第1部-境界の海-第9話

 翌朝、草平はひとりで朝食を済ませると食器を片付け、ブリーフケースを手にした。リビングから廊下に身を乗り出すが、衣緒の部屋のドアは閉ざされたままだ。起きてくる気配はない。次いで壁掛け時計を見上げる。もう時間だ。草平は息をつくと玄関に向かった。靴べらを使って靴を履こうとした、その時。奥からがたんと物音が響いて顔を上げる。と、衣緒の部屋のドアが開け放たれ、寝巻き姿の衣緒がばたばたと駆け寄ってくる。

「父さん!」

「衣緒。もう少し寝てなさい。今日から夏休みだろう」

「でも……!」

 玄関まで息せき切ってやってきた衣緒だったが、不意に膝を折り、草平は慌てて腕を掴む。

「ほら、また……! 血圧が低いんだから急に起きちゃ駄目だ」

 衣緒は青白い顔つきで玄関マットの上にへたり込んだ。

「……ごめん。でも、見送り……」

「そんな青い顔で見送られても心配なだけだよ」

 父親の言葉に衣緒は哀しそうに眉を寄せ、こくりと頷く。

「でも、確かに夏休みだからっていつまでも寝ていないようにな」

「うん」

 素直に頷く娘の額に手のひらを当てる。熱は下がっているようだ。

「昨夜うなされていたぞ。少し熱もあった」

 言われて衣緒は少し驚いたように目を見開く。

「今日はゆっくりしていなさい。体が楽になったら、旅行の準備を少しずつ始めておいてくれ。父さんが持っていく服は和室に置いてある」

「わかった」

「無理はするなよ」

 衣緒はよろよろと立ち上がった。

「うん。気を付けてやる」

「ああ。じゃあ、行ってくるよ」

「いってらっしゃい」

 肩の辺りで小さく手を振る娘に微笑みかけると、草平はドアを開けた。


 それから部屋で少し横になった衣緒は、昼前に起きると遅い朝食をとった。夏休みの宿題をやり、八月の夏期講習の予定を確認する。そのうちスマートフォンが震え、画面を開くと友人からのメールだった。イマジン・シーへ行く日の待ち合わせ時間の確認だ。すぐに返信しようとしてふと手を止める。せっかく皆が海のテーマパークを選んでくれたのに、父と海を見に行くことが決まったのだ。報告はしておいた方がいいだろうか。そんなことを考えながら顔を上げ、ベランダを眺める。今日も天気がいいから、洗濯物も乾いただろう。スマートフォンからお気に入りの曲を流しながら洗濯物を取り入れる。そうして畳んだパジャマを脱衣場に運んだ時。篭にカッターシャツが山盛りになっているのが目に入る。衣緒は思わず頬をゆるめると和室へ向かい、押入れからアイロンを取り出した。

 昔から家事全般をそつなくこなす父草平は、衣緒にとって憧れのヒーローだった。綺麗好きだし、作ってくれる料理はどれも美味しい。勉強もよく見てくれる。だが、そんな完全無欠に思えた父が唯一苦手とするもの。それが、アイロンがけだった。仕事柄、スーツを着ることが多い草平だが、若い頃からアイロンをかけるたびにどうしても火傷をするという。衣緒は物心ついた時から、父がアイロン相手に悪戦苦闘を繰り広げているのを見て育ってきた。そこで彼女は思った。自分がアイロンをかけられたら、父の役に立てる。そう思った衣緒は小学生になった頃、手伝いにやってきた幹恵に教わって初めて父のシャツにアイロンをかけた。最初、それを聞いた草平は肝を潰して青くなったが、それからも衣緒は果敢にアイロンに挑戦し、見る見るうちに腕前を上げていった。今ではアイロンがけは衣緒の担当だ。父のカッターシャツだけでなく、自分の制服のブラウスやハンカチなど、完璧に仕上げる衣緒に父はいつも喜んでくれる。だから、衣緒はアイロンがけが大好きだった。

 アイロン台にシャツを広げ、まずは襟から当てる。ゆっくりアイロンを滑らせると、よれていた襟がぴんと真っ直ぐになってゆく。この感触がたまらない。山積みの洗濯物を次々と片付けてゆき、シャツを一枚一枚綺麗に畳むと父の部屋へ運ぶ。そして、和室に戻ると隅に置かれた旅行用のボストンバッグを見やる。隣には、父の衣類や旅行用の歯ブラシセットなどが用意されている。父はどの服を持っていくのだろう。畳まれているシャツを一枚一枚取り上げていくうち、ふと手を止める。

