第1部-境界の海-第13話

 その後、風呂から上がった草平が客間へ戻ると、パジャマ姿の衣緒が畳に手帳を広げて屈みこんでいる。先に入浴を終えた衣緒は、桃色の頬に張り付く湿った毛先を鬱陶しそうに払った。

「収支計算?」

「うん。みんなにお土産買って帰らなきゃ」

 顔も上げずに答える衣緒。草平は濡れた髪をタオルで拭く。

「明日は早いぞ。勝山まで行くからな」

「うん」

 スマートフォンで小遣いの計算をしながら返事をする衣緒の背中を見つめてから、草平はカーテンが引かれた窓に目を向けた。隙間から黒い闇が覗き、ちらちらと月の光らしき輝きが零れる。窓に歩み寄り、カーテンに手をかけた、その時。

「開けないで!」

 途端に鋭い声が上がり、草平はぎょっとして振り返った。衣緒は両手を畳に突き、ぺたりと座り込んだまま目を見開いて凝視してくる。

「……夜の海、怖いよ」

 震えを隠すように強い口調で訴える。その強い眼差しにたじろいだように、草平は頷いて手を離した。

「そうだな」

 少しの間目を伏せるが、再び顔を上げた時には、すでにいつもの衣緒に戻っていた。

「ねぇ、父さん。『稲ほろり』っていうクッキー知ってる?」

「稲ほろり?」

 首を傾げながら隣に腰を下ろす。衣緒はスマートフォンの画面を見せてきた。

「おこげを使ったクッキーだって。美味しいのかな」

「それ、最近できた新しいものじゃないのか。父さん知らないな」

 父の返答にちょっと肩をすくめる。

「名前が可愛い。買って帰ろうかな」

「里村くんに?」

「父さん!」

 雄輔の名を出すといちいち顔を真っ赤にして怒る娘がおかしくて、ついからかってしまう。両手で叩いてくるのを笑いながら避ける。

「もう寝る!」

 頬を膨らせると、衣緒はボストンバッグから歯ブラシセットを掴んで客間を出て行く。その後ろ姿を見守り、苦笑いを浮かべながらやれやれと息をつく。と、叩いてくる娘の手首にブレスレットが光っていたのを思い出す。衣緒にとっては、忘れられない旅になるだろう。自分にとっても。これから先、後々振り返ることになるはずだ。草平はこくりと唾を呑み込んだ。今夜だ。自分にとって旅の最終目的。それは、もうまもなく訪れる。




 暗灰色の世界。揺らめく黒い細波。絶え間ない海鳴り。胸に渦巻く不安を抱え、黒い海の水際にいつから佇んでいたのか。草平はざわつく胸許のシャツを握りしめた。見上げると、一面に分厚く垂れ込めた灰色の雲。頬を撫でてゆく湿った風。嵐が近いのか。後頭部をちりちりとした痛みが苛む。これは本能からの警告だ。早く立ち去るべきだ。ここにいてはいけない。そう思いながら、靴先を濡らす足許を見やる。墨汁のように真っ黒な波が靴先を舐めてゆく。舌先を伸ばし、引き、伸ばし、引き――、

「あっ!」

 波が突然手の形に変化すると足首を掴む。そのまま草平は引きずり倒され、黒く冷たい波間へ――。




 そこで、目が覚める。

 破裂しそうな胸。小刻みに繰り返す呼吸。草平は何度か目を瞬かせた。ごくりと唾を呑みこみ、長い溜息を吐き出す。首を巡らし、襖を見上げる。細く白い流線が幾筋もたゆたい、そこかしこで魚や貝が覗く絵柄。この襖の向こうに、衣緒が眠っている。

 衣緒は疲れすぎて目が冴えたのか、襖を閉じてからもしばらく寝返りの音が聞こえていたが、やがて静かになった。横になるだけで眠らないつもりだった草平も、室内が静かになると同時に眠りの淵へ沈んでいったようだ。

 草平はもう一度深く息をついた。目を上げると、カーテンを引いた窓が見える。どこからかかすかに時計の秒針が聞こえるきりで、ほとんど無音に近い。まるで、深海の底で息を潜めているかのように。草平は黙って体を起こすと、ほんの少し襖を開ける。タオルケットを肩までかけた衣緒が横になり、体がゆっくりと上下に揺れている様子が見える。静かに襖を押し開き、草平は衣緒に歩み寄るとその肩をそっと撫でた。仄暗い中、衣緒の白い頬がぼんやりと見える。衣緒、おまえが生まれた夜も今みたいに静かな夜だったよ。ただあの時は、年明け間もない底冷えの夜だった。草平は目を細め、一心に眠っている娘を見つめた。あれから、十六年か。

