第1部-境界の海-第12話

 民宿「青松館」の主人、酒井は腕組みをして黄金色に染まる雲を見つめていた。白髪が目立つ、短く刈り込んだ髪。漁師特有の深い皺に刻まれた顔も夕焼けの色に染まり、宿を背に、目の前をまっすぐに伸びる県道に眼差しを注ぐ。辺りにはちらほらと民家や宿泊施設があり、海水浴帰りの人々の姿もあるが、この時間になるとぐっと数は減る。時折、他県ナンバーの車が行き過ぎるだけだ。

「ちょっとお父さん」

 宿のガラス戸が開き、髪をバンダナでまとめた妻、鏡子が顔を覗かせる。

「まだ仕込みも終わってないのに」

「ん? うん……」

 エプロンで手を拭きながら鏡子が歩み寄る。

「大丈夫ですって。ちゃんといらっしゃるわよ」

「うん……」

 それでも酒井は心配そうに口をへの字に曲げ、県道から目を離さない。

「十五年ぶりやもんねぇ……。先生、変わってないかしらねぇ」

 独り言のように呟く鏡子。

「それに、おひとりやないもんね。楽しみだわぁ」

「ああ……」

 気のない返事の夫に、鏡子が腰をぽんと叩く。

「ほら、まだ準備があるんやから」

「うん」

 どこか上の空のまま、妻に促されてゆっくりと踵を返した時。目の端に人影が入り、はっと顔を上げる。

 熱気が揺らめくアスファルトを、こちらに向かって歩いてくるふたり。ひとりは大きく、ひとりは小さい。酒井は目を細めて身を乗り出した。ポロシャツにチノパン姿。ボストンバッグを抱えた男が手を上げる。