 白の半袖シャツ。見るからに生地がくたびれた感じを受ける。広げてみると、清潔ではあるが、全体的に少し黄ばみ、古いもののようだ。シンプルな装いながら、いつもセンスが良い父らしくもない。衣緒は首を傾げながらシャツを眺めた。これを旅行に持っていくのだろうか。父に聞いてみよう。彼女はシャツを膝に乗せ、丁寧に畳み直した。


 夕方になり、草平はいつものように家へ帰り着いた。

「おかえりなさい」

 出迎えた衣緒の顔色を確認する。

「体調は大丈夫だったか」

「うん。あれからは平気。父さんのシャツ、アイロンかけておいたよ」

 その言葉に草平は心の底から感謝の溜息を漏らす。

「ああ、衣緒、いつもありがとうな。本当に助かるよ」

「それと」

 衣緒は草平の袖を引っ張って和室へ連れてゆく。そして、ハンガーにかけておいたシャツを見せる。

「イマジン・シー行く時にこれ着ようと思うんだ」

「いいね、マリンルックじゃないか」

 赤と青のボーダーシャツに草平が頷く。

「それから、おじいちゃんたちに会う日はこれ」

 取り出したのは、真っ白のノースリーブワンピース。胸許には同色の凝った刺繍が施され、裾は控えめなレースで仕上げられている。

「これに、今年買ったパナマ帽とサンダル。二日目は、ネイビーのTシャツと白パンにしようかなって」

「いいね。でもあまり冷えそうな格好はするなよ。飛行機とバスでそれぞれ一時間かかるからな」

「うん」

 それでも衣緒は満足そうな表情でワンピースを眺めている。と、ふと思い出したように顔を上げる。

「そういえば」

 ワンピースをハンガーにかけ、部屋の隅に置かれたボストンバッグに向かうとシャツを手に取る。

「これ、持っていくの?」

 言われて草平は目を上げ、ぎくりと体を強張らせた。娘が手にしていたのは、古いシャツ。

「なんか古そうだけど」

「……うん、予備にね」

 ぎこちなく返すが、衣緒は不思議そうに首を傾げて見上げてくる。どうしてわざわざこんな古いものを、と言いたげな表情だ。

「……それ、福井にいた頃に着ていたものでね」

「そうなんだ」

 少し納得したように頷くとシャツをバッグの側に戻す。

「今日の晩ご飯どうする? お米は仕掛けてるんだけど」

 話しかけてくる言葉が半分も頭に入らない。草平は脈打つ胸の鼓動を感じながら、服を片付ける娘を見守った。


 七月最後の平日。衣緒は期待に胸を膨らませながら電車に揺られていた。熊谷に着くと友人たちが乗ってくる。皆、テーマパークに相応しい、明るくポップな可愛らしい装いだ。

「さくらん!」

「いよいよだね!」

「ちゃんとパスポートの引換券ある?」

「大丈夫大丈夫」

 すぐに盛り上がり、情報誌などを広げて一日の予定を確認する。

「ジャズのショーがあるんだけど、これ人気があるから早く列に並ばないと」

「すごい。生演奏なの?」

 ひとしきり今日の予定を話し合い、頃合いを見計らってから、衣緒はおもむろに切り出した。

「……あのさ、皆に、言っておかないといけないことがあるんだ」

「どうした、藪から棒に」

 皆がきょとんとした顔で一斉に衣緒を凝視する。皆の注目を浴びた衣緒は緊張した面持ちで唇を湿し、口を開いた。

「……八月にね、父さんと、海を見に行くことになったんだ」

 その言葉に皆が息を呑んで身を乗り出す。

「ど、ど、どうして、何がどうなった!」

 どよめく皆にどもりながら弁解する。

「ご、ごめん、あの、あのね、事情が、あって――」

「落ち着け」

 ひとりが衣緒の手を握る。

「落ち着こう、さくらん。順序良く話してくれ」

「うん」

 衣緒は大きく息をつき、皆も心配そうな表情で見守る。

「……最初から話すね。私の父さん、福井県の出身なんだって」

「福井か」

「うん。父さんと母さんは……、結婚していなかったみたい。結婚していないのに、その、私が生まれて……、おじいちゃんとおばあちゃん――特におじいちゃんがすごく怒ったみたいで、それっきり絶縁状態になったんだって」

「勘当……、ってヤツ?」

 恐る恐る尋ねる友人に衣緒はこくんと頷く。

「それで父さんは私を連れて福井を出て、埼玉に移り住んだんだって。それ以来父さんは福井には帰っていないし、私もおじいちゃんたちの話は全然聞いてなかったんだ」

 皆は真顔で黙り込み、続きを促すように頷く。

「それで、私も高校生になったし、そろそろおじいちゃんたちに私を会わせてあげたいって思ったらしいの。電話したら、おばあちゃんがおじいちゃんを説得してくれて……、会えることになったんだ」