やがて立ち上がると、客間の隅に置いてあるボストンバッグに歩み寄る。中から服を取り出すと音を立てないよう静かに着替える。そして最後に、あの白いシャツを羽織る。あの日とほぼ同じ装い。着替えが終わると、カーテンに手をかけて窓の向こうを覗う。真夜中の海上、銀色に輝く満月。黒い波間に白い飛沫が上がっているのが見える。草平は軽く目を閉じると息をついた。さぁ、行こう。


 静寂に満ちた青松館を後にし、県道を横切って浜辺へ向かう。コンクリートの階段を降りてゆき、海砂を踏みしめる。満月の真下は蒼い煌めきが騒いでいるが、その周辺は呑み込むような闇だ。草平はゆっくり波打ち際まで歩む。県道の街灯も、ここまでは届かない。潮騒が少しずつ大きく迫ってくる。じゃりじゃりと砂を噛む音が響く中、ずぶりと靴が沈み込む。海水がしみ込む感触に足を引く。草平は息を吐き出した。が、その息が震えていることに気付き、こくりと唾を呑む。のっぺりとした丸い満月が白く冷たい光を音もなく降り注ぐ様を見やってから、波打ち際をゆっくり歩く。

 仰浜に通っていた頃を思い返す。伝承の欠片を拾い歩いた日々は十年にも及んだ。その度に、美晴山の寺も、仰浜の月も、青松館の人々も、変わることなく迎え入れてくれた。どうして、あの夜だけが違っていたのか。月下の人魚。濡れ光る潮をまとい、鋭い眼光が真っ直ぐに自分の胸を射抜いたのだ。草平は眼差しをシャツに向けた。このシャツを着られないほどには体型は変わっていない。だがそれでも、十五年という歳月は重く、長い。

 やがて、黒い岩礁が見えてくる。浜辺は何ひとつ変わっていない。海の底も、変わってはいないのだろうか。真っ黒い影のような岩礁を見上げ、息を整える。そよぐ風も、潮騒のざわめきも、あの夜と変わらない。草平は、懐かしさが胸を込み上げてくることに戸惑った。やはり自分は、ここに帰ってきたかったのか。人生を変えた、この浜辺へ。背に投げかけられる潮騒を聞きながら、草平の脳裏に浮かんでは消えるのは、生まれてからこれまでの衣緒の姿だった。

 鱗が敷き詰められた足と、向こうが透けて見えるほど薄い指の水掻き。それでも、愛らしい笑顔は心を掴んで離さなかった。笑うとくしゃくしゃになる顔。鈴が転がるような可愛らしい笑い声。紅葉のように小さな手を広げ、自分を追いかけた。あれから十五年。衣緒に対する愛情は欠片も変わらない。これからも。

 ふと、息を呑んで背を正す。岩礁の陰から、潮騒とは違う水音が聞こえる。どくん、と鼓動が胸に響く。

 まさか。いや、だから今夜、ここへ来たのではなかったのか。だが、それでも。

 ふたつの思いがせめぎ合う中、手の影が突き出ると岩肌を掴む。草平は思わず後ずさった。水が滴る音。細い腕の影。胸の鼓動が響き渡り、耳鳴りのように責め苛む。やがて、丸みを帯びた人影が現れる。黙ったままの草平に、人影はゆっくりと歩み寄り、岩礁の投げかける影から月明かりの下へと進み出た。

 濡れた髪が肩に流れ、緋縮緬の腰巻がまとわりつく下半身。乱れた裾から覗くのは、鈍色に輝く鱗。ふくらはぎには月明かりを受け、白く光る雫が滴るひれ。草平は目を細め、眩しそうに彼女を見つめた。十六年という月日が流れたのが嘘だったような光景がそこにはあった。青白い顔。切れ長の漆黒の瞳が真っ直ぐ自分に注がれる。あの日の夜、月明かりに照らされた裸身の美しさは今も瞼裏に刻まれていた。何ひとつ、変わっていない。草平は震えながら息を吐き出した。