「酒井さん!」

 聞き覚えのある声に酒井の顔が喜色に満ちる。

「先生!」

「えっ!」

 一度は中へ引っ込んだ鏡子も慌てて宿を飛び出す。ボストンバッグを提げた草平が小走りに駆け寄ってくるのを酒井が歓声を上げて迎える。

「先生! お帰りなさい! やぁ、良かった!」

 そう声を上げながら手荒く肩を叩く。

「ご無沙汰してました。すみません、突然に」

「いいんですよ! いやぁ、お元気そうで本当に良かった!」

 草平は後に続く鏡子の姿を目にしてほっとした表情を浮かべる。

「奥さんもお元気そうで」

「いや、本当に……、先生。お久しぶりです……」

 先ほどまで落ち着いていたはずの鏡子はいきなり口を手で覆うと声を詰まらせる。酒井が照れくさそうに妻を小突く。

「なんでぇ、おまえ、さっきまで元気にしてやがったのに」

「だって……」

 そう言って両手で顔を覆い隠す鏡子に、草平は胸がいっぱいになるのを感じた。そして、緊張した様子の娘に目をやる。

「衣緒、今日お世話になる青松館のご主人、酒井さんだよ」

 衣緒はまだ少し強張った表情でぺこりとお辞儀をした。

「佐倉衣緒です。よろしくお願いします」

「はい、こんにちは!」

 酒井は目の端を下げて丁寧に礼を返す。

「お父さんには昔うちをご贔屓にしてもらってね。今日はゆっくり休んでね、ええと、衣緒ちゃん」

「はい」

 衣緒の表情が和らぎ、微笑が浮かぶ。それに安心したように笑うと、酒井は草平を振り仰いだ。

「先生は……、まだ先生を?」

「ええ」

 草平はポケットから名刺を取り出すと酒井に手渡す。

「今は東京の大学で教えています」

「……東京崇敬大学……、教授!」

「えっ!」

 夫の声に鏡子も目を見開いて身を乗り出す。

「教授になられたんや、先生! おめでとうございます!」

 黙って苦笑する草平に、酒井が威勢よく手を叩く。

「よっしゃ! 今夜は先生の大好きなカワハギの刺身を――」

「ちょっと」

 鏡子が慌てて夫のシャツを引っ張る。怪訝そうな表情で振り返る酒井だったが、すぐにああ、と声を上げる。

「そうか。先生、アレルギーになっちゃったんでしたっけね……」

「――ええ」

 歯切れの悪い返事の父を衣緒が黙って見上げる。

「残念やなぁ。ほやけど、こればっかりはしょうがありませんね。お嬢ちゃんもでしたね?」

「はい。すみません、ご迷惑おかけします」

「いや、なに」

 酒井は腰を屈めて衣緒の顔を覗き込む。

「衣緒ちゃんは肉好きかい?」

「はい」

 少し気圧された感じで答える衣緒に、酒井はにっと笑う。

「よっしゃ。今夜は若狭牛のすき焼きや!」

「すき焼き」

 衣緒の顔がぱっと明るくなるが、草平は慌てた。

「酒井さん、若狭牛って――」

「大丈夫ですよ! 知り合いから安くていい肉を仕入れてますから!」

 盛り上がる皆に向かって鏡子がガラス戸を大きく開ける。

「さぁさぁ、立ち話もなんですから。どうぞどうぞ」

「お邪魔します」

 酒井が草平の手からボストンバッグを取ると客間へ運んでゆく。衣緒は宿の中を見渡した。すぐ右手にある食堂。手前の広間には浜辺の写真などが多く飾られ、所々鈍色の焼き物も並べられている。いかにも民家を改築したという感触が否めないが、その家庭的な佇まいが衣緒をほっとした心持ちにさせた。

「ここは一日一組限定の宿なんだ」

 父の言葉に振り返る。

「じゃあ、私たちの他にお客さんいないんだ」

「そう。昔からそうでね、気兼ねなく泊まれるからいいんだ」

「で、いつも美味しいお魚食べてたんだ」

 衣緒の一言に草平はぎくりとして体を固くする。衣緒はいたずらっぽい目つきでじっと見つめてきた。

「お肉ほど美味しくないって言ってたけど。やっぱり父さん、お魚大好きだったんだ」

 言葉を返せない父に笑いかけると、わぁと声を上げて客間へ駆け込む。

「海が見えるよ、父さん」

「……ああ」

 ボストンバッグを部屋の隅に置き、酒井が窓に広がる景色を指さす。

「いい部屋だろう。朝焼けの浜辺も綺麗だよ」

「わぁ、楽しみです」

 会話を交わすふたりの後ろから、鏡子が声をかける。

「夜寝る時は襖で仕切れるからね、衣緒ちゃん」

「私は仕切らなくてもいいですけど」

 衣緒の言葉に鏡子が草平を見やると、少し狼狽えた顔色で首を横に振る。

「うふふ。お父さんの方が気にするみたいよ。閉じて上げてね」

「わかりました」

 草平は息をつくと衣緒の隣に歩み寄った。ふたりで肩を並べ、黄金色から茜色に燃え上がる波間を眺めた。

「……夕焼け綺麗」

「そうだな」

 衣緒の横顔をちらりと見やる。目を細め、微笑を浮かべた表情。先ほど海を前にして身をすくませていたのが嘘のようだ。

「やっぱり、海って綺麗だね」

「……うん」

 どこか力ない返事の父を振り返り、

「ここ、素敵な宿だね。気に入った」

「良かった」

 娘の言葉にほっとした表情で頷く。

「なんか、田舎に帰るとこんな感じなのかな。宿の人に迎えてもらって嬉しかった」

 これまで田舎へ帰るという経験がなかった衣緒の言葉に、草平はどこか胸が詰まるのを感じながらもふっと微笑む。

「良かったら、また来ようか?」

「うん」

 衣緒はにっこりと微笑んだ。


 その日の晩餐は豪勢だった。若狭牛のすき焼きの他に、焼き油揚げ、里芋のころ煮、うの華、めかぶの味噌汁といった福井の家庭料理が所狭しと並び、すっかり福井の食に魅了されていた衣緒は大喜びだった。その上、酒井が語る若い頃の父の話に興味津々に聞き入った。

