第1部-境界の海-エピローグ
突き抜ける真っ青な空。その青空にいくつも湧き上がる、城のような入道雲。その下に眼差しを向けると、熱気で揺れるアスファルトが広がる。生ぬるい風を顔に浴びながら、里村雄輔は自転車を走らせていた。
「暑ぃ……」
顔を歪めながらうんざりした調子でぼやき、空を見上げる。家を出る前に見たテレビのニュースで、熊谷市が最高気温記録の日本一を奪還したことを報じていたのを思い出し、苦り切った表情になる。
「日本一なんかならなくていいっつうの……」
そんな雄輔の目に「氷」と染め抜かれた旗が飛び込む。毎年、連日の猛暑日に苦しむ熊谷で生み出された氷菓。
「雪くまかぁ……」
地元の名水で作られた氷をふわふわに削り上げ、各店独自のシロップや食材を使ったかき氷だ。日本一暑い街でこそ楽しめる味だと、近年町興しの一環で盛り上がりを見せている。だが、雄輔はまだ食べたことがない。元が体育会系の彼は、どうもかき氷だと腹持ちが良くなさそうに思えて、未だに手を出せないでいたのだ。
「……あいつ、食ったことあるのかな」
雄輔の脳裏に浮かぶ「あいつ」とは、言わずと知れたクラスメート、佐倉衣緒。福井旅行に行くと教えられた日に思い切ってメールを送ると、文面からもはしゃいだ雰囲気が感じられる返信があった。父親と一緒に写った写真が添えられていたことも思い出す。
「……お父さんか」
穏やかでなかなか男前な父親に寄り添った衣緒。大好きな父親と旅行に行けることがよほど嬉しいのか、見たこともないようなはしゃいだ笑顔だった。そのことが、雄輔にとっては少し悔しい。その後、小松空港の滑走路や、日本庭園の写真が添付されたメールが届いたが、それからぷっつりと連絡が途絶えた。もう、熊谷に帰ってきているはずだ。
雪くまを口実に、メールしてみようか。そんな思いが頭をもたげる。ぐずぐずしていると夏休みが終わってしまう。その前に会いたい。学校以外で、ふたりで会ってみたい。思わず真顔で考え込んだ、その時。
(……あ!)
咄嗟にブレーキを引き絞り、体がつんのめる。右足で地面を支えると、がばっと振り返る。視線の先には、同じようにこちらを振り返る少女の姿があった。セピア色の風景に、そこだけ陽の光が注がれている。雄輔の目にはそう思えた。水色のTシャツに、紺色のスカート。見覚えのある顔立ち。だが、
「佐倉っ?」
雄輔の叫びは悲鳴に近かった。地面を蹴って自転車をバックさせる。
「おまえ――、どうしちゃったんだよ、その頭……!」
衣緒はちょっと哀しそうに眉を寄せると毛先を摘まんだ。背中まであったはずの艶やかな黒髪は、肩の上で揺れていた。
「……うん、ちょっと、気分を変えたくて」
「どうして!」
クラスメートの詰問に衣緒は困り切った表情で見上げてくる。
「長い方が絶対可愛いって!」
真顔で叫ぶ雄輔。衣緒は言葉を失って目を丸くした。そして、ふたりとも顔が赤く染まってゆく。額にうっすら汗を浮かべた雄輔は、黙り込んだ衣緒に思わず髪を掻きむしった。
「こ……、個人の感想です」
その言葉に、衣緒はぷっと吹き出した。
「ふふ……! 里村くん、相変わらず面白い」
久々に目にした衣緒の笑顔。ああ、良かった。変わっていない。雄輔はほっと表情をほぐした。
「あ……、でも、短いのも、いいよ、うん。……可愛い」
しどろもどろだったが、思い切ってそう告げてみる。衣緒はますます恥ずかしそうに顔を赤らめ、目を伏せた。
「……ありがとう」
ぎこちない沈黙を紛らわそうと左手で前髪を掻き揚げ、首許を押さえる。
「あれ?」
雄輔は、衣緒の左手を飾る赤と白の煌めきに目を瞠る。そして、思わずブレスレットを指さす。