「……君は、変わらないんだな」

 かすれた声で呼びかける。

「俺は、こんなに老いたのに」

「何をしにきた」

 不意に浴びた声に、草平は言葉を呑みこんだ。あの晩「声」は聞いたが、「言葉」を耳にするのはこれが初めてだ。少しだけしゃがれた、低いが不思議な力強さを感じさせる声色。草平の胸に不吉な動揺が広がってゆく。問い詰められるとは思っていなかった彼は、目を伏せると言葉を探した。

「娘が……、海を見たがるようになった」

 そこでしばし口を閉ざし、やがて意を決したように顔を上げる。

「君が生んだ、俺の娘だ」

 人魚は身じろぎもせず、じっと見つめ返すだけだった。草平は眇めた眼差しを人魚に投げかける。

「君たちはどう思うかわからないが、人間は来歴を拠り所にする。……娘も、海が故郷だと本能的に感じているようだ。だから、連れてきた」

 だが、草平は恥じ入るように目を彷徨わせて言い添えた。

「……今まで、怖くて連れてこれなかった」

 そこまで言い及んでも、人魚は顔色を変えることなく沈黙を守っている。草平の不安は膨れ上がるばかりだが、ここで引いてはいけないと感じた彼は気力を奮い起こして身を乗り出した。

「君に聞きたいことがある」

 人魚は口を閉ざしたままだったが、目が先を促しているように思えた。唇を湿し、息を整えてから口を開く。

「娘の体に、異変が起きている」

 そこで初めて、人魚はかすかに眉をひそめた。

「生まれた時のように、鱗が出来始めた。ここ数年はなかったのに」

 知らず知らず、懇願するような口調で草平は呼びかけた。

「このまま……、娘は人魚になるのか。君のように。どうしたらいい」

 草平の訴えに、人魚は軽く目を閉じると小さく息をついた。草平は不安で胸がきりきりと締め付けられるのを感じながら、人魚の言葉を待った。しばしの沈黙の後、彼女は静かに目を開いた。

「……人と交わったところで、生まれてくるのは人の子ばかりだ」

 人魚の言葉に草平は目を見開く。彼女は物憂げに夜空を見上げた。青白い顔が月光に照らされる。

「我らは不老ではあるが、不死ではない」

 そこまで語ると人魚は首を巡らせ、草平を射すくめた。

「我らは人に狩られ、滅びに向かっている。人は、我らの子を為せない」

 人魚の語る言葉に草平は眉をひそめた。生まれてくるのは人魚ではない。では、ならば何故。

「生まれてくるのが人の子なら、どうして、体に異変が起きるんだ」

 草平は必死で呼びかけた。

「生まれて数年だけだったんだ。君のような姿だったのは。なのに、この夏から急に……。何か知っていることがあれば教えてほしい」

「さぁ」

 にべもなく言い捨てられ、草平は打ちひしがれて立ち尽くした。人魚は、そんな草平に追い打ちをかけるように言葉を投げる。

「人魚にならぬ合いの子に興味はない」

 それは、これまでに生まれてきたであろう人と人魚の合いの子の末路を想像させるに難くない言葉だった。全身に震えが広がってゆくが、草平は眉をひそめながら顔を上げた。

「……じゃあ、どうして、君は俺の子を――」

 だが、それよりも気がかりなのは衣緒のことだ。

「娘の体は人魚になろうとしている。頼れるのは――、君しかいないんだ」

 人魚は眉間に皺を寄せると息をついた。それは、苛立ちというよりも哀れみの表情だったのかもしれない。彼女は顔を上げ、音もなく輝きを降らす満月を見上げた。

「――恐らく」

 ぽつりと呟いた言葉に、草平が身を乗り出す。沈黙は躊躇いなのか。間をおいてから彼女は言葉を継いだ。

「雌になったのだろう」

 雌。

 思いもよらない生々しい響きに、草平は内臓をまさぐられたように顔を歪めた。衣緒が雌に? 一体どういうことだ。と、そこではっと目を見開く。人魚は黙ったまま見守っている。

(父さん)

 ロザリーの赤い容器を手に、微笑む衣緒の姿が脳裏に浮かぶ。

(里村くんがね、父さんのセンスいいねって)

 無邪気に顔をほころばせる衣緒だが、草平の脳裏には別の顔貌も現れた。激しさを秘めた眼差しを向けてきた衣緒。藤木の名を耳にした時に見せたあの表情。いつも温和な衣緒からは、想像もしなかった。