「今でも覚えとるよ。先生の原稿が初めて『翼の手帖』に載った時さ。本屋の入荷分買い占めて近隣の土産物屋や旅館に押し付けに行ったもんな」

「感謝してます」

 恐縮して頭を下げる草平に酒井が豪快な笑い声を上げる。

「論文もちゃんと読んどるんですよ? 先生の論文は、ほら、昔話や言い伝えを絡めてあるからお堅い感じやなくて読みやすうて」

 父親の仕事に心底惚れ込んでいる様子が手に取るようにわかり、衣緒も嬉しそうににこにこ笑いながら会話に耳を傾けている。

「ほやけど、あの佐倉先生が十五年経ってこんな可愛らしいお嬢さんを連れて帰ってきてくれるなんてねぇ」

「良かったよねぇ」

 しみじみとした口調で夫婦が言葉を交わす。ふたりとも、その衣緒の母親については言及しない。大人だな。衣緒はそう思った。

 やがて食事が終わると、鏡子がデザートにアイスを饗した。

「越前茶のアイスですよ」

「美味しそう!」

 大はしゃぎで喜ぶ衣緒に、鏡子が古い雑誌を差し出す。

「衣緒ちゃん、お父さんが連載していた福井のエッセイ、読んでみる?」

「あ、読みたいです」

 ふたりが話に花を咲かせているのを見やると、酒井が台所近くのテーブルに草平を手招く。

「どうです、先生」

 そう言って手にした酒瓶を見せる。ガラスの瓶に「若狭自慢」というラベルが貼られている。日本酒が苦手な草平が唯一楽しめた地酒だ。

「いいですね」

 草平が顔をほころばせると、酒井も嬉しそうにグラスを並べて酒を注ぐ。グラスは手びねりで分厚く、少し歪ながらその形は手に馴染んだ。男たちはグラスを掲げると口をつけた。口当たりの良い酒。さっぱりとした味わいが口に広がる。

「それにしても」

 グラスをテーブルに置きながら酒井が呟く。

「お元気そうでほっとしましたよ、先生」

「酒井さんは――」

 草平は眉をひそめて身を乗り出し、ずっと気になっていたことを口にした。

「ちょっとお痩せになったんじゃないですか」

「ええ」

 指摘された酒井はちょっと寂しそうに笑いをこぼす。

「五年前に胃ガンをやりましてね」

 思いもかけない言葉に草平は石のように固まった。目を見開いて凝視してくる草平に酒井は慌てて手を振る。

「いや、もう落ち着いてますよ。全摘でしたが、それからは順調です」

「……そうだったんですか……」

 酒井はグラスを持ち上げて笑ってみせた。

「ほやから、酒の量もずいぶん減らしましたよ。今日は特別です。先生の帰還祝いですわ」

 そう言ってきゅっと呷る酒井を見守る。旨酒に目を細める様子に草平は長い溜息を吐き出した。

「ご苦労なさったんですね」

「ええ、まぁ。……俺の後は女房が体を壊しましてね。看病疲れでしょうな」

 草平はまたもや息を呑み、思わず食堂を振り返る。鏡子は衣緒を相手に古い雑誌や写真のアルバムを見せ、楽しそうに笑い声を上げている。昔と変わらないほがらかな笑顔の裏には、想像もつかない苦労と苦悩があったのか。

「……そんなこともありまして、三年ほど宿を閉めていたんです」

 酒井はグラスを置き、両手を組むと顎を乗せた。

「正直、このまま宿をたたもうかとも思ったんやけど……、俺らはこの商売が好きなんですよ」

 酒井の言葉に草平は黙って頷いた。しんみりと語っていた酒井だったが、そのうち柔らかな表情を見せた。

「それに……、がんばったら神様はちゃんとご褒美を用意してくれるんやな。宿を再開したら、佐倉先生が帰ってきてくださった」

 草平は思わず顔を歪めて項垂れた。酒井夫婦には何も告げずに福井を出て十五年。こんな自分を待ってくれた人が、ここにいた。

「……本当に、申し訳ないです」

「いやぁ」

 酒井は明るい調子で打ち消した。

「十五年もあれば、人生色々ありまさぁね」

 そして、笑い声の絶えない食堂を見やる。

「お嬢ちゃんは高校生ですか」

「はい。十五歳です」

 十五年前と言えば、草平が仰浜を訪れなくなった頃だ。それで酒井は大体のことを察したらしい。

「先生も、色々とご苦労があったでしょう」

 そう言って手酌で酒を注ぐ酒井に、草平は居住まいを正した。

「……酒井さん」

 酒を注ぐ手を止め、顔を上げる。草平は居住まいを正し、唇を湿してから言葉を続けた。

「娘が生まれて……、色々ありました。娘の母親は、自分たちの前から姿を消しました」

 突然の語りに酒井は顔をしかめ、目を眇めて身を乗り出した。

「でも、それは全て自分が悪いんです。……両親に絶縁され、自分は娘を連れて福井を出ました。姉夫婦を頼って東京に出て、そこで今の職を得ました。そして……、今は埼玉に住んでいます」