「良かったじゃん!」

 思わず大きな声を上げ、慌てて口を押えて周りに目をやる友人に衣緒もほっとした表情で微笑む。

「それで、この夏休みに福井に行くことになって、福井の海も見ることにしたの」

「わあ……、すごい展開になったね!」

 友人たちは皆明るい表情で喜んでくれたが、衣緒は申し訳なさそうに眉をひそめる。

「……ごめんね。父さんが許してくれなかったせいで江ノ島を諦めて、イマジン・シーに変えてもらったのに……」

「何言ってんのよ!」

 小声ながらも衣緒の言葉を打ち消す。

「良かったじゃん。初めておじいちゃんたちに会えるんだし、海にも行けるし!」

「そうそう、あたしたちのことはいいの。皆でこうして遊びに行けるんだし」

 口々に祝ってくれる友人たちに衣緒の表情にようやく笑顔が戻ってくる。すると、

「そうだ」

 ひとりがぽんと手を打つ。

「イマジン・シーさ、本物の海が見える場所があるんだけど。そこ、行かないようにしよう」

「えっ?」

 目を見開く衣緒に、微笑みかける。

「本物の海はさ、お父さんと一緒に見るべきだよ」

 皆が納得したように笑顔で頷き合う。衣緒は思わず口許を手で覆った。

「……ありがとう」

「何泣いてんのよー、さくらん!」

 思わず涙声になる衣緒に、ひとりが頭をくしゃくしゃ掻き撫でる。

「今日は思いっきり楽しもう!」

「そうだそうだ!」

 皆の明るい言葉に、衣緒は泣き笑いをこぼした。ああ、良かった。こんな素敵な友人たちが側にいる。衣緒は満ち足りた思いで頷いた。


 その日の夜。車の運転席で腕時計を見やると、十時を過ぎている。草平は小さく息をつくと駅の改札口を見守った。そろそろ電車が着くはずだ。今朝、いつになくはしゃいだ様子で元気よく家を出て行った娘の姿が思い出される。衣緒は高校生になってから本当に明るくなった。友人も増え、学校での出来事もたくさん話すようになった。良い高校へ進学できた。そんなことを考えているうちに、改札口がざわめくと人々が一斉に流れ出てくる。その人波を眺めていると、見慣れた姿を捉える。短くクラクションを鳴らすと、彼女は疲れ切った虚ろな顔を上げた。と、車の中で待っている父の姿を認め、ぱっと表情が華やぐ。カラフルなショッピングバッグをいくつか抱えて走ってくるとドアを開ける。

「ただいま!」

「おかえり。お疲れさん」

「疲れたぁ。ありがとう!」

 助手席に体を預け、目を閉じて溜息を吐き出すが、その表情は満足そうだ。

「楽しかったか」

「うん!」

 すぐに目を見開くと顔を輝かせて体を起こす。

「すごいんだよ! パークの中にラグーンが作ってあってね、そこでショーをやるの! 水上バイクとかが入り乱れて……」

「へぇ」

「ミュージカルもあったし、アトラクションもすごかった……。楽しかったなぁ」

 まだ半ば夢心地で呟く娘に、草平も穏やかな表情で車を発進させる。

「良かったな。友達と行けたから余計に楽しかったんじゃないのか」

「うん。そうだと思う。ねぇ、今度父さんも行こうよ」

 明るく弾んだ声でねだられ、草平もまんざらでもない表情で娘を見やる。

「そうだな。秋に行くか。ほら、毎年ハロウィンのCMやってるだろう。気になってたんだ」

「じゃあ決まり!」

 そう声を上げると、衣緒は再びシートに体を沈め、疲れの籠った溜息をつく。

「……ねぇ、父さん」

「うん?」

 衣緒は目を閉じたまま、低い声で囁いた。

「父さんが埼玉を選んでくれて良かった……」

「何が?」

 ちらりと目をやり、すぐに視線を前方に戻す。

「父さんのおかげで埼玉に住めて、青葉高校に行けたんだもん。おかげで、いい友達に会えたよ……」

 心地よい疲労が混じった囁き。満ち足りた表情。草平は穏やかな微笑を浮かべた。

「良かったな」

 返事はなかった。やがて、静かな寝息が聞こえてくる。娘はかけがえのない青春を精いっぱい楽しんでいる。良かった。草平は安堵の表情でハンドルを握り直した。


「ほら早く。急いで」

「待って!」

 廊下からばたばたと走ってくる衣緒。玄関のドアを開けたまま、草平は腕時計に目を走らせる。足許にはぱんぱんに膨れたボストンバッグ。早朝六時半。辺りはまだひんやりとしているが、すぐに暑くなるだろう。