「あ、これね」
途端に衣緒の顔が華やぐ。
「おばあちゃんがくれたんだ。可愛いでしょ」
嬉しそうな笑顔。衣緒が嬉しそうだと自分も嬉しい。雄輔の表情もゆるむ。
「会えたんだ」
「うん。おじいちゃんもおばあちゃんも優しい人だった。また来なさいって言ってくれたんだ。……あ、そうだ」
衣緒は明るい表情で身を乗り出した。
「里村くんにお礼言わなきゃ」
「へ?」
目を丸くして聞き返す雄輔に、衣緒は弾んだ声で続ける。
「私が本を読むのが好きって言ったら、おばあちゃんがどんな本を読むのって聞いてきてね。海外の作家ばかり名前を挙げたら、国語の先生をしてたおじいちゃんが日本の作品は読まないのかって機嫌を損ねて……。でもそこで父さんが言ってくれたの。最近読んだ本を教えてあげなさいって」
「あ」
雄輔も思わず声を上げると衣緒は力強く頷いた。
「そうなの。中原中也の詩集を読んだって言ったら、おじいちゃんも機嫌を直してくれて。里村くんがすすめてくれたおかげだね」
「そっか」
雄輔は得意げに鼻を鳴らして胸を張った。
「ちゃんとリリーフできたようだな。へへ」
「うん、ありがとう」
衣緒はそこで息をつくとしみじみと呟く。
「本当に……、ピンチの後にはチャンスあり、だね。……父さんとおじいちゃんが仲直りできて良かった」
他人の事ながら、雄輔は安堵の表情で衣緒を見守った。写真で見る限り、優しそうな衣緒の父親。できることなら、祖父母と和解してほしいと雄輔も願っていた。と、同時に思い出したことがある。
「そういえば、海は?」
海、という言葉に衣緒はぎくりとして背を震わせた。これまでの笑顔から一転して強張った顔つき。
「……佐倉?」
不思議そうな顔で覗き込んでくる雄輔に、衣緒は慌てて笑顔を取り繕った。
「――うん。綺麗だったよ。……行って良かった」
その割には海に関する感想をそれ以上口にしない衣緒に、雄輔は少し心配そうに顔をしかめる。
「あ、そうだ」
そんな雄輔を察したのか、衣緒はさりげなく話題を変えた。
「里村くんにお土産があるんだよ」
「え、お土産?」
思いがけない言葉に、雄輔は素っ頓狂な声を上げる。
「うん。アンモナイトのストラップ」
「アンモナイトぉ?」
ますます困惑する雄輔に、衣緒は笑い声を上げる。
「福井のね、恐竜博物館行ってきたんだ」
「へぇ! 恐竜博物館ってのがあるのか!」
感嘆の声を漏らすが、思い出したように顔をしかめる。
「しまったなぁ。それなら俺もパンダの土産買ってくりゃよかった……」
「えっ、パンダ?」
興味深そうに聞いてくれる衣緒に、雄輔は苦笑を漏らす。
「ああ、家族と上野に行ってさ。高校生で動物園ってどうなの、って思ったけどさ」
「いいなぁ。私まだパンダ見たことないよ。いつ行っても人が多くて」
羨ましそうな声の衣緒に、雄輔は一瞬口をつぐむと、思い切って切り出した。
「見に行くか?」
「えっ」
予想もしていない言葉に、衣緒はびっくりしたように口をぽかんと開ける。チャンスは今しかない。雄輔は真顔で尋ねた。
「俺と一緒じゃ、駄目か?」
再びふたりの間に沈黙が横たわる。遠くから聞こえてくる蝉時雨とアスファルトの熱気がふたりを包み込む。ふざけたり、冗談めかして誘うのは、雄輔にはできなかった。それは衣緒にも伝わったらしい。彼女は少しの間顔を伏せていたが、やがて上目遣いに見上げた。黒目がちの少し切れ長な目。吸い込まれそうなその瞳に、雄輔は真っ直ぐ見つめ返す。
「……いいよ」
そう呟いてから、にこっと微笑む。瞬間、雄輔は心の中で壮大なガッツポーズを決めた。