 低い声で詰まりながら語る草平を、酒井は頷きながら耳を傾けた。

「それで……、娘も無事高校に進学したことだし……、両親に会わせておきたいと、思い切って……」

「お会いになれたんです?」

 草平は強張っていた表情を少しゆるめ、頷いてみせた。

「ええ。今日、会ってきました。親は、娘に会えて喜んでいた様子でした」

「そうですか……」

 酒井は目を細めて何度も頷いた。

「親御さん、嬉しかったでしょうなぁ。お元気なうちに先生と再会できて、その上あんな可愛いお孫さんに会えたんですから」

「……本当に感謝しています。……娘と、僕に会ってくれて」

 そこまで語ってから、草平は大きく息を吐き出した。酒井に話せたことで、胸のつかえが取れたような気がした。

「お嬢ちゃんも喜んだでしょう」

「ええ」

 草平はやっと笑顔を見せた。

「母が娘にブレスレットをお土産にくれて……、それがとても嬉しかったみたいで」

「良い旅になりましたね」

 その言葉に黙って頷く。グラスに酒を注がれ、草平は頭を下げた。

「はい。酒井さんにもお会いできて……、本当に良かったです」

 そして、食堂の娘に眼差しを向ける。

「娘も、福井に来て良かったと言ってくれました。この宿も気に入ってくれました。酒井さんたちに迎えてもらったことが嬉しかったようです」

「そりゃ、こっちも嬉しい」

 酒井が嬉しそうに目尻を下げる。

「娘さえ良ければ、またこちらに帰ってこようと思います」

「ええ、お待ちしてますよ! そのために元気でいなきゃな!」

 酒井の力強い言葉に安心したように顔がほころぶ。男たちはしばし笑い合っていたが、酒井が思い出したように声を上げる。

「しかし、先生のところはお嬢ちゃんで良かったかもしれませんな」

「え?」

 草平が目を丸くして聞き返すと、酒井は苦笑いを漏らした。

「いや、俺んところはひとり息子がいるんやけど、盆暮れ正月しか帰ってきやがらない! それも、家うちに帰ってくるのが目的やなくて、地元の友達つれと集まるために帰ってくるんやから」

「ああ」

 思わず草平も笑い声を上げる。

「わかります。自分もそうでした」

「そうなんですよ、俺もそうでした」

 男ふたりは肩を揺らして笑った。

「だからまぁ、しょうがないんやけどね。でも、娘さんとなると違うでしょう。先生にはお嬢ちゃんで良かったと思いますよ」

 酒井の言いたいことはわかった。草平は微笑を浮かべながらも溜息をついた。

「口うるさいですけどね。娘は娘なりに色々と世話をしてくれます。ありがたいです」

「いいですねぇ」

「……思春期の頃は大変でしたが」

 草平は、屈託ない笑顔で鏡子と語らう衣緒を眺めた。大層なことは願ってはいない。ただふたりで、穏やかな時を過ごせたらそれでいい。願いは、ただそれだけだ。思わず目を細め、黙って娘の様子を見守っていると。

「先生」

 振り返ると酒井はポケットからキーホルダーを取り出し、テーブルに置いた。キーホルダーに取り付けられた鍵を目にして、草平ははっと目を見開いた。

「今夜は満月ですよ」

 酒井は穏やかに告げた。

「昔みたいに、ご覧になってきてください」

 昔みたいに。草平の胸に、その言葉が重くしみ込んでゆく。そう、ここへ来た本当の目的。かつての自分と向き合うために仰浜へ帰ってきたのだ。草平は鍵をじっと見つめ、やがてそっと手を伸ばす。

「……ありがとうございます。酒井さん」

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