 衣緒は、恋情と嫉妬というふたつの感情を持つようになった。草平はやるせない思いで額を押さえた。衣緒はもう、ただ可愛らしいだけの幼い娘ではなくなった。女なのだ。かつてこの浜辺で肌を重ねた、この人魚と同じ、女なのだ。その変化が、母親と同じ姿へ還らせようとしているというのか。

 項垂れた草平を、人魚は嘲ることもなく黙って見守っている。やがて草平は震える手から顔を上げた。

「……娘は、人魚ではないのに、人魚になるのか」

 人魚は目を眇めた。

「俺は……」

 銀色の月明かりに照らされ、青白い顔で草平は絞り出すように訴えた。

「娘と一緒にいたいんだ。誰にも邪魔されず、ふたりで静かに……! そして、幸せな人生を歩ませたいんだ。でも……、これが罰なのか。禁忌を犯した罰が、これなのか……!」

 潮騒の中、草平の悲痛な叫びが響く。これまで誰にも漏らすことのできなかった思い。苦痛、困惑、絶望。そんなものが堰を切ったように迸った。顔を歪め、食いしばった口から熱い吐息を漏らすと、彼はすがるような眼差しを向けた。

「俺に、何ができるんだ」

 人魚はかすかに首を傾けた。

「娘のために何ができるんだ。できることなどない……! 教えてくれ。どうして、こんな俺に娘を託したんだ」

 弱音を吐き出す草平に、人魚はかっと目を見開いた。

「わからないのか」

 浜に響く一喝に草平は息を呑む。人魚は美しい眉をひそめ、目を眇めてもう一度言い放った。

「わからないまま、育てていたのか」

 その言葉の一字一句は、草平の胸を深く抉った。彼は思わず胸許のシャツを握りしめた。

「……俺が」

 弱々しく呟く。

「そうだ、俺が――」

 と、その時。人魚は眉を釣り上げた。顔色を変えた人魚に、草平が咄嗟に背後を振り返る。

 闇に浮かび上がる白い人影。一瞬遅れて、それがワンピースだと気付く。瞬間、草平は頭が真っ白に弾けた。

「衣緒!」

 父親の叫びに、衣緒はびくりと体を震わせた。見開いた両目。震える唇。彼女は、目の前に佇む異形の生き物に目が釘付けだった。海蛇のように黒く長い濡れ髪が腰まで伸び、艶かしい下半身が緋縮緬の腰巻から覗く。その足は――。衣緒は震えが止まらない白い手で口を覆った。

「あ……、あし、あしに……、ひれ――」

 人魚は口をつぐみ、目を細めた。口を押さえたままふらふらと駆け寄る娘を草平が抱き止める。

「行くな、衣緒!」

「父さん……!」

 ずっと隠し通してきた真実に、衣緒が歩み寄ろうとしている。駄目だ。帰ってこられなくなる。行っては駄目だ! 細い肩を掴むも、衣緒はもがくようにして身を乗り出した。

「あ、あなたなの」

 どもりながら、譫言のように口走る。

「夢の中で――、黒い海に引きずりこもうとしていたのは……、あなたなの……!」

 黒い海。衣緒の体を押さえつけながら草平は顔を歪めた。幼い頃から夢にうなされることが多かった衣緒。それは、「母親」が呼ぶ夢だったというのか。

「だったらどうして……! どうして私を、海に……! どうして!」

 切れ切れになりながらも叫ぶ娘に、人魚は黙して語らない。引き留める父親ともつれ合いながらも、なおも衣緒は波打ち際に佇む人魚に迫る。

「答えてよ! どうして、私を呼んでいたの――!」

 草平の手をすり抜け、衣緒の白い腕が闇夜に伸びた瞬間だった。その叫びに答えるように、人魚は衣緒の手首を掴むと恐ろしい勢いで引き込んだ。

「あっ!」

 衣緒の細い体が闇に吸い込まれるように引き抜かれ、草平は必死で娘の腰にしがみついた。ふたりは冷たい波打ち際に倒れ込むが、人魚は容赦なく衣緒の腕を引き続ける。

「やっ……! やだ……! いやだ! 離して!」

「衣緒……!」

 水が跳ねる音を掻き消すほどの悲鳴。草平は歯を食いしばり、娘を引きずり込もうとする人魚を見上げ、ぞっとして息を呑む。銀色の光を放つ満月を背に衣緒の手首を掴む人魚。その両の手には、薄い水掻きがはっきりと見て取れた。腰巻の裾を乱しながら、鱗とひれが光る足が砂地を踏みしめている。ああ、やはり人魚なのだ。我々とは生きる世界が違う。娘を、やるわけにはいかない!