「よし! 俺これからバイトだからさ、家に帰ったらシフト見てメールするよ」
「うん。待ってるね」
彼女の言葉にいちいち感動しながら、雄輔は逸る気持ちを押さえ、ハンドルバーを握る。
「じゃあ、また後でな」
「バイトがんばってね」
そう言って手を振ろうとした衣緒だったが、不意に息を呑むと手を握りしめて胸許に押し付ける。
「どうした?」
顔を歪め、両目を見開いて息をひそめる衣緒に雄輔が心配そうに声をかける。が、彼女はくしゃりと表情を崩し、安心させるように顔を振った。
「――ううん、大丈夫」
そして、揃えた指を額にかざすと敬礼する。
「じゃあ、またね」
「おう」
同じく笑顔で敬礼を返すと、雄輔はペダルにかけた足に力を込めた。
雄輔の後ろ姿を見送り、その場に佇んでいた衣緒だったが、溜め込んだ息を吐き出すとその場にしゃがみ込む。震える両手を握りしめ、胸に押し付ける。ぎゅっと目を閉じ、しばらくその場にうずくまっていたが、やがて肩にかけたポーチを手繰りよせた。
その頃。草平は都民ホールで行われていた講演を聞き終え、帰り支度をしていた。
「佐倉先生」
聞きなれた声に振り返る。
「藤木先生」
いつもと変わらない柔らかな笑顔に、思わず草平の表情がほぐれる。今日の藤木は白のブラウスに紺色のカーディガン、ベージュのクロップドパンツ。色合いがすでに秋を感じさせる。服装に気を遣う藤木らしい装いだ。
「講演、良かったですね。久しぶりに槇野先生のお姿を拝見しましたが、お元気そうでした」
「相変わらず話が脱線するけどね」
「確かに」
そう言ってふたりは朗らかに笑い合った。
「夏休み、楽しんでいらっしゃいますか」
「ええ」
草平は顔をゆるませた。
「今年は初めて娘と田舎に帰りました」
「まぁ、いいですね」
快活な笑顔。張りのある声。藤木が醸し出す溌溂な雰囲気は嫌いではなかった。だから一緒にいてもいいと思えるのだろう。だが、藤木は少し思い返す仕草をするとこう問いかけた。
「佐倉先生、福井でしたっけ」
意表を突かれた草平はぎくりとして目を見開く。
「――よく知ってるね」
「あ……、失礼いたしました」
藤木は慌てて体を縮こまらせた。
「以前拝見した佐倉先生の論文が……、嶺南海星大学のものだったので」
神妙な様子で呟く藤木に、草平は苦笑を漏らした。
「ああ……、また古い論文を読んでくれたんだね。ありがとう」
「い、いえ」
少しもじもじした感じの藤木だったが、何か言いたそうに顔を上げた時だった。草平の胸ポケットが震える。電話だ。
「あ、ちょっと失礼」
「はい」
ポケットからスマートフォンを取り出す。画面には「衣緒」の名が。
「もしもし」
「父さん……!」
いきなり切羽詰った様子の娘の囁きに両目を見開く。
「衣緒? どうした」
電話の相手が家族だとわかり、藤木は二歩、三歩下がった。草平は申し訳なさそうに藤木に会釈をすると背を向け、スマートフォンを握り直す。
「父さん、父さん……!」
電話口からは、消え入りそうな娘の声が繰り返し聞こえてくる。草平は眉間に皺を寄せて呼びかけた。
「衣緒、落ち着いて。どうしたんだ。今どこにいるんだ」
父親の声を耳にして、必死に落ち着こうと深呼吸を繰り返しているのがわかる。しばらく荒い呼吸が続いたかと思うと、再び衣緒の声が伝わる。
「父さん……、私」
「どうした」
スマートフォンを押し当て、耳を澄ませる。ひと呼吸おき、衣緒は絞り出すように囁いた。
「指の、間に、水掻きが」
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