「お待たせ!」

 パナマ帽を押さえながら玄関を飛び出してくる衣緒の頭を軽く叩く。

「もっと早く準備しなさい」

「ごめんってば……」

 衣緒は情けなさそうに声を落とす。

「だって、ネックレスが見つからなかったんだもん……」

 ぼそぼそ呟くと、衣緒は真っ白なワンピースの裾を揺らし、ボストンバッグを抱える。

「行こ! 遅れる!」

「やれやれ」

 草平は苦笑いを漏らしながらも娘の手からボストンバッグを取り返した。

 いよいよ今日、親子ふたりで福井へ向かう。記念すべき旅立ちだ。だが、草平の心の奥底ではまだ不安がくすぶっていた。両親と和解できるのか。そして、平常心で仰浜の海を眺めることができるのか。考えていても仕方がない。もう、この日を迎えてしまったのだから。

 ふたりは最寄り駅から電車に乗り、熊谷で新幹線に乗り換えると東京へ向かった。朝が早かったため、車内で駅弁を食べる。駅の売店で草平が選んだのは鳥めし弁当。

「美味しいね」

「父さん、新幹線よく使うからな。これが一番美味しいんだ。せっかくなら美味しい弁当食べたいじゃないか」

 弁当を食べ終える頃には東京に到着し、山手線に乗り換えて浜松町へ向かう。浜松町からはモノレールに乗り、羽田空港第2ターミナルまで行く。

「搭乗手続きは?」

「もうこのチケットで入れる。出発までまだ時間があるから、売店で何か見るか」

 衣緒は手持ちのトートバッグを覗いた。

「おじいちゃんたちのお土産……。熊谷の五家宝だけでいいかなぁ」

「あんまり山のようにたくさんお土産持っていってもおじいちゃんたちが気を遣うからな」

「そうだね」

 ふたりが軒を連ねる売店を眺めながらぶらぶらしていると、衣緒のポーチが震える。メールだろうか。スマートフォンを取り出した衣緒ははっと息を呑んだ。差出人の名は、里村雄輔。慌てて画面をタップする。

「福井行くの今日じゃなかったっけか。気を付けてなー」

 短い文面。だが、その文面から彼の優しさが滲み出ている。衣緒の胸がどきどきと波打ち、思わず胸許を押さえる。

 覚えてくれていたんだ。心配してくれたんだ。

 そう思うと衣緒は胸がいっぱいになるのを感じ、自然と顔が柔らかな表情にほぐれる。そして早速、

「うん。今、羽田空港。行ってくるね!」

 と打つ。が、そこで辺りをきょろきょろと見渡し、売店で雑誌を選んでいた父を見つけると走り寄る。

「父さん!」

「何」

 振り向いた父の隣に並ぶと爪先立ち、画面を自分たちに向ける。

「え、何、写真撮るの?」

「笑って!」

 スマートフォンの画面に、きょとんとしたままの父と笑顔の衣緒が切り取られる。そのままスマートフォンの操作を始める娘に草平が覗き込む。

「メール?」

「うん」

「……里村くん、雄輔っていうのか」

 途端にスマートフォンを胸に押し付けて隠し、衣緒は真っ赤な顔を上げる。

「み、見ないでよ……!」

「困るなぁ。父さんにも肖像権があるぞ」

「知らない!」

 そう叫んで背を向ける娘に、草平は微笑ましげに苦笑を漏らす。

「さぁ、そろそろ手荷物検査を受けて搭乗口へ行こう」

 保安検査を済ませると、ターミナルゲートへ向かう。そこで少し待つと飛行機への搭乗が始まる。

「衣緒、窓際行きなさい」

「えっ、いいの?」

 目を丸くする娘を押しやり、窓際に座らせる。

「わぁ、飛行機いっぱい」

 小窓に張り付き、子どものようにはしゃぐ娘に草平も微笑を浮かべながら腰を下ろす。

「朝が早かったからな。眠たかったら寝ておきなさい」

「うん」

 それでも、普段飛行機を使うことのない衣緒は興味津々な様子で滑走路を眺めている。

「……良かったなぁ」

「うん?」

 窓を覗き込んだまま、衣緒は小さく呟いた。

「父さんと旅行ができて良かった」

 草平は頬をゆるめると肩を叩く。やがて飛行機は定刻通りに飛び立った。地上がどんどん離れてゆく様子を飽きることなく眺める衣緒の背中を見守り、草平は静かに息をついた。

 今回の旅で何を得て、何を失うのだろう。脳裏に、人魚と出会った仰浜の夜が蘇る。あの晩も、いつか後悔する日がくることを感じながら浜辺に向かったのだ。それでも浜辺に行ってしまったのは、もはや決められた運命だったのだろう。草平は手を組むと目をとじた。この旅がどんな結末になろうと、後悔してはいけない。決して。

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