母親は不満げな表情で何か言い返すが、友人のひとりが笑いながらなだめる。

「駄目よ、由紀さん。息子さんのデート邪魔しちゃ!」

「ああ、そうね。ごめんごめん、雄輔」

 言葉とは裏腹に、あっけらかんと笑いかける母親にうんざりした様子で手を振ると衣緒に「行こうぜ」と囁く。

「失礼します」

 衣緒は律儀に頭を下げると、主婦たちも丁寧に会釈を返した。

「ったく、なんでよりによってこんな時に……」

 ホームへ続く階段を降りながらぶつくさとこぼす雄輔に、衣緒が気の毒そうな眼差しを送る。

「ごめんね、迷惑かけちゃった」

「佐倉は悪くねぇよ!」

 とは言うものの、雄輔は大袈裟に溜息をついた。

「あー、絶対家に帰ったらいろいろ言われる。父さんにも弟にもバラされる」

「いいじゃない。仲が良さそうでいいな」

 衣緒の言葉で我に返ったのだろう。雄輔はばつが悪そうに頷いた。そうしているうちに熊谷行きの高崎線がやってくる。電車に乗り込むと、一日の疲れがどっと押し寄せたのか、ふたりとも黙ったまま電車の揺れに身を任せた。

 車内の冷たい空気で火照った体が冷やされていく中、衣緒は頭上で揺れる吊り広告を見上げて目を見開く。明暗がくっきりと分かれたドラマチックな光景が描かれた絵画。レンブラントだ。上野の美術館で展覧会が開かれるという。レンブラントは父が好きな画家のひとりだ。

「佐倉」

 不意に呼ばれて振り返る。ドアにもたれかかったまま、雄輔は少し疲れた表情ながら穏やかに囁いた。

「お父さんと、仲直りしろよ」

 雄輔はいつだって自分の味方でいてくれる。そう思うと心が満たされた。衣緒は微笑を浮かべて頷くが、その微笑はやがて泣き出しそうに曇る。「でも」と彼女は心の中で呟いた。私は、あなたとは違う生き物。


 その日の夕刻。真夏に比べると日が翳るのが早くなった。そんなことを考えながら佐倉草平は家路を急いでいた。だが、早く家には帰りたかったが、脳裏にこびりついた不安が家路への歩みを鈍らせている。まだ蒸し暑さが残る夕空を見上げ、息を吐いた時。胸許のスマートフォンが震える。画面には「神原幹恵」と出る。姉だ。

「もしもし」

「草平? 今いい?」

 彼は辺りを見渡し、車道から離れた場所でスマートフォンを持ち直す。

「うん、大丈夫」

「昨日母さんから電話があってね。喜んでたわよ」

 母という言葉に思わず表情が強張る。

「衣緒にも会えたし、あんたが元気そうで安心したみたい。父さんもあれから何だか機嫌がいいって」

「……そう」

 十五年もの間断絶状態にあった両親。思い切って訪ねたことでわだかまりが少しずつ溶けようとしている。そのこと自体は良い兆候だ。だが、まだ解決しなければならない問題は山積みだ。

「良かったら、衣緒に手紙を送るように言ってくれない? 父さんたち喜ぶから」

「そうだね」

「それにしても、こんな日がやってくるなんて、昔では考えられなかったわね」

 しみじみとした声色で囁く姉に、草平は居心地の悪さを感じながら所在無げに立ち尽くす。

「うん……。姉さん、色々ごめん」

「いいのよ。まずは一安心だわ」

 柔らかな響きの言葉に、草平の心も温かみに満たされてゆく。

「あ、そうだ。今日ね、懐かしい写真が見つかったのよ」

「写真?」

 不意に上がった言葉に不思議そうに眉を寄せる。

「そっちに送っておくから。じゃあ、衣緒にもよろしくね」

「うん。義兄さんにもよろしく」

 通話が終わり、スマートフォンの画面がすぅっと暗くなっていくのを見守る。懐かしい写真。何だろう。首を傾げているうちに再びスマートフォンが震える。画面をタップすると姉からのメールだ。そのメールに添付された画像を開いた瞬間、草平は指先の動きを止めた。大きく見開かれた瞳。驚きに満ちたその瞳は、やがて嬉しさとせつなさで満ちてゆく。

 写真には、家の庭で柴犬とじゃれ合う自身の姿が納まっていた。円らな瞳が凛々しい柴犬と、まだ若い草平。福井の大学で講師として働き始めて間もない頃の写真だ。研究に没頭し、若者たちに教えることに喜びを見出したあの頃。すべてが希望に満ち溢れていた。草平は目を細めて写真を見つめた。自分にも、こんな時期があった。そんな思いが沸き起こる。かけがえのない青春のひと時。脳裏に衣緒の面影が浮かぶ。娘も、もう二度と戻ることができない青春の日々を過ごしている。願わくは、哀しみも不安もない時を。それが、たったひとつの願いだったのに。草平は目を閉じると、悔しげに押し殺した息を吐き出した。


 重い足取りで帰宅すると、玄関には間接照明が灯っていた。リビングのドアを開けると、ご飯が炊ける甘い香りが鼻をくすぐる。

「お帰り」

 キッチンから娘の声が聞こえてくる。いつもと変わらない声音。

「早かったんだな」

 ブリーフケースを置きながら返すと、テーブルの上にビニール袋に包まれた紙の箱に気付く。

「お土産。ベーグルだよ」

 そう言いながら衣緒が麦茶のポットとグラスを手渡す。

「動物園楽しかったか」

「うん」

 それだけ言うと衣緒は再びキッチンへと戻ってゆく。その背を見送り、草平は寂しげに息をついた。福井から帰ってきて以来、明らかに距離ができてしまっている。

 何かが変わったわけじゃない。むしろ、何も変わらない現実を突きつけられたのだ。娘はその日の体調次第で異変が起き続ける。自分はそれをどうすることもできない。そんな日々が、これからも続いていくのだ。原因はすべて、自分のせいなのに。

「父さん」

 衣緒の呼びかけに弾かれるように顔を上げる。娘は少し心配そうな顔つきで見つめてきた。

「大丈夫? 顔色悪いよ」

「……ううん、大丈夫だよ」

 切り替えよう。草平は笑ってみせるとネクタイをほどいた。

「おまえこそ疲れてるのにごめんな。手伝うよ」

「じゃあ、お風呂沸かして」

 風呂場へ行き、スイッチを入れると部屋着に着替え、洗濯の準備もする。リビングに戻ると、衣緒がテーブルの脇に佇んでいる。

「ねぇ父さん、これ観に行く?」

 そう言ってスマートフォンの画面を見せられる。そこに載っていたのは、レンブラントの展覧会。

「来月からだってさ」

 草平の表情がぱっと明るくなる。

「そうか、上野に来るんだったな。行こう」

 衣緒は無言で微笑みかけるとスマートフォンをテーブルに置き、キッチンへ戻っていった。

 まだ、大丈夫だ。まだ間に合う。草平はそう言い聞かせた。

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