「頼む……!」

 声を限りに叫ぶ。

「連れていかないでくれ!」

「とうさん……!」

 泣きじゃくり、かすれた声で叫ぶ衣緒。

「娘は俺が育てる! 俺が人間に育てる! だから、連れていかないでくれ! お願いだ!」

 草平の言葉が耳に入ったのか、入らなかったのか。人魚は力をゆるめることなく衣緒を夜の海へと引きずり込んでゆく。ワンピースが冷たい海水を吸い、衣緒は全身が粟立った。

「いやだ……! やだ……! とうさん……!」

「衣緒!」

 草平も衣緒の腰に両腕を回し、渾身の力を込める。

「衣緒は……、渡さない!」

 ぎゅっと目を閉じ、喉が潰れるほどに叫ぶ。その叫びに、人魚が目を細めた瞬間――。

 人魚と衣緒の間で、赤と白の輝きが弾ける。人魚は咄嗟に顔を背けて手を離した。力が緩んだのを感じた草平は夢中で衣緒を抱き寄せ、尻餅をついたまま浜の砂を蹴って後ずさった。

 後に広がるのは、変わることのない静かな潮騒のみ。衣緒も草平も、震えながら呼吸を繰り返した。ふくらはぎまで海水に浸かった人魚はどこか呆然とした表情で立ち尽くしていた。そして、自分の手を見やり、次いでその手をすり抜けて離れて行った娘を見つめる。衣緒は、はっと我に返ると左の手首に目を落とした。そこには、祖母から贈られた赤瑪瑙と白蝶貝のブレスレットが月明かりを受けて静謐な光を放っていた。人魚の目を刺したのは、血のような紅と、乳のような濃厚な白亜の光だった。

「……おばあ、ちゃん……」

 かすれた声で囁いてから、腰に回された手を見つめた。大きな、温かい手。そうだ。黒い海に引きずり込まれそうになるあの夢でも、最後はいつも大きな手にすくい上げられた。衣緒は、父の手に自らの手を重ねた。その小さな手の温もりに励まされるように、草平は人魚を振り仰いだ。

「き、君には、感謝している」

 震えながらもはっきりと告げる。

「君のおかげで、俺は、父親になれた。娘を持てた。だけど、娘は俺が育てる。もう迷わない」

 静かな浜に響く草平の悲痛な願い。衣緒はしゃくり上げながら父親のシャツを両手で握りしめた。震えながら身を寄せ合う親子を見下ろした人魚は、息をついて背を伸ばした。銀の月が降り注ぐ光を受けた人魚の裸体は見とれるほどに美しかった。そう、この世のものではないほどに。

 ぱしゃり、と水音を立てながら人魚は水際まで上がってくる。草平は顔を強張らせて衣緒を抱きすくめた。浜の砂を踏みしめながら、人魚はゆっくりと歩み寄る。草平の前で立ち尽くすと、ゆっくり腰を屈める。衣緒は息を押し殺して顔を父親の胸に押し付けた。そんな娘の背を抱きしめ、顔を伏せた草平の頬にひたりと手のひらが包む。

 ぞくり、と背が粟立ったのは冷たさのせいではなかった。草平は愕然とした。やはり、自分は求めていた。この手を。海水を含んだ冷たい手。水掻きが広がる細い指を持ったこの手を、十六年の間ずっと探し求めていた。それほどに、自分はこの人魚に魅了されていた。と、頬にふっと息が触れ、顔を上げる。

「……おまえのような男は初めてだ」

 そう囁いた人魚の美しい唇が、優しい弧を描く。草平は目を見開いた。あの夜見せたあの微笑と同じ。自分を引き込んだ、あの笑顔が目の前にある。冷たかった手が、草平の体温で少しずつ、少しずつ温められてゆく。温もりと冷たさを交し合うと、人魚は静かに手を離した。そして、草平の腕の中で震えている娘を一瞥してから、踵を返した。砂を踏みしめる低い音に衣緒が顔を上げる。濡れ光る黒い髪が背を覆い、緋縮緬の腰巻をまとった丸みを帯びた腰を揺らしながら去ってゆく人魚。衣緒は身をよじって身を乗り出した。

「待って!」

 抜け出そうとする娘を草平が抱きすくめる。娘の呼びかけにも耳を傾けず、波に分け入っていく人魚に、衣緒は再び叫んだ。

「待って! 母さん!」

 草平は目を瞠った。人魚の歩みが止まる。人魚と、草平と、衣緒。三人の間に潮騒の響きだけが満ちる。人魚はゆっくり首を巡らし、横顔を見せた。衣緒は息を整えて口を開く。

「……母さんの、名前を、教えて」

 言葉があるなら、呼び名もあるはず。草平の脳裏にもその考えが過ぎる。草平は息をひそめて人魚の答えを待った。打ち寄せる波を何度か耳にしてから、人魚はかすかに夜空を仰いだ。

「珠波」

 潮が光る唇から零れ出た名は、草平と衣緒の胸奥深くまで染み入った。珠波は再び前を見据え、波間へ身を沈めてゆく。腰まで浸かったその時、細い両腕をしとやかに掲げた。手を組み、砂を蹴ると波に体を躍らせる。波間に緋縮緬が泳ぐ。と、銀色に輝く尾ひれが飛沫を上げると人魚は波間に姿を消した。後に残るのは、銀色の月光と潮騒の囁きだけ。

 衣緒は、呆然とした顔つきのまま父親を見上げた。海水と涙で汚れた顔で、草平はまだ海を見つめている。

「……父さん」

 娘の囁きに、やっと我に返ったように瞳に生気が戻る。

「……衣緒」

 衣緒は力なく笑った。

「父さん、本当のこと、言ってくれてたんだ」

「え……」

 戸惑ったように眉をひそめる父に、衣緒は頬を胸に押し付ける。

「今でも、母さんのこと、好きなんだって、言ってたじゃない」

 言葉の端々から疲れが見える。草平は衣緒の背をゆっくりと撫でた。

「……私、知ってたよ」

 胸の中で娘は囁いた。

「私の体、普通じゃないって」

 草平は息を呑んだ。そして、震える手で娘の肩を掴むと顔を上げさせる。

「衣緒……?」

 衣緒の瞳が涙で揺れ始める。それでも、彼女は微笑を絶やさなかった。

「だって、幼稚園にも小学校にも、足に鱗のある子なんていなかった」

 その言葉は、草平の心を打ちのめした。顔を歪め、口惜しげに息を漏らすと衣緒を抱きしめる。

「衣緒……!」

 悔しげに名を呼び続ける父の背に手を回す。

「それに……、私の、名前」

 草平はぎくりとして口をつぐんだ。

「いお・ ・って、魚のことでしょう? ……文学者の父さんが、知らないはずはないもの」

 魚うおはその昔、「いお」と発音していた。衣緒はそれを、知っていた。小刻みに体を震わせる父の背を小さな手で撫でる。

「……ねぇ。どうして、衣緒って名前を付けたの」

 娘の問いかけに、草平は大きく息を吐き出した。やがて、彼は顔を上げると衣緒の頬を両手で包み込んだ。

「……忘れないために」

 衣緒の瞳を真っ直ぐに見つめ、一言一言はっきりと口にする。

「俺がしたことを、忘れないために。いつか、おまえが困難に突き当たった時、俺がしたことを、思い出すために」

 衣緒は溜息をつきながらも笑った。そして、再び父親にすがりつくように抱き着いた。

「父さんらしいね」

 その言葉に、草平は震える息を吐き出した。忘れない、あの夜を。あの夜に交わった人魚を忘れない。そして、今夜交わされた言葉も、忘れない。衣緒が自分にくれた笑顔も、決して忘れない。

「……ねぇ、父さん」

「……うん」

 ゆっくりと顔を上げた衣緒に草平は眉をひそめた。先ほどの微笑は消え、瞳は不安そうに揺れている。

「前に、言ってくれたでしょう」

 衣緒はこくりと息を呑んでから言葉を継いだ。

「私が生まれて良かったって。……今でも、そう思ってる?」

 震える語尾に草平は痛ましげに眉根を寄せた。

「当たり前だ」

 そう囁くと、覆いかぶさるようにして小さな娘を抱きすくめた。

「おまえは、大事な家族だ」

 音もなく降り注ぐ、銀の月明かり。ふたりを包み込む潮騒。繰り返される波は、永遠に続いた